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☆G.W.は、赤塚郷から始まった。

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暑い。いや、熱い。風薫る5月なのに。。


先日、テレビの情報番組で、なぜG.W.はゴールデンウイークと呼ばれるのかと言う解説をしていた。
答はこうだ。

1951年(昭和26年)5月5日(土)、同じ原作を大映と松竹が同じ題名で映画化した「自由学校」が同時に封切られ、大映版の方は会社創業以来の興行成績を記録した。
正月映画やお盆映画に匹敵するヒット作が出たことに気をよくした当時の大映常務取締役の松山英夫が、この時期を「ゴールデンウィーク」と名付けて宣伝に利用したのが定着し、一般にも使われるようになったのが始まりとされている。

「自由学校」は朝日新聞に1950年5月26日~同年12月11日に連載された獅子文六による長編小説である。獅子文六は当時の人気作家の一人で、その作品の多くが映画化されており、この作品については松竹と大映の両方が映画化権を得たことで競作となった。
 
ストーリーは、自由が欲しいという理由で会社を辞めた五百助(松竹:佐分利信、大映:小野文春)が妻の駒子(松竹:高峰三枝子、大映:木暮実千代)に家を追い出され、ルンペン暮らしの末に和解して家に戻るまでを描いたものである。


さてさてさて。

この映画「自由学校」の大映版だけど、実は我が赤塚郷で撮影されている。(‥全編ではないですが。)
主人公夫婦は、空襲の激しくなった都心を離れ、郊外の農村地帯へ疎開して来た設定だ。戦後になっても、まだ農家の離れに住んでいる。その、最寄駅が下赤塚駅なのだ。(映画内では駅名を武蔵間駅と変えられている。)撮影に使った農家も、おそらく赤塚の農家だろう。昭和50年頃まで、茅葺の大きな農家はあたりまえのように存在していた。

映画に登場する”下赤塚駅”の駅前風景は、さすがに65年前だけあって今とは全然違うけど、でも、よく見ると理解できると思う。特に駅横の踏切のカットは、カーヴの様子や北側が低くなっている感じは現在と変わらない。
それと、手前に写る旗、なんだかわかります?古い人には懐かしく、若い人には意味がわからんですね。これは踏切警手が電車の接近や通過を知らせてる風景です。昔の踏切は”手動”で踏切の開け閉めをしてたんですよ。

映画が撮影された頃は、まだ北口は無くて駅舎は南口だけだった。佇まいの古さから、昭和5年(1930年)12月29日に開業した初代駅舎と思われる。改札口横に電話ボックスがあるけど、撮影時にはあったんですかねえ?映画中ではここから電話するシーンも出てくる。(後ろ姿の女性は木暮実千代で、電話ボックスから出て商店街を行く。)
写真の”ハヤシ薬局”は雑居ビルになったけど、ダイナマイト酒場の隣に今もある。奥の大きな日本家屋は、現在、1階が「すき屋」で2階が居酒屋「はなの舞」が入ったビルだけど、建物の角度が同じで、形も似ているのですぐわかりますね。

他にも疎開先の農家から飛び出した五百助が駅まで向かうシーンや、雑木林で暴漢に襲われるシーン(コメディタッチ)なんかもありますが、いったいどこのド田舎なんだ?というロケーションで、撮影場所は見当もつかないけれど、でも赤塚郷のどこかなのは間違いない。それは、この、どこのド田舎なんだ?という雑木林の風景を、遥か昔の子供時代に、自分は確かに見ているからだ。

「自由学校」の映画は、以前VHS版がレンタル用に発売されたけど、今はなかなか見つけられない。どうも版権は角川に移ったようだがDVD化はされておらず、いつか発売されることを望むばかりである。

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コメント

以前に赤塚新町に在住していたんですが、そのため非常に興味深く面白かった。まさかハヤシストアが昭和26年の映画に映り込んでいたとは。
登場する駅舎が昭和5年の開業当時のものと推測されるものとか、駅前の踏切のことや、今はビルなってる農家の立っている角度とかのディテール指摘が有り難くも素晴らしい。こういう今は現存しない風景のディテール描写は文章のタイムマシンと呼びたいほどです。

投稿: ブルー | 2015年10月31日 (土) 10時24分

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