板橋区民、久しぶりに東武練馬の懐かしい写真の続きを貼る。
熊本の地震がなかなかおさまりませんね。
板橋区民が熊本を訪れたのは先月のこと。あの美しい熊本城があんな姿になるとは思いもよりませんでした。。帰りは阿蘇くまもと空港から飛行機に乗ったので、被害の激しかった益城町の中を通ったんだなあと唖然とした気持ちになります。
さて、今回も前回の続きで昭和54年3月1日に購入したばかりのニコンF2で撮影した東武練馬駅周辺の写真です。
1枚目は板橋区民もお世話になっている「つつみ眼科クリニック」から自衛隊方向のショット。スポーツジム「ティップネス」は元は”矢作医院”という病室も備えた病院だった。我が母校・紅梅小学校の指定医を務め、幼馴染が盲腸の手術で入院したこともあった。
2枚目の小路は板橋区民ご贔屓の”富士亭”対面にある「北町アーケード」じゃないですよ。もっと駅に近く、つたやの並びの区画にいまも残っています。撮影してからそのまま37年の時が経ったような、すごくディープ感が漂いますね。一見客じゃとても入っていけない雰囲気があります。。
3枚目は南口駅前にあったバッティングセンターの廃墟を駅方向にむけて撮影したショット。なんだか現在とあまり変わっていないような感じもしますね。
4枚目はあの有名な「ステーキフジ」の在りし日の姿。当時は”キッチンフジ”だったんですね。つい数年前までこの場所にあったけど、外観は37年前の写真と変わらない感じでしたね。。いまは店舗はもっと上板橋駅の方へ移動し、テイクアウト専門店になっている。
5枚目は‥どこから撮ったのか定かではないですが、キッチンフジの屋根の上にちょこっと覗く煙突の風呂屋「日光湯」かもしれない。
6枚目もどこで撮ったのかさっぱり記憶にないけど、北町にはいくつか旅館が点在してましたね。若者にはわからないでしょうが、旅館隣の家の勝手口の左横にトイレがあります。小さな窓とブロックで囲った汲取口が懐かしい。。
北町商店街には、現在の「ユータカラヤ」の横の道を線路方向に行った所(東武練馬駅から上板橋側へ二つ目の踏切の道)に「北町文化劇場」という映画館があったと地元の人から聞いたことがありますが、昭和40年代に閉館してしまったようです。
タイムマシンがあるならば、この写真を撮っている自分に「もっと商店街のスナップも撮っとけ」とアドバイスしたいところですが、残念です。これから数年後、駅近くの知り合いの写真屋さんがビデオカメラ(カメラと録音部が分離しているタイプのもの)を買ったのでカメラを借りて商店街周辺をビデオ撮影した記憶があるのだけれど、さすがにその映像はもう無いよなあ。。
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コメント
矢作病院! 懐かしすぎます。あれは1974年だったか、赤塚一中の一年生の夏休みに虫垂炎になり、矢作病院で手術しました。大部屋で同級生のお父さんなども入院していらして、楽しく?入院生活を遅れました。
僕の掛かり付けは、内科なら福島医院、外科なら古井医院、耳鼻科なら内藤耳鼻科、眼科なら宍倉眼科でした。虫垂炎の時は、福島医院で診断書書いてもらって矢作医院に言ったのでした。軍医殿は流石に手際が良く、其の日のウチに切腹でしたね。当時は珍しいシャワートイレがあって、わざわざ其のトイレでウンコしたものです。
投稿: 鵜住居 | 2016年4月22日 (金) 08時37分
>>鵜住居さま
コメントをありがとうございます。
矢作医院以外にいろいろ上げていただいたお医者さんですが、すべて心当たりがありません。。自分の記憶では歯医者は駅近くの小池歯科か徳丸2丁目の布施歯科、耳鼻科は徳丸医院でしたか・・天井からたくさんの模型飛行機がぶら下がっていて、今から思えば治療中の子供が見上げられるように配慮されていたんですね。
予防注射は現在の有徳高校の対面にあった保健所に行きました。頭に怪我を負った時は矢作病院で縫ってもらいましたが、あの先生が元軍医とは知りませんでした。考えてみれば小学校当時の50代前後の先生は元軍隊経験者とか学童疎開訓導の世代でしたっけ。
投稿: オーク | 2016年4月22日 (金) 21時18分
オークさま、鵜住居さま、今日は。矢作病院はやはり懐かしいですね。「盲腸は矢作」なんてCMが出来そうな程、盲腸で世話になった学童が多かったようで、まだ東武練馬中央病院が無かったので、入院できる近くの病院が限られていたのでしょう。
当時の北野小学校の校医さんは、ミラベルの近くにあった「村田医院」の村田先生でした。娘さんが同級生で、軍艦マーチを歌うのが得意な女子だった事を思い出しました。
投稿: ひでぼう | 2016年4月23日 (土) 15時01分
富士旅館ですか?
東武練馬駅南口をでて、線路沿いに上板方面へむかい、旧キッチンフジがあった踏切を渡ったすぐの所でしょう。
上板方面から線路沿いにイオンにむかって道路が作られたために線路の北側の住宅が立ち退いたはずです。
踏切を渡ってすぐ右手は、旧宇部興産の社宅だったはずです。いまはマンション、パルシティ徳丸が建っています。
投稿: 志村宇城 | 2016年5月24日 (火) 21時13分
>>志村宇城さま
コメントをありがとうございます。
富士旅館は徳丸側にあったのですね、ネガの撮影コマ順を見ると確かにそうでした。
今から思えば、現在の橋のあたりまで撮影しておけばと悔やまれます。
投稿: オーク | 2016年5月24日 (火) 21時49分
父から、富士旅館のこと、キッチンふじ→ステーキふじ→テイクアウトふじと変貌を遂げていったこと、矢作医院で「腹痛い」というとイコール盲腸になってすぐに切られたことなど聞いていたので、当時の写真が見れて嬉しく思います。
投稿: 80年代に生まれし者 | 2018年1月29日 (月) 15時35分
>>80年代に生まれし者さま
コメントをありがとうございます。3月以降にフイルムスキャンが楽にできる機材が揃う予定ですので、システムが出来たらまた古い写真をUPしますので、お楽しみに。
投稿: | 2018年1月30日 (火) 09時14分
矢作医院懐かしいですね。自分は入院はありませんが、水ぼうそうなどでかかったことはあります。兄弟が頭を怪我して入院し、母も高熱を出して朦朧となり、受診した記憶が。あと皆さんも言うとおり、友達が何人も盲腸で入院しました。北町中学の教師がソフトボール大会でボールをキャッチするときに指の間が裂け、麻酔をしないか効きが不十分なまま手術をして絶叫し、以来矢作医院には絶対行かないと言っていました。レヴァンができたのはバブル期で、当時、ジャグジーは珍しかったですね。
それと上にUPされている古い写真のどれかに、昔の実家が写っています。今は東武練馬には住んでいませんし、その実家もありません。
投稿: | 2021年1月25日 (月) 20時16分