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2016年3月

板橋区民、焦る。

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春の嵐が続きますね。


先週、突然我が愛機Mac Proが逝ってしまった。
旗艦として使ってきたもので、今年で7年めだしそろそろやばいかなあ‥と思っていた矢先だった。

スリープ状態から復帰させようとマウスを触ったところ、「バチッ」っという音とともに画面が緑に赤の縦縞状となってしまったのだ。幸い、重要な作業の途中ではなくSSDがクラッシュした様子もなかったのは助かったけれど立ち上がらなくなってしまい、非常に困ってしまった。何せ大事なデータが全て入っているしソフトもしかり。

板橋区民もMacを使い始めて20年。Pefomer5430から青白G3→G4→G5→初代Mac Pro→2代目Mac Proと旗艦を乗り換え、初期のSCSI接続から苦労を重ねてきたのでなんとなく故障の原因は想像がつくようになった。
Macの場合は電源ユニットかグラフィックボードかメモリ周りが故障原因となりやすく、掲載の写真のような場合はグラフィックボードが疑わしい。

MacのボードはWin機に比べると物は同じ性能なのにべらぼうに高い。海外輸入の車と同じでMacで動くようにするため少し仕様が変わりそれが値段に加算され同じ製品が5倍10倍もしてしまう。が、最近はcpuがインテル製になりmac用ドライバを入れれば動くようになるので、予備機として置いてある古いMac book proを立ち上げ、amazonの評価欄で動作報告を読み、macでも動く中古バルク品を選んで購入した。

さすがamazon、翌日の朝には届きさっそく交換‥そこで「おい、立ち上がらないSSDにどうやってドライバソフトを入れるんや?」と気がついた。焦っていた板橋区民はすっかりドライバのことは忘れていたのだ。ここでまた一休さんのように頭をひねり、そうだ!システムの入っているSSDを抜いて他のMacに接続して起動ドライブとして立ち上げてインスコすればいいんや!とひらめきまたまたamazonで内蔵ドライブを仕込めるHDDケースを注文した。

さすがamazon、翌日の朝には届きさっそく装着、しかし古いMac book proではOSのバージョンが合わず認識されないので練馬区に住む知人のiMacをお借りして起動。おおっ、練馬区民のmacに板橋区民のmac画面が見事再現したジャマイカ。さっそくインストを終了し、Mac Proに装着‥おい、画面真っ暗やんけ!どうやら起動はしているような感じだが画面が映らない。内部を覗くと4本挿したメモリのうち2本に不具合を知らせる赤のLEDが点灯している。

通常、落雷などで過電流が流れるなどしない限りメモリ本体は壊れないだろうから、これはメモリの挿してあるボードも逝かれたのかしらん?と考えたが、これ以上原因を追求しつつ部品を交換するのはリスクが大きい‥戦力の逐次投入はいたって損害を大きくするとノモンハンやインパール作戦で学んだはずだ。ここはいっそ新しいMacを購入する方が早く済むのではと決断した。ちょうど散髪の時期だしさっそく表参道のapple storeへGo!

さすが表参道のapple store、総ガラス張りのオサレさんだ。しかし、である。板橋爺さん、どうもこのジーニアスバーとかなんとかのシステムは受け入れ難くちっとも慣れない。ヨドバシやビッグの売り場みたいな感じでないと落ち着かないのだ。
適当な兄ちゃんにmac買うんだがと声をかける。購入機はiMac27インチと決めている。青白G3以来ずっとタワー型の機種にしてきたが、現在のフラッグシップであるゴミ箱Mac Proは、もはや4Kや8Kのビデオ編集とか3Dのレンダリングをガンガンこなすパワーがあり、自分にはオーバースペックなものとなってしまったのである。

話の流れで、よく使うのはフォトショップなんだな、と告げると兄ちゃんが衝撃の一言。

「いま販売中のmacにはフォトショ(アドビ製品)は入らないっすよ。」

あ?どういう意味なん?

「アドビがパッケージ販売をやめてクラウドのみの扱いにするんすよ。」

‥ようするにソフトの不正使用防止のためにネット経由でインストールさせて月額課金制にするということで、過去のパソコンからデータを移したりパッケージDVDからインストールしてもソフトが立ち上がらないようにしたというわけだ。
いきなりそう言われても、フォトショCS6アップグレード版やライトルーム5を買ってから何年も経っていないのに月額課金だとぉ!?ふざけんな!と頭に血が上ったので一旦ストアを出て行きつけの散髪屋で気分転換をすることにした。

散髪をしスースーした頭で考えて見たが、現在より1世代前ならば過去のバージョンをインストールできると云うのでそれじゃ新古品でも買うかとも思ったけれど、もはやこの流れには逆らえず結局は課金制に従うのだから仕方ないか、と腹を決め再びストアへ向かい購入をした。

さて、赤塚郷へ戻りネットで検索するとどうやら最新のOS10.11.3 El Capitanでも、配布されているmac用java6をインストールすればパッケージ版CS6が動くらしいとわかった。
で、届いたiMacにjava6をインストしてからサンダーボルト-ファイヤワイヤ変換アダプタを介してMac Proにつなぎターゲットディスクモードで起動させると無事にデータ移動を完了させることができた。最大の懸念だったフォトショップも無事動かすことができ、ようやく一息つけたのであった。
で、この記事は新しいiMacからの初書き込みというわけなんですね。

‥それにしても、apple storeの兄ちゃんも他社製品とはいえメジャーなソフトなんだからもっと商品情報をきっちり把握しといてもらいたいものだ。やっぱりジーニアスバーは爺いに合わないっすなあ。。

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板橋区民、再び逃避する。




いけない‥また煮詰まってしまった。
たしか一年前もそうだったっけ‥

こう言う時はとりあえず逃避だ。赤塚郷から離れなくては。。
ということで和光市駅からリムジンバスで羽田空港へ。



さてさて到着したのは長崎県。予報では曇りか雨だったけど運良く晴れた、さっそく軍艦島ツアーに潜り込み軍艦島へGo!しかし気温が上がり暑いなぁ〜



天気晴朗なれど波高し。果たして上陸はできるのか⁈



島に近づきいざ接岸‥うーん船は激しく揺さぶられ格闘すること15分、しかし船長からは無情の離島宣言が。そんなに甘くはないっすなぁ‥



ま、しゃーないですんで下船後にホテルに行きチェックイン。船がけっこう揺れたので以外と体がシンドくちょっと休んでからホテル直ぐそばの出島へGo!
昔、訪れた時より出島らしくなり中々良い感じで、あぁかつて此処に高島秋帆先生はおられたのかと感慨ひとしきり‥



さてホテルへ戻り裏の中華街へGo!うーんしかししかし日曜日なのに中国人はチラホラいるけど閑散とした感じだ。。さてせっかく港にいるんだからと結局は寿司屋へ行っちゃいました。

‥それにしても、醤油が甘いのはどうにかならんのかいな。。

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板橋区民、墓参する。




長崎の夜が明けた。
板橋区民はビジネスホテルが好きだ。今回滞在しているのは長崎バスターミナルホテルだが、朝は下を行き交う路面電車の音で目が覚める。ウルセー部屋だと思う方もいるだろうが、板橋区民には心地よい音に響くのだ。窓の外には出島も見える絶好のロケーションだ。
部屋には浴槽はなくシャワーだけだけど、リニューアルしたばかりなのかトイレと分かれており最新の温水便座が付いている。部屋着もサウナ風で心地よい。



さて、いくら居心地が良くても出発しなくてはならない。せっかくだから目の前の正覚寺下行き市電に乗る。運賃も120円とリーズナブルだ。
正覚寺下から坂を登ると高島秋帆邸宅跡がある。ずいぶん前に来たことがあるけど、ゆっくり見られるのは今回が初めてだ。記憶にある階段を上っていくと邸宅が!と言っても原爆で破壊されたので今は礎石のみである。



他にめぼしい遺物は「鉄砲石」と呼ばれる石が残っていだけだけど、現状ではどこから撃つのかわからない場所にあるのでうーんである。
それでも建物のあった礎石の空き地に佇み辺りを見渡せば、ああ此処から高島流砲術が始まったんだなあと感慨が湧いてくる。




秋帆邸を出て、一路向かうは皓台寺。ここには江戸時代に長崎で活躍した方々の墓が残っており、高島家代々の墓もここにある。今年は秋帆先生が没してから150回忌に当たるので、板橋区民を代表して墓参に来たのだ。決して逃避行だけではないのですぞ。

長崎の過酷な急坂をこれでもかと登った所に高島家の墓所はあった。上は秋帆先生の父上の墓、下が明治時代に建てられた秋帆先生一家の墓だ。
高島家の墓所は広大で、江戸時代初期から秋帆家までずらりと並び圧巻だ。巨大な墓も多く、武士や僧侶でもないのにこの威容さは流石に大名クラスと言われるだけある。
たまたま墓を管理している方がいて話しを伺うと、なんと先週土曜日に所縁の方々がお参りに来ていたとのことで、まだお供えの花が枯れずに残っていた。秋帆家は絶えてしまったので兄弟の縁者と思われるが、お会い出来なかったのは残念でした。。



と言うことで今夜は雲仙温泉でゆっくり硫黄泉に浸かる板橋区民なのであった。

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板橋区民、ちょっとガッカリする。




昨夜は雲仙温泉を堪能した。
たびたび申し上げてますが、板橋区民は硫化水素臭がプンプン香る白濁酸性硫黄泉を愛している。

しかし、である。バスを降りた途端、硫化水素臭が鼻をくすぐり幸せな心地で旅館に入りさっそく露天へGo!
あれ?アレ?硫化水素の臭いは⁇

板橋区民は鼻が利くタイプであるが、温泉の臭がしないのはどういうことだ。お湯の色は黄土色でさやの湯に似ている。ま、湯船は広いんだけどさ、これじゃさやの湯に入ってるみたいじゃん‥せっかくの九州の活火山雲仙温泉なのにさ‥

で、今朝はジモピーの入る温泉銭湯に期待を込めて参陣。こちらは若干白濁しているかなぁ‥てな感じだけどやっぱり硫化水素臭はしない。

ジモピー温泉の特徴は湯温が熱いので低温好きの身にはチト辛いがガマンガマン。旅館よりまあいいかなぁと思ったが、朝なのでジモピー爺さんが浸かってるんだがお湯の中に口を沈めてモゴモゴ‥口の中まで温泉を堪能してるのね‥。他の爺さんは熱いお湯を立ったままザンザンかけるから顔にかかってアチーだろが!ここまでさやの湯に似なくてもええやろ!

板橋区民は温泉に対して常にコンフタブル、「心地良さ」を求めている。期待をするぶん、つい厳しい目で見てしまうのだ。

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板橋区民、激戦地を歩く。




昨日は酔いに任せてつい不満を書きすぎてしまった。
期待が大きすぎた分、落胆してしまったのだ。島原温泉郷、さやの湯、ジモピー爺さん、申し訳ありませんでした。



今朝の熊本は天気が悪かった。驟雨の中、バスで向かったのはあの西南戦争の激戦地・田原坂だ。昨秋、資料館もリニューアルしたのも楽しみである。
田原坂近くのバス停で降りたころは風雨激しく、まさに139年前の激戦当日の様だ。

”雨は降る降る人馬は濡れる越すに越されぬ田原坂”


竹が鬱蒼と繁る田原坂は舗装されてなければ、昔のままの風景かと見紛うばかりだ。坂の両側は粘土質のようで、こんな坂を薩軍も政府軍も4斤山砲や臼砲や砲弾弾薬を運ぶのは容易なことじゃないと途方にくれる。坂の途中には戦死した方の碑や慰霊塔が点々とあり、此処が戦場だったことがリアルに迫ってくる。



一ノ坂、二ノ坂、三ノ坂と行くと西南戦争の資料館がある。さすが平日の嵐の中訪れる物好きはいないのか、資料館の方がタオルを貸してくれたり着ていたノースフェイスのストームクルーザーを預かってくれたりと有難いことだった。



よんおくえんをかけてリニューアルした資料館はとても垢抜けた造りでゆったりしている。最近の資料館や博物館は皆こんな感じを受けるけど、板橋区民は資料がぎっちり展示されている方が好きかもしれない。



中ほどまで進むと展示でいちばん力を入れている、戦闘を再現したコーナーがある。薩摩軍が潜む陣地の等身大ジオラマの前に立つと、90度にくっ付いた2面のスクリーンで戦闘シーンの動画が始まる。立体的でなかなか頑張ってリアルさを出しているけど、「野火」を観たあとでは物足りなくなってしまっている自分が恨めしい。。

またまた文句っぽく書いてしまったが、館の方によると展示内容は逐次更新され来館者を飽きさせなくする工夫がなされるとのこと。田原坂地域全体が戦跡に指定されており見どころは沢山あるので是非お勧めしたい場所だ。天候に恵まれなかったのが悔しいなあ‥



さてまたバスに乗り熊本市内へ。遅い昼食を桂花本店で取り熊本城へ行くと‥一転イイ天気じゃん‼︎ナンジャコリャ。。
日本の城の中で迫力があるのは第一位は姫路城、二番目は熊本城(再建だけど)とかねてから思うけど、さすがッスね。石垣と言い天守と言いバランスが素晴らしい。

熊本市内は繁華街も楽しいし路面電車もあるし中々の観光地と納得しますね。

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60年前に哮る人。

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‥花粉症がひどく発症し脳みそがぼわぼわしております。。


九州へ逃亡したり確定申告に追われてるうちにすっかりご無沙汰をしてしまいました。

その間、ブログ記事にいくつかコメントをいただいておりましたが、中に大変お怒りのコメントもありました。そのことに関しましては直接の返信は控えますが、記事については、話題にしたAKB48のファンでもなく愛情もない人間が書いたこと故に大ファンである方の不興を買ってしまったことを残念に思い遺憾の意を表します。

と、先に遺憾を表しましたがあの記事のどこに怒りを覚えられるのかファンでない人間にはイマイチ論点がわからない。ブログの記事は”神の視座”から書いているわけではなく、特に記憶を頼りに思い出を書いている場合は独りよがりな内容となり、全くの嘘や捏造はしないけれど表現に誇張のある場合もある、と思いながら読んでいただければ幸いです。

で、今回のお題は”怒り”である。

先々週、長崎を訪れ板橋区最大のスター「高島秋帆先生」の150回忌墓参りをしたことを当ブログでお伝えしました。
実はこのお墓参りをする前、東小島にある旧高島秋帆邸跡に赴いた。邸宅は秋帆先生の父上である高島四郎兵衛茂紀が文化3年(1806)現在地に別邸を建て、雨声楼(うせいろう)または齢松軒(れいしょうけん)等と呼ばれていた。天保9年(1838)の大火で、大村町(現在の万才町)の高島本邸が類焼し、以後この別邸が使われた。

実は十数年前にも東小島へは行ったけれどその時は時間がなくてざっと見回る(建物自体は残っておらず一見ではただの空き地にしかみえない)だけでしたが、今回は当時よりも知識がつき興味もあるのでじっくりと拝見した。ちなみに秋帆邸跡は大正11年に国の史跡に指定されている。

と、ここで見学記をだらだらと続けると今回のお題である”怒り”が薄れてくるので見学記はまたの機会に譲るとしますね。

さて、秋帆邸跡には建物はない、と書きましたがそれは秋帆先生一家が長崎を離れるまで住んでいた”雨声楼”がないだけで、邸内の敷地には”石倉”が残っている。この”石倉”は「硝煙蔵」あるいは「倉庫」だったといわれており火薬や武器が保管されていたと伝わっている。

ここで話をちょっと進めますが、秋帆先生宅跡を見学したのち、そこから30分くらい歩いた場所にある晧台寺の高島家墓所へ墓参りに行きました。で、墓参りを終えてから向かった先が「長崎歴史文化博物館」でした。

「長崎歴史文化博物館」は平成17年(2005年)11月3日に開館した比較的新しい博物館で、その前身は長崎県立美術博物館だった。(現在は博物館と美術館に分かれている)

ここには前博物館から引き継がれた歴史資料が収蔵されており、請求すれば誰でも実資料を閲覧できるのだ。基本的には博物館や資料館で保管収蔵されている資料(古文書など)を見せてもらうには紹介やなにやら手続きが必要で、一般人がふらっと訪れてその場で実資料を見ることなんてできない。すごいぞ長崎歴史文化博物館!(ただし状態が悪いものや指定文化財になっているものは閲覧10日前までに申請して許可が出れば閲覧可となる。)しかも、資料1点につき200円払えば複写もさせてくれるのだ。資料が100ページあっても200円だ!すごいぞ長崎歴史文化博物館。しかし、しかしである。その資料画像を使用するにはたとえ教育目的でも個人的ブログに出典を明らかにして小さく掲載しても1枚1000円、100枚では100000円使用料がかかるのだ。アメリカの公文書館並みにしろとは言わないけどさ、なんとかならんですかねー。

というわけで旧長崎県立美術博物館に収蔵されていた高島家に関する古文書資料も現在はこちらに移動し、閲覧できることになっている。
これらの資料は度々板橋区の資料館で複写されているが公開されるのはほんの一部分だけなので、全体を知るにはわざわざ長崎まで行かなくてはならない。今回はせっかくの機会なので資料を借り出さなきゃあ勿体無い。ちなみに長崎歴史文化博物館の展示では高島家のことや事績については一切展示されていないし、触れられてもいない。仮にも出島誕生に深く関わり代々役人として町年寄など重要な地位に就いていた家柄なんだけどなあ。。学芸員に質問しても「研究してる人がいればいいんですけどねぇ、知らないです。」と事務的応対で終わり、ここで秋帆先生の事績を熱く語っても全く無駄であることが悟られるのである。高島家に対する愛はないのだ。もはや怒りすら湧かず、嘆きのみだ。

まあ、たとえ事務的応対をされようとも重要な資料があることには変わらず、それらを閲覧できることは幸いなことだ。んで、チョイスした資料のひとつが「ー高島秋帆宅跡の石倉ー」という表題の、粗末なわら半紙にガリ版で印刷された10ページの小さな冊子だ。
じつはこの冊子には”史実をまげようとするもの”という副題が付けられている。そう、筆者の宮田安さんは怒っているのだ。怒りのあまり、こんな冊子を昭和30年(1955年)に出版したのだ。

ここで、話を冒頭に触れた旧高島秋帆邸跡に残る”石倉”に戻しますね。
写真に写る解説文を読むと、「高島秋帆の硝煙蔵あるいは倉庫だったと言われています。」とある。案内板は平成17年(2005年)3月に設置されたものだ。

では、なぜ宮田さんは怒っているのだろうか‥
(ここで複写してきた資料を掲載できれば楽だし作為のないことも確認していただけるのですが手続きや高額な掲載料の支払いをしなくてはならないので概略の紹介でご勘弁を。)

副題にはまだ続きがあり、「料亭の主人が造った石倉を、未だに秋帆の火薬庫だとか、武器書籍庫だという人がいるので、その誤りを正そうとする。」と書かれている。
冊子を製作した経過は、昭和29年8月29日の長崎日日新聞に「秋帆邸をめぐり二説、石倉の火薬庫論に異論」として載った宮田氏の談話記事に誤りがあるので自ら書き記した、とある。

表紙を捲ると、氏が描いた昭和29年時点での高島家邸内の見取り図が載っている。邸内には郵政省の官舎を始め数件の個人宅や学生寮が建っていたのがわかる。これだけでも驚いたが、高島秋帆邸敷地にあった「雨声楼」は原爆で破壊され、その跡地が残るのみ。とずっと思い込んでいた。が、しかしである。「雨声楼」は原爆で一部損壊したけれど破壊されずに残り、終戦後に取り壊されその跡には民家が建てられていたし、今は空き地になっている場所にも見取り図にあるような建物があったのだ。自分が単に無知だっただけなのだが、これは現地ではそんなことは説明されていないし、ネット上でも情報は出てこない。

そういえば、東上線の大山駅と下板橋駅の間、今の山手通りの陸橋下あたりにあった「金井窪駅」廃止もそんな感じだったなあ‥と思い出す。

東武鉄道の社史によれば、金井窪駅は昭和20年4月13日の東京城北大空襲で被災して廃止されたとある。しかし、国立公文書館には空襲以前の日付で、隣接する駅との距離が近く不経済であるとの理由で廃止命令が出された公文書が残っているし、昭和の終わりか平成初めころの「広報いたばし」誌上に、戦時中金井窪駅に勤務していた駅員のインタビュー記事があり、駅舎は空襲で焼け残ったが周りの被害がひどく駅の使用が停止され、駅舎にはしばらく駅長一家が住んでいた、との証言が載っている。社史だけ見てれば駅は「戦災で廃止された」、公文書だけ見れば「不経済を理由に廃止された」、証言だけ見れば「駅舎は残ったけど周りが焼けてしまったので廃止された」とも読めるのだ。真実としては「金井窪駅は戦時中の無駄排除命令により廃駅と決まっていたが空襲により周辺が多大な被害を受けそのまま廃止された」とでもすべきですね。

‥話を元に戻します。

宮田氏によれば、高島秋帆邸は以下の経過を辿ったという。

嘉永6年8月(1853年)、埼玉の岡部の陣屋に10余年もの間幽閉されていた秋帆先生が赦免され、長崎で暮らしていた家族が江戸に引越した。その際、屋敷は高島流の門人であった中島名左衛門が受け継いだ。中島は砲術指南役として長州藩で指南を行うが馬関海峡の戦闘中、長州兵の砲術習得が未熟と非難したことで逆恨みされ暗殺されてしまった。
その後、「雨声楼」は「咲草屋」という料亭にとなり次に「宝亭」になった。主人の松尾浅吉は長崎の女傑、大浦慶の使用人をしており、慶女の支援を受けて料亭を営んだ。料亭は日清戦争時には海軍の軍人で賑わい、たいそう繁盛していたという。

その時に芸妓をしていた方が生きておられ、石倉が建築された時の状況を知ってるそうであり、松尾浅吉の女房であった松尾サダも、「わっっが働いて新座敷と石倉は造ったとばな」と口癖のように話していたとのことで、それが石倉が高島家時代のものではない証拠になっているというのだ。

宝亭は大正5年に廃業し、翌6年に瓜生たつ女が建物を借りて料亭「辰巳」を開業した。その間に秋帆邸は国の史跡の指定を受ける。「辰巳」は昭和4年に今篭町に移転して以降は空き家だったが、松尾サダ女と浅吉の子、松尾七郎が終戦時まで雨声楼に住んでいたという。

宮田氏の冊子には石倉の改造状況などが詳しく書かれ、使われた瓦や和釘の分析などからこの建物が天保時代の建築ではないことを解き明かしていくのだが、肝心の”いつこの石倉が建てられたのか”という答えがない。倉が建った時のことを覚えている方から話を聞いているはずなのに、それが明治何年なのかが書かれてないのだ。
海軍相手に儲けた松尾浅吉は明治31年に66歳で亡くなっているが「わっっが働いて建てた」と証言した松尾サダは昭和3年に81歳で亡くなっている。

戦後、石倉は市内の増崎金物店が買い取り、内部の木材が運び出されてしまった。こののち秋帆邸跡は城谷という人物が一括で購入したが、寺田氏に転売され、寺田氏は「雨声楼」跡地に建てた平家の家に住んでいた。この間にも石倉は外観も含め改造を繰り返していた。

さて、宮田氏が何に対して怒っていたのかですが、宮田氏は長崎市が秋帆邸内に建つ”石倉”を昭和29年度予算で修復した際に、関係書類を製作した長崎市教育委員会と国費補助を出した文化財保護委員会が行った調査内容の杜撰さに怒りを覚えたらしい。
氏曰く、昭和3年に長崎県が出した「長崎県の指定史跡名勝記念物」や長崎市が出した昭和12年に出した「長崎市史 地誌編 名所旧跡部」他、明治・大正・昭和期に出された公の刊行物には、石倉が高島家由来のものと結びつけた文書はなく、それが今回、いきなり石倉が高島家由来のものだとされたことが許せなかったようだ。


当ブログで何度も嘆いているが、公の機関が認めてしまった物事に対して一民間人や個人研究者が訂正を申し出てもそれが(すぐに)取り上げられることはない。たとえば板橋区史が毎年のように改訂されることはありえないことで、新しく編纂されるのは数十年に一度しかない。その数十年に一度の時に適切な方法で訴えるしかチャンスはないのだ。権威に対抗するのは大変なことだけれど、権威と呼ばれる機関でも別に独善で物事を決めているわけではなく、それぞれの専門家がいろいろな角度から研究した結果を会議で話し合い、意見がまとめられて結論に集約されるのだ。ようするにきちんとした手段を経て結論に至っているので、それを市井の研究者が覆すのは難しいのだ。

まあそれでも隙はあるもので、特に近現代史にその傾向は多い。これが、歴史は乾いてからでなくては歴史にならないことの所以なんですね。


ここでまた、冒頭の石倉解説板を見ていただこう。設置は平成17年(2005年)3月となっている。宮田氏が怒りの冊子を出してから50年の時が経っている。が、解説板には相変わらず「高島秋帆の硝煙蔵あるいは倉庫だったと言われています。」とある。
権威に認められるのは、大変なことなんだなあとつくづく考えさせられますネ。

宮田氏の冊子の中に、「雨声楼」が取り壊された時の状況を記した記録が残っていることが書かれていた。これはぜひ見たいのだが、気がついたのは赤塚郷に戻ってきてからだった。また近いうちに長崎に行かなくてはならないのだろうか‥軍艦島にも上陸できなかったしなぁ。。

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赤塚郷、セレヴな街となる。                     ‥か?

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赤塚郷にも桜の時期がやってまいりました。
桜といえばお花見ですね。そんな時、ちょっとリッチなお弁当やお惣菜はいかがですか?

なんて、まるで健全なブログの書き出し感が恥ずかしいです‥


そうです。ついに板橋区内に高級スーパーがやってきた。それも、我が赤塚郷に。

先週の金曜日、東武東上線の成増駅に「EQUIA成増」がグランドオープンした。
「EQUiA」とは、「駅」に「クイック(quick)&クオリティ(quality)」と「エリア(area)」を 加えた造語で、“手軽に質の良いものやサービスを提供する場所”とのイメージが込められており、東武鉄道が運営する地域密着型ショッピングセンターのひとつだ。東上線沿線では川越駅のほか、計4箇所で展開されている。

全部で19の店舗からなるショッピングセンターのなかで目玉なのは、やっぱり「成城石井」だろう。
「成城石井」は1927年に世田谷区成城で食品店として創業し、1976年にスーパー化、1988年から多店舗化を開始して全国に展開している。同じ高級スーパーでも紀伊国屋や明治屋より店舗数も多く、認知度も高い。

当ブログでも、主に年末の買い物ネタとして板橋区内に高級スーパーがないことを常々嘆いてきた。”じゃあ池袋のデパート行きゃいいだろ”といわれればそうかもしれないが、デパートの食品売り場をうろうろする、という習慣がない人間にとっては敷居が高い行為なのだ。それに、デパートは広すぎる。

赤塚郷では、東武練馬にサティ(現・イオン)がオープンするまで「三徳」が唯一の高級(?)スーパーだった。その三徳もサティオープンのころに庶民派の代表、「みらべる」に変わってしまった。まっ、これはこれで良い戦略で、お年寄りやちょっと寄ってパッと買い物したい層には非常に便利であり、決してイオンには並ばない(賞味期限がギリギリな)激安商品を宝探し的に楽しむこともできる。だけれども、年末などちょっと高級な品を求めたい時にはその要求を満たさず、そこが不満だった。もちろん、イオンや東武ストアや西友やイトーヨーカドーやサミットでもその要求は満たしてくれない。

イオンは規模は大きいけどPB商品があまりに溢れすぎていて、多品目から商品を選ぶ楽しみが削がれるイメージがある。それに、今ではコンビニ並みにある「マイバスケット」や系列が同じドラッグストアにも同じPB商品がならんでいて購買意欲がわかないのだ。

で、板橋区民もさっそく「EQUIA成増」を偵察に行ってきた。

おお、改札を出ると、かつて本屋だった場所にどどーんと”成城石井”が。ここはどこの東急線沿線の街だ?なんて一瞬感じてしまう。まだオープンしたてなので赤塚郷の民が殺到し大混雑である。まるで祭りのような空間に飛び込んでみたが、商品の棚には三徳にもよしやにもイオンスタイルにもカスミストアにも無い商品が満載だ!
生ハムやチーズも種類がすごい!しかし、何と言っても”成城石井”を冠した惣菜類やPB商品が手に入るのが感動である。同じPB商品でもトップバリューとは全然違うのだ。(お値段もだけど)

「EQUIA成増」の他の店舗にも、吉祥寺のケーキ屋とか川越の人気つけ麺店とか魅力的な店があるけれど、あまりに混雑が激しいのでまた出直すとしよう。


‥と、ご祝儀でアゲアゲ記事を書いたけど、個人的には駅ナカの店舗は東上線を利用しない場合、ちょっと不便だし2階のスタバ+本屋も落ち着かない気もするし大行列のたい焼き屋もかつてのビアードパパみたくいつまで人気が続くのか‥
まあ成増には高級なマンションがそれなりにあるし、今まで池袋や副都心線に流れていた高級志向の赤塚郷民の足を止める効果はあるのかな。。

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