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2015年10月

☆さらば東上線の信号機☆〜マニアじゃなきゃ気がつかんわ。〜

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 いままで何度となく和光白子のくるまやラーメンの担々麺を褒めちぎり、最後の晩餐はこれでいいや‥とまで断言していましたが、かねてから噂で聞いていた東武練馬の北町浅間神社脇にある「富士亭」の担々麺を食べたところ‥旨い。美味い。‥これはくるまやを超えている。おまけに担々麺に必須のチンゲン菜とさらに茹卵までトッピングされているじゃあないか。しかもくるまやより100円も安い!!‥認識を改めました。。


東上線を利用している板橋区民のみなさん、お気づきですか?なんか車窓の風景が変わっていませんか?

ってほとんどの方は気がつかないと思いますが、線路脇の鉄道信号機の点灯が消えてるんですよ。
東上線では、9月25日をもって池袋ー和光市間の鉄道信号システムを終了し、26日より従来の色灯式信号機からT-DATC方式による運用を開始、これにより池袋ー小川町間まですべての区間で信号自動化が完了した。

なんだかわからん、というほとんどの方々に説明しますと、

まず、T-DATCとは東武独自のデジタル化したATC(自動列車制御装置 Automatic Train Control)の名称で、自動的に安全な速度になるよう制御することによって、速度超過や先行列車への衝突などが起きないようにする保安装置のこと。ATC自体は昔から設置されていたけど、いままで地上の信号機を見て運転していたのが、今度からは速度計の周りにある表示を見て運転するようになった、ということですね。和光市ー川越市間では、副都心線の他社車両規格に合わせ、以前からT-DATCで運用されていました。

この新しい方式に変更することで、速度制限がある曲線やポイントでの通過の際には、自動的にブレーキを掛けて列車の速度を制限速度に落とす機能のほか、踏切支障時の防護機能や停車駅での定位置停止・誤通過防止などの拡張性を持つことになるのだとか。特に、ホームドアが設置された場合に威力を発揮するようだ。

‥というと便利そうだけど、頭が良い故にブレーキが頻繁にかかり、運用が始まってから踏切の開いている時間が長くなったり、早く閉まったりと弊害が出ているらしい。
まあ安全に越したことはないんでしょうけどねえ。。


上の写真は点灯が消えた信号機と、大正時代なかば頃の東上線の腕木式信号機です。モノクロ写真の奥に見えるこんもりとした森は、ときわ台駅南口の天祖神社の森です。
腕木式信号機は1840年代に考案された信号方式で、なんといまでも国内で使用されている場所があるのだとか。東上線が開業してから100年にして、この見慣れた信号設備は役割を終了したわけですね。。

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☆祝!ときわ台駅開業80周年☆〜衝撃!ときわ台駅舎はライト設計‥か!?〜

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 心地よい秋晴れの日が続きますね。野菜の値段が早く下がらないかなあ‥


秋といえば食欲の秋、読書の秋などと申します。また勉強の進む季節でもあります。
と、いうことで昨日は常盤台中央図書館の地下(昔は食堂だったですね)の視聴覚室にて開催された「ときわ台駅80年のあゆみ」と題した記念講演会へ出向いた。

なんといっても講師がすごい。

東武博物館名誉館⻑・花上 嘉成氏
鉄道総合技術研究所・小野田 滋氏

この両巨頭そろい踏みだ。

花上氏は浅草駅長を最後に東武鉄道博物館初代館長を長年務められた東武鉄道のレジェンド、鉄道総研の小野田氏も鉄道に関する著作も多くブラタモリなんかにもご出演されている。
こんな方々の講演が入場料タダで、しかもアリーナ席で拝聴できるなんて僥倖なことはありませんね。


さっそく講演内容について‥ですが、花上氏は東上線の成り立ちからときわ台駅と常盤台住宅地についてのスタンダードな講話でした。ときわ台駅舎が東武宇都宮線の南宇都宮駅と酷似していて、おそらく南宇都宮駅の設計を流用したのだろうと言う話は初耳でした。(昭和7年開業。ときわ台駅は昭和10年10月20日開業・武蔵常盤駅)
うん、見比べるとソックリですね。ただし南宇都宮駅は2階のある建物部分が改札口になっていて、構内踏切を渡って島式ホームへ上がる方式になっている。これは古い駅によく見られ、ときわ台駅も昭和30年代までこの方式だった。ちなみに東武練馬駅も北口改札が開設されるまで南口から構内踏切を渡って池袋方面のホームへ行った。たしか昭和40年代前半くらいまでそうだったような記憶がある。

鉄道総研の小野田氏は全国の駅舎の建築様式を追求していて、鉄道黎明期の海外の駅舎建築から解説をされ、たいへんに面白く拝聴した。最後に、ときわ台駅の見所について解説された。

ここで、衝撃の発言があった。

氏曰く、ときわ台駅舎は旧帝国ホテルと非常に似ているそうで、はっきり言うと設計をしたフランク・ロイド・ライトのデザインをパクった、いや、インスパイアされた設計師によって造られたのではないかと推測されておられる。私がそう指摘すればただの妄言だが、鉄道総合技術研究所の小野田 滋氏が唱えるのだから信用度が違う。

旧帝国ホテルと似ている点をあげれば、

☆方形屋根の採用
☆疑灰岩の使用
☆濃密なディティール‥他、

以上の点だそうで、濃密なディテールとは岩に施したデザイン彫刻などを指している。


ときわ台駅は過去大きな改装を3回行っているそうで、地下道を作った時と、10両編成に対応するためにホームを延長した時だ。戦後の常盤台は、隣接する前野町の工場群が高度成長期で非常に盛んな時代で、朝の降下客が異常に多く、ラッシュ時には構内踏切では対応できずホームに人が溢れていた。そこで地下道を造り、改札口も建物を増築し現在の位置に移動したのだ。(小さくてわかりずらいけど、花上氏の写っている写真のスクリーンのモノクロ写真は構内踏切時代のときわ台駅・昭和15年)
改修工事の際、構内踏切は廃止され、斜めに下る坂に疑灰岩を積んでホームを延長したそうだ。構内踏切の痕は、今でも職員用の通路として残されている。


講演が終わり、花上氏に「お久しぶりです」とご挨拶すると、幸い、私のことは覚えていていただけていた。せっかくなので、カバンの中から持参した資料をごそごそと取り出し、花上氏に見ていただく。その中に、昭和18年1月26日付けで発行された、秩父、西武、青梅、越生の各鉄道会社にあてて「4月1日より武蔵常盤と上板橋の間に新常盤駅(都道455線との交差部)を設置するので、連絡運輸を開始したい」旨を告知した東武鉄道株式会社の公文書があった。

花上氏に、新常盤駅設置の件を尋ねると、

「こんなこと、知らないよ。」

と、意外なお答えが返ってきた。

この公文書の入手経路については以前、当ブログにて記事にしたことがある。花上氏とも付き合いのある方からの情報だったので、とっくに花上氏にも知られていると思っていたのだ。
花上氏はこりゃあすごいね、と言って是非、コピーさせてくれとおっしゃるので会場の図書館のコピー機で複写して差し上げた。

‥なるほど、近年になっても「新常盤駅」設置について未だに情報を見ないわけだな。。

お宝を手に入れたり、一次資料を発掘しても、どこの馬の骨が書いてるんだかわからない当ブログのような場所で発表したところで、それが世間で認知されることはない。
その道の権威を持つ人や組織が認めない限り、それが歴史事実として受け取られることはないのが常識なのだ。

この資料が花上氏の手に渡ったことで、いずれ幻の「新常盤駅」に関する記事が出てくることを期待したいですね。俗に、学者の世界では”手に入れた資料は絶対に手放すな。”という格言があるようですが、長年、東武鉄道ファンを楽しませてこられた花上氏に資料が渡るなら、こんなありがたいことはないですね。


今回の講演では、ときわ台駅が南宇都宮駅舎と酷似していることや、昔の駅舎の様子がわかり大変参考になりました。言われてみればそうか、と思うことばかりで目からウロコ、自分の勉強不足を認識した次第です。。

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☆逃れ逃れて、板橋区☆

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 勉強の秋、第2弾。


板橋区立郷土資料館では、9月19日から11月1日まで「特別展 武蔵千葉氏」というお題の展示が行われている。

武蔵千葉氏といえば、我が赤塚郷開闢の祖だ。

板橋区域は武蔵野台地の縁に存在し、そのため旧石器時代から連綿と人々が住み暮らす豊穣の地だ。縄文時代には小さな集落があり、弥生時代には大集落が存在していた。しかし、古墳時代からだんだんと衰退し、奈良平安の頃は僅かにしか人は住んでいなかったようだ。(北野神社や志村熊野神社などが創建された伝承はあるが、痕跡が非常に少ない)
鎌倉時代に入るとポツポツと板碑が出現し、人が定住していた痕跡が確認できるようになる。鎌倉幕府が滅亡した直後、後醍醐天皇が赤塚郷を足利直義に宛がい、ここに歴史上初めて”赤塚郷”という地域が現れる。(もともとは桓武平氏の秩父族、豊島氏が開発したと考えられている。)

以降赤塚郷は、1379年(康暦元年)足利義詮の正室渋川幸子(如春)から春屋妙葩へ寄進され、1383年(永徳3年)京都鹿王院の所領となる。そして1456年(康正2年)、突如として武蔵千葉氏が板橋区へ姿を現わす。
簡単に解説すると、康正2年(1456)本国下総国内での内紛に敗れた千葉氏宗家は武蔵国に落ちのび、鹿王院領赤塚郷に入部する。以後赤塚郷を拠点に武蔵国内に所領を拡大していったのが、いわゆる武蔵千葉氏というわけだ。(簡単すぎてすみません。。)

ま、もともと赤塚郷は鹿王院の所領であり武蔵千葉氏に強奪されたワケですが、それまでどのように土地が支配されていたのかは皆目不明なんです。土地を奪われた鹿王院は足利幕府に再三返還する手助けをしてくれと頼むけどなしのつぶて。頭領の千葉自胤は赤塚城を拠点とし、元からあったと伝わる宝持寺を自身の菩提寺として定め土地を寄進し、松月院と名を改めさせちゃうんです。ちなみに千葉自胤の戒名は松月院殿だ。現在まで形として残る赤塚郷支配の歴史は武蔵千葉氏が一番古いんですね。徳丸の北野神社は創建から千年と伝承されているけど、史料として登場するのは江戸時代以降になってからだ。


ここで話が大幅に変わりますが、私が板橋区を趣味とした時、板橋区にはどんな有名人が住んでいたのかを調べたことがる。(ここで言う有名人とは政治家とか学者ではなくいわゆる芸能有名人)
板橋区にかかわるといっても、先祖代々住んでいるのか、両親が住み着いて生まれたか、両親に連れられて引っ越してきたか、自分の意思で住むようになったのかなど様々だ。残念ながら先祖代々はいない(smapの稲垣吾郎は可能性がある)けど、両親の代からは多い。ちあきなおみとか酒井和歌子とか内藤やす子とか三原じゅん子とか辻希美ちゃんとか‥中でも家が没落してその引っ越し先に板橋区を選んだケースが目を引く。渥美清とか江守徹とか荒俣宏とか石橋貴明とか‥没落したけどギリギリ東京には留まりたい、そんな意思がうかがえる。

前に映画「新幹線大爆破」を例に、板橋区で暮らす人々の場末感を描いたけど、板橋区にやってくる人は逃れて辿り着く、という印象がある。そのルーツは千葉家の内乱に敗北し、逃れ逃れて赤塚郷に落ちてきた、武蔵千葉氏にまで遡るんじゃないかなあと、特別展の展示を見ながらぼんやり思ったのでした。。

先日、特別展の講演会が行われましたが、100人定員の会場に急遽130まで席を増やし、それでも足りないので立ち見客が出るほど大盛況でした。中世・室町時代頃の資料は大変少なく、展示は古文書が中心になってしまいがちで、さらに資料保護のため展示場は照明を落とすので老眼の身には文字を読むのが億劫になる。それが講演会の人気につながったのかもしれないですね。


講師の話が終了し、質疑応答の時間が設けられましたが、そのさい会場係りの人が「発言する方は、自説の披露は差し控え下さい。」と注意したのには苦笑しました。
前回も書いたけど、個人で研究していると、成果を発表する場がないため、世間に問うことも認められることもない。そこで、興味のある人が聞きに来ていたり、その道の権威者がいる講演会の場でつい発表してしまう人がまま、現れるのだ。
武蔵千葉氏に関して言えば、20年前の板橋区史編纂時に専門家たちが資料を発掘し尽くし、それ以来、新資料は発見されていない。だから生半可な研究は、先行研究者の発表した資料を切り貼りし、それに妄想を貼り付けただけだと思われてしまう、非常にハードルの高い題材なのだ。

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板橋区民、多摩川の空に憶ふ。

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 勉強の秋、第3弾。


てなことで秋晴れの続いたある日、板橋区民はふらりと調布に出向いた。

8月に練馬区で行った講演会に調布市立郷土博物館の方が来てくださり、後日、地元の研究家が自費出版した「多摩地区の軍事化と調布飛行場の歴史」という本を送っていただいた。これは、代々地元調布に住み、飛行場の建設計画に伴い屋敷の移転を余儀なくされた山本豊さんと言う方がお書きになった本で、A5版ページ数80pの小冊子ながら必要な情報がテンポよく纏まった資料本だ。簡素な内容だけれど調査には大変な時間がかかったのだろうと推察申し上げる。

山本豊氏は、もともと祖父が残した飛行場建設計画書と立ち退きに関する書類一式を、祖父の死去後に見つけたことをきっかけとして調査を始められたようだ。

調布飛行場は、昭和13年に陸軍の要望により計画され、東京都市計画飛行場として東京府が認可をし土地を買収して昭和16年4月30日に完成した。名称は「東京調布飛行場」で当初は陸軍と民間の公共飛行場だったが、昭和16年8月に陸軍が全面的に使用することとなった。

成増飛行場と調布飛行場は同じ帝都防空を任務とし、兄弟飛行場とも言ってよいが大きな違いは設立に東京府が主体として関わったのか陸軍主体だったかだ。

成増飛行場は設立計画当初の資料が未だ見つかっていないのだが、調布飛行場には東京府の残した陸軍とのやりとりを含む公文書が存在し、建設の経過が追えるのだ。さらには新聞社の腕利きカメラマンも常駐し、多くの素晴らしい写真が残されている。終戦後も進駐軍の重点占領基地となり、この点も資料が多くあるのが羨ましい。。しかも飛行場自体が残っているし、至れり尽くせりなのだ。

調布飛行場の周りには、現在も戦闘機を空襲から守るため造られた「掩体壕」が3基残されている。板橋区民は、実はこの「掩体壕」をいままで訪れたことがなかったので、実踏調査に赴いたわけなんです。

最初に訪れたのは国道20号線沿いにある白糸台掩体壕。味の素スタジアムを甲府方面へ通り過ぎた先にある。いままで何度も通った道なのに全く気がつかず驚きました。最初の写真は20号の歩道から撮影。掩体壕全景の様子がよくわかりますね。最近調布市の史跡に指定され整備が行われた。
壕は入口幅 12.34m 、入口高さ内径 3.73m 、奥行き 12.00mでコンクリート製だ。コンクリートの中には数百本の鉄筋がスラブ配筋されている。

一見小さく見えるけど、この掩体壕は三式戦・飛燕とほぼ同じ規格に作られている。さすがに筑後70年を経過しているので劣化が見られ、ところどころ鉄筋が確認できる。壕の中にはタイヤ痕も残っているそうだ。大沢1号掩体と2号掩体は調布飛行場の北東隅に連接する「武蔵野の森公園内にある。

調布飛行場の北側には堀が残っている(3番目の写真)。これは玉石張りの水路で、飛行場へ水が侵入するのを防いだり周壁の代用として造られたのだそうだ。成増飛行場の周回にも同様の堀があったので、こんな感じだったんだんですかね。

「多摩地区の軍事化と調布飛行場の歴史」の中で素晴らしいのは、立ち退きを余儀なくされた家々が協力して、昔の地図を復元したことだ。その立ち退きを余儀なくされた家の中に、近藤勇の生家があった。
遠い昔、近藤勇の墓のある龍源寺を訪れたことがあり、その時、近くにある近藤勇の生家跡も見たような気がするけど、近藤勇の生家が調布飛行場建設のために取り壊されてしまっていたとは、不覚にもいままで知らなかった。

生家は豪農であったため屋根が高く、それが飛行機の離着陸に支障があるという理由で撤去され、跡には産湯の井戸と小さな近藤神社が残るのみである。しかし、屋敷内にあった天然理心流の道場(昭和7年に新築)は破壊を免れ、現在は生家跡の対面の住宅敷地内に移築されて残っている。道場の隣には洒落た民家があり、表札には「近藤」と書かれていた。おそらくは血縁者の方がお住まいかと思われ、ああ、いまだに歴史が続いているのだと感動しました。。

帰り道、近くの多摩川へ寄り広々とした青空を眺めながらこんな話を思い出した。

飛行47戦隊の名整備士であった刈谷さんは、終戦後仕事に恵まれず、成増のあんこ製造所で毎日あんこを練る日々を送っていた。
いつしか、昭和も三十年代に入り、世の中もすっかり落ち着いた。その間に、航空自衛隊が発足し、規模は小さいが、航空機産業も復活の兆しが見えてきた。刈谷さんも、調布飛行場に隣接する飛行機の整備会社に呼ばれ、再び飛行機の整備に汗を流す日がやってきた。
ある時、会社の社長からこんな話しを持ちかけられた。
「アメリカには、複数の飛行機で空中に広告文字を書く、スカイタイピングという商売があるらしいが、うちでもそんなことが出来ないか。」
根っからの技術屋魂に火をつけられた刈谷さんは、即座に「やって見せましょう」と胸を叩いた。そして、わずか一年で装置(排気口に特殊なオイルを吹き付けて消えにくい煙を作り出し、吹き出しのタイミングで空にドット文字を書く)を作り上げたのだ。
そして、そのお披露目の日がやってきた。社長や関係者、刈谷さんの家族が見守る前で、刈谷さんの作った装置を乗せた小型機は、多摩川の上空に鮮やかな文字を見事に描いてみせた。

刈谷さんへの長いインタビューを終えたのち、帰り際の雑談でそんな話しを少しだけお聞きし、「それでは、戦後の話は、また病院を退院したら改めてお聞かせ下さい。」と約束してお別れした。しかし、その後、刈谷さんは健康を取り戻すことはなく、お会い出来ずに終わってしまった。

私は、聞いてみたかった。かつて、戦いの飛行機雲が交差した大空に、刈谷さんは、どんな文字を描いたのだろうかと。そして、どんな気持ちで、あの日、空を見上げていたのかを。。

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