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2015年5月

☆G.W.は、赤塚郷から始まった。

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暑い。いや、熱い。風薫る5月なのに。。


先日、テレビの情報番組で、なぜG.W.はゴールデンウイークと呼ばれるのかと言う解説をしていた。
答はこうだ。

1951年(昭和26年)5月5日(土)、同じ原作を大映と松竹が同じ題名で映画化した「自由学校」が同時に封切られ、大映版の方は会社創業以来の興行成績を記録した。
正月映画やお盆映画に匹敵するヒット作が出たことに気をよくした当時の大映常務取締役の松山英夫が、この時期を「ゴールデンウィーク」と名付けて宣伝に利用したのが定着し、一般にも使われるようになったのが始まりとされている。

「自由学校」は朝日新聞に1950年5月26日~同年12月11日に連載された獅子文六による長編小説である。獅子文六は当時の人気作家の一人で、その作品の多くが映画化されており、この作品については松竹と大映の両方が映画化権を得たことで競作となった。
 
ストーリーは、自由が欲しいという理由で会社を辞めた五百助(松竹:佐分利信、大映:小野文春)が妻の駒子(松竹:高峰三枝子、大映:木暮実千代)に家を追い出され、ルンペン暮らしの末に和解して家に戻るまでを描いたものである。


さてさてさて。

この映画「自由学校」の大映版だけど、実は我が赤塚郷で撮影されている。(‥全編ではないですが。)
主人公夫婦は、空襲の激しくなった都心を離れ、郊外の農村地帯へ疎開して来た設定だ。戦後になっても、まだ農家の離れに住んでいる。その、最寄駅が下赤塚駅なのだ。(映画内では駅名を武蔵間駅と変えられている。)撮影に使った農家も、おそらく赤塚の農家だろう。昭和50年頃まで、茅葺の大きな農家はあたりまえのように存在していた。

映画に登場する”下赤塚駅”の駅前風景は、さすがに65年前だけあって今とは全然違うけど、でも、よく見ると理解できると思う。特に駅横の踏切のカットは、カーヴの様子や北側が低くなっている感じは現在と変わらない。
それと、手前に写る旗、なんだかわかります?古い人には懐かしく、若い人には意味がわからんですね。これは踏切警手が電車の接近や通過を知らせてる風景です。昔の踏切は”手動”で踏切の開け閉めをしてたんですよ。

映画が撮影された頃は、まだ北口は無くて駅舎は南口だけだった。佇まいの古さから、昭和5年(1930年)12月29日に開業した初代駅舎と思われる。改札口横に電話ボックスがあるけど、撮影時にはあったんですかねえ?映画中ではここから電話するシーンも出てくる。(後ろ姿の女性は木暮実千代で、電話ボックスから出て商店街を行く。)
写真の”ハヤシ薬局”は雑居ビルになったけど、ダイナマイト酒場の隣に今もある。奥の大きな日本家屋は、現在、1階が「すき屋」で2階が居酒屋「はなの舞」が入ったビルだけど、建物の角度が同じで、形も似ているのですぐわかりますね。

他にも疎開先の農家から飛び出した五百助が駅まで向かうシーンや、雑木林で暴漢に襲われるシーン(コメディタッチ)なんかもありますが、いったいどこのド田舎なんだ?というロケーションで、撮影場所は見当もつかないけれど、でも赤塚郷のどこかなのは間違いない。それは、この、どこのド田舎なんだ?という雑木林の風景を、遥か昔の子供時代に、自分は確かに見ているからだ。

「自由学校」の映画は、以前VHS版がレンタル用に発売されたけど、今はなかなか見つけられない。どうも版権は角川に移ったようだがDVD化はされておらず、いつか発売されることを望むばかりである。

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☆終戦70周年紀年☆〜刈谷さんの遺品よ、永遠に〜

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夏真っ盛りのような気候が続きますね‥

1日過ぎてしまったけれど、9年前(2006年)の5月14日、神田須田町にあった「交通博物館」が85年の歴史に幕を下ろし閉館した。(1921年開館、1936年、東京駅近くより神田へ移転。)
最初は「鉄道博物館」として開業したけれど、戦後は「交通博物館」として陸・海・空の交通全般を扱う博物館となった。

建物は増築を繰り返したけれど基本的には姿は変わらず、時代から取り残された感が漂い、平成に入ってからはその”昭和的”佇まいから熱狂的なファンもいたけれど、入館者数は低迷していた。
しかし、閉館が告知されるや過去のファンや俄かファンも大挙して押し寄せ、大変な騒ぎになったことを思い出す。

ファンの多くは鉄道が目当てだったけれど、2階や3階に展示された船や車、飛行機にも、それぞれのファンたちが名残を惜しみに訪れていた。博物館側もこれで最後だと、普段は収蔵庫に眠っている資料を新たにコーナーを設け、特別に展示していた。そんな3階の航空機ブースの展示ケースの中に、ひっそりと旧日本軍戦闘機で使われていた計器が置かれていた。その計器、「九七式高度計」を寄贈した人物こそ、成増陸軍飛行場を根拠地としていた、飛行47戦隊の整備中隊長として有名な刈谷正意さんだった。

博物館の記録によると、高度計は昭和60年代に寄贈されたものらしい。当時、70代を迎えようとする刈谷さんが、同じフロアに展示されている、戦時中に整備に腐心した四式戦疾風に搭載されていた誉エンジン(ハー45)に会いに来ていたことから、寄贈を思い立ったのだろう。

刈谷さんは終戦時、47戦隊とともに山口県の小月飛行場にいた。最後の仕事は、連合国の通達により、戦隊所属機の武装解除をすることだった。悔し泣きをしながらプロペラを外し、戦闘機の前に並べたと言う。
後年、感情が先走ったまま調べもせず書かれた終戦時の手記などでは、8月15日から数日後に進駐軍のジープが接収に来たなどと書かれている場合があるけど、白旗を上げたが直前まで殺し合いをやっていた相手の陣地にほいほいやってくることはありえず、まずは武装解除を徹底させ、それを空から偵察機で確認し、しかるべき手続きを踏んでから進駐を始めるのだ。

刈谷さんが寄贈した高度計は、おそらくこの時に取り外して記念に持ち帰ったものなのだろう。刈谷さんの生前、何度かお宅にお邪魔させていただいたが、部屋の本棚の上には他にもいくつかの計器類が飾られていた。

この「九七式高度計」は、現在、大宮の鉄道博物館の収蔵庫に収められている。もともとは交通博物館を運営していた交通文化振興財団が刈谷さんから寄贈を受けたが、閉館後、鉄道関係以外の収蔵品は借りていたものは借主に返還し、借主が事情により受け入れられない場合は替わりを探して引き受けてもらっていた。しかし、個人から寄贈された資料は返還できず、そのまま、交通文化振興財団の後を引き継いだ鉄道博物館を運営するJR東日本文化財団の元に渡った。

実は、これが問題なのだ。

交通博物館は、民営化前までは財団の親会社が国鉄だったので、ある意味公共性が高く、ノーブルさも持ち合わせていた。ところが鉄道博物館は、JR東日本が子会社の財団に運営を任せている企業博物館であり、JR東日本のアピールをする場でもある。それゆえ鉄道関係以外の物を展示することはしないし、せいぜい船は国鉄連絡船、陸は国鉄バスを扱うのみなのだ。


鉄道博物館の収蔵庫には、こうした旧交通博物館から引き継いだ鉄道以外の交通関係資料が、恐らく永遠に日の目を見ることなく眠り続けるのだろう。。

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☆終戦70周年紀年☆〜47戦隊機、雲層ヲ突破セヨ〜

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 シツコイですが暑い‥いや熱い。。にもかかわらず、くるまやラーメンの担々麺にすっかりはまってしまってマス。。もうこの世にこの一杯があれば十分ですネ。。あ、それと満洲のぎょうざモ。。


70年前の本日、成増陸軍飛行場を根拠地とする飛行47戦隊は、本土防空戦隊(すでに帝都防衛の任からは外されている。)として、沖縄特攻隊援護の任務を命じられ、九州の都城東飛行場へ移動を開始した。すでに同地にて特攻隊援護に就いていた第100飛行団がその戦力をほぼ失い、交代任務の命令を受けたのである。

今年は終戦70年の周年紀年なので、第2中隊におられたある空中勤務者の方よりご提供いただいた成増を離れる前後の日記を公開しますね。(一部略)


5月25日(金)
夜半より敵の空襲あり。火焔は天に反映し物凄し。本日、松崎大尉都城に向け出発す。

5月26日(土)
出発準備、羅針盤修正など。

5月27日(日)
10時前、基地成増を出発す。見送人多数ありたるも折から稀に見る濃霧の為、上空より皆目見送人は見えず、雲層を突破して調布飛行場上空にて空中集合、発進す。相模湾にてエンジンイキをつき、相模飛行場まで引返したが恢復。単機を以て大正飛行場に前進、1230着陸異常なし。
26FKR(教育飛行隊)で戦友なりし深瀬少尉246FR(飛行戦隊)に在り奇遇す。満州以来の久闊を叙す。上野少尉は2単にて殉職した旨聞く、惜しむ死。246FRにて歓待をうけ(奥田戦隊長はここで中隊長であった。)
1630頃離陸、又もエンジン不調となり、編隊に逐次おくれたるも九州に入る頃から恢復し追及、隊長僚機の定位につく。飛行場は附属施設は皆無、弾痕だらけ、一筋の修理した滑走路あるのみ。夕日を真向に受け一寸見えず、1830都城西飛行場に着陸す。
全行程900キロ、エンジン不調、燃料消費に神経を使い、消耗す。戦隊出発27機、都城着僅かに19機なり。

5月28日
特攻隊出発の為、1500〜1730都城上空制空の為12機出動。一般に整備不良にて大石少尉、沖野少尉共に不時着す。沖野機は内部故障の模様。


5月25日の夜間空襲とは、山手空襲のことですね。原宿や青山、目黒や皇居が焼けた空襲です。松崎大尉は昭和19年11月1日、B-29が初めて帝都上空を写真偵察した際にキー44二式戦(鍾馗)で迎撃するが、高高度を飛行するB-29を追跡できず戦隊に対し空対空特攻攻撃を進言、後に自身が震天制空隊員に任命される。昭和20年7月22日、小月飛行場上空でグラマンと交戦中に被弾、山中に墜落戦死。

出発準備として、第3中隊桜隊は靖国神社へ戦勝祈願に行っています。前任の第100飛行団は、連日の激務と飛行場への空襲で飛行隊はほぼ壊滅、戦死者多数を出していた。

当時、すべての47戦隊機は最新鋭のキー84四式戦(疾風)に改編されていた。47戦隊には四式戦整備の神様といわれた刈谷中尉が整備中隊長を務めていたが、成増を飛び立ったうちの実に3分の一の四式戦がエンジン不調で他基地へ不時着してしまう。
前線基地であった都城東飛行場へは敵機の空襲を避けるため、日が暮れる寸前を狙って着陸した。すでに飛行場設備は空襲で破壊され、穴だらけの滑走路への着陸は困難だったという。
飛行隊を見送ったのち、刈谷さんたち整備隊など150名は陸路、都城へ向かった。


戦隊の空中勤務者たちは、機材の不良により気力体力を奪われ消耗していたが、風雲急を継ぐ最前線基地、ゆっくり休む間もなく出動する。特攻機援護任務は待ったなしであった。


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☆終戦70周年紀年☆〜第194振武隊・堀山隊長の場合。〜

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 今日はアバンなしです。


前回UPした47戦隊九州移動の記事と前後しますが、70年前の5月23日、特攻隊・第193、194振武隊が成増陸軍飛行場を根拠地とする飛行47戦隊による編成で置かれた。もっとも、隊員は47戦隊員から選ばれたわけではなく、明野教導飛行師団などで訓練をしていた者から選抜され成増に配属された。

当時の状況を、第194振武隊の隊長となった堀山久生少尉の場合について触れてみる。

堀山隊長は、昭和20年3月30日、明野教導飛行師団天竜分教所で乙種学生を終了し、作戦補充要員となった。そして5月10日、堀山隊長と同期2名に「第16飛行団附」の命令が下った。

「赴任時は別命する」との指示で天竜分教所で待機していたが一向に電報はこない。しびれを切らせた堀山隊長らは明野本校に照会電報を打った。すると、「何故赴任せぬか」との変電がきた。5月21日、3人は東京へ向かった。

翌22日、下館の16飛行団に赴き団長の山田邦雄中佐に申告すると、中佐は不快そうにこう言い放った。「諸官に来て貰ったのは承知の通り、特攻隊長要員である。然るに赴任してこない。また身辺の整理をして来た気配もない。もっての他である。」と睨みつけられた。

団長室を追い出された3人は、幕僚室の野田少佐を訪ねた。訳も分からず野田少佐に子細を説明すると、「そうか、明野のやりそうな(特攻を明示しない)ことだ」と頷いていた。この時点まで、堀山隊長らは特攻要員となっていたことを知らなかったのだ。すでに16飛行団では編成は進み、振武隊長は残り1名あれば良くあとは明野に戻れ、と言われてしまう。

3人は、「こんな恥をかかされ明野には帰れない、団に置いてくれ」と野田少尉に食い下がるが、1名以外は市ヶ谷の第30戦闘飛行集団に行って指示を受けろと言われ、23日、堀山隊長は他1人と市ヶ谷に出向いた。
ところが、市ヶ谷でも編成は終わったと告げられ、納得出来ないふたりは編成名簿を見せてもらい、必死に探すと成増編成に隊長2名欠員との記述を発見、その(第193・194)振武隊長に志願し、それが認められた。

こうして2人は意気揚々とトラックに乗り込み、成増陸軍飛行場に向かったのであった。

以上のように、当時は様々な混乱を来していた訳で、他にもいろんなケースが存在していたんでしょうね。堀山隊長らは、特攻隊長要員となっていたことを知らなかったけれど、特攻隊への志願書は提出している。
成増で他の隊員が集まるのを待ったが、乗機の四式戦が来ないことと、配属の47戦隊が都城へ転進したため1週間後に館林飛行場に移動した。その後、堀山隊長らは本土決戦要員に回されたため、第193・194振武隊は出撃をせず館林で終戦を迎える。

堀山隊長は、数年前に一時体調を崩してしまったが現在もご健在であり、時々、メールを通して相談に応じていただいている。当時の現役陸軍将校で特攻隊長でもあり、頭脳も言葉もしっかりしておられるのでマスコミなどから引っ張られることも多い。特に今年は戦後70年という紀年でもあり、8月1日に産経新聞の地元販売所の企画で、府中の大国魂神社会館で講演会を行う予定なのだとか。

極暑の最中、無理はして欲しくないと思うけれど、「小生が生きているうちはお使い下さい。」との由、さすが元将校と感動しきりですね。。

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