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2015年6月

板橋区民、鹿児島に泊す。



夏はやっぱり白熊アイス。

と、言うわけで、板橋区民は鹿児島の天文館で本場の白熊を夕食にして中央駅近くのビジホに着いたのであった。

なぜ唐突に鹿児島なのかはさておき、板橋区民は大の甘党である。ムリな頼みごとも、石田屋の栗どら焼きを持って来られると断ることが出来ない。
それは父方の祖父が、京都で上菓子舗をしていたのが遠因なのかもしれない。

昼頃の鹿児島は、滝のような雨が降っていた。そのせいか、火山灰は綺麗サッパリ流されていたようだ。テレビでは先日大噴火した口永良部島のニュースでもちきりだけど、桜島の噴火もそうとう活発なんだとか。

板橋区民が鹿児島に来たのはちょうど10年ぶりだ。確か中央駅が出来た頃だったかなあ、その時よりまた規模が大きくなったような気がする。

いやーイカン。焼酎を飲みながら書いてるんですが急激に酔いが回ってきました。中途半端ですが本編はまた後日にでも‥

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板橋区民、本気出す。〜10年ぶりの知覧〜

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 前回は鹿児島市内のビジホから酔っ払ったままUPしたようで、支離滅裂な記事でした。。スミマセン。。


さて、板橋区民は梅雨入り早々の鹿児島に滞在していたわけですが、それは、知覧の特攻平和会館を訪れたかったからだ。
仕事や観光が目的ではなかったので空港から知覧へ直行し、鹿児島市内で泊まって翌朝また知覧へ直行、帰りも空港へ直行し、羽田からリムジンバスで和光市経由で直帰した。‥あっ、鹿児島市で夜ごはんを食べに天文館のむじゃき本店へ行き、黒豚わっぜいか丼と本家しろくまを食べ焼酎を飲んでからは記憶が‥無い。(その後市電に乗ってビジホに帰った記憶が薄っすらと‥)それが唯一の観光だったかもしれない。。

余談はさて置き、なぜ知覧へ行ったのかというとですね、それは振武隊について調べたかったからなんですね。
主に沖縄戦に投入された特攻・振武隊ですが、九州各地の陸軍基地から出撃をしたけど、一番多くの特攻隊が集まったのが知覧基地だった。我が成増飛行場を根拠地とする飛行第47戦隊は、都城西飛行場に進出し、東飛行場から出撃する振武隊の援護任務を行っていた関係から、都城基地の振武隊についてはある程度調べていたのだが、知覧から出撃した部隊については出版物による情報しかなかったので、調査には実物の第一次資料を所蔵する知覧特攻平和会館へ行く必要があった。

知覧特攻平和会館へはちょうど10年前に訪れたことがあるけど、その時は四式戦の実機を見るのが目的で、展示されている資料にゆっくり目を通す余裕がなかった。だから今回は資料探しを目的としていた。
ありがたいことに、堀山隊長から平和会館で専門員を務める八巻(やまき)氏を紹介いただき、お会いして話を伺うことが出来る手筈も整っていた。

初日、3日は朝から雨模様で鹿児島市には梅雨入りが宣言された。知覧へは昼過ぎに着く予定で、平和会館へ行くには時間が遅と思い、富屋食堂や武家屋敷群の見学を先に‥と企画していたのだが、知覧へ向かう途中からそりゃあまあすごい雨。ホント滝のような豪雨になってきたので、急遽予定を変更して平和会館に直行することにした。(鹿児島空港→鹿児島中央ターミナル→知覧)

専門委員の八巻氏とのアポは翌日であったが、平和会館でチケットを買った際、八巻氏は事務所におられるかと受付で尋ねると、しばらくして八巻氏がやってきた。翌日から隣の「ミュージアム知覧」の特別展示室で始まる義烈空挺隊の展示準備でてんてこ舞いのさ中であった。

八巻氏は、10年前に知覧特攻平和会館の専門員となった。30代後半とまだお若いけど、自分で望み選んだ仕事なのでとても情熱があり、その道ではすでに有名な方だ。
とりあえず名刺交換と簡単な自己紹介を済ませ、翌日の訪問を確認して八巻氏とは一旦お別れし、平和会館の展示を見学することにした。

ここは知覧の観光地の中心でもあるので、平日にもかかわらず見学者が多い。観光バスの見学コースにも組み込まれているようで、他に小学生や自衛官の団体さんもいる。
入り口をはいるとすぐに三式戦・飛燕がドーンと控え、右手に零戦&隼(レプリカ)が並び、奥の部屋には四式戦・疾風が鎮座している。しかし、メインの展示は、特攻隊員たちが残した膨大な数の写真や遺品だ。(主に手紙やハガキ類)
これらの遺品は、今年4月に亡くなった元・館長氏が中心となって全国各地のご遺族の元を訪ね、寄贈してもらった品々だという。

平和会館に来た目的は、成増飛行場に関係した振武隊の資料を探すことで、結論を先に言うけど、専門員の八巻氏いわく、振武隊については編成地がわかるくらいで、その後、部隊がどこの基地で訓練を行い最終出撃地である知覧へ来たのかを纏めた資料はない。とのことであった。簡易に探すあては外れたが、残る方法は、隊員の方々が残した手紙やハガキから情報を探り当てるしかない。

集められた資料は膨大な数になるので、限られた時間ではとても見きれない。なのでまず最初に、すでに判明している部隊の資料から探していくことにした。
ネット生活に入っていらい、老眼も手伝ってあまり本を読まなくなったせいもあり文字を読むのがしんどく、また、隊員の方々が残した直筆の、実に重い内容の手紙を見ていく作業は非常につらいもので、脳みそがクラクラしてくる。それでも、ようやく関係がありそうなハガキ一通と手紙一通を見つけた。検閲があるため、明確に所在地は書かれてないけれど、板橋区や成増といった固有名詞が出てくれば、それは成増飛行場にいた証である。ハガキには家族へ宛て、ここに手紙を送るようにと住所が書かれていた。消印は「板橋」と印が押されている。

「東京都板橋区練馬高松町東部百七部隊気附近間隊」

これは、昭和20年4月14日に常陸教導団で編成された第53振武隊(隊長・近間満男少尉)所属の土器手茂生兵長(のち伍長)からのハガキで、隊は4月18日に成増へ移動、訓練の後、5月16日に成増を出発し18日朝、知覧基地から沖縄へ向け出撃、散華した。乗機は一式戦・隼だった。

この東部百七部隊とは、飛行47戦隊の一般向けの総称である。ちなみに成増飛行場に展開している第43飛行場大隊は、天翔19194部隊と総称されている。
今回、成増基地から出された軍事郵便を初めて見られたので、大成果だった。ああ、知覧まで来て良かった。。

と、まあこんな具合で、調査とは実に地味で時間のかかる作業であることがわかっていただけますでしょうか。。
翌日は一転好天気となり、鹿児島中央から一時間半バスに揺られ朝一で平和会館へ。専門員の八巻氏と懇談し、その後、公開の始まったミュージアム知覧の義烈空挺隊の特別展をご案内いただいた。帰りに極上の知覧茶をお土産に貰い、ご親切にも富屋食堂ほたる館まで車で送っていただいた。どうもお世話になりました。

八巻氏は拙ブログをご存知であったようで名乗る前から指摘されてしまい、ちょっと恥ずかしい思いをしました。。さすがに気鋭の研究員、シロウトの描くブログにまで目を通されるとは、恐れ入りマス。。

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板橋区民、梅雨の晴れ間につぶやく‥

みなさま、梅雨の最中ですが、いかがお過ごしでしょうか。。


あまり長い間記事の更新がないと、いいかげん見捨てられる恐れがあるのでちょっと呟きます。。
ここのところブログに精神を集中させる余裕がないもんでスイマセン。。


今年は終戦から70周年の祈念の年なので、いままで上げた6月の記事から再録します。

6月10日・・・板橋区常盤台近辺に空襲、269名あまりが犠牲となる。
6月14日・・・板橋区徳丸の有形文化財「粕谷尹久子家住宅」の粕谷正三氏、沖縄戦にて海軍巌部隊司令部壕付近より米軍部隊に切り込み、壮絶な戦死を遂げる。
6月21日・・・飛行47戦隊、任務中グラマンに襲われ3機未帰還となる。

以上の記事を過去に書きました。


6月10日の空襲は、米軍の目標としては中島飛行機武蔵野工場であったが、なぜか常盤台の南側の地域に爆弾が落とされ、区内最大の死者を出した。地元の間では「秘密の工場があり、その情報を知った米軍が狙った。」などと言う伝承があるが定かではない。すぐ先には志村兵器廠や第2造兵廠があるので、そこを狙ったのかもしれない。南常盤台2丁目には、空襲犠牲者を祀った「平安地蔵」が建てられている。


6月14日は、徳丸7丁目の有名な蕎麦屋「爽風庵槙」の敷地にある江戸時代中期に建てられた茅葺屋根の庄屋さんの当主になるはずであった故・粕谷正三氏が戦死された日だ。
正三氏は大変に優秀な方で、東京帝国大学から海軍経理学校に進み海軍将校になった。昭和20年1月、南西諸島海軍航空隊本部副官として沖縄本島に赴任した。4月1日、米軍が上陸を開始し、6月4日には正三氏のいる小禄(おろく)海軍飛行場地域(現在の那覇空港周辺)にまで迫った。海軍の太田司令官は、沖縄守備軍最高指揮官・牛島満陸軍中将宛に「敵戦車群ハ我司令部洞窟を攻撃中ナリ。根拠地隊ハ今2230玉砕ス。従前ノ厚誼ヲ謝シ、貴軍ノ健闘ヲ祈ル」と発信し、13日午前1時に司令部壕内にて部下6名と共に自決。司令官自決を知った粕谷正三大尉は、翌14日夜半、最後まで残った主計科および各科の生き残りの兵30数名を率いて壕を出、小禄雙ヶ丘に展開する米軍に斬り込んだ。数度の攻撃をくり返した後、とうとう負傷者ばかりとなってしまう。粕谷大尉は、もはやこれまでと全員を集め車座となり、自ずから手榴弾のピンを引き抜き、散華した。行年、25歳だった。


6月21日、九州都城西飛行場に展開していた47戦隊は、都城東飛行場から出撃する第26振武隊(7機)の掩護任務のため16機で出動、予定されていた徳之島西方約65kmの硫黄鳥島付近にて引き返すがその帰途上、グラマンにより上空から奇襲をかけられ、中原逸郎大尉、河合吉夫少尉、山崎昌三軍曹が撃墜戦死する。一瞬の出来事だったという。残った機はいっせいに雲に飛び込み基地まで戻る。
掩護をした第26振武隊は、到達した4機全機が敵艦船に突入成功、米軍軽空母などに多大な損害を与える。この戦果は米軍により記録されており、後に第26振武隊の攻撃方法は航空自衛隊の戦術研究として取り上げられた。

‥ということで新記事はまた近々にUPしますのでしばしご容赦を‥

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