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☆終戦70周年紀年☆〜第194振武隊・堀山隊長の場合。〜

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 今日はアバンなしです。


前回UPした47戦隊九州移動の記事と前後しますが、70年前の5月23日、特攻隊・第193、194振武隊が成増陸軍飛行場を根拠地とする飛行47戦隊による編成で置かれた。もっとも、隊員は47戦隊員から選ばれたわけではなく、明野教導飛行師団などで訓練をしていた者から選抜され成増に配属された。

当時の状況を、第194振武隊の隊長となった堀山久生少尉の場合について触れてみる。

堀山隊長は、昭和20年3月30日、明野教導飛行師団天竜分教所で乙種学生を終了し、作戦補充要員となった。そして5月10日、堀山隊長と同期2名に「第16飛行団附」の命令が下った。

「赴任時は別命する」との指示で天竜分教所で待機していたが一向に電報はこない。しびれを切らせた堀山隊長らは明野本校に照会電報を打った。すると、「何故赴任せぬか」との変電がきた。5月21日、3人は東京へ向かった。

翌22日、下館の16飛行団に赴き団長の山田邦雄中佐に申告すると、中佐は不快そうにこう言い放った。「諸官に来て貰ったのは承知の通り、特攻隊長要員である。然るに赴任してこない。また身辺の整理をして来た気配もない。もっての他である。」と睨みつけられた。

団長室を追い出された3人は、幕僚室の野田少佐を訪ねた。訳も分からず野田少佐に子細を説明すると、「そうか、明野のやりそうな(特攻を明示しない)ことだ」と頷いていた。この時点まで、堀山隊長らは特攻要員となっていたことを知らなかったのだ。すでに16飛行団では編成は進み、振武隊長は残り1名あれば良くあとは明野に戻れ、と言われてしまう。

3人は、「こんな恥をかかされ明野には帰れない、団に置いてくれ」と野田少尉に食い下がるが、1名以外は市ヶ谷の第30戦闘飛行集団に行って指示を受けろと言われ、23日、堀山隊長は他1人と市ヶ谷に出向いた。
ところが、市ヶ谷でも編成は終わったと告げられ、納得出来ないふたりは編成名簿を見せてもらい、必死に探すと成増編成に隊長2名欠員との記述を発見、その(第193・194)振武隊長に志願し、それが認められた。

こうして2人は意気揚々とトラックに乗り込み、成増陸軍飛行場に向かったのであった。

以上のように、当時は様々な混乱を来していた訳で、他にもいろんなケースが存在していたんでしょうね。堀山隊長らは、特攻隊長要員となっていたことを知らなかったけれど、特攻隊への志願書は提出している。
成増で他の隊員が集まるのを待ったが、乗機の四式戦が来ないことと、配属の47戦隊が都城へ転進したため1週間後に館林飛行場に移動した。その後、堀山隊長らは本土決戦要員に回されたため、第193・194振武隊は出撃をせず館林で終戦を迎える。

堀山隊長は、数年前に一時体調を崩してしまったが現在もご健在であり、時々、メールを通して相談に応じていただいている。当時の現役陸軍将校で特攻隊長でもあり、頭脳も言葉もしっかりしておられるのでマスコミなどから引っ張られることも多い。特に今年は戦後70年という紀年でもあり、8月1日に産経新聞の地元販売所の企画で、府中の大国魂神社会館で講演会を行う予定なのだとか。

極暑の最中、無理はして欲しくないと思うけれど、「小生が生きているうちはお使い下さい。」との由、さすが元将校と感動しきりですね。。

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