« 祝!☆ペンギン来日100周年☆ | トップページ | 板橋区民、OUT THEREする。 »

板橋区民だが、板橋区には興味も関心も愛着も感じない。

20150418_172724_220150418_173105_220150418_173258_2

 新年度に入りましたが、新記事のUP頻度が滞るようになってしまいました。。
今年は戦後70周年なので、戦争の話題を書けば‥とは思いますが、(先週は板橋区内最大の被害を受けた城北地区大空襲がありました。)過去に何度も記事にしているしなあ、、などと考えているうちに日が過ぎてしまい‥なんて体たらくな状態っす。

まっ、そんな時には若気の至りで起こした恥ずかしい想い出も交えつつ、時事の話をからめた雑文を書いてみますので、お付き合いくださいネ。


平成26年度最後の「広報いたばし・3月28日発行」に、「高島平地域グランドデザインへのパブリックコメントを募集します。」という募集記事が載っていた。それと同時期に、グランドデザインをまとめた冊子も発行された。これは板橋区役所のH.P.上でも公開されている。

ええっと、ざっと目を通してみての感想だけど、このような冊子はおそらく板橋区が独自に作成したものではなく、どこぞのコンサルティングやプランニングの会社が板橋区より依頼を受けて作成したのだと思われる。まあそれ自体には別に異論はないけれど、慣れたディレクターやデザイナーがパワーポイントみたいなソフトを駆使し、高島平のリスクもそっと入れつつ夢を語る、そんな感じの作りだ。作成者は理想の街として吉祥寺や二子玉川を念頭に置いているんじゃないか、との感じを受けた。

‥、ああいやだ。。おじさんの域に達してしばらく経つと、人間性がますます悪くなってくる。。物事を考える時も、ついつい否定や批判から入ろうとしてしまう。。

そう、高島平と言えば、例のホタル館の事件とかD東大学の某教授による街づくり実験サギとか、どうもうさんくささが先に立ってしまう。立派なカタログを作り、夢を見させるのも良いけれど、それと同時に、この企画を利用し利権を得ようとか儲けようとする魑魅魍魎共が涎を垂らして群がってくる様が見て取れるようだ。

もっとも、中にはスマートエネルギーの導入など、ああこれは良いなあと思う企画もある。清掃工場から得られるエネルギーの使い方を見直し、災害時でも街全体にライフラインを確保できるようにする計画だ。(清掃工場がストップしたらどうなんのよ、なんて事もありますが)
高島平地区は、荒川や新河岸川に隣接し、ハザードマップでは街全体が2メートル水没してしまうと試算されている。他にも、大規模震災時に土地の液状化現象が起こるリスクも抱えているけれど、この問題をクリアし、さらにスマートエネルギーが導入されれば、それだけで大人気の街になるだろう。私だって住みたい。別に、吉祥寺や二子玉川化なんてしなくてもイイと思いますがね。

あとはまあ、子供を抱えて働く方のために夜まで利用できる格安の保育所の充実とか徹底したバリアフリー化とか、会社の本社を置けるような環境とかですかねえ。三田線の10両編成化も必要かな。荒川以北の埼玉方面や東上線とは繋げなくてもいいと思う。それと、高級スーパーも欲しいなあ‥。電車乗ってデパート行きゃいいじゃん、なんてのは年寄りには面倒くさいっす。三徳やカルディなんかじゃダメダメっす。

街の再開発計画では、とにかくまず商業施設の充実を図ろうとするけれど、大事なのは”人”が先にこなきゃダメなんだとおもいますね。安全で住み易い街になれば自然と資本が集まり商業施設も充実してくるような気がします。。

‥と、キレイには終わりません。本日は豪華二部構成です。今回のタイトルを念頭に置いて下さいね。

あっしが”板橋区を趣味にしよう”と決めたのが1990年代の半ばころ。最近はサボり気味ですが、区内の記録撮影なども積極的にしていました。
1998年初めにSonyの名機、VX-1000(高画質3CCDを採用した、小型デジタルビデオカメラレコーダーの第1号機。DV端子を初めて搭載した最上位モデル。テレビ局のサブカメラとしても使用された。)を購入し、動画の記録もはじめた。確か最初に撮影したのが、現在のイオン板橋店の開発だった。大木伸銅工場の様子から住民説明会、工事開始からサティオープンまでくまなく撮影した。(動画の一部はユーチューブ上に公開してマス。)https://youtu.be/agDZDnv5BfQ

1999年1月に、AppleからPower Macintosh G3 (Blue & White)が発売され、ビデオ編集がパソコン上で容易に(現在に比べれば全然劣りますが‥)できるようになりました。

他にも、拡張前の環八小豆沢付近や消滅した大山西町商店街など、あと20年もしたらお宝となる映像もある。

さて、ビデオカメラを購入し、編集もなんとかできる環境を得たけれど、肝心の撮影の仕方や編集のポイントなどさっぱりわからない。そこで若気の至り、今でも赤面ものですが、ずうずうしくも当時、板橋区内にお住まいだった映画監督の黒木和雄氏に手紙を書き、教えを乞おうとした。(書店に「マスコミ連絡帳」という本が売っていて、そこにはマスコミや作家、俳優、ミュージシャンなど著名人への連絡先一覧が載っており、その本で板橋区内を連絡先としている著名人を調べていたので、その時に黒木氏の連絡先を知った。)

「黒木和雄氏は、1930年に三重県の松坂で生まれた。その後、家族で満州へ渡り戦時中に宮崎県えびの市に移り高校まで過ごす。同志社大学を卒業後、岩波映画製作所へ入社し修行。企業のPR映画を監督するけど、もともとは劇映画の撮影を志していたため退社し、1966年に初めての劇映画を東宝で製作。その後はATGを製作基盤として活躍する。2006年4月没。」

いきなり出した失礼なお願いの手紙に対し、黒木氏はきちんと返信をして下さった。そこには豪快な筆跡で丁寧な内容だけれども、「私は蓮根団地に40年以上住んでますが、地元に対して興味も関心も愛着もありません。」と書かれていた。これは、”板橋区を趣味とする”と宣言していた自分にはショックな内容だった。世の中には地元に関心がない人もいるんだなあ‥、いや、声を大にして言わないだけで案外そんな人も多いのかもしれない、と気がつくきっかけともなった。

手紙には”自分のことを理解してほしい”との意味なのか、ご自身の業績が描かれたドキュメンタリー冊子「黒木和雄の世界」と言う本が同封されていた。ホントに恥ずかしいのだが、自分は黒木氏の作った作品を見たこともなく、また当時はインターネットのコンテンツも貧弱で、ほとんど黒木氏のことを知らない状態だった。御本を拝読し、大いに赤面をしたのでした。。

ようするに黒木和雄氏は、映画製作に没頭した人生を歩んでおり、現在住んでいる場所に関心を持つ余裕はなく、住居を求めた時、たまたま蓮根団地を選んだだけだったのだ。
黒木氏は1990年代に大病を発し療養していたが、私が手紙を送った頃に復活し、精力的に作品制作に取り組み始めたけれど、2006年4月に脳梗塞で倒れ、高島平中央病院で亡くなった。


結局、ビデオ撮影や編集は自分で勉強するしかないかと思い、それまでなんとなく見ていたテレビ番組を、撮影や編集の視点で視聴するようにし、腕試しに夕方のNHK首都圏ネットワーク内で水曜日に放映していた「みんなのビデオ」コーナー」に作品を投稿することを始めた。

まず、採用された作品を分析し、1回で採用される作品は3本、祭りや行事などは放映時間1分10秒前後とわかった。そこで、起承転結のシナリオを作り、投稿する映像の尺をのりしろをつけても5分以内に収まるようカット編集し、各シーンでのナレーション用の参考文も付けて投稿した。これは作品を選考する側の負担を減らす配慮だ。また、なるべくならば正月風景など撮影者(ライバル)が多く投稿する題材や時期をはずすようにした。すると、投稿した作品は7割くらいの確率で採用、放映された。(赤塚城跡近くの旧家の蔵を解体する前に中の品を郷土資料館が調査する様子や、結成されたばかりの西洋流砲術隊が演武する様子など他に数本)
放映されると、当時1万円くらいの謝礼と未使用のDVテープ2本、NHKノベルティグッズなどが貰えた。

しかし、首都圏ネットワークは情報番組なので、突発的な事件事故が起こるとコーナーが飛んでしまい、投稿作品の旬を逃すと放映はされず、決定的だったのは2000年6月に起こった三宅島の噴火で、数カ月間に渡りコーナーが行われず、投稿意欲も削がれ以降はあまり送らなくなってしまった。


そんなことで最初の話題に戻りますが、世の中にはその街が好きだったり関心を持って住んでいる人ばかりではないこと、声を上げない方が悪いんだから無視すりゃいいんだよ、で行くしかないのかもしれないけれど、声を上げない人は黙って街を去って行くわけで、それはそれでどうなんでしょう、と思ったりしますね。。


|

« 祝!☆ペンギン来日100周年☆ | トップページ | 板橋区民、OUT THEREする。 »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 板橋区民だが、板橋区には興味も関心も愛着も感じない。:

« 祝!☆ペンギン来日100周年☆ | トップページ | 板橋区民、OUT THEREする。 »