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60年前に哮る人。

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‥花粉症がひどく発症し脳みそがぼわぼわしております。。


九州へ逃亡したり確定申告に追われてるうちにすっかりご無沙汰をしてしまいました。

その間、ブログ記事にいくつかコメントをいただいておりましたが、中に大変お怒りのコメントもありました。そのことに関しましては直接の返信は控えますが、記事については、話題にしたAKB48のファンでもなく愛情もない人間が書いたこと故に大ファンである方の不興を買ってしまったことを残念に思い遺憾の意を表します。

と、先に遺憾を表しましたがあの記事のどこに怒りを覚えられるのかファンでない人間にはイマイチ論点がわからない。ブログの記事は”神の視座”から書いているわけではなく、特に記憶を頼りに思い出を書いている場合は独りよがりな内容となり、全くの嘘や捏造はしないけれど表現に誇張のある場合もある、と思いながら読んでいただければ幸いです。

で、今回のお題は”怒り”である。

先々週、長崎を訪れ板橋区最大のスター「高島秋帆先生」の150回忌墓参りをしたことを当ブログでお伝えしました。
実はこのお墓参りをする前、東小島にある旧高島秋帆邸跡に赴いた。邸宅は秋帆先生の父上である高島四郎兵衛茂紀が文化3年(1806)現在地に別邸を建て、雨声楼(うせいろう)または齢松軒(れいしょうけん)等と呼ばれていた。天保9年(1838)の大火で、大村町(現在の万才町)の高島本邸が類焼し、以後この別邸が使われた。

実は十数年前にも東小島へは行ったけれどその時は時間がなくてざっと見回る(建物自体は残っておらず一見ではただの空き地にしかみえない)だけでしたが、今回は当時よりも知識がつき興味もあるのでじっくりと拝見した。ちなみに秋帆邸跡は大正11年に国の史跡に指定されている。

と、ここで見学記をだらだらと続けると今回のお題である”怒り”が薄れてくるので見学記はまたの機会に譲るとしますね。

さて、秋帆邸跡には建物はない、と書きましたがそれは秋帆先生一家が長崎を離れるまで住んでいた”雨声楼”がないだけで、邸内の敷地には”石倉”が残っている。この”石倉”は「硝煙蔵」あるいは「倉庫」だったといわれており火薬や武器が保管されていたと伝わっている。

ここで話をちょっと進めますが、秋帆先生宅跡を見学したのち、そこから30分くらい歩いた場所にある晧台寺の高島家墓所へ墓参りに行きました。で、墓参りを終えてから向かった先が「長崎歴史文化博物館」でした。

「長崎歴史文化博物館」は平成17年(2005年)11月3日に開館した比較的新しい博物館で、その前身は長崎県立美術博物館だった。(現在は博物館と美術館に分かれている)

ここには前博物館から引き継がれた歴史資料が収蔵されており、請求すれば誰でも実資料を閲覧できるのだ。基本的には博物館や資料館で保管収蔵されている資料(古文書など)を見せてもらうには紹介やなにやら手続きが必要で、一般人がふらっと訪れてその場で実資料を見ることなんてできない。すごいぞ長崎歴史文化博物館!(ただし状態が悪いものや指定文化財になっているものは閲覧10日前までに申請して許可が出れば閲覧可となる。)しかも、資料1点につき200円払えば複写もさせてくれるのだ。資料が100ページあっても200円だ!すごいぞ長崎歴史文化博物館。しかし、しかしである。その資料画像を使用するにはたとえ教育目的でも個人的ブログに出典を明らかにして小さく掲載しても1枚1000円、100枚では100000円使用料がかかるのだ。アメリカの公文書館並みにしろとは言わないけどさ、なんとかならんですかねー。

というわけで旧長崎県立美術博物館に収蔵されていた高島家に関する古文書資料も現在はこちらに移動し、閲覧できることになっている。
これらの資料は度々板橋区の資料館で複写されているが公開されるのはほんの一部分だけなので、全体を知るにはわざわざ長崎まで行かなくてはならない。今回はせっかくの機会なので資料を借り出さなきゃあ勿体無い。ちなみに長崎歴史文化博物館の展示では高島家のことや事績については一切展示されていないし、触れられてもいない。仮にも出島誕生に深く関わり代々役人として町年寄など重要な地位に就いていた家柄なんだけどなあ。。学芸員に質問しても「研究してる人がいればいいんですけどねぇ、知らないです。」と事務的応対で終わり、ここで秋帆先生の事績を熱く語っても全く無駄であることが悟られるのである。高島家に対する愛はないのだ。もはや怒りすら湧かず、嘆きのみだ。

まあ、たとえ事務的応対をされようとも重要な資料があることには変わらず、それらを閲覧できることは幸いなことだ。んで、チョイスした資料のひとつが「ー高島秋帆宅跡の石倉ー」という表題の、粗末なわら半紙にガリ版で印刷された10ページの小さな冊子だ。
じつはこの冊子には”史実をまげようとするもの”という副題が付けられている。そう、筆者の宮田安さんは怒っているのだ。怒りのあまり、こんな冊子を昭和30年(1955年)に出版したのだ。

ここで、話を冒頭に触れた旧高島秋帆邸跡に残る”石倉”に戻しますね。
写真に写る解説文を読むと、「高島秋帆の硝煙蔵あるいは倉庫だったと言われています。」とある。案内板は平成17年(2005年)3月に設置されたものだ。

では、なぜ宮田さんは怒っているのだろうか‥
(ここで複写してきた資料を掲載できれば楽だし作為のないことも確認していただけるのですが手続きや高額な掲載料の支払いをしなくてはならないので概略の紹介でご勘弁を。)

副題にはまだ続きがあり、「料亭の主人が造った石倉を、未だに秋帆の火薬庫だとか、武器書籍庫だという人がいるので、その誤りを正そうとする。」と書かれている。
冊子を製作した経過は、昭和29年8月29日の長崎日日新聞に「秋帆邸をめぐり二説、石倉の火薬庫論に異論」として載った宮田氏の談話記事に誤りがあるので自ら書き記した、とある。

表紙を捲ると、氏が描いた昭和29年時点での高島家邸内の見取り図が載っている。邸内には郵政省の官舎を始め数件の個人宅や学生寮が建っていたのがわかる。これだけでも驚いたが、高島秋帆邸敷地にあった「雨声楼」は原爆で破壊され、その跡地が残るのみ。とずっと思い込んでいた。が、しかしである。「雨声楼」は原爆で一部損壊したけれど破壊されずに残り、終戦後に取り壊されその跡には民家が建てられていたし、今は空き地になっている場所にも見取り図にあるような建物があったのだ。自分が単に無知だっただけなのだが、これは現地ではそんなことは説明されていないし、ネット上でも情報は出てこない。

そういえば、東上線の大山駅と下板橋駅の間、今の山手通りの陸橋下あたりにあった「金井窪駅」廃止もそんな感じだったなあ‥と思い出す。

東武鉄道の社史によれば、金井窪駅は昭和20年4月13日の東京城北大空襲で被災して廃止されたとある。しかし、国立公文書館には空襲以前の日付で、隣接する駅との距離が近く不経済であるとの理由で廃止命令が出された公文書が残っているし、昭和の終わりか平成初めころの「広報いたばし」誌上に、戦時中金井窪駅に勤務していた駅員のインタビュー記事があり、駅舎は空襲で焼け残ったが周りの被害がひどく駅の使用が停止され、駅舎にはしばらく駅長一家が住んでいた、との証言が載っている。社史だけ見てれば駅は「戦災で廃止された」、公文書だけ見れば「不経済を理由に廃止された」、証言だけ見れば「駅舎は残ったけど周りが焼けてしまったので廃止された」とも読めるのだ。真実としては「金井窪駅は戦時中の無駄排除命令により廃駅と決まっていたが空襲により周辺が多大な被害を受けそのまま廃止された」とでもすべきですね。

‥話を元に戻します。

宮田氏によれば、高島秋帆邸は以下の経過を辿ったという。

嘉永6年8月(1853年)、埼玉の岡部の陣屋に10余年もの間幽閉されていた秋帆先生が赦免され、長崎で暮らしていた家族が江戸に引越した。その際、屋敷は高島流の門人であった中島名左衛門が受け継いだ。中島は砲術指南役として長州藩で指南を行うが馬関海峡の戦闘中、長州兵の砲術習得が未熟と非難したことで逆恨みされ暗殺されてしまった。
その後、「雨声楼」は「咲草屋」という料亭にとなり次に「宝亭」になった。主人の松尾浅吉は長崎の女傑、大浦慶の使用人をしており、慶女の支援を受けて料亭を営んだ。料亭は日清戦争時には海軍の軍人で賑わい、たいそう繁盛していたという。

その時に芸妓をしていた方が生きておられ、石倉が建築された時の状況を知ってるそうであり、松尾浅吉の女房であった松尾サダも、「わっっが働いて新座敷と石倉は造ったとばな」と口癖のように話していたとのことで、それが石倉が高島家時代のものではない証拠になっているというのだ。

宝亭は大正5年に廃業し、翌6年に瓜生たつ女が建物を借りて料亭「辰巳」を開業した。その間に秋帆邸は国の史跡の指定を受ける。「辰巳」は昭和4年に今篭町に移転して以降は空き家だったが、松尾サダ女と浅吉の子、松尾七郎が終戦時まで雨声楼に住んでいたという。

宮田氏の冊子には石倉の改造状況などが詳しく書かれ、使われた瓦や和釘の分析などからこの建物が天保時代の建築ではないことを解き明かしていくのだが、肝心の”いつこの石倉が建てられたのか”という答えがない。倉が建った時のことを覚えている方から話を聞いているはずなのに、それが明治何年なのかが書かれてないのだ。
海軍相手に儲けた松尾浅吉は明治31年に66歳で亡くなっているが「わっっが働いて建てた」と証言した松尾サダは昭和3年に81歳で亡くなっている。

戦後、石倉は市内の増崎金物店が買い取り、内部の木材が運び出されてしまった。こののち秋帆邸跡は城谷という人物が一括で購入したが、寺田氏に転売され、寺田氏は「雨声楼」跡地に建てた平家の家に住んでいた。この間にも石倉は外観も含め改造を繰り返していた。

さて、宮田氏が何に対して怒っていたのかですが、宮田氏は長崎市が秋帆邸内に建つ”石倉”を昭和29年度予算で修復した際に、関係書類を製作した長崎市教育委員会と国費補助を出した文化財保護委員会が行った調査内容の杜撰さに怒りを覚えたらしい。
氏曰く、昭和3年に長崎県が出した「長崎県の指定史跡名勝記念物」や長崎市が出した昭和12年に出した「長崎市史 地誌編 名所旧跡部」他、明治・大正・昭和期に出された公の刊行物には、石倉が高島家由来のものと結びつけた文書はなく、それが今回、いきなり石倉が高島家由来のものだとされたことが許せなかったようだ。


当ブログで何度も嘆いているが、公の機関が認めてしまった物事に対して一民間人や個人研究者が訂正を申し出てもそれが(すぐに)取り上げられることはない。たとえば板橋区史が毎年のように改訂されることはありえないことで、新しく編纂されるのは数十年に一度しかない。その数十年に一度の時に適切な方法で訴えるしかチャンスはないのだ。権威に対抗するのは大変なことだけれど、権威と呼ばれる機関でも別に独善で物事を決めているわけではなく、それぞれの専門家がいろいろな角度から研究した結果を会議で話し合い、意見がまとめられて結論に集約されるのだ。ようするにきちんとした手段を経て結論に至っているので、それを市井の研究者が覆すのは難しいのだ。

まあそれでも隙はあるもので、特に近現代史にその傾向は多い。これが、歴史は乾いてからでなくては歴史にならないことの所以なんですね。


ここでまた、冒頭の石倉解説板を見ていただこう。設置は平成17年(2005年)3月となっている。宮田氏が怒りの冊子を出してから50年の時が経っている。が、解説板には相変わらず「高島秋帆の硝煙蔵あるいは倉庫だったと言われています。」とある。
権威に認められるのは、大変なことなんだなあとつくづく考えさせられますネ。

宮田氏の冊子の中に、「雨声楼」が取り壊された時の状況を記した記録が残っていることが書かれていた。これはぜひ見たいのだが、気がついたのは赤塚郷に戻ってきてからだった。また近いうちに長崎に行かなくてはならないのだろうか‥軍艦島にも上陸できなかったしなぁ。。

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