« 板橋区民、チョー地モピーな思い出を語る。 | トップページ | ☆終戦70周年紀年☆〜衝撃!!まる裸の板橋区。〜 »

板橋区民は、悲しい‥

PhotoPhoto_2Photo_3

  まったく実感がわかないが師走である。
それでも、新年の挨拶を控える旨の喪中ハガキが届き始めるので、やはり年の瀬を感じたりする。自分の年齢が親世代がこの世を去る時期にさしかかってからは、喪中ハガキも多くなる。それが今年はとくに多いようだ。

そろそろ住所録の整理でもと思い、届いた喪中ハガキを見ていると、元47戦隊・旭隊に所属していた野田博寿少尉逝去の喪中ハガキが混ざっているのに気がついた。なんということだ。。しかもお亡くなりになったのは今年の1月14日であった。

それなりのご高齢に達すると、”自分仕舞い”、はやりの言葉でいうと”終活”を始められる方がいて、中元歳暮や年賀状などのやりとりを取りやめにする宣言を出される方がおられる。私の知る元47戦隊の方々もそうされる方が多く、現在どうされているかの情報は無いに等しい。
ただし、野田少尉からは年賀状が届いていた。野田少尉は、ハガキに必ず47戦隊の尾翼マークを書き添えるのだが、今年は印刷ハガキのみだったのが気にかかってはいたのだが‥

野田少尉にお会いしてインタビューをしてから、もう10年になる。記憶のみで書くので怪しいが、確か愛知県の明治村へ行く電車の沿線にお宅があった。まわりは田んぼだらけだったような気がする。名古屋弁でとつとつと語る姿が印象に残っている。
詳しいプロフィールの書類がHDDのどこかへ潜り込んでしまい割愛させていただくが、享年91歳ということで終戦時はおそらく22歳。47戦隊の将校空中勤務者の中では最年少であったので、「自分は一番下っ端だから」と戦果を誇ることはなかった。

インタビューの最中もっとも詳しく語っておられたのが、部隊が都城に移動し、振武隊の援護任務中に起こったグラマンによる奇襲攻撃の体験談だった。このことについては、以前、記事にしたことがあるので、再掲する。

『昭和20年6月21日、都城東飛行場から出撃する、第26振武隊の4式戦4機 (出撃は7機、うち3機は事故不時着)の掩護任務の命令が下りました。夕刻、47戦隊の第一中隊が都城西飛行場を出発、第二中隊が上空を直掩した。16時30分に出撃した26振武隊と合流し、途中敵機との遭遇もなく、予定通り徳之島西方約65キロの地点で特攻機を見送り、第一中隊は基地への帰途についたのです。
 
しかし、悲劇は突然起りました。帰途に就いた第一中隊は、奄美大島西方約20キロの地点で、突然上空からグラマンの奇襲を受け、中原逸郎大尉(航士56期)、河井吉夫少尉(特操1期)、山崎昌三軍曹(少飛12期)の3機が瞬く間に撃墜されてしまったのです。この任務についていた野田少尉から、当時の状況をお聞きしたことがあります。

「任務が終わって、やれやれ飯でも喰うかと操縦席に置いていた弁当に手を伸ばしたとき、目の上でキラッと光ったのが見えたんです。あっと思って下を見ると、もう3機が落ちて行く所だったんです。自分も敵機に後ろをつかれ、必死で回避しましたよ。もうね、青い煙を曳きながらロケット弾が飛んでくる。敵機を見極めようとしきりに後ろを振り返るでしょ、そうすると垂直尾翼を動かす方向舵のフットバーから足がちょっと離れる。そうすると機体が横に滑るんですよ。それで助かった。あわてて雲の中に入り、ようやく基地に帰り着いたというわけですね。他の機も同じような状況でした。」

さて、犠牲を出しながら47戦隊が掩護した第26振武隊はその後どうなったのでしょうか‥。
日本軍は、沖縄特攻隊の戦果については、特攻機から発信される、か細い無線信号で受信するのみでしたから、突入はわかっても戦果までわかりません。米軍調査結果によると、この日、該当する米海軍被害は以下の通り。

1842:水上機母艦カーティスに命中、同艦炎上大破、62名死傷
1842:水上機母艦ケネス・ワインディング小破
1843:護衛駆逐艦ハロラン小破
1845:中型揚陸艦59号小破、および同艦が曳航中の駆逐艦バリ沈没 (過去の特攻攻撃により大破していた)

なんと4機で米軍5隻に損害を与える大戦果を上げていたのです。もうこの頃は、沖縄が陥落する数日前で(6月23日・日本軍の組織的戦闘が終わったと判断された日)、米軍は、日本軍特攻機に備え、多数のピケット艦(レーダーを備えた艦)を配備し、ほぼ完璧な防御態勢を敷いていたので、相当な衝撃を与えた出来事でした。』


野田少尉は、語ることは少なかったけれど、ほとんどの作戦任務に出撃していた優秀な方だった。特攻隊の選出については反対していて、「俺は、どうせ死ぬんなら戦闘をして死にたいと思った。」とおっしゃっていた。

ただただ残念である。。合掌。

|

« 板橋区民、チョー地モピーな思い出を語る。 | トップページ | ☆終戦70周年紀年☆〜衝撃!!まる裸の板橋区。〜 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 板橋区民は、悲しい‥:

« 板橋区民、チョー地モピーな思い出を語る。 | トップページ | ☆終戦70周年紀年☆〜衝撃!!まる裸の板橋区。〜 »