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板橋区と信州上田藩。

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 晴天は今日までで今夜から大荒れらしいとの由。

いよいよ先週から大河ドラマ「真田丸」が始まりました。ご存知、戦国武将の真田家の物語だ。一昨年放映の「軍師 官兵衛」の黒田官兵衛よりも世間の認知度は高く、地元である上田市や松代市は大変な盛り上がりを見せている。

さて、皆様方もご承知のことと思いますが、当ブログは全てにおいて板橋区と関連付けることを命題としてます。
うむ、今回はどうやって「真田丸」と板橋区をこじつけるとしようか‥


‥と、前回の前振りをそっくりパクリましたが今回こじつけるのは長野県の上田市、真田家の本拠地ですね。

本日の写真、なんだかわかりますか?
これはですね、高島秋帆先生が創設した日本で初めての西洋流砲術である高島流砲術伝書の免許状です。8巻本から成る高島流鉄砲書の一つで、掲載のものは高島流の奥義について書かれたものです。内容はぶっちゃけていうと、大量に人を殺す兵器なんで取り扱いにはよくよく留意せよ、なんて西洋流の心構えを説いている。

この免許状は、高島流開基・高島四郎太夫茂敦(秋帆)から奥義を伝授された村上財右衛門範致がさらに八木剛助に伝授しそれを濱田精輔という人物に伝授したものだ。

村上財右衛門範致は幕末の田原藩の家老職だった人物で、もともと身分の低い代官職の家に生まれたが、非常に優秀で天保3年(1832年)、江戸家老であった渡辺崋山の目に留まり、薫陶と引き立てを受けるようになる。範致は蘭学の勉強に勤しみ銃砲術に強い関心を抱くようになり、江戸在府中に幕臣の江川英龍や下曽根金三郎の知遇を受け、ともに砲術の研究をするようになった。その中で、優れた西洋流砲術家として高島秋帆の存在を知り門下生となった。そして天保12年、徳丸原で行われた調練に銃士として参加したのである。

師である秋帆先生が天保13年に反蘭学派の讒言により捕縛され、家財全てを没収され蟄居の身となってからは範致の砲術を知った諸藩の藩士が田原の範致邸を訪れ、彼に師事した。範致の残した門人帳によると、田原で村上の門下に入った他藩士はおよそ40人、所属藩は12藩となっている。そのうちの一人が、上田藩士の八木剛助だったのだ。

八木剛助についての詳しい記録はないけれど、上田藩の兵制の洋式化を進め、藩主 松平忠優を支えた第一の功臣とされている。この免状によって、上田藩でも高島流砲術が取り入れられていたことがわかりますね。
残念ながら、八木剛助が免状を与えた濱田精輔については現時点ではどこの藩の所属なのかもわかりません。

八木剛助が師事した村上範致は、文久2年(1862年)に幕府から講武所の高島流砲術の世話役に請われて就任し、江戸に出て幕臣や各藩の藩士に砲術を指南した。江川担庵らの尽力によって嘉永6年(1853年)に赦免された秋帆先生は、安政2年(1855年)に幕府講武所の砲術教示方に取り立てられていました。

幕末に板橋区高島平で行われた高島流による西洋砲術調練は、衝撃的な出来事として全国各地に伝播され、後の維新において分裂する幕府側にも官軍側にも多大な影響を与えたということは歴史上の事実であり、徳丸原に轟いた砲声は明治維新始まりへの号砲になったとも言われるのである。

ということで、我が板橋区の誇る西洋流火術鉄砲隊保存会が上田市で鉄砲演武を披露する機会がいつかあるかもしれないですね。

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