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2016年5月

ミッドナイトな東武練馬駅。

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 G.W.後半戦、区民の皆様はいかがお過ごしでしょうか。我が赤塚郷の赤塚公園バーベキュー場は大盛況ですね。

先日放映されたテレビ朝日「路線バスで寄り道の旅」は、板橋区内を巡る旅でしたね。見慣れた赤塚郷内がふんだんに映り、満足でした。アナウンサーの徳光氏が、松月院の前ご住職の妹さんと立教大学の同級生で大変親しい間柄とは知りませんでした。


今回もまたまた1979年の東武練馬駅です。撮影時期は11月下旬とフィルムホルダーに書いてあります。深夜に近い時間帯で閑散としていますね。最初の写真は電気が暗いから終電後かな。木枯らしが吹きすさんでいるような寒さを感じます。。

最近では11月下旬なんて冬という感覚がありませんが、昔は寒かった。子供の頃はしもやけがひどくこの時期はすでに指がパンパンに膨らんでいた記憶がある。それと、霧がほとんど出なくなりましたね。東上線が止まるなんてよくありました。これも激しい住宅化によるものですかねえ。

さて、昭和時代の夜の東武練馬。我が徳丸側(北口)はそりゃ閑散としたものでした。飲み屋街なんて皆無でしたし。
それに引きかえ南口はある意味、賑やかでした。小さいながらも下練馬宿という宿場街でしたし、旧川越街道沿いの北町商店街は昼間は買い物客でごったがえしてましたから。

ある意味、と含みを持って書いたのは、北町には大はキャバレーから小はスナックや小料理屋など夜の店もたくさんありました。不名誉な話なので書くとまた怒りのコメントを貰うかも知れませんが、18歳以下の不法就労でしょっちゅう摘発をうけ新聞沙汰になっていたこともありました。

話を東武練馬駅に戻しますが、37年前の構内はこんな感じでした。屋根の歪み具合とか今とあまり変わってはいない気がしますが、現在では目の不自由な方用のゴムのタイル部分が増えた‥くらいかなあ、と見るとそうだ灰皿が存在感を放ってますね。東上線ではあまり目立たないけど、新宿駅なんて線路はタバコの吸殻で溢れかえってましたっけ。新聞や雑誌を捨てる人が多いせいかゴミ箱もけっこう目立ちます。天井に電光案内版がないせいか上部はずいぶんスッキリした感じがしますね。

南口出口の写真ですが、中央あたりに忘れ物掲示用の黒板が見えます。昭和の遺物としては”伝言板”がありましたっけ。待ち合わせなどのメッセージを書き込む場所で、3時間経つと消す、と注意書きがありましたが、書いた時間を書き込まないないことが多いのでどうしていたんですかね?
改札口にはまだ切符にパンチを入れていた時代の名残が見えます。

切符の自販機ですが右手奥が70円区間(下板橋?〜池袋まで)専用、手前が小銭専用、大きいのがお札も使えるタイプで、切れてますが左側手前には西武線、営団線、国鉄線乗り換え自販機と回数券や定期、長距離用などの窓口がありました。
私のコレクションによると東上線の軟券販売機券が出たのが昭和37年ころで、国鉄乗り換えの切符は窓口で硬券を購入していたと思います。

近い将来には東武練馬駅にもホームドアが設置され、その時には大幅に駅の様子が変わるかもしれません。

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シン・東京大仏。

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 G.W.も終わり、梅雨までの気候の良い時節と言いたいところですが日本列島は長く、九州地方の安寧をお祈りいたします。。


我が赤塚郷のランドマークといえば、赤塚城二の丸跡に鎮座する「東京大仏」。
大仏のある乗蓮寺は正月の初詣では板橋区内でもトップクラスの参拝客を集める寺院ですね。ただ、赤塚郷に住む私くらいの年齢以上の人々からすると、乗蓮寺は”新しい寺院”という感覚がある。

もともと乗蓮寺は板橋宿(板橋区役所の近く)にあった寺院で、昭和46年(1971年)に高速道路予定地にひっかかり、移転を余儀なくされたものだ。引越しの様子は文藝春秋かどこかの雑誌で特集され、墓地であった場所に、おそらく土葬時代に埋葬された骨が一面に散らばっている様子を写したグラビア写真が印象に残る。

東京大仏は、乗蓮寺が赤塚に引っ越してから後、ご住職の二十三世正譽隆道(しょうよりゅうどう)が、昭和49年88才の時に発願し、昭和52年4月に開眼しました。 赤塚城を治めていた千葉氏一族、戦没者、そして有縁無縁の霊をとむらい、世界の平和と万民救済の願いがこめられているとの由。 材質は青銅(ブロンズ)製 、重量 32トン 、座高 8.2メートル(頭部 3メートル) 、蓮台 2.3メートル 、基壇 地上2メートル、地下1メートル の阿弥陀如来様だ。

建立当時は奈良、鎌倉に次ぐ日本で3番目に大きい青銅製の大仏と話題になった。たしか朝日新聞の夕刊社会面に、クレーンで吊るされた頭部が据え付けられる写真入りの小さな記事が出て、翌日見に行ったと思う。小学生のころ、乗蓮寺のあるあたりは山や谷が入り組んだ”過疎の地”というイメージがあり、親から人さらいが出るといわれていて遊びに行くことがない場所だった。

東京大仏のファーストインプレッションは、すでに奈良や鎌倉の大仏は実際に見たことがあったので、「こじんまりしてるじゃん」「なんで黒いの?」だった。
乗蓮寺の本堂もまだ建てられたばかりのピカピカで、あまりご利益を感じなかったので初詣に行くということはなかったけれど、その印象を変えた出来事があった。

それは、1980年に創刊された週刊ヤングマガジン誌で連載されていた、弘兼憲史氏の「ハロー張りネズミ」という作品だった。
作品の内容は、下赤塚駅近くの「あかつか探偵事務所」に所属する探偵・七瀬五郎とその仲間たちが、数々の事件に挑む 探偵漫画である。1990年代には映画化や単発のテレビドラマにもなった作品だ。映画版は未見だけど、ドラマ版では下赤塚駅南口の蔦の絡む喫茶店「ヒュッテ」が探偵事務所に設定され、街自体のシーンは仲宿の商店街だった。主人公は緒形直人、所長は小林幸子で、他に内藤剛志や遠藤憲一や高橋克実、杉田かおるなどが出演していた。

作者の弘兼憲史氏はまだ若手で、大学へ通うため上京して下宿した叔父の経営する成増耳鼻科の近くに仕事場のマンションを借りて作品を執筆していた関係で、「下赤塚設定」となったのだ。当時リアルタイムで”ヤンマガ”を読んでいたので、この設定はとても嬉しかった。ただし、赤塚近辺が描かれたのは連載初期で後半は事務所周りと東上線くらいだったかな。

そんなことで徐々に「東京大仏」の存在が世間に認知されていったのかなあと思う。

最近知ったことだけど、実は、「東京大仏」は、もう一体存在しているらしい。

大仏は、乗蓮寺の依頼により、東京浅草に本店を構える仏壇仏具の製造販売店「翠雲堂(すいうんどう)」が制作した。翠雲堂仏は昭和22年(1947年)に創業し、仏壇・仏具の他に、寺院建築(設計・施工)、寺院荘厳具、寺院仏具、巨大仏像の製造、販売などを手がけている。爆笑問題の田中裕二と結婚した山口もえの実家としても有名ですね。

翠雲堂の工場は千葉県松戸市内にある。工場の敷地内には巨大な大仏の頭部が鎮座しており、そのお顔は県道281号線に向けられている。道を走る車や人はさぞ驚くだろうが、大仏さんは宣伝用に据えてあるのだとか。
この大仏さん、なんと「東京大仏」を制作した時に作った”原型”のようで、機会があれば是非、拝みにいきたいものですね。

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ペンギンミステリー、解決する。

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爽やかな晴天が続きましたが、本日は雨。

先週、所用で奈良京都におりましたが噂にたがわず外人ばかりで驚きました。昔は”人種のるつぼ、ニューヨーク”と言われてましたが今は京都が人種のるつぼ、ですね。特に伏見稲荷は15分も立ち止まっていればあらゆる人種が目の前を通り過ぎるんジャマイカ、ってな感じでした。。


さて、2013年5月と2015年4月(再掲・ペンギン来日100周年)の2回、常盤台住宅が誕生した時に板橋区へ移住してきた日本画家の西沢笛畝さんが、出身地である浅草に住んでいた若き日、近所の花やしきにペンギンがやってきたということで写生した絵についての記事を書きました。(絵は大正4年-1915年-7月に描かれた。)

この時、書物や新聞記事を調べたのですが、”日本で一番最初にペンギン(当時の表記ではベンギン鳥)が来たのは上野動物園である”と書かれているのに、同時期に笛畝さんがペンギンを花やしきで写生しているのはなんでなんや?しかも上野は「フンボルトペンギン」、花やしきは「アゴヒゲペンギン」やないか。これはミステリーや。ってなことを書いたのでした。

‥それから3年、ついにその謎が解ける日がやってまいりました。その前に、ペンギンが上野動物園にやってきたいきさつを以下当時の東京朝日新聞の記事から。

「●ぺンギン鳥来る▽直に死ぬだらう・・東洋汽船株式会社汽船紀洋丸機関長小澤磯吉氏がさきに南米チリ国イキケにて於いて入手したる南極探検にておなじみのぺンギン鳥は九日同氏より上野動物園へ寄贈したるを以て同園にては直に園内第二十七号室兒持鶴(こもちづる)の隣室に収容したるが該鳥は南半球に産するものにして南極探検者の常に其生息の状態等を紹介するものあるも生活の儘本邦に到来せるは恐らく今回が初めなり。右につき動物園主任技手の語るところに依ればぺンギンは其の種類二十種もありと伝へらるるが今本園到着のものを見るに其の翼は鰭(ヒレ)の如く脚は短くして直立の姿勢を保ち歩行するの状態は頗る奇異なれども一度水に潜るや陸上に於ける態度と一変し遊泳の敏捷巧妙なること到底鴈、鴨の比に非ず実に奇異なる動物なり。元来氷海の極寒冷の地に棲息するもの故日本の如き暖地在ては到底永く生存すること覚束なかるべし。」
東京朝日新聞 大正四年六月十一日
 ※イキケはチリ北部にある都市でタラパカ州の州都


来園したペンギンの種類については、「上野動物園百年史」(1982年発行)などに”フンボルトペンギン”と記載されてますが、花やしきで描かれた笛畝さんの絵は顔が白いペンギンで、添え書きにも「南極ペンギン」とかかれており、このペンギンは”アゴヒゲペンギン”と推察されるのだ。

で、フンボルトとアゴヒゲ、どっちが先に日本に来て公開されたんだ?というのがミステリーだったんですが、結論から先に書いちゃいますが、その謎はライヴァル紙「読売新聞」の記事であっさり解決を見ました。(最初っから読売新聞も調べとけよ!)以下順を追って記事の詳細を載せます。


*大正四年六月十一日掲載
「珍禽」ペンギン動物園に来る
かねて白瀬中尉の南極探検でお馴染みの「ペンギン」鳥が上野動物園へ来た。これは東洋汽船株式会社汽船紀洋丸機関長小澤磯吉氏が先に南米智利国イキケに於て入手したものを九日同園へ寄贈したもので同園では直に園内第二十七号室兒持鶴の隣室に収容した。該鳥は南半球に産するもので南極探検家が常に其生息状態を紹介して居たが本邦に来たのは今回が嚆矢である。右につき動物園主任技手の語る度に依ればペンギンは其種二十種もあるが今度本園へ到着したものは其翼は鰭の如く足は短くして直立の姿勢を保ち其歩行する状態は頗る奇異だが、一と度水に潜ると陸上にある時と其態度全く一変し潜泳の敏捷巧妙到底雁鴨の比でない、が元来が極寒の氷海に棲息するもの故日本の如き暖地では到底永く生存は出来まい云々


*大正四年六月二十日掲載
□ペンギンが死んだ 猩々の方は大の元気
去る九日東洋汽船紀洋丸の機関長小澤磯吉氏が上野動物園に寄贈した南極産のペンギン鳥は入園以来大分暑さに弱って居たが、黒川技手を始め同園では珍らしい得難い鳥だけに手当も特に気をつけて、一日に水の中に十数貫の氷を入れるやら魚類も新鮮なものを選んで与へて居たが、数日来の暑気で、すつかり弱り遂に十八日午後六時頃死んで了つた、なほ新来の猩々は頗る元気で日一日を見物人に馴れて愛嬌を振り撒いて居ると
<猩々は中国の架空の猿 一般にオラウータンのことを指す。>


*大正四年六月二十一日掲載
□花屋敷にぺンギン 人に慣れ易い温和しい鳥
上野動物園のペンギン鳥はとうとう死んだが南氷より一緒に来た其の友達のペンギン鳥は此の暑さにも拘はらず頗る元気で昨日の午後一時から浅草公園の花屋敷に現はれた誠に人懐かしい温和い鳥で少しも人を恐れない相である


そうですか、南氷より一緒に来た其の友達のペンギン鳥でしたか。

”昨日の午後一時から浅草公園の花屋敷に現はれた”ということは大正4年6月20日に公開されたんですね。ってことは彼らは同時に日本に連れてこられたけれど、公開は上野動物園が最初ということ。よし、これで疑問も解決、ああスッキリした!!


‥う〜ん、しかし‥上野動物園で公開された当時の写真、不鮮明なので判断しづらいですが顔が白くありませんか?なんか笛畝さんが描いたアゴヒゲペンギンの絵に似ているような気がするんですが‥ねえ?
フンボルトとアゴヒゲ、どっちなんだろう‥

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板橋区民、身を削る。

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 今日で5月も終わり。爽やかな季節から蒸し暑くジメジメした時期へと徐々に移り変わっていますね。。


ここのところ集中して「軍事機密 陸軍異動通報」という資料の解析をしている。この資料は、陸軍将校の任務配置替を告知する一次資料だ。会社で言えば人事異動の辞令ですかね。

異動通報には軍の学校を卒業して将校として任官したいわば”上級職”の人事しか載っていないけれど、その人数は多く、何千人もの名簿を見ていくのはなかなかしんどい作業だ。
こちらは若い頃からの近眼と乱視に老眼が加わり、さらに緑内障を患う身なのでとにかく眼が辛い‥。緑内障にとって眼圧の上昇は死活問題なのだがしかたがない。このままでは晩年の棟方志功のようになってしまうのでは‥と危機感を持ちます。。

と、個人的な話はさておき「軍事機密 陸軍異動通報」の続きですが、なにを調べているかというと、成増陸軍飛行場に関わる将校の人事異動の洗い出しを行っているんですね。
飛行47戦隊は、基本的に戦闘機隊が3コ中隊と整備隊と戦隊本部で構成されているけれど、残念ながらそれぞれの名簿は存在していない。(戦隊史を作成しようとした際に作った全体の名簿はある。)

全体の名簿にも、誰がいつ成増に赴任したのか、また転出したのかなどの詳しい情報は記載されておらず、記念写真や個人の手記や話による情報で一部が確認されるのみで、当然一次資料との照合もされてなく、ぶっちゃければ基本情報の整備も全く出来てない状態なのだ。当時を知る方々からの情報提供が不可能な現在では、残された資料を発掘し、こつこつとその隙間を埋めていく地味な作業を重ねるしかないのである。


昨年夏、練馬のふるさと館で成増飛行場の解説をした際に、配布した資料を見た方からメールで質問をいただいた。質問は、「47戦隊で結成された空対空特攻隊・震天制空隊を選出するにあたり、配布資料では特攻隊員志願の意思確認が10月に行われたとあるが、自分が国立国会図書館で調べた資料(防衛庁戦史室著「本土防衛作戦」)には奥田戦隊長が11月に特攻志願の意思確認を行ったとの回想記が載っているが、あなたの資料は間違っているのではないか」との内容だった。

その防衛庁戦史室著「本土防衛作戦」に載っている奥田戦隊長の手記は承知しているけれど、当時のことを伺った元隊員の方々の話により、10月に意思確認が行われたことは確かなので、その旨を回答とした。
どうも質問者は、”防衛庁戦史室”という権威ある機関が監修した本なので間違いはない、と盲信されているようであった。

「本土防衛作戦」は、一次資料として信頼できるとは思うけれど、元の当事者の方々の回想も多く、ミクロの点で怪しい所がある。おそらく奥田戦隊長の回想は、ちょっと内容が端折ってあるのか、特攻の意思確認と特攻隊員の選出を同時におこなったようなことになってしまっているのだろう。
とにかく戦時中という時期は非常時であるので情報が混乱し、一次資料と言えど事実はどうだったのかを語るにはいささか心もとないものではあるかもしれない。それと、異動が告知された時と実際に異動した日が違うのはよくあることでもある。


さて掲出の画像は陸軍異動通報の一部で、最初のものは昭和19年1月から47戦隊の整備隊長を務めていた松本公男大尉が9月28日付で陸軍航空士官学校へ転出し、代わりに常陸教導師団教導飛行隊附だった岡田作三大尉が47戦隊整備隊長に任ぜられた時のもの。伝説の刈谷中尉の上司にあたる方だ。基本的に大尉は20代後半で任官する。

次は、昭和19年10月6日発令の47戦隊長交代の異動通報だ。元第68戦隊長を昭和18年8月まで勤め、同年10月3日に新編成された第47戦隊の戦隊長に赴任した下山登中佐から、飛行第246戦隊(根拠飛行場・大正飛行場)の中隊長を務めていた奥田暢大尉が新たに戦隊長に任命された時のもの。この辞令に隊員たちは驚いたそうで、戦隊長に着任するのは佐官クラスが常識であり、尉官クラスが来るのは異例のことだったそうだ。しかしこの数週間後に奥田戦隊長は少佐に昇格した。

3枚目は、47戦隊第2中隊長を務めていた真崎康郎大尉が昭和19年11月23日付で常陸教導飛行師団教導飛行隊附に任命された時のもの。真崎大尉は、転出した常陸教導飛行隊で四式戦と五式戦の性能比較テストを行ったことで有名で、戦後は航空自衛隊の幹部として活躍した。
戦後50周年の記念に光が丘の「平和の碑」で除幕式が行われた際、真崎氏も参加されておられたのだが話をお聞きする機会を逃し、かえすがえすも残念なことだった。真崎氏はこの後ほどなくして体を患い、不帰の客となられた。

実は今回の資料、「軍事機密 陸軍異動通報」の存在に気が付いた時はこれで調べが進むと思ったけれど、読んでいても成増飛行場にかかわる人たちはごく一部しか載っておらず、また新たな資料の発掘をしなければならないのである。。嗚呼、エンドレス‥


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