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板橋区民、梅雨の晴れ間につぶやく‥

みなさま、梅雨の最中ですが、いかがお過ごしでしょうか。。


あまり長い間記事の更新がないと、いいかげん見捨てられる恐れがあるのでちょっと呟きます。。
ここのところブログに精神を集中させる余裕がないもんでスイマセン。。


今年は終戦から70周年の祈念の年なので、いままで上げた6月の記事から再録します。

6月10日・・・板橋区常盤台近辺に空襲、269名あまりが犠牲となる。
6月14日・・・板橋区徳丸の有形文化財「粕谷尹久子家住宅」の粕谷正三氏、沖縄戦にて海軍巌部隊司令部壕付近より米軍部隊に切り込み、壮絶な戦死を遂げる。
6月21日・・・飛行47戦隊、任務中グラマンに襲われ3機未帰還となる。

以上の記事を過去に書きました。


6月10日の空襲は、米軍の目標としては中島飛行機武蔵野工場であったが、なぜか常盤台の南側の地域に爆弾が落とされ、区内最大の死者を出した。地元の間では「秘密の工場があり、その情報を知った米軍が狙った。」などと言う伝承があるが定かではない。すぐ先には志村兵器廠や第2造兵廠があるので、そこを狙ったのかもしれない。南常盤台2丁目には、空襲犠牲者を祀った「平安地蔵」が建てられている。


6月14日は、徳丸7丁目の有名な蕎麦屋「爽風庵槙」の敷地にある江戸時代中期に建てられた茅葺屋根の庄屋さんの当主になるはずであった故・粕谷正三氏が戦死された日だ。
正三氏は大変に優秀な方で、東京帝国大学から海軍経理学校に進み海軍将校になった。昭和20年1月、南西諸島海軍航空隊本部副官として沖縄本島に赴任した。4月1日、米軍が上陸を開始し、6月4日には正三氏のいる小禄(おろく)海軍飛行場地域(現在の那覇空港周辺)にまで迫った。海軍の太田司令官は、沖縄守備軍最高指揮官・牛島満陸軍中将宛に「敵戦車群ハ我司令部洞窟を攻撃中ナリ。根拠地隊ハ今2230玉砕ス。従前ノ厚誼ヲ謝シ、貴軍ノ健闘ヲ祈ル」と発信し、13日午前1時に司令部壕内にて部下6名と共に自決。司令官自決を知った粕谷正三大尉は、翌14日夜半、最後まで残った主計科および各科の生き残りの兵30数名を率いて壕を出、小禄雙ヶ丘に展開する米軍に斬り込んだ。数度の攻撃をくり返した後、とうとう負傷者ばかりとなってしまう。粕谷大尉は、もはやこれまでと全員を集め車座となり、自ずから手榴弾のピンを引き抜き、散華した。行年、25歳だった。


6月21日、九州都城西飛行場に展開していた47戦隊は、都城東飛行場から出撃する第26振武隊(7機)の掩護任務のため16機で出動、予定されていた徳之島西方約65kmの硫黄鳥島付近にて引き返すがその帰途上、グラマンにより上空から奇襲をかけられ、中原逸郎大尉、河合吉夫少尉、山崎昌三軍曹が撃墜戦死する。一瞬の出来事だったという。残った機はいっせいに雲に飛び込み基地まで戻る。
掩護をした第26振武隊は、到達した4機全機が敵艦船に突入成功、米軍軽空母などに多大な損害を与える。この戦果は米軍により記録されており、後に第26振武隊の攻撃方法は航空自衛隊の戦術研究として取り上げられた。

‥ということで新記事はまた近々にUPしますのでしばしご容赦を‥

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