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板橋区民、多摩川の空に憶ふ。

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 勉強の秋、第3弾。


てなことで秋晴れの続いたある日、板橋区民はふらりと調布に出向いた。

8月に練馬区で行った講演会に調布市立郷土博物館の方が来てくださり、後日、地元の研究家が自費出版した「多摩地区の軍事化と調布飛行場の歴史」という本を送っていただいた。これは、代々地元調布に住み、飛行場の建設計画に伴い屋敷の移転を余儀なくされた山本豊さんと言う方がお書きになった本で、A5版ページ数80pの小冊子ながら必要な情報がテンポよく纏まった資料本だ。簡素な内容だけれど調査には大変な時間がかかったのだろうと推察申し上げる。

山本豊氏は、もともと祖父が残した飛行場建設計画書と立ち退きに関する書類一式を、祖父の死去後に見つけたことをきっかけとして調査を始められたようだ。

調布飛行場は、昭和13年に陸軍の要望により計画され、東京都市計画飛行場として東京府が認可をし土地を買収して昭和16年4月30日に完成した。名称は「東京調布飛行場」で当初は陸軍と民間の公共飛行場だったが、昭和16年8月に陸軍が全面的に使用することとなった。

成増飛行場と調布飛行場は同じ帝都防空を任務とし、兄弟飛行場とも言ってよいが大きな違いは設立に東京府が主体として関わったのか陸軍主体だったかだ。

成増飛行場は設立計画当初の資料が未だ見つかっていないのだが、調布飛行場には東京府の残した陸軍とのやりとりを含む公文書が存在し、建設の経過が追えるのだ。さらには新聞社の腕利きカメラマンも常駐し、多くの素晴らしい写真が残されている。終戦後も進駐軍の重点占領基地となり、この点も資料が多くあるのが羨ましい。。しかも飛行場自体が残っているし、至れり尽くせりなのだ。

調布飛行場の周りには、現在も戦闘機を空襲から守るため造られた「掩体壕」が3基残されている。板橋区民は、実はこの「掩体壕」をいままで訪れたことがなかったので、実踏調査に赴いたわけなんです。

最初に訪れたのは国道20号線沿いにある白糸台掩体壕。味の素スタジアムを甲府方面へ通り過ぎた先にある。いままで何度も通った道なのに全く気がつかず驚きました。最初の写真は20号の歩道から撮影。掩体壕全景の様子がよくわかりますね。最近調布市の史跡に指定され整備が行われた。
壕は入口幅 12.34m 、入口高さ内径 3.73m 、奥行き 12.00mでコンクリート製だ。コンクリートの中には数百本の鉄筋がスラブ配筋されている。

一見小さく見えるけど、この掩体壕は三式戦・飛燕とほぼ同じ規格に作られている。さすがに筑後70年を経過しているので劣化が見られ、ところどころ鉄筋が確認できる。壕の中にはタイヤ痕も残っているそうだ。大沢1号掩体と2号掩体は調布飛行場の北東隅に連接する「武蔵野の森公園内にある。

調布飛行場の北側には堀が残っている(3番目の写真)。これは玉石張りの水路で、飛行場へ水が侵入するのを防いだり周壁の代用として造られたのだそうだ。成増飛行場の周回にも同様の堀があったので、こんな感じだったんだんですかね。

「多摩地区の軍事化と調布飛行場の歴史」の中で素晴らしいのは、立ち退きを余儀なくされた家々が協力して、昔の地図を復元したことだ。その立ち退きを余儀なくされた家の中に、近藤勇の生家があった。
遠い昔、近藤勇の墓のある龍源寺を訪れたことがあり、その時、近くにある近藤勇の生家跡も見たような気がするけど、近藤勇の生家が調布飛行場建設のために取り壊されてしまっていたとは、不覚にもいままで知らなかった。

生家は豪農であったため屋根が高く、それが飛行機の離着陸に支障があるという理由で撤去され、跡には産湯の井戸と小さな近藤神社が残るのみである。しかし、屋敷内にあった天然理心流の道場(昭和7年に新築)は破壊を免れ、現在は生家跡の対面の住宅敷地内に移築されて残っている。道場の隣には洒落た民家があり、表札には「近藤」と書かれていた。おそらくは血縁者の方がお住まいかと思われ、ああ、いまだに歴史が続いているのだと感動しました。。

帰り道、近くの多摩川へ寄り広々とした青空を眺めながらこんな話を思い出した。

飛行47戦隊の名整備士であった刈谷さんは、終戦後仕事に恵まれず、成増のあんこ製造所で毎日あんこを練る日々を送っていた。
いつしか、昭和も三十年代に入り、世の中もすっかり落ち着いた。その間に、航空自衛隊が発足し、規模は小さいが、航空機産業も復活の兆しが見えてきた。刈谷さんも、調布飛行場に隣接する飛行機の整備会社に呼ばれ、再び飛行機の整備に汗を流す日がやってきた。
ある時、会社の社長からこんな話しを持ちかけられた。
「アメリカには、複数の飛行機で空中に広告文字を書く、スカイタイピングという商売があるらしいが、うちでもそんなことが出来ないか。」
根っからの技術屋魂に火をつけられた刈谷さんは、即座に「やって見せましょう」と胸を叩いた。そして、わずか一年で装置(排気口に特殊なオイルを吹き付けて消えにくい煙を作り出し、吹き出しのタイミングで空にドット文字を書く)を作り上げたのだ。
そして、そのお披露目の日がやってきた。社長や関係者、刈谷さんの家族が見守る前で、刈谷さんの作った装置を乗せた小型機は、多摩川の上空に鮮やかな文字を見事に描いてみせた。

刈谷さんへの長いインタビューを終えたのち、帰り際の雑談でそんな話しを少しだけお聞きし、「それでは、戦後の話は、また病院を退院したら改めてお聞かせ下さい。」と約束してお別れした。しかし、その後、刈谷さんは健康を取り戻すことはなく、お会い出来ずに終わってしまった。

私は、聞いてみたかった。かつて、戦いの飛行機雲が交差した大空に、刈谷さんは、どんな文字を描いたのだろうかと。そして、どんな気持ちで、あの日、空を見上げていたのかを。。

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