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2015年4月

祝!☆ペンギン来日100周年☆

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‥急に寒くなり風邪を引いちゃいました。。


寒いということで、今回はペンギンの話です。

えっ、2年前にも記事にしたじゃん、なんて野暮は言わんでください。あれはちょっと話題にするのが早すぎたんス。今年で来日ちょうど100周年と言うことで、よろしく願いマス。。


掲出のペンギンの画は、常盤台住宅が誕生した時に移住してきた、日本画家の西沢笛畝さんの手によるものです。

西沢笛畝(にしざわ てきほ、1889年(明治22)~1965年(昭和40))東京浅草出身。本名は石川昴一。号は笛畝、比奈舎、木槿庵(木槿盦)、雙来居

大正2年(1913)荒木寛畝に入門。師没後は、荒木十畝に師事。大正4年、第9回文展に「八哥鳥の群れ」が初入選する。同年、西沢仙湖の娘婿として西沢家に入る。以後、文展・帝展に出品する傍ら人形の研究を行う。昭和4年第10回帝展で無鑑査、9年第15回帝展では審査員をつとめる。荒木十畝・池上秀畝亡き後、読画会の代表理事をつとめ、伝統の花鳥画を守る。大正11年(1922)南支那に旅行、また昭和4年(1929)タイに旅行し、人形を収集。国内と東南アジアを中心とした人形コレクションを行う。雛人形研究の権威でもあり、木彫家益田盛人の一生の傑作といわれる内裏雛に色彩を施し、摂政官御婚儀のとき献上する。昭和11年(1936)「童宝文化研究所」を設立。戦後は、「人形玩具文化の会」と称し、理事長を努める。昭和30年(1955)「日本工芸会」創立に際し理事長となる。昭和40年10月24日死去。76歳。


あっしは、かつて笛畝さんの画を収集しようとしましたが、色紙から大作書画まであまりに作品点数が多く、毎週のようにヤフオクに出品されるので早々にあきらめ、資料的な物‥手紙や戦時中に兵隊さんへの慰問として制作されたものなどを中心に収集してきました。そんな収集品の中に、このペンギンの画があります。


ここで、日本に初めてペンギンが来た時の話を一つ。

とりあえず、インターネットで検索をすると‥「1915年、上野動物園に初めてペンギンが来た。」
ということがわかった。うう〜ん、これじゃ情報が少ないとさらに調べると、1999年に平凡社から発行された「ペンギン大百科」という本に記載がある事がわかった。で、ネットで図書館検索をすると、おとなりの練馬区光が丘図書館に所蔵されているらしい。

さっそく光が丘図書館へ行き、「ペンギン大百科」を見てみるとこう書いてあった。
「わが国のペンギン飼育の歴史は1915年6月10日、小沢磯吉という人物が、東京の上野動物園に2羽のフンボルトペンギンを寄贈したのが最初といわれている。」

そうか、でもこの本には出典が載ってないなあ‥小沢磯吉なる人物も誰かわからないし、もっと情報はないものか、と、他の資料を探すと、おお、「上野動物園百年史」(1982年発行)があるじゃないか。

借出してみると本文に記事はないが年表に「1915年 6.10 フンボルトペンギン(2)収容。初来園。」とある。うん、「ペンギン大百科」はこの百年史を参考にしているな、とわかった。じゃあ、小沢磯吉は何を調べれば‥と思案すると、この光が丘図書館はマイクロが見れることを思い出した。<こういうことは当時の新聞記事に出てるかも‥>と考え、さっそく相談デスクにマイクロ使用を申請し、「東京朝日新聞」と「中外商業新報」(現在の日本経済新聞)の該当月を借出した。すると‥おお、「東京朝日新聞」にドンピシャの記事が載ってるじゃありませんか!それは、こんな記事でした。

「●ペンギン鳥来る▽直に死ぬだらう・・東洋汽船株式会社汽船紀洋丸機関長小澤磯吉氏がさきに南米チリ国イキケにて於いて入手したる南極探検にておなじみのペンギン鳥は九日同氏より上野動物園へ寄贈したるを以て同園にては直に園内第二十七号室兒持鶴(こもちづる)の隣室に収容したるが該鳥は南半球に産するものにして南極探検者の常に其生息の状態等を紹介するものあるも生活の儘本邦に到来せるは恐らく今回が初めなり。右につき動物園主任技手の語るところに依ればペンギンは其の種類二十種もありと伝へらるるが今本園到着のものを見るに其の翼は鰭(ヒレ)の如く脚は短くして直立の姿勢を保ち歩行するの状態は頗る奇異なれども一度水に潜るや陸上に於ける態度と一変し遊泳の敏捷巧妙なること到底鴈、鴨の比に非ず実に奇異なる動物なり。元来氷海の極寒冷の地に棲息するもの故日本の如き暖地在ては到底永く生存すること覚束なかるべし。」
東京朝日新聞 大正四年六月十一日
 ※イキケはチリ北部にある都市でタラパカ州の州都

うん、これで大体の事情はわかりました。でも、「ペンギン鳥来る、直に死ぬだらう」というキャプションは、まあ客観的事実としてもヒドイですねえ。

そこで、掲出の笛畝さんのペンギン画を見てみましょう。書幅の右上に「大正乙卯夏七月東都浅草花屋敷飼養南極ベンギン鳥」と書かれてます。大正乙卯夏七月とは大正四年七月のことです。上の新聞記事ではペンギンは上野動物園に大正四年六月九日に寄贈された、とあります。

最初にペンギンが来たのは6月で、その後すぐに花屋敷にも来たってことですかねえ??

ちなみに掲出のカラー彩色の絵はがきは、大正大震災前の浅草花屋敷の絵はがきです。入口横の看板には「ペンギン雄雌来ル」と書かれてますね。もともと植物園だった花屋敷は、明治時代になると見世物の一つとして、古今東西のめずらしい動物を集めて展示していました。(震災の頃は象もいたんですよ。)だからペンギンがいてもおかしくはないですね。当時、浅草に住んでいた笛畝さんは、珍しいペンギンが来たと言うのでいそいそと見学しに行き、画を描いたのでしょう。

さて、問題はペンギンがいつ花屋敷に来たのだろうか‥ということですが、残念ながらそこまでは調べきれませんでした。

それと、疑問点がひとつ。ペンギンマニアの方ならすぐに気がつくかもしれませんが、笛畝さんの画を見てなんか変だと思いませんか?顔が変だと思いませんか?上野動物園に寄贈されたフンボルトペンギンは、顔が黒いはずです。
でも、ネットでペンギンの画像を検索すると、顔が白いのは、アゴヒゲペンギン(ヒゲペンギン)しかいないようです。アゴヒゲペンギンは英名ではChinstrap penguin(アゴヒモペンギン)と言います。学名はPygoscelis antarctica。これは「南極のペンギン」と言う意味で、最初に日本に来たときは「南極ペングイン」と呼ばれていたそうです。
そう、笛畝さんの画にも「南極ベンギン」と書いてあるじゃないっすか!?

ちなみに、物の本にはアゴヒゲペンギンが日本に来たのは戦後になってからと記載されてます。


これはどういうことなんだ!?
ホントに日本に最初に来たペンギンは、上野動物園のフンボルトなんすかねえ?もしかすると花屋敷のアゴヒゲペンギンのほうが早かったりして。。

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板橋区民だが、板橋区には興味も関心も愛着も感じない。

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 新年度に入りましたが、新記事のUP頻度が滞るようになってしまいました。。
今年は戦後70周年なので、戦争の話題を書けば‥とは思いますが、(先週は板橋区内最大の被害を受けた城北地区大空襲がありました。)過去に何度も記事にしているしなあ、、などと考えているうちに日が過ぎてしまい‥なんて体たらくな状態っす。

まっ、そんな時には若気の至りで起こした恥ずかしい想い出も交えつつ、時事の話をからめた雑文を書いてみますので、お付き合いくださいネ。


平成26年度最後の「広報いたばし・3月28日発行」に、「高島平地域グランドデザインへのパブリックコメントを募集します。」という募集記事が載っていた。それと同時期に、グランドデザインをまとめた冊子も発行された。これは板橋区役所のH.P.上でも公開されている。

ええっと、ざっと目を通してみての感想だけど、このような冊子はおそらく板橋区が独自に作成したものではなく、どこぞのコンサルティングやプランニングの会社が板橋区より依頼を受けて作成したのだと思われる。まあそれ自体には別に異論はないけれど、慣れたディレクターやデザイナーがパワーポイントみたいなソフトを駆使し、高島平のリスクもそっと入れつつ夢を語る、そんな感じの作りだ。作成者は理想の街として吉祥寺や二子玉川を念頭に置いているんじゃないか、との感じを受けた。

‥、ああいやだ。。おじさんの域に達してしばらく経つと、人間性がますます悪くなってくる。。物事を考える時も、ついつい否定や批判から入ろうとしてしまう。。

そう、高島平と言えば、例のホタル館の事件とかD東大学の某教授による街づくり実験サギとか、どうもうさんくささが先に立ってしまう。立派なカタログを作り、夢を見させるのも良いけれど、それと同時に、この企画を利用し利権を得ようとか儲けようとする魑魅魍魎共が涎を垂らして群がってくる様が見て取れるようだ。

もっとも、中にはスマートエネルギーの導入など、ああこれは良いなあと思う企画もある。清掃工場から得られるエネルギーの使い方を見直し、災害時でも街全体にライフラインを確保できるようにする計画だ。(清掃工場がストップしたらどうなんのよ、なんて事もありますが)
高島平地区は、荒川や新河岸川に隣接し、ハザードマップでは街全体が2メートル水没してしまうと試算されている。他にも、大規模震災時に土地の液状化現象が起こるリスクも抱えているけれど、この問題をクリアし、さらにスマートエネルギーが導入されれば、それだけで大人気の街になるだろう。私だって住みたい。別に、吉祥寺や二子玉川化なんてしなくてもイイと思いますがね。

あとはまあ、子供を抱えて働く方のために夜まで利用できる格安の保育所の充実とか徹底したバリアフリー化とか、会社の本社を置けるような環境とかですかねえ。三田線の10両編成化も必要かな。荒川以北の埼玉方面や東上線とは繋げなくてもいいと思う。それと、高級スーパーも欲しいなあ‥。電車乗ってデパート行きゃいいじゃん、なんてのは年寄りには面倒くさいっす。三徳やカルディなんかじゃダメダメっす。

街の再開発計画では、とにかくまず商業施設の充実を図ろうとするけれど、大事なのは”人”が先にこなきゃダメなんだとおもいますね。安全で住み易い街になれば自然と資本が集まり商業施設も充実してくるような気がします。。

‥と、キレイには終わりません。本日は豪華二部構成です。今回のタイトルを念頭に置いて下さいね。

あっしが”板橋区を趣味にしよう”と決めたのが1990年代の半ばころ。最近はサボり気味ですが、区内の記録撮影なども積極的にしていました。
1998年初めにSonyの名機、VX-1000(高画質3CCDを採用した、小型デジタルビデオカメラレコーダーの第1号機。DV端子を初めて搭載した最上位モデル。テレビ局のサブカメラとしても使用された。)を購入し、動画の記録もはじめた。確か最初に撮影したのが、現在のイオン板橋店の開発だった。大木伸銅工場の様子から住民説明会、工事開始からサティオープンまでくまなく撮影した。(動画の一部はユーチューブ上に公開してマス。)https://youtu.be/agDZDnv5BfQ

1999年1月に、AppleからPower Macintosh G3 (Blue & White)が発売され、ビデオ編集がパソコン上で容易に(現在に比べれば全然劣りますが‥)できるようになりました。

他にも、拡張前の環八小豆沢付近や消滅した大山西町商店街など、あと20年もしたらお宝となる映像もある。

さて、ビデオカメラを購入し、編集もなんとかできる環境を得たけれど、肝心の撮影の仕方や編集のポイントなどさっぱりわからない。そこで若気の至り、今でも赤面ものですが、ずうずうしくも当時、板橋区内にお住まいだった映画監督の黒木和雄氏に手紙を書き、教えを乞おうとした。(書店に「マスコミ連絡帳」という本が売っていて、そこにはマスコミや作家、俳優、ミュージシャンなど著名人への連絡先一覧が載っており、その本で板橋区内を連絡先としている著名人を調べていたので、その時に黒木氏の連絡先を知った。)

「黒木和雄氏は、1930年に三重県の松坂で生まれた。その後、家族で満州へ渡り戦時中に宮崎県えびの市に移り高校まで過ごす。同志社大学を卒業後、岩波映画製作所へ入社し修行。企業のPR映画を監督するけど、もともとは劇映画の撮影を志していたため退社し、1966年に初めての劇映画を東宝で製作。その後はATGを製作基盤として活躍する。2006年4月没。」

いきなり出した失礼なお願いの手紙に対し、黒木氏はきちんと返信をして下さった。そこには豪快な筆跡で丁寧な内容だけれども、「私は蓮根団地に40年以上住んでますが、地元に対して興味も関心も愛着もありません。」と書かれていた。これは、”板橋区を趣味とする”と宣言していた自分にはショックな内容だった。世の中には地元に関心がない人もいるんだなあ‥、いや、声を大にして言わないだけで案外そんな人も多いのかもしれない、と気がつくきっかけともなった。

手紙には”自分のことを理解してほしい”との意味なのか、ご自身の業績が描かれたドキュメンタリー冊子「黒木和雄の世界」と言う本が同封されていた。ホントに恥ずかしいのだが、自分は黒木氏の作った作品を見たこともなく、また当時はインターネットのコンテンツも貧弱で、ほとんど黒木氏のことを知らない状態だった。御本を拝読し、大いに赤面をしたのでした。。

ようするに黒木和雄氏は、映画製作に没頭した人生を歩んでおり、現在住んでいる場所に関心を持つ余裕はなく、住居を求めた時、たまたま蓮根団地を選んだだけだったのだ。
黒木氏は1990年代に大病を発し療養していたが、私が手紙を送った頃に復活し、精力的に作品制作に取り組み始めたけれど、2006年4月に脳梗塞で倒れ、高島平中央病院で亡くなった。


結局、ビデオ撮影や編集は自分で勉強するしかないかと思い、それまでなんとなく見ていたテレビ番組を、撮影や編集の視点で視聴するようにし、腕試しに夕方のNHK首都圏ネットワーク内で水曜日に放映していた「みんなのビデオ」コーナー」に作品を投稿することを始めた。

まず、採用された作品を分析し、1回で採用される作品は3本、祭りや行事などは放映時間1分10秒前後とわかった。そこで、起承転結のシナリオを作り、投稿する映像の尺をのりしろをつけても5分以内に収まるようカット編集し、各シーンでのナレーション用の参考文も付けて投稿した。これは作品を選考する側の負担を減らす配慮だ。また、なるべくならば正月風景など撮影者(ライバル)が多く投稿する題材や時期をはずすようにした。すると、投稿した作品は7割くらいの確率で採用、放映された。(赤塚城跡近くの旧家の蔵を解体する前に中の品を郷土資料館が調査する様子や、結成されたばかりの西洋流砲術隊が演武する様子など他に数本)
放映されると、当時1万円くらいの謝礼と未使用のDVテープ2本、NHKノベルティグッズなどが貰えた。

しかし、首都圏ネットワークは情報番組なので、突発的な事件事故が起こるとコーナーが飛んでしまい、投稿作品の旬を逃すと放映はされず、決定的だったのは2000年6月に起こった三宅島の噴火で、数カ月間に渡りコーナーが行われず、投稿意欲も削がれ以降はあまり送らなくなってしまった。


そんなことで最初の話題に戻りますが、世の中にはその街が好きだったり関心を持って住んでいる人ばかりではないこと、声を上げない方が悪いんだから無視すりゃいいんだよ、で行くしかないのかもしれないけれど、声を上げない人は黙って街を去って行くわけで、それはそれでどうなんでしょう、と思ったりしますね。。


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板橋区民、OUT THEREする。

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 暑いんだか寒いんだか‥


OUT THERE。(外へ行く、または ぶっ飛ぶぜ!の意。)
昨晩、板橋区民は東京ドームへ赴いた。ポール・マッカートニーの「OUT THERE JAPAN TOUR 2015」に参加するためだ。

「OUT THERE JAPAN TOUR 」は一昨年に続き2回目だが、本来は昨年、現在解体作業が進む国立競技場で行われる予定だったが、コンサート直前ポールが体調を崩し全公演が中止となってしまい、今回の再公演となったのだ。
板橋区民は2002年、2013年に続いて3度目のコンサート参戦だ。S席で18000円、先行予約で買うと手数料込みで19000円もする高額なチケット、それでも超満員御礼なんだからさすが元ビートルズのレジェンド、ポール・マッカートニー様である。ポールは御歳72歳、5万人近い観客を前に30曲以上を歌い、演奏する。すでにワタシの父親の亡くなった年齢を超えている、もうすぐ後期高齢者の老人だなんてとても信じられない。

ポールのコンサートは、一眼レフカメラでの撮影と、動画・音声録音は禁止だけど、スマホ、コンデジ撮影は黙認するという太っ腹な対応をしている。いちいち係員が注意するのもコンサートの雰囲気を損ねるのと、FBやツイッターやブログなどで発信してもらう方がかえって宣伝になるとの判断もあるんだろう。

会場の年齢層はさすがに高く、杖をつき係員に手を引かれながら案内される方も目についた。もちろん若い人もいるけれど、コアなファンは60代〜70代の方々、まさに「OUT THERE」な世代だ。
あっしは現役ビートルズファンよりだいぶ下の世代で、確か小学5年生の頃、クラスのおませな奴が兄か姉の持っている「レット・イット・ビー」のアルバムを教室に持ち込み、「ビートルズって知ってる?このレコードすごいんだぜ!」なんて自慢していた風景を思い出す。

ビートルズを聴き始めたのは高校生から大学の時かなあ、プリーズミスターポストマンをカーペンターズより前に歌っていたのを知って驚いたり、谷村新司担当回のセイヤングで視聴者の誕生日を祝うコーナーのBGM曲・バースデーがビートルズの曲だと気がついたりしたっけ。
最初はポールの曲と歌声が好きだったけれど、青年になるにつれジョン・レノンの曲に惹かれていった。1980年12月にジョンが熱狂的なファンに射殺された時は本当にショックで、たしかこの年は長嶋が巨人軍の監督を解任されたり王選手が現役を引退し、一つの時代が終わった感がしたものです。。

板橋区民は日本がバブルに沸いていた頃、N.Y.に住んでいた。散歩でたまにセントラルパークへ行ったのだが、縦長の広大な公園の中ほどに、「ストロベリーフィールズ」と言う広場がある。ジョン・レノンを偲んで造られた場所で、そこから、かつてジョンが暮らし射殺された現場でもある「ダコタハウス」が聳えているのを望むことができる。
ある時、公園を出てダコタハウスの前へ行き、なんとなく「ヨーコが出てこないかなあ‥」なんて思いながら対面の道でぼーっと立っていると、なんとホントにあの、オノ・ヨーコが出てきて驚いたことがあった。屈強なボディーガード4人に囲まれ、サングラスをかけた小柄な東洋人の女性だったので、間違いないだろう。車に乗り込み、いずこかへ去って行った。

東京ドームのコンサートは大いに盛り上がり、午後9時40分に終わった。しかし、最初から最後までほとんど歌いっぱなしだったポールは本当にすごい。100年、200年後にヴェートーベンなどの楽聖と同一に語られるだろうと言われているのも頷けますね!!

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板橋区民、OUT THEREする。する。

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 春からいっきに夏になりましたネ。。

板橋区民は、まだぼーっとしている。恋をしたり、風邪をひいたわけではない。
昨夜、板橋区民は北の丸公園の日本武道館で行われた、Sir James Paul McCartney爵の夜会に出かけた。すでにさまざまなメディアでニュースになっているけれど、ポールが日本武道館の舞台に立つのは、ザ・ビートルズの一員として1966年(昭和41年)に来日して以来、49年ぶりのことだ。

東京ドームに比べれば1/5ほどの観客キャパシティしかないけれど、49年前に参加した方々から中学生くらいの少年まで、大勢の人が熱気を持って武道館周辺にあふれていた。
それにしても、正面入り口に掲げられた”Paul McCartney”の看板を感慨深げに見上げる人達の多いこと!道路を挟んだ反対側の駐車場にも無言で佇み看板を見上げている人で溢れていた。

コンサートは午後7時50分、Can't Buy Me Loveで始まり、午後9時55分、Yesterday→Birthday→Golden Slumbers/Carry That Weight/The Endで終了した。東京ドーム公演より30分短く、曲数も9曲少なかったが、観客のノリと一体感はドームより断然盛り上がっていた。お年の方も多かったが、ビートルズ公演の時は会場内に機動隊が入り、観客も着座で見なくてはならなかったが、その時のうっぷんを晴らすかのような総立ちノリノリ状態だった。


ビートルズが初来日した当時、板橋区民は現在の板橋イオン裏にあるまきば幼稚園に通う、いたいけな幼児でしたが、ガイジンのお兄さんを見ると指をさし「あっビートルズだ」と叫んでいた。これは自分の最古級の記憶としてハッキリ残っている。おそらく、来日騒動のテレビニュースを憶えていたんだろう。

さて、あまり板橋区と関係のない記事が続くのも気が引けるので、その当時の東武練馬駅近辺の住宅地図もUPしておきますね。

昭和40年代の徳丸は、買い物といえば北一商店街が基本だった。今は買い物客でごった返すイオンは広大な工場であり、北口側はどちらかというと閑散としたイメージがあったけど、住宅地図をみるとそれなりに店屋が並んでますね。
お年寄りの方に聞いた話では、徳丸で初めてテレビが置かれたのが、ラーメン花月あたりにあった「粕谷電気商会」で、当時、近所の人達がテレビを観に押しかけ、床板が抜けてしまったことがあったそうだ。まるで、映画「三丁目の夕日」の一シーンそのものですね。

ボーッとしつつ武道館から飯田橋駅へ向かう道すがら、年を重ねるに従い感動することが少なくなり、日々の生活でも新しいことを求める気力も薄れついつい引きこもりがちになるけれど、思い切って外へ出てみると(OUT THERE)すっかり忘れていたあの熱い感情を呼び起こすことが出来るんだなあと改めて気がついた、そんなG.W.前日の夜でした。。

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