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☆終戦70周年紀年☆〜刈谷さんの遺品よ、永遠に〜

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夏真っ盛りのような気候が続きますね‥

1日過ぎてしまったけれど、9年前(2006年)の5月14日、神田須田町にあった「交通博物館」が85年の歴史に幕を下ろし閉館した。(1921年開館、1936年、東京駅近くより神田へ移転。)
最初は「鉄道博物館」として開業したけれど、戦後は「交通博物館」として陸・海・空の交通全般を扱う博物館となった。

建物は増築を繰り返したけれど基本的には姿は変わらず、時代から取り残された感が漂い、平成に入ってからはその”昭和的”佇まいから熱狂的なファンもいたけれど、入館者数は低迷していた。
しかし、閉館が告知されるや過去のファンや俄かファンも大挙して押し寄せ、大変な騒ぎになったことを思い出す。

ファンの多くは鉄道が目当てだったけれど、2階や3階に展示された船や車、飛行機にも、それぞれのファンたちが名残を惜しみに訪れていた。博物館側もこれで最後だと、普段は収蔵庫に眠っている資料を新たにコーナーを設け、特別に展示していた。そんな3階の航空機ブースの展示ケースの中に、ひっそりと旧日本軍戦闘機で使われていた計器が置かれていた。その計器、「九七式高度計」を寄贈した人物こそ、成増陸軍飛行場を根拠地としていた、飛行47戦隊の整備中隊長として有名な刈谷正意さんだった。

博物館の記録によると、高度計は昭和60年代に寄贈されたものらしい。当時、70代を迎えようとする刈谷さんが、同じフロアに展示されている、戦時中に整備に腐心した四式戦疾風に搭載されていた誉エンジン(ハー45)に会いに来ていたことから、寄贈を思い立ったのだろう。

刈谷さんは終戦時、47戦隊とともに山口県の小月飛行場にいた。最後の仕事は、連合国の通達により、戦隊所属機の武装解除をすることだった。悔し泣きをしながらプロペラを外し、戦闘機の前に並べたと言う。
後年、感情が先走ったまま調べもせず書かれた終戦時の手記などでは、8月15日から数日後に進駐軍のジープが接収に来たなどと書かれている場合があるけど、白旗を上げたが直前まで殺し合いをやっていた相手の陣地にほいほいやってくることはありえず、まずは武装解除を徹底させ、それを空から偵察機で確認し、しかるべき手続きを踏んでから進駐を始めるのだ。

刈谷さんが寄贈した高度計は、おそらくこの時に取り外して記念に持ち帰ったものなのだろう。刈谷さんの生前、何度かお宅にお邪魔させていただいたが、部屋の本棚の上には他にもいくつかの計器類が飾られていた。

この「九七式高度計」は、現在、大宮の鉄道博物館の収蔵庫に収められている。もともとは交通博物館を運営していた交通文化振興財団が刈谷さんから寄贈を受けたが、閉館後、鉄道関係以外の収蔵品は借りていたものは借主に返還し、借主が事情により受け入れられない場合は替わりを探して引き受けてもらっていた。しかし、個人から寄贈された資料は返還できず、そのまま、交通文化振興財団の後を引き継いだ鉄道博物館を運営するJR東日本文化財団の元に渡った。

実は、これが問題なのだ。

交通博物館は、民営化前までは財団の親会社が国鉄だったので、ある意味公共性が高く、ノーブルさも持ち合わせていた。ところが鉄道博物館は、JR東日本が子会社の財団に運営を任せている企業博物館であり、JR東日本のアピールをする場でもある。それゆえ鉄道関係以外の物を展示することはしないし、せいぜい船は国鉄連絡船、陸は国鉄バスを扱うのみなのだ。


鉄道博物館の収蔵庫には、こうした旧交通博物館から引き継いだ鉄道以外の交通関係資料が、恐らく永遠に日の目を見ることなく眠り続けるのだろう。。

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