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2016年1月

☆板橋区民のリッチな正月。2016年新春☆

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 当ブログを訪問していただいた皆様方、新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくご支援のほど、お願い申し上げます。
昨年大晦日夕方より本日2日までほとんど飲み続け、チョット昼寝をして正気?に戻った隙をついて書いております。。


‥板橋区民は生ハムが好きである。ずいぶん昔だけれど、生ハムは流通が厳しく制限されていて家庭で気楽に食べられる物ではなかった。しかし現在、それもつい最近になって生ハム食べ放題を売りにする気楽な店が増えてきた。(下赤塚駅横のフレッシュネスバーガーでもやっていた気がする)
ただ、スーパーで生ハムを求めると量は少ないは値段は高い(種類によるけど)はであまり満足できる状況ではない。そこで、思い切って原木(生ハムの足一本分をそう呼ぶ)を購入し、年末年始は存分にいただこうと計画したのである。

生ハム原木は個人輸入が出来ない(関税を通すのが難しい)ので、業者から購入するしかないのだが、イタリア産でもスペイン産でもネット通販で気楽に注文できる。3年貯蔵で10万円近くする最高級のスペイン・イベリコ豚から1万円くらいまでいろいろ種類があるが、今回は初めてなので量が少なめのイタリア産の1万円台4キロクラスの原木を購入した。

原木を処理するにはいろいろ儀式が必要だが、食べる3日前くらいから処理台に乗せ室温に慣らす。とにかくでかいので冷蔵庫に入れておくのは大変だ。小さいやつにしておいて正解だった。
原木は真空パックに入っているが出してみると予想以上に脂まみれで、また肉にも脂肪がたっぷりついており切り出すのに結構苦労した。天ぷらを揚げるとき、揚げる人は油の香りで食欲が減退するのだが、あこがれの生ハム原木も、最初の切り出しのときの豚の脂の匂いで食欲が減退してしまうと言う現実を知ってしまった。。肝心の肉の部分も相当に切れるナイフでなければ綺麗に薄く切ることができない。少しでも厚いと食感が悪く、脂っぽくて美味しく感じなくなることも初めて知った。

それでも、薄い部分を北海道産の甘めのスライス玉ねぎを添えて食べるとやっぱり美味しい。それに原木から切り出して食べていると、なんだか原始人になったようで、ワイルドで楽しい。
お酒もいろんな種類を用意したし、とにかく3日まではダラダラして過ごそう‥


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板橋区民は草津が好き。




そんなことで板橋区民はいま草津温泉郷にいる。

大晦日から正月にかけ生ハムと酒に溺れ自堕落な日々を過ごしこのままでは社会復帰が出来ない、取り敢えず温泉で湯治して酒を抜こうとはるばる草津までやってきた‥なんて少し大げさかな。

実は正月あけに温泉へ遠出するのはいつものことで、ここ数年は草津と万座を交互に訪れている。

何度も書いているけど板橋区民は温泉が好きで、特に濃い硫化水素臭のする白濁の硫黄泉を愛している。
その点では万座がパーフェクトだが、草津は温泉街としてはパーフェクトで昨年末に発表されたプロ旅行社の選んだ温泉地で数年連続して1番に選ばれている。

草津の街のど真ん中に溢れる湯畑は圧倒的な存在感を放っていてまさにザ、温泉だ。
源泉は幾つかあるけど成分は基本、強酸性泉だ。一見無色透明だけどオーバーに表現するとピリッとくる刺激の強い泉質だ。

今回滞在しているのは庶民の味方、おおるりグループのホテル。なんといっても池袋駅からの送迎バス付きで1泊2食お一人様でも土日でも8,600円と抜群のコストパホーマンスなのだ。ただしご飯はバイキングとは名ばかりの食べ放題の給食といった趣きだけど、まあ交通不便な草津へこの金額なら文句もいえない。。残念ながらおおるりはこの3月から大幅に値上げされるようだけど、バイキングのグレードアップを望むばかりだ。

まあ楽しみ方としてはホテル外の外湯めぐりでいろんな源泉を楽しむことかな。バイキングがいやなら外食したって構わないしね。


さてさて、また温泉に浸かるとしますか‥


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板橋区と真田一族。

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 晴天が続きますね。

いよいよ今夜から大河ドラマ「真田丸」が始まります。ご存知、戦国武将の真田家の物語だ。一昨年放映の「軍師 官兵衛」の黒田官兵衛よりも世間の認知度は高く、地元である上田市や松代市は大変な盛り上がりを見せている。

さて、皆様方もご承知のことと思いますが、当ブログは全てにおいて板橋区と関連付けることを命題としてます。
うむ、今回はどうやって「真田丸」と板橋区をこじつけるとしようか‥

‥実は、すでに5年前に関連記事をUPしてましたね。その当時はまだ所縁の方々が大河ドラマ化の運動をしてはいましたが、放映は決まっておりませんでした。

記事にしたのは、2011年10月に、我が板橋区の誇る西洋流火術鉄砲隊保存会が松代市の招きを得て、「松代藩 真田十万石まつり」に参加したことで、幕末、松代藩士だった佐久間象山が高島流に入門して西洋流砲術を習得したことが縁となりました。

そもそもの繋がりは、掲出の右写真で日の丸の扇子を持って写る方との縁で、お名前は海野さんと言い、信州松代のご出身で、わずかな期間ですが板橋区の郷土資料館で勤務をしておられたこともあります。
海野さんは、なんと松代藩の家老格の家柄の方。もともと真田家は、海野家から出ている家系なんですね。そして、戊辰戦争の折にはこんなエピソードがありました。

「北越戊辰戦争・長岡奪還戦にて、河井継之助が率いる長岡藩兵は、八丁沖を渡河して長岡城下へ攻撃を開始しました。長岡の本営で睡眠していた山県有朋は軍監・福田侠平に起こされ、そこで初めて異常を知らされました。前原一誠は、今町方面の薩摩藩兵が攻撃を開始したのだと勘違いしました。しかし、一時の混乱から立ち直ると、長州藩奇兵隊一番隊と八番隊に反撃を命じました。八丁沖東部戦線の亀崎陣地を守っていた松代藩兵は、長岡城の急報を知ると、極楽寺の本営を目指して松代藩六番狙撃隊と八番狙撃隊が急行し、長岡藩兵に挑みました。しかし、地理を知り尽くしてる長岡藩兵相手では防ぐ事が出来ず、六番狙撃隊長の海野寛男を始め多くの戦死者を出して敗走しました。」

この、戦死をした六番狙撃隊長の海野寛男こそ、海野さんのご先祖だったのです。2011年のまつりの際には、ご先祖様が戦死をした時に身につけていた陣羽織を羽織っての参加でした。

真ん中の写真は、真田家現当主の14代・真田幸俊氏。真田信幸家は江戸時代2回養子を迎えており、幕末最後の藩主も宇和島藩伊達家から養子に入っている。ご当主は現在、慶応大学理工学部の教授をしておられるそうで、毎年必ず真田十万石まつりに参加されている。

真田十万石まつりでは、「松代甲冑隊」が中心となって武者行列が行われてますが、この甲冑隊が着用している紙鎧の作り方を伝授したのが、我が板橋区の「赤塚城戦国武者行列」だ。たしか海野さんの要請により松代市の方々が板橋区に来て教わっていた記憶があります。「赤塚城戦国武者行列」は昨年、正式な板橋区の文化団体「いたばし武者行列保存会」として発足し、活動は今年で10年目となります。


まっ、そんなことで大分無理やりですが、板橋区と真田一族の関わりをわかっていただけたかと思います。今夜8時からの大河ドラマ「真田丸」を楽しみにしましょう!

‥とオチを書いた後ですが思い出したことがあります。2011年の「真田十万石まつり」の翌年、板橋区立郷土資料館では「当世具足~ 大名とその家臣団の備え」という特別展が開催されました。その特別展に、将軍徳川宗家第18代当主、徳川恒孝氏が見学に来られたそうです。その帰り道のこと、当時の資料館の館長氏が、なんと自分のお気に入りであった下赤塚の「餃子の満洲」(旧店舗)に徳川宗家をお連れしたとの事、う〜んそれならば是非ご相伴させていただきたかった。‥満洲の餃子を食される徳川将軍家、いいなあ‥。そういえば、日本で最初にラーメンを食べたのは徳川光圀公である、なんて伝説もありましたっけ。。

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板橋区と信州上田藩。

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 晴天は今日までで今夜から大荒れらしいとの由。

いよいよ先週から大河ドラマ「真田丸」が始まりました。ご存知、戦国武将の真田家の物語だ。一昨年放映の「軍師 官兵衛」の黒田官兵衛よりも世間の認知度は高く、地元である上田市や松代市は大変な盛り上がりを見せている。

さて、皆様方もご承知のことと思いますが、当ブログは全てにおいて板橋区と関連付けることを命題としてます。
うむ、今回はどうやって「真田丸」と板橋区をこじつけるとしようか‥


‥と、前回の前振りをそっくりパクリましたが今回こじつけるのは長野県の上田市、真田家の本拠地ですね。

本日の写真、なんだかわかりますか?
これはですね、高島秋帆先生が創設した日本で初めての西洋流砲術である高島流砲術伝書の免許状です。8巻本から成る高島流鉄砲書の一つで、掲載のものは高島流の奥義について書かれたものです。内容はぶっちゃけていうと、大量に人を殺す兵器なんで取り扱いにはよくよく留意せよ、なんて西洋流の心構えを説いている。

この免許状は、高島流開基・高島四郎太夫茂敦(秋帆)から奥義を伝授された村上財右衛門範致がさらに八木剛助に伝授しそれを濱田精輔という人物に伝授したものだ。

村上財右衛門範致は幕末の田原藩の家老職だった人物で、もともと身分の低い代官職の家に生まれたが、非常に優秀で天保3年(1832年)、江戸家老であった渡辺崋山の目に留まり、薫陶と引き立てを受けるようになる。範致は蘭学の勉強に勤しみ銃砲術に強い関心を抱くようになり、江戸在府中に幕臣の江川英龍や下曽根金三郎の知遇を受け、ともに砲術の研究をするようになった。その中で、優れた西洋流砲術家として高島秋帆の存在を知り門下生となった。そして天保12年、徳丸原で行われた調練に銃士として参加したのである。

師である秋帆先生が天保13年に反蘭学派の讒言により捕縛され、家財全てを没収され蟄居の身となってからは範致の砲術を知った諸藩の藩士が田原の範致邸を訪れ、彼に師事した。範致の残した門人帳によると、田原で村上の門下に入った他藩士はおよそ40人、所属藩は12藩となっている。そのうちの一人が、上田藩士の八木剛助だったのだ。

八木剛助についての詳しい記録はないけれど、上田藩の兵制の洋式化を進め、藩主 松平忠優を支えた第一の功臣とされている。この免状によって、上田藩でも高島流砲術が取り入れられていたことがわかりますね。
残念ながら、八木剛助が免状を与えた濱田精輔については現時点ではどこの藩の所属なのかもわかりません。

八木剛助が師事した村上範致は、文久2年(1862年)に幕府から講武所の高島流砲術の世話役に請われて就任し、江戸に出て幕臣や各藩の藩士に砲術を指南した。江川担庵らの尽力によって嘉永6年(1853年)に赦免された秋帆先生は、安政2年(1855年)に幕府講武所の砲術教示方に取り立てられていました。

幕末に板橋区高島平で行われた高島流による西洋砲術調練は、衝撃的な出来事として全国各地に伝播され、後の維新において分裂する幕府側にも官軍側にも多大な影響を与えたということは歴史上の事実であり、徳丸原に轟いた砲声は明治維新始まりへの号砲になったとも言われるのである。

ということで、我が板橋区の誇る西洋流火術鉄砲隊保存会が上田市で鉄砲演武を披露する機会がいつかあるかもしれないですね。

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板橋区とSMAP。

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うん。わかっている。
ここのところマスコミを騒がせているアイドルグループ・SMAPの解散騒動に便乗し、ブログへのアクセス数を稼ごうという姑息な記事を書こうとしていることを。


ジャニーズ事務所所属のアイドルグループ・SMAPについてはあまりに有名ですね。そのメンバーの一人、稲垣吾郎クンが我が板橋区の高島平出身ということも知られていることだと思います。

当ブログでもちょくちょく触れてきたけれど、改めてまとめてみますが稲垣吾郎クンが生まれたのは1973年12月8日のこと。稲垣姓は我が赤塚郷の旧家に見られる姓であるが、ご両親の情報がないので旧家出身であるのかどうかは推測の域を出なかった。ところが、最近になって一昨年まで板橋区の教育長をされていたBさんという成増の重鎮の方とお会いした時に伺ってみたところ、「ああ、稲垣吾郎の伯父さんとは同級生だったよ。」なんてことを聞き、この疑問はあっさり解決した。

おそらく、稲垣クンの両親は結婚を機に、1972年、お父さんの実家に近くに新しく誕生した高島平の団地に住居を求め、そこで吾郎クンが生まれたのだろう。小学生の頃に引っ越してきた山田邦子さんとは違い、吾郎クンは生粋の赤塚郷DNAを持った赤塚郷っ子なのだ。

現在は、残念というか当然ながら高島平にお住まいではなく、ご両親も志村の城山にそびえる高級マンションにお住まいであると、十数年前の写真週刊誌の記事で読んだ記憶がある。渋谷で駐車違反をし、取り調べを無視して車を発進させたところ婦警に接触させ現行犯逮捕され、その後5ヶ月間謹慎していたのがそのマンションだったらしい。

とんねるずの石橋貴明と絡んだ時は、よくジモピー話をしていたりするので面白いけど、東上線エリアが縄張りの石橋氏とではあまり共通点はないようだ。SMAP結成当時のまだ売れていなかった時代はキムタク始めメンバーがよく高島平に遊びに来ていたらしい。いつだったかは高島秋帆についての話をしていて、吾郎クンは出身の小学校の校章が高島家の家紋だったとかなんとか言っていたっけ。


しかし今回の騒動、ファンの方には申し訳ないけど、板橋区民としては、いつか板橋区民まつりなどで吾郎クンが高島秋帆先生の装束を着てパレードかなんかしてもらえればいいなあ、そしたら盛り上がるのになあ‥なんて妄想していますが、ジャニーズのしかもSMAPの身分ではそんなことは夢のまた夢の話で、解散が回避されたのはグッドニュースかもしれないけれど、(ほんの)ちょっと残念な気がしてしまいますね。。

あっ、ちなみに冒頭の写真は35年くらい前に撮影した高島平の団地っ子の写真で、おそらく当時の稲垣吾郎クンはこんな感じだったのかなあという参考写真です。それにしてもこの時代、チャンバラなんて流行ってたのだろうか??

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伝説の人、怒る。

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 いや〜〜〜寒いっス。


そんな寒さの中、板橋区民はときわ台で行われたある会合から帰ってきた。
そこで、久しぶりに伝説の方とお会いした。

伝説の主人は、自転車ビルダーの神と謳われたフレームビルダー・梶原利夫氏である。

会うなり一言。「あんたがネットに書いたせいで騒がしくてしょうがないんだ。」

そう、何年か前に梶原さんの工房を訪ねた記事をUPすると、熱狂的なファンの方の目に止まり、それが
元で業界紙に知られることとなり、取材攻勢を受けるはめになってしまったのだ。

梶原さんは、1964年の東京オリンピックで競技自転車の美しさと強さに惚れ込み、日本人初参戦となったメキシコオリンピックで日本人競技者のための自転車を製作、その後はヨーロッパでコガ・ミヤタ車のビルダーとして名を馳せたが、1980年代にビルダー業界から忽然と姿を消し、伝説として語られる存在となった。

‥と言っても、現在も競技用自転車の部品を作りつづけておられるので、引退したわけではない。


昨夜、ブラタモリの後番組で「超絶 凄(すご)ワザ!「ゆっくりでも倒れずまっすぐ進む自転車対決」という番組が放送された。前編後編に分かれての放送で、来週分後編の内容はこうだ。

「起こせ自転車レボリューション!ゆっくりでも倒れずに走る自転車、いよいよ対決です。挑むのは50年の歴史を持つ自転車職人と、最先端のロボット制御技術を武器にする研究者。幅50センチ、長さ50メートルの細長~い一本道を、ハンドル操作をせず、漕(こ)がずに、渡りきることはできるのか!自転車一筋に生きてきた職人の思いと、安全を願いロボット制御の道を志した研究者の魂が、奇跡を起こす!?」

簡単に言えば、ゆっくりでも倒れずに走る自転車を、熟練の自転車ビルダーと科学の力で作った自転車とを対決させる、という内容だ。

会合後、梶原さんに昨夜の番組を見ましたか?とお聞きすると、こんなお答えが返ってきた。

「あんな原理はね、もう何年も前に科学的に計算して答えはわかってるんだよ。昔、村田製作所のロボットがさ、自転車乗ってたCMがあったろ?あれもその一つだよ」

なのである。

あっ、伝説の人が怒ったのはそんなことじゃなく、ちょっと前に、西ヶ丘の知り合いの自転車屋で話し込んでいる隙に、店の前に止めておいた愛車を盗まれてしまったことである。あの、伝説のビルダーが自作した自転車が盗まれてしまったのだ!
おそらく盗んだ相手は、それがマニアからすれば垂涎の品とは知らないだろう。

毎日自転車に乗っている梶原さんは困ってしまい、慌てて工房にある部品でまた作り直したのが写真の自転車だ。タイヤの直径が極端に小さいけど、年寄りにはこれが一番なのだそうである。

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さらば、「東武練馬駅」名。

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なんとなく春に近づいているように感じますね。


昨日1月27日より、我がふるさと最寄駅「東武練馬駅」の名称が変わった。

‥そうだよね、もともと”練馬”とか付けられてもピンとこないし、接してるのは北町だしね。。

と思う方がいても不思議じゃあない。ではなぜ練馬なんて名称が付けられたかというと、もともと練馬北町は川越街道の下練馬宿だったからだ。ちなみに練馬宿も上練馬宿も中練馬宿も存在していない。あったのは練馬村で、そこを通る武蔵野鉄道(西武池袋線)が練馬駅を名乗ったので、それに対抗して東武練馬駅と命名したのだ。


いつもの通りおおげさにタイトルをつけたけれど、正確には駅名に「副駅名称」が加えられるようになっただけだ。

東武東上線管内では、東武練馬駅のほか、高坂駅では「大東文化大学東松山キャンパス前」と、それぞれ同駅が最寄りの大東文化大学を副駅名称として採用。2月1日からは東上線の霞ヶ関駅で「東京国際大学前」と表示される。他にも6駅を対象に副駅名称権を販売していて、対象は今後増やすそうだ。
東武鉄道によれば「最寄り駅であることを分かりやすくするとともに、地域と当社の鉄道路線がより多くのお客様に親しまれることが目的」という。

なんだかカッコつけているようだけど、理由はもちろん広告収入を得るためですかね。国際興業のバスは昔からバス停名称や車内放送に広告を入れていたけど、鉄道会社は車両本体や駅名に広告をつけるようになったのはわりと最近からのような感じがします。小泉内閣時代に大幅な規制緩和が奨励されるようになってから多く見られるようになったのかな。
基本的には大学名とか地域のランドマーク的な名称でなければ認められないようで、パチンコ屋の名前とかは副駅名には使われないでしょう。それがせめてものプライドなんでしょうか。。


モノクロの写真は1979年に撮影したもので、”ぶらんで〜とTO-B”は1971年ころに東武デパートが大幅に改装された時のキャッチフレーズだったと記憶しているので、それ以降の形式と思います。以前はおそらく白いペンキで塗られた木製の駅名版だったかなあ。。

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