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2015年9月

板橋区民、重鎮に話を聞く。

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 雨が断続的に降り続いてますね。栃木茨城には特別警報も出ていて大変な被害状況です。
昨夜、我が赤塚郷にも土砂災害避難準備警報が出ました。以前から高島平や浮間など荒川低地が水害に弱いなんて高台目線で書いてましたが、舌状台地にある赤塚郷は崖崩れの危険性のある地域でしたね。。

さて、先日のことですが、板橋区民は板橋区長と、この7月に退任した元教育長氏と酒席を共にする機会がありました。いろいろと話をお聞きしましたが、坂本区長は公人ですが公の場での発言ではないので不用意にブログに書いてしまうと問題になるかもしれませんので、差し障りのない部分のみで話を続けます。

お二方は生まれも育ちも我が赤塚郷の成増で、坂本区長は地元で17代目の旧家のご出身です。17代目の初代なんて室町か戦国時代ですから、おそらく板橋区民としては最古級の家柄ではないでしょうか。菩提寺は松月院で信徒代表も務めておられます。ちなみに板橋区長としても17代目にあたります。
元教育長氏の家系についてはお聞きしていませんが戦前から白子に近い成増に住んでいて、清水かつらさんを知っておられます。

昭和20年代の初め、元教育長氏は練馬区に近い学区の小学校に通っていました。そこでかねてから知りたいと思っていた兎月園の池がいつ頃まで存在していたのかを聞くと、「低学年のころ池は確かにあった。魚獲りをしたりした。」との思い出を持っておられた。当時は兎月園入口の対面にボクシングジムがあり、小学校の同級生の家が兎月園内にあったそうで、戦後すぐに住宅地化は始まったようだ。ちなみに坂本区長はまだ50代半ばの年代なので兎月園については何も知らないそうで、子供の頃は踏切から向こう(南側)へは行くなと言われて育ったのだとか。まあ、いかがわしい地域があるから行くなという大人の事情もあったのかもしれない。

さてもう一つ知りたいことは、”戦時中、成増にあった慰安所”とはどこにあったのか、についてだ。
ここで言う”慰安所”とは終戦直後に成増に置かれた進駐軍相手の売春宿ではなく、また、お隣に国が騒ぐことによっていかがわしいイメージがついてしまったけど、本来の”なぐさみをして心を休ませること”の意味で使われた施設のことです。ちょっと前まで普通に使われていた”従業員の慰安旅行”なんて言葉もうっかり使えなくなったのは困ったもんですねえ。

戦時中に存在した成増の慰安所のことは、沖縄特攻の振武隊員として一ヶ月ほど成増飛行場で訓練をした方へインタビューをした時に知った。
「休みの日は何をしてましたか?」との私の質問に「うーん、成増の郵便局の近くにあった慰安所へ行ったなあ」とおっしゃるので、下卑た笑みを浮かべ小指を立てながら「こっちっの慰安すか?へっへっ、どんな感じだったんでやんすかねえ?」と興味津々で聞くと、「そんなんじゃないよ、女学生が慰問にきてねえ、おしゃべりとかトランプをしたりしたんだよ」とのお答えであった。女学生と遊ぶと言うと現在のJKビジネスを思い浮かべるスケベジジイと化した頭をガツンと殴られたようでお恥ずかしい限りです。。あくまで健全な”慰問”のことでした。

その成増郵便局近くにあったという慰安所がどこにあったのかずっと探していましたが、元教育長氏に聞いてみるとこんなお答えが返ってきた。
「郵便局って今は場所が移動しているけど、昔の郵便局だった所の近くに”むさし”という旅館があったけどそこのことじゃないかな」とおっしゃる。家に帰りさっそく教えてもらった場所を手持ちの昭和44年度の住宅地図で確認すると‥川越街道からスズラン通りに入ってすぐの場所に、おお”旅館 武蔵”(現在は駐車場)があるじゃないか!

戦時中、軍隊の基地の近くにある旅館が慰安所となるのは普通のことで、遠方から訪ねてくる家族や知人と会ったり宿泊する施設としても利用された。かつて成増にあった「旅館 武蔵」が慰安所であったかどうかを確証する資料はないけれど、経過から判断すればほぼ間違いないんじゃないかと思われます。


ああ、ようやく長年の疑問の一つが解けた‥。今後はまた成増生まれで昔のことを知っている方に会ったら「旅館 武蔵」のことを質問して証拠固めをして行こう。市井の歴史を探るには、こうした地道な作業の積み重ねが大事ですね。。

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板橋区民は癒されたい。

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 暑い日もあるけれど、すっかり気分は秋ですね。

また、「くるまや→温泉」の黄金の癒しコースを満喫してきました。今回の温泉は光が丘公園に近い「おふろの王様・光が丘店」をチョイス。おふろの王様は全国チェーンのスーパー銭湯で、基本的には”天然温泉”ではない。(天然の店もある)

板橋区民がよく利用するのは、みずほ台の「埼スポ」か和光の「極楽湯」か「スパディオ板橋」か「さやの湯処」で、天然温泉ではない「おふろの王様」の利用は少ないけど、露天風呂では日によって様々な泉質の湯が提供されるのでたまに行くことがある。先日は大好きな別府の「明礬の湯」だった。

30代ころまでは風呂に浸かるのは好きではなかったけど、加齢した現在では温泉の露天風呂で寛ぐのが最大の娯楽になった。しかし、利用する温泉はいずれも人口密集地の中にあるので、いつでも広々ゆったり入るわけにはいかない。たまにマナーの悪い利用客を目の当たりにすると癒されたい気分を害され、腹立たしくなることがある。そんな時、ふとこんな言葉が浮かぶ。

「温泉に浸かる時はね、誰にも邪魔されず、自由でなんというか救われてなきゃあダメなんだ。独りで静かで豊かで……」

‥どこかのグルメ漫画のパクリのような気もするけど、そう、救われてなきゃあダメなんです。。

マナーの悪い利用客もそうだけど、そばにジイさん客がいると落ち着かなかったりする。
先日、「おふろの王様」で露天風呂に浸かっていると、露天入口ドア近くが騒ついた。なんだ、と目をやると、どうやらお年の方が倒れたらしい。サウナから出てきてすぐだったようだ。近くの人が冷水のタオルで首周りを冷やしたりしていると従業員がやってきた。まもなく東京消防庁も来て、お年の方は担架に乗せられて運ばれて行った。まっ、こんなことはよくあることで、板橋区民も今年すでに何回かジイさんを救ったことがある。たいていは長湯してのぼせたことに気がつかず、湯から出ようと立ち上がった瞬間くらっときて倒れるのだ。ハデに湯船に落ちる人もいるけど、怖いのはいつの間にか沈んでる場合だ。前に、ゆっくり湯から出ようとしていたジイさんが、湯に入ろうとした私の目の前でゆっくり沈んで行った時は焦った。瞬間手が出ず、そのジイさんは私と目を合わせたまま、静かに湯船の底に沈んでいった。

そんなこともあり、お年の方が湯船にいると気になってしょうがないのだ。。


まるで本題のように温泉について長々語りましたが、さて冒頭の写真はどこでしょうか?(前にも掲載したことありますが)
これは、赤塚の川越街道沿いに最近オープンした行列ラーメン店「いのこ」の先、光が丘方向へ左折する交差点だ。練馬区と勘違いするけど、住所的には赤塚新町だ。交差点の傍にアメリカンな自動車工場があり、「おふろの王様・光が丘店」はこの並びに建っている。手前の大きな日本家屋は”美白の女王”として有名だった故・鈴木その子さんの旦那さんの実家だ。株式会社トキノ(現在の株式会社SONOKO)は、この家を取り壊して作ったマンションから始まったと言っていい。

交差点の傍のアメリカンな自動車工場は、今は日産のディーラーに変わり、近くには各自動車会社のディーラーが集中し、中小の自動車整備工場などもある。もともとは進駐軍御用達として出来た工場と思われるけど、それをきっかけに現在のディーラー街が出来上がったんでしょうね。そのことがよく分かる写真です。

この写真は昭和30年頃に行われたグラントハイツで働く労働者のデモを撮ったもので、アメリカの国立公文書館に所蔵されています。グラントハイツが出来た終戦直後はとにかく働き口を求めて殺到した人々も、時が経ち生活が落ち着くと労働条件の向上を求め団結して戦う。これも歴史の一コマですね。

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板橋区民、故郷に警告する。

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 シルバーウイーク(いつの間に出来たんだ?)も中盤、天気もまずまずでお出かけに最適ですね。板橋区民は‥洗濯屋や部屋の片付けが捗ります。。

先週初めまでずっと長雨が続き、北関東では鬼怒川などの河川の氾濫で大きな被害を受けました。我が赤塚郷にも土砂災害警報が発令され驚いたものです。
大雨のピークの頃、家のパソコンで石神井川や荒川の定点カメラを見ていましたが、今回は危険水域までは達せず、ほっとしました。私が子供の頃は大雨で東武練馬の田柄川が溢れて周辺が水没した景色を覚えています。

板橋区民の故郷、徳丸6丁目には、桜の歩道として有名?な高島平まで続く「石川緑道」がありますが、その歩道には、もともと「前谷津川」が流れていました。

「石川緑道」はカーブしている部分もあるけど、線路のようにゆるやかな道だ。前谷津川の暗渠化工事は昭和30年代の半ばから始まり、昭和50年代初めに現在のようになった、と記憶している。上のモノクロ写真は、昭和37年に徳丸通りの石川公園あたりから撮影されたものだ。煙突は「黄金湯」で、現在はマンションの一階で営業しているが、煙突はほぼ同じ位置にある。このカットには写ってないけど、右手奥には茅葺屋根の家が点在している。
隣のカラー写真は現在の様子で、地元出身者としてはあまりの変わりようにクラクラする。

モノクロ写真に写る前谷津川は、それこそちいさな小川でしかもグネグネとカーブを描いている。実は、その姿こそが自然な姿で、前谷津川が何百年、何千年単位で徳丸流域を流れていたかがわかる貴重な写真だ。こんな流路ではちょっと雨が降ればすぐ溢れるのがわかるだろう。

川は常に姿を変えて流れる。それはあの大きな荒川でも同じだ。東武練馬駅から徳丸通りを北へ進むと、宮の下交差点へ向かい急坂となって下る。交差点から西東に広い谷あいの地が広がるが、その谷あいの平地を作ったのが、数千年の間グネグネと姿を変えながら谷を削ってきた前谷津川なのだ。

‥それは何を意味するのか‥

私が子供の頃、前谷津川を中心として大幅な土地整理事業が行われた。まずグネグネした川筋を大幅に掘削し直線化を行い、それから蓋をして歩道を整備して石川緑道が出来上がった。
板橋区の記録を見ると、明治40年代に荒川が氾濫した際、徳丸の川沿いの低い土地も泥水に沈み、一ヶ月以上水が引かなかったとある。それを契機に荒川の治水工事が行われ、荒川は直線化し、隣に新河岸川も整備され、それ以降、荒川を原因とする大規模な水害は減った。それでも、大水害は減ったけど前谷津川や出井川、石神井川、白子川など小規模河川の氾濫は度々起こっていたが、現在は治水対策もだいぶ進み、災害は起こりにくくなっている。

ところが、である。

気象庁は最近、「50年に一度、100年に一度の大雨」という「記録的大雨」の警報を出すようになった。これは今までの想定を上回る大雨が降ることを意味している。それは、現在の治水条件の基準を上回るということで、ふたたび水害が起こりうると警告しているのだ。
先日、NHKで放映していた首都圏の水害の番組では、赤羽の岩淵水門あたりが決壊したシミュレーションをCGで再現していた。相当な範囲が水没し、当然、徳丸あたりも明治時代の時のように水が押し寄せてくるだろうと考えていい。


今回の常総・仙台で降った「記録的大雨」も、ちょっと雨雲の筋がずれていたら、荒川が決壊する‥なんて可能性があったかもしれない。台地上でも、石神井川が氾濫したり、暗渠化した川もどこかで溢れ出すかもしれない。
そこで、「土地の記憶」ってやつに耳を傾け、災害の備えとすべき、なんてことを思うこの頃である。

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板橋区民の休日ランチ。

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 シルバーウイーク最終日、今日も良い天気でしたね。休日期間中がすべて晴天なんて珍しい。これは先月下旬からずーと続いた雨空への恩返しなのかもしれませんね。。


今回のタイトルは”板橋区民の休日ランチ。”
なんて優雅でセレブな響きなんだろう‥

しかし、ここで言う板橋区民とは当ブログ主を指す。

最初に謝りますが、検索エンジンで「板橋区 休日ランチ グルメ」なんて検索単語でヒットをして覗きに来た方には申し訳ない。そんなグルメなランチの話ではありません。。

ここの所、板橋区民はセブンイレブンとのコラボで開発された「蒙古タンメン中本」のカップ麺にはまっている。最初に麺をすべて食べ、そのあとの残ったスープに電子レンジで温めたご飯を投入し、しゃくしゃくと食べる。辛味のため汗が吹き出すが、冷えた烏龍茶をガンガン飲みながら、しゃくしゃく食べる。
「ああ、おいしい‥」最後までスープを飲み切り、これもセブンイレブンで購入した金鍔のアイスを齧ると、それはもう至福の時である。貧乏くさい?すみませんね、ここは天下の赤塚郷ですから。

基本的に、板橋区民は辛い物は苦手な方だ。だから、店舗の中本へはいかない。コンビニに売っている物は、辛味を抑えているので、ギリギリ食べられるのだ。味も良いけど、カップに印字された「上板橋本店」の文字が誇らしいじゃありませんか。二度言いますが、まことに誇らしい。。上板橋発祥の個性的なラーメンが全国区の商品としてコンビニに並んでいる。三度目ですが、まことに誇らしい。。

いつでしたか板橋区のラーメン事情(主に歴史的な経過)を語ったことがありましたが、もともと中本はお年のご夫婦が切り盛りしていた小さなラーメン屋で、閉店を惜しんだ常連客が暖簾を受け継いで発展させた店だ。
ある集まりの時、「中本はさぁ、昔はレッドロブスターの先の住宅街にあってねえ、カウンターの内で、喧嘩ばっかりしている老夫婦がノロノロ作っててさあ、注文して出てくるまでに45分ぐらいかかんのよ。だから常連さんは事前に電話して注文してから行くんだよね」なんて蘊蓄を得意げに語っていると、古くから上板橋に住んでいる方が、「中本はねえ、昭和40年ころは上板橋の南口駅前にあってね‥」なんて口をはさんできた。(現在の本店舗は北口駅前にありますが。)

すっかり水を差された板橋区民は、家に戻ってから住宅地図で確認してみた。
さて、昭和44年版の住宅地図には見つからない。そこで昭和51年版の地図を見ると‥確かに南口に「中華中本」はあった。今は「ラーメン屋」が定着しているけど、昔は「中華ソバ」と呼ぶのが普通だった。
古くからの上板橋住人曰く、「駅前にあったころは、普通のラーメン屋だったよ。」とおっしゃっていた。


‥ちょっと昔の話を知っているからといって、うかつに得意げに語っていると、当時を知る方から指摘を受け、たちまちその長い鼻はへし折られ、足を掬われてしまう。気をつけないといけませんね。。発言は慎重に、真実の探求を怠らずに、です。。


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