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2015年12月

板橋区民は、悲しい‥

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  まったく実感がわかないが師走である。
それでも、新年の挨拶を控える旨の喪中ハガキが届き始めるので、やはり年の瀬を感じたりする。自分の年齢が親世代がこの世を去る時期にさしかかってからは、喪中ハガキも多くなる。それが今年はとくに多いようだ。

そろそろ住所録の整理でもと思い、届いた喪中ハガキを見ていると、元47戦隊・旭隊に所属していた野田博寿少尉逝去の喪中ハガキが混ざっているのに気がついた。なんということだ。。しかもお亡くなりになったのは今年の1月14日であった。

それなりのご高齢に達すると、”自分仕舞い”、はやりの言葉でいうと”終活”を始められる方がいて、中元歳暮や年賀状などのやりとりを取りやめにする宣言を出される方がおられる。私の知る元47戦隊の方々もそうされる方が多く、現在どうされているかの情報は無いに等しい。
ただし、野田少尉からは年賀状が届いていた。野田少尉は、ハガキに必ず47戦隊の尾翼マークを書き添えるのだが、今年は印刷ハガキのみだったのが気にかかってはいたのだが‥

野田少尉にお会いしてインタビューをしてから、もう10年になる。記憶のみで書くので怪しいが、確か愛知県の明治村へ行く電車の沿線にお宅があった。まわりは田んぼだらけだったような気がする。名古屋弁でとつとつと語る姿が印象に残っている。
詳しいプロフィールの書類がHDDのどこかへ潜り込んでしまい割愛させていただくが、享年91歳ということで終戦時はおそらく22歳。47戦隊の将校空中勤務者の中では最年少であったので、「自分は一番下っ端だから」と戦果を誇ることはなかった。

インタビューの最中もっとも詳しく語っておられたのが、部隊が都城に移動し、振武隊の援護任務中に起こったグラマンによる奇襲攻撃の体験談だった。このことについては、以前、記事にしたことがあるので、再掲する。

『昭和20年6月21日、都城東飛行場から出撃する、第26振武隊の4式戦4機 (出撃は7機、うち3機は事故不時着)の掩護任務の命令が下りました。夕刻、47戦隊の第一中隊が都城西飛行場を出発、第二中隊が上空を直掩した。16時30分に出撃した26振武隊と合流し、途中敵機との遭遇もなく、予定通り徳之島西方約65キロの地点で特攻機を見送り、第一中隊は基地への帰途についたのです。
 
しかし、悲劇は突然起りました。帰途に就いた第一中隊は、奄美大島西方約20キロの地点で、突然上空からグラマンの奇襲を受け、中原逸郎大尉(航士56期)、河井吉夫少尉(特操1期)、山崎昌三軍曹(少飛12期)の3機が瞬く間に撃墜されてしまったのです。この任務についていた野田少尉から、当時の状況をお聞きしたことがあります。

「任務が終わって、やれやれ飯でも喰うかと操縦席に置いていた弁当に手を伸ばしたとき、目の上でキラッと光ったのが見えたんです。あっと思って下を見ると、もう3機が落ちて行く所だったんです。自分も敵機に後ろをつかれ、必死で回避しましたよ。もうね、青い煙を曳きながらロケット弾が飛んでくる。敵機を見極めようとしきりに後ろを振り返るでしょ、そうすると垂直尾翼を動かす方向舵のフットバーから足がちょっと離れる。そうすると機体が横に滑るんですよ。それで助かった。あわてて雲の中に入り、ようやく基地に帰り着いたというわけですね。他の機も同じような状況でした。」

さて、犠牲を出しながら47戦隊が掩護した第26振武隊はその後どうなったのでしょうか‥。
日本軍は、沖縄特攻隊の戦果については、特攻機から発信される、か細い無線信号で受信するのみでしたから、突入はわかっても戦果までわかりません。米軍調査結果によると、この日、該当する米海軍被害は以下の通り。

1842:水上機母艦カーティスに命中、同艦炎上大破、62名死傷
1842:水上機母艦ケネス・ワインディング小破
1843:護衛駆逐艦ハロラン小破
1845:中型揚陸艦59号小破、および同艦が曳航中の駆逐艦バリ沈没 (過去の特攻攻撃により大破していた)

なんと4機で米軍5隻に損害を与える大戦果を上げていたのです。もうこの頃は、沖縄が陥落する数日前で(6月23日・日本軍の組織的戦闘が終わったと判断された日)、米軍は、日本軍特攻機に備え、多数のピケット艦(レーダーを備えた艦)を配備し、ほぼ完璧な防御態勢を敷いていたので、相当な衝撃を与えた出来事でした。』


野田少尉は、語ることは少なかったけれど、ほとんどの作戦任務に出撃していた優秀な方だった。特攻隊の選出については反対していて、「俺は、どうせ死ぬんなら戦闘をして死にたいと思った。」とおっしゃっていた。

ただただ残念である。。合掌。

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☆終戦70周年紀年☆〜衝撃!!まる裸の板橋区。〜

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 もう世間では忘れられているかもしれないが、今年は終戦から70年目の年である。また本日は、アメリカに宣戦布告を行ない、日本海軍の空母艦載機がハワイの真珠湾基地を奇襲した日でもある。

先日もお伝えしましたが、今年1月、成増陸軍飛行場を根拠とする飛行第47戦隊・第1中隊旭隊に所属していた元空中勤務者の野田少尉が逝去された。
戦時中に現役兵士として第一線で戦っていた方々も、平均寿命をはるかに越えた90歳前後の年齢となり、幽冥界へ去られる方が多くなってしまった。もう当時の話をお聞きできないのは、非常に寂しいことだ。


今年は10年区切りの紀年なので年明けから重い腰を上げ、板橋区民アウェイの地である麻布の外交資料館に出かけ、所蔵されているマイクロフィルム群の中から、長年の謎であった進駐軍の成増飛行場への進駐時期を特定する書類を発掘できた。夏には練馬区で講演もしたし、周年らしい年を送れたかなと思っていた。

さて、年の瀬を迎えようとするこの時期、何と、何と、何と、ななんと、‥私にとってはスーパーベストに欲しかった資料を手に入れることができた。

そのお宝とは、1945年1月9日にB29の写真偵察機から撮影した空中写真を元に作成された情報入り偵察地図(しかも板橋区域!)だ。

昭和20年1月9日は、成増飛行場上空で47戦隊選出の震天制空隊員・幸軍曹がB29に体当たり散華し、銚子沖では47戦隊の至宝、粟村准尉がB29の後部胴体に喰らい付き、パラシュートで脱出するも大海原に消えてしまった日であった。そんな日に、憎き米帝は悠々とこんな鮮明な空中写真を帝都の広範囲にわたり撮影していたのである。
(注:その後の調べで1月9日はこの地図の作成日で、撮影は前年の昭和19年12月28日の可能性が高いとわかった。2016年1月記)

このB29偵察機による一連の空中写真は、国土地理院のHPで閲覧でき、購入することもできる。今年2月には写真集も発売された。ただし、現存するもの全てが公開されているわけではなく、私が米国立公文書館で確認した写真はもっとたくさんあった。

しかしである。この度入手した地図は、本来一枚一枚バラバラである写真を繋げ、それらに詳細な情報が書き込まれた地図なのである。実は、この前年に撮られた写真で作成されたモノはすでに手に入れていて、一度、当ブログで公開している(確か、ターゲットは成増飛行場、というお題だったかな)。今回入手したのは、それよりもはるかに情報量が多く、描かれた情報は概ね正確だ。1944年版は成増飛行場が「TAKAMATSUCYO AIRFIELD」と表記されていたが、今回のは「NARIMASU AIRFIELD」となっている。
掲出の地図は、大まかに東西が上野不忍池から朝霞まで、南北が新宿の淀橋浄水場(現在の都庁あたり)から新河岸川くらいまでの範囲をカバーしている。

この地図、詳細に検討してゆくと非常に面白いのだけれど、それはこれから徐々に行うので今回はさわりだけの公開でお許しを。(もったいぶんな!とお怒りかもしれませんが当方老眼も進み‥てなワケもありまして。。)

戦時中の空襲に関する資料はいろいろ見てきたつもりだけれど、これほど情報の入った地図は見たことがない。戦時中の板橋区域は別として、他の日本各地の地域でもこうした地図は見た記憶がない。
当然目的は、空襲で使用することを前提にしているのであろうが、それを示すのが、縦横に描きこまれている「High Tension Lines」だ。日本語にすると高圧送電線。B29などの大型爆撃機にはあまり関係ないけれど、低空からの機銃掃射を目的とした攻撃機にとって高圧送電線は天敵だ。パイロットにとってその情報は必須なのである。

関東各地に初めて米艦載機が襲来したのは昭和20年2月16日である。19日から始まる硫黄島上陸作戦に呼応し、日本軍機の攻撃を封じるために計画された作戦だ。沖縄方面に出動していた空母群も集結し、一斉に関東地区の日本陸海軍基地を襲撃したのである。当然、成増飛行場もターゲットにされていて、当日は何度も攻撃を受けている。


いや〜、あらためてアメリカの巨大な力を感じる地図ですね。欧州ではドイツと戦いながら、太平洋では日本軍と戦い、かつ絶対防衛圏を突破し、日本上陸を目指し東京をまる裸にした詳細な地図まで作成していたんじゃあ、こりゃもう戦争に負けるワケだとつくづく思い知らされますね。。

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板橋区民、ホットなスポットへ行く。

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 日々、年末に近づいておりますが気温が高いせいでしょうかまるで実感がわかない。。

それでも新年をさっぱりした頭で迎えるため、散髪に行ってきました。いくつか前の記事で書きましたが、板橋区民は昔馴染みのカリスマ美容師の店に通っているので、この時ばかりはアウェイの地、渋谷ー青山ー原宿のコースを歩くことにしている。この界隈も昔から知っているけれど、土地が有名で栄えているぶん換金性が高いのか建物や店の移り変わりが激しい。

散髪の際の会話で、前回、店を出たあと表参道を歩いていたら、目の前を歩く兄ちゃんがクリームシチューの有田だった、なんてことを話すと、”昨日、昼メシで塩ラーメンが食べたくなって店行ったらカウンターで矢沢永ちゃんが一人でラーメン食べてましたよ”と返された。さすが青山、芸能人が普通にいますね。我が赤塚郷で芸能人を見かけるのはテレビのロケぐらいですから。


ええっと、今回お題のホットなスポットは都会の青山界隈の話じゃなくって、板橋区の「前野町」だ。
ここ最近、狭い範囲にイオンスタイル前野町店やカスミやジョーシンやしまむらなどの店舗が入った複合施設、リニューアルのため一ヶ月間休業していたさやの湯の再オープンが重なり、周辺は大混雑しカオス状態だと言う。ここら一帯は谷間の低地で民家が少なく、大きな工場の立ち並ぶ場所という印象があるけど、そんなものは昭和の風景となってしまったようだ。

イオンスタイル前野町店は、以前、イズミヤが20年以上営業していた。あまり馴染みのないチェーンだったので、1階のマックしか利用したことはなかった。対面にある前野原温泉・さやの湯処は、ちょうど10年くらい前にオープンしかのかな。今回のリニューアルは配管設備の更新が主なようで、以前、岩盤浴ができたほどの施設変更はなく、高濃度炭酸泉と貸し切り風呂が増えたくらいだった。炭酸泉は、普通の風呂と電気風呂だった浴槽を炭酸浴槽に変更したもので、これは今の流行りを取り入れたのか、ありがたい変更だった。願わくばもう一度ほど湯温を下げてくれたらなあと思う。屋内にあるので、ぬるめの湯でゆっくりと浸かりたいものだ。入浴料も基本830円で値上げもなく嬉しい。

さやの湯は、東京23区内の温泉施設としてト常にトップスリーに入る屈指の人気施設だ。昔は工場が建っていて、対面のイオンもその工場の土地らしい。
オープン直後から数年は今ほど混んではおらず、それがいつからか、マスコミでよく取り上げられるようになり、駐車場も23区内としては広く、満杯だとイズミヤ(イオン)の駐車場も使えるし、入浴料も23区内としては施設の割に1000円以下と安かったので、大人気となってしまったのだ。

以前も語ったが、自分は”癒し”を求めるて温泉に行く。風呂もシャワーも当たり前のように自宅にある時代に、わざわざ外の風呂屋に行くのはそんな理由も多いだろう。
しかし、最初の頃はさやの湯によく通っていたのだが、混雑するようになってからは足が遠のいてしまった。それは、行くたびに不愉快な思いをすることが多くなったからだ。もちろん、さやの湯が悪いのではなく、入浴マナーが自分の感覚に合わない人と一緒になる機会が増えたからだ。あの狭い源泉浴槽の座れる部分に横になって占拠するジジイ。寝湯したいなら寝湯へ移動しろ!と注意すればいいが、そういう輩は指摘された行為より「このオレ様が意見された」ことにブチ切れる。マナーを心得ている人ならば最初からそんな入り方はしないのだ。

自らも、注意をするエネルギーによりすっかり”癒し”の気分が台無しとなるのがイヤだ。これは、ワガママな部類に入るのかもしれないが、さやの湯の洗い場はエコノミークラス並みに間隔が狭く、シャワーヘッドも大きいので横や後ろから他人のシャワーが飛んでくる。ガキど‥いや、お子様たちが無邪気に水を跳ね上げながら走り回るのもかんべんしてくれと思う。湯に浸かり、ふと目をあげると素っ裸でベンチに寝転がり、AVばりのM字開脚をしているジジイが視線の先に映る。オレはアンタの主治医ではない。本人は癒されているんだろうが、「お前はイヌか!」とつっこみたくなる。まえも書いたけど、静かに湯船に沈んでゆく湯あたり爺さんも困りものだ。

‥と、好き勝手なことを書き連ねてきたけれど、なるべく不愉快な思いをしないように温泉に出かけるタイミングを選んで行動しております。。

さやの湯を出て、新装のイオンに入ってみた。もうオープン時のカオス状態はなく、東武練馬のイオンよりもゆったりしており店舗も商品陳列も東武練馬とはまったく違う。これはこれでありと思うけど、ちょっとしゃれおつが過ぎるような気も‥。板橋区内で一番高級っぽいと感じる三徳よりゆったり感がありますね。
1階にはフードコートと大きなリカーショップが展開していて、日本酒コーナーには十四代や獺祭まであり、おおっ、と驚いたけど、十四代が2万円、獺祭50が1万円なんてボッた‥いや、プレミアム価格が過ぎるんじゃないっすか?


さて店内を一通りチェックして外へ出た。スーパーカスミ他の複合店舗は前野町通りの坂を上がった部分にあるので、この日は偵察をスルーした。食料品店部分はイオンより高級っぽいとの噂があるので、正月に頂くちょっと奮発した食品でも見に行きますかね。


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⭐︎板橋区民、年末の挨拶をする⭐︎〜さらば2015年〜

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 ここ数日は寒さも増し、なんとなく年末が近づいた感がしますね。。


いき出版社より「練馬区の昭和」という写真集が発売になった。1万円近くもする大型本なので、練馬や板橋の本屋に並べられるのかはわからない。

板橋区民は、義理のある方からの依頼によりほんの少しの部分お手伝いしたが、そのおかげで献本をいただき、ラッキーだった。
今回の写真集はいままで練馬区役所や他の出版社が出した同種の写真集の中で一番写真の量は多いだろう。それは時代を”昭和”で区切ったことが大きく、私も見たことがない写真が満載だった。中でも昭和30年頃に撮影された写真が豊富なのは、練馬区独立10周年を記念して撮影された写真がたくさん紹介されたからだろう。

先日、所用で板橋区役所へ行くと一階の情報スペースで「写真展 区民が撮った! いたばしの昭和 -昭和29年 2つの写真コンクール出品作品から-」(会期:2015年12月14日~ 2016年1月22日)が開催されており、へ〜練馬の本に対抗したのかなぁ、なんてことを思いながら拝見させていただいた。
まあ、限られた狭いスペースでもあり展示数は多くはなかったが、終戦から10年近く経ち、ようやく生活が落ち空いてきた時代の息吹の感じ取れる写真が並んでいた。

この写真展の写真は、「写真コンクール」の名目で募集した区民撮影の写真が使われたことで、これは長い目で見ればとてもよい区内写真の収集の仕方だ。最近では板橋十景、なんてお題で募集されたこともあったけど、何気ない街角のスナップ写真の方が時が経つにつれて価値が高くなるように思うのだ。やっぱり、その時代の板橋区民たちの生活の営みが写しだされている写真がいいなあ。

練馬本の中に、我がふるさと東武練馬駅前の写真が掲載されているけれど、これはなかなか珍しい。駅開業時の写真は記念写真だし、昭和15年ころに、現在の有徳高校の敷地に開校(正確には移動)した府立第九高等女学校の生徒たちが建設地を訪れた際のスナップ写真が残されているけど、そこにも東武練馬駅前は写っておらず、戦前の写真は今のところ確認できていない。踏切の北側(現在パチンコ屋があるところ)に三猿の「庚申塔」が建っていたとの言い伝えがあり、是非その姿を拝見したいのだがまだその願いは叶わずにいる。
この練馬本の駅前写真は、戦後10年くらいに撮影されており、戦前の感じがなんとなくわかるような気がする。

板橋区民が子供時代は、正月用品は北町商店街に買い出しにでかけていた。いまでは信じられないけれど、商店街はアメ横並みの人出でごった返していたものだ。そして正月を迎え、親戚の家へ行くために東武練馬駅へ向かうと駅前の店は全て閉まり、閑散としていた。5日ころまで店は開かず、せっかくお年玉をもらっても使うことができなかった。静まり返った商店街の、あの寂寥感はいまでも忘れられない。
少し大きくなり行動範囲が広がると自転車で成増まで出張し、丸井(現在のダイエー)で遊んでいたっけなあ。。たしか大きなモデルガン売り場があって、もらったお年玉すべてを使ってワルサーP38を買ったっけ。たぶんルパン三世に影響されたんだろう。今から思えば、もっとましな金の使い方をしろよと説教したいところだけど、いまだに似たようなことに金をつぎ込んでいるので怒れない‥

翻って現在の東武練馬駅前は年末も正月も大賑わいで、それはそれで良い時代になったなあと感慨深い。昭和47年に高島平団地ができると成増菅原神社、赤塚諏訪神社、徳丸北野神社、西台天祖神社が初詣参拝者で賑わうようになり、昭和52年ころに松月院下の浄蓮寺に東京大仏が建立されてからは正月の三が日は人で溢れるようになった。つくづく、感慨深いものです。


さて、少し早いですが、本年もこの拙いブログを覗きに来て下さったたくさんの方々に感謝をいたします。ありがとうございました。来年はまたあらたな研究に取り組み、皆様方のふるさと板橋区の栄光の歴史をお伝えできればと精進する次第でおります。

それでは、良いお年を迎えられますように。。

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