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2015年3月

補助第26号線、本気出す。〜大山ハッピーロードは商業ビル化の夢をみるか〜

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 いやいや、弥生3月に入ってしまいました。確定申告とかね、いろいろ気ぜわしいんっすよ、この時期は。(毎年こうなることはわかってるのに‥)


先週2月24日、東京都から報道機関へ向け大本営発表が行なわれた。それは、「特定整備路線 補助第26号線(大山中央)の事業に着手します」という告知だった。

内容はこうだ。

本日(2月24日)、以下の路線について、国土交通省から都市計画事業の認可を取得し、事業に着手いたしますのでお知らせします。補助第26号線・板橋区大山町地内、延長375メートル 計画幅員20~23メートル 事業期間平成26年度~平成32年度、事業費178.3億円。

補助第26号線は、品川区東大井一丁目から板橋区氷川町に至る延長約22.4キロメートルの都市計画道路です。このうち、板橋区大山町地内における延長375メートルの区間について事業に着手します。
 本区間は、「木密地域不燃化10年プロジェクト」の「特定整備路線」であり、この道路を整備することにより、木造住宅密集地域の整備地域である「大谷口周辺地域」の防災性の向上が図られます。

長い年月がかかったが、とうとう板橋区役所前から始まる補助第26号線の区内最後の区間工事が着手されることになった。もちろん本気の買収はこれからなので、期間内に実際に道路が完成するのかはわからない。おそらく、買収された建物はすぐに空き地となり、残った家々はぽつりと孤立し立ち退かざるを得ない心境に追い込まれて行く‥かつての環八の小豆沢あたりや大山西町商店街で見られた光景と同じ事になるのだろう。

補助第26号線が計画されたのは今から40年以上前になる。手元に、昭和48年(1973年)に自費出版された「わたしたちの大山町会史」があり、計画された当時の状況が載っているので引用する。

『「補助第二十六号線が大山地区縦断・絶対反対運動もりあがる」 昭和四十七年八月も終わりに近いある日、突然大山商店街を縦断の補助第二十六号線が十一月測量、昭和五十一年には今の養育院前より川越街道迄完成するとのニュースが入るや、商店街はもちろん地域住民はがく然とし急きょ大山町会、美観街、大山本町会、大山銀座振興組合四団体で絶対反対期成同盟を作り断固反対するのろしを上げた。再々にわたり都及び区に請願陳情書を作り反対運動を展開し、さらに直接被害をこうむる方々の同意をえて今日反対運動を続けている。署名運動も町内会はもちろんお買物の方々の賛同を得て現在一万数千名のご同意をえて今日反対運動を続けている。この道路が実現した場合には、町会員約九十戸が対象となり、近隣の幼稚園、中学校、小学校の登下校は危険にさらされ、子供、老人はその渦中にまきこまれ、排ガスによる公害は大山地域住民を蝕むことは必至である。その上便利であった買物道路は、全面的に破壊され、商店街は二分され、地域住民の方々に大きな不便をかけることは必至である。今回の補助第二十六号線縦断と、大山駅地下ホーム建設は問題がからみあって、なかなか複雑であるが、反対同盟としては長期にわたり、断固反対の運動を展開する決意である。』

以来40数年間、延々と運動は続けられてきたわけだが、阪神淡路大震災や東日本大震災が後を押したのか、ハッピーロードで頑張ってきた個人商店の力が弱くなって来たのか、現在のこのタイミングで大本営発表が行なわれたということだ。
立ち退き予定の店舗や民家に対しては、川越街道近くのコモディ・イイダを中心とした地域を多目的広場(ピッコロ・スクエア)として商業施設や集合住宅が一体となった高層ビルが建てられ、希望者を受け入れる予定だ。またピッコロ・スクエアから駅方向の地域はクロスポイント地区とし、防災性をもたせるためこちらにも空間を生かした高層ビルが建つのだろう。


さて、実際に計画は動き出すわけだが、かつての成増北口地区のように粛々と事業が進むのか、それとも反対派がこのまま頑張り続けるのか‥。地図上では確かに防災面を考えればしかたないかなあと思うけれど、ハッピーロード商店街はその三分のニを失うわけで、板橋区の”顔”としてのブランドは低下するだろうし、ピッコロ・スクエアに有力な大店が出来れば反対側の遊座商店街も穏やかではないだろう。

しかし、立ち退きを余儀なくされる個人商店も、新しく作られる場所にスムーズに移転出来るかはわからない。かつて板橋サティ(現・イオン)が出来る時、地元商店街の店を優遇して受け入れるとしていたが、テナント料や保証金が<優遇されているにもかかわらず>あまりにも高額で結局はどこも移転できず、商店街の多くの個人店は資本力のあるチェーン店へ変わってしまったということがあった。移転しても”タダで出店出来る”ことはないし、資本力や収益性の少ない店ではむずかしいだろうなあと思う。

これに加え、大山駅を”ずらせ”という意見(急カーブ箇所にホームがあるため昔から危険が指摘されていた)も大きくなっているようだけど、これは高架化問題ともからんでさらに困難だろう。地上のまま動かすなら補助第26号線の方向かなあ。26号線は、東上線と地上で交差するのかアンダーパスなのか計画書に描かれてないのでわからない。ここら辺りは地下に千川上水が流れていた水路なので、地上になるのかな。でもそうすると東上線が高架化した場合‥なんてまた頭が痛くなってきた。。


。。いっそのこと、日大板橋病院下板橋駅舎ビル移動計画とあわせ、北池袋駅あたりから中板橋駅手前までをとりあえず高架化しちゃえばいいじゃん、てなことでどうでしょう?そうなれば千切れた大山ハッピーロード部分と遊座商店街も合体できるし、ね。

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板橋区民、逃避する。











マズイ。今、板橋区民は青森駅近くの寿司屋で地物ネタの刺身をつまみながら田酒で一杯やっている。
昨夜は雪深い酸ヶ湯温泉に逗留していた。こんなことをしていちゃイケナイのに‥見積もりが‥確定申告が‥嗚呼‥

しかし、憧れの酸ヶ湯温泉はさすがだった。大きな混浴の千人風呂は圧巻だ。お湯はワタシ好みの白濁硫黄泉。硫化水素臭プンプンのヤツだ。
混浴だけどうまくしたもので、お湯は白濁だし広いので女性ゾーンは湯気が濃く人間の姿はボーッとしか見えない。中には夫婦やカップルで示し合わせて合流したりする実にケシカラン輩も。。

今日は弘前に移動し、江南鉄道で平賀駅で下車し新屋温泉へ行った。ここの温泉はコールタールに似た油臭がするけどキレイなエメラルドグリーンの色のお湯が沸き出す摩訶不思議な温泉だ。いままで100箇所くらい温泉に行ったけど、初めての泉質だ。

ああ、冒頭の寿司屋から移動しビヤホールでビールを飲んでいる。。完全な逃亡だ。。

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板橋区民、逃避行する。








あぁ‥実はまだ逃避行は続いているのだ。。
昨日は青森から遥か万座温泉まで移動し、日本一の濃度を誇る白濁硫黄温泉を堪能した。聚楽に逗留したのだが、硫化水素が濃いので屋内風呂では強力な排気扇がガンガン回っている。

露天風呂からは山の斜面に水蒸気の上がる景色が望める。そう言えば、最近、ここから2キロの距離にある白根山の火山性微動が異常に増えていると報道されたばかりだ。噴火すればここまで噴石が飛んでくるのか、と思いつつも心地よい湯に心も溶けてゆく‥

今朝も白濁湯に身を沈め、朝食バイキングに腹を満たし軽井沢から上田へ向かった。上田はいま、来年の大河ドラマ「真田丸」の舞台地として早くも盛り上がっており、町中六文銭の旗が翻っている。
昼になったので池波正太郎もよく訪れたという蕎麦屋「刀屋」へ寄った。真田蕎麦を注文したが、味噌を鰹出汁で溶いた汁につけて食するスタイルだ。ここの蕎麦は量が多く、食べてるうちにだんだん飽きてきてしまう。。(うまいんですが)

満腹で突っ張った腹を抱えつつ上田城へ。思ったほど堅固な感じは受けなかったけど、電車の時間を気にしながらの見学でほぼ通り過ぎる程度だったからなのだろう。
なぜ急いだのかは次に温泉マニアに人気のある戸倉観世温泉に向かうからだ。しなの鉄道に乗り戸倉駅下車、歩くこと約20分。千曲川近くの住宅街に佇む温泉だ。土曜日なので客がひっきりなしだ。お湯の色は昔のバスクリンを明るくしたような緑色!かすかに硫化水素臭がする。先日の新屋温泉といい、なんでこんな摩訶不思議な温泉があるんだろう‥

てなことでいい加減、逃げてばかりでもしょうもなく、長野駅から乗った帰りの新幹線の中でこの駄文を書いてるのです。あと僅かで上野かぁ‥現実に戻るのね〜〜

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あ ぶ な い 板橋区。〜70年前のおもてなし〜

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 ‥ひさしぶりに花粉がキツイ年っす。。

今年は終戦から70周年、マスコミ等では年初から戦争関係のニュースが目立つようになりました。


知り合いに、板橋区内の小学校で教師をされていた女性がいる。現在、80代半ばくらいのお歳だが、かつてニュースキャスターとして活躍していた幸田シャーミンさん(1956年生まれ)の小学校時代を憶えていて、「シャーミンさんはね、成増小学校開校以来の秀才だったのよ。グラントハイツ入口横の中華屋の娘さんでね‥」なんて話を聞いたことがある。

まっ、そんな話の後、成増飛行場のことをお聞きしてみたが、飛行場関係者以外の人間にとっては近寄りがたい場所であったようで、当時は意識して避けていて何も記憶がないとおっしゃっていた。その代わり、終戦後の話となると急に声を潜め、「成増にはね、パンパンがいたのよ。」と言う。
この話を聞いたときは、まあ米軍基地もあるんだし当然だよなあ、くらいの感覚だった。その後、板橋区のことをいろいろ調べているうちに、ポツポツとそのことに関する情報に接する機会があり、現代でもあるような風俗の事情とは違うことに気づかされた。


‥以前、成増飛行場関係者に、休日の娯楽について話を伺ったことがあった。

「休みの日?、新宿伊勢丹の偕行社(将校クラブ)に買い物へ行ったよ。」
「知り合いになった近所の農家に酒保で購入した羊羹持って遊びに行ったなあ。」
「航空糧食のキャラメル持って小学校に飛行機の話をしに行ったりね。」etc‥

いや、そういうことじゃなくて、その、飲み行ったりとかコレ(小指ね)とかの話なんてお聞か頂けないかと‥

「ん?池袋か新宿の三業地だったかな。」
「上官の行きつけが八王子だったので、基地のトラックで‥」等々。

ちなみに、成増駅近くの郵便局あたり(戦時中の話)に慰安所があったが、もともと慰安とは文字通りの意味で、家族や親戚が訪ねてきたときにそこで面会したり、それ以外でも女学生などが兵隊を慰安(話をしたりトランプをしたりして遊ぶ)のために訪れる施設だった。

飛行47戦隊伝説の整備士、刈谷さんからはこんな話を伺ったことがある。刈谷さんは特殊喫茶(キャバレー)を好んだようで、成増飛行場が出来た頃はよく出撃していたらしい。
「ある時、池袋の地下道で顔なじみの特殊喫茶の女給とすれ違ったので、どこへ行くんだい?と聞くと、これから風船造りに行くんよ、と言うんだ。」
風船とは”風船爆弾”のことで、東京でも数寄屋橋の日劇(現・有楽町マリオン)などが徴用され製造工場になっていた。

戦前では、基本的には成増駅周辺にはその手のいわゆる風俗専門店はなかったという。

そして、終戦。前述の話、「成増にはね、パンパンがいたのよ。」
それはどういう経過でそうなったんだろう。

どなたが作者なのかイマイチわからない(恐らく、九条を守る会の関係者の方)が、ネットにUPされている「真実を知りたい No-2」というブログから、終戦直後、国内で何が起こったのかを解説した記事の一部を引用させていただく。

『「敗戦秘史 占領軍慰安所 国家による売春施設」いのうえせつこ(新評論)によると、敗戦直後、軍部があおり立てていた「鬼畜米英」敵占領軍が上陸してくる、という不安と恐怖で、東京・神奈川方面では疎開騒ぎが発生し、混乱したという。横浜市では戦時中より敗戦後の疎開者の数の方が多かったと言われているそうである。
 そんな中、8月18日、各府県長官宛てに「外国軍駐屯地における慰安施設について」という内務省警保局の通牒が発せられ、警察署長が性的慰安施設、飲食施設、娯楽場等の設置を働きかけるよう要請されている(下記、資料1)。どこに占領軍が駐屯するかは予想できなので、いまから内々にその手筈をしておくように、また、慰安所の設立は、日本女性を護る目的であることを理解させるように、というのである。

 また、同じ8月18日か19日のいずれかに「警察庁の高乗保安課長は、東京都の料理飲食業組合長・宮沢浜次郎と総務部長の渡辺政治氏を呼びつけ、占領軍に女を用意する仕事を申しつけた」という。さらに8月21日には、全国芸妓屋同盟会東京支部連合会、東京待合業組合連合会、東京都貸座敷組合(吉原、州崎などの公娼系)、東京都接待業組合(向島、小岩などの産業戦士慰安所)、東京都慰安所連合会、東京連技場組合連盟(麻雀)、東京都料飲食業組合の7団体を集め、高乗保安課長が「資金面では十分援助するから、皆さんの立場でやってほしいと話した」と明らかにしている。そして、8月23日には、上記7団体と警視庁から高乗保安課長他3名が参加し、後に「R・A・A」(Recreation Amusement Association)と改称される「特殊慰安施設協会」が結成されたのである。占領軍上陸以前に、戦地における軍慰安所設置の経験を生かし、政府と関係者によって、着々と占領軍のための慰安施設設置が進められていたということであろう。まさに「国家による売春施設」の設置である。

同書に掲載されているRAAの施設一覧表(鏑木清一著『秘録進駐軍慰安作戦』より)を見ると、キャバレーやダンスホール、ビヤホール、レストランとともに、「慰安所」と記されたものがあり、慰安婦の数も示されている。それを抜き出すと、

 成増慰安所(50名)小町園(40名)、見晴し(44名)、やなぎ(20名)、波満川(54名)、悟空林(慰安婦45名・ダンサー6名)、乙女(22名)、楽々(20名)、調布園(54名)、福生(57名)、ニュー・キャッスル(慰安婦100名・ダンサー150名)、楽々ハウス(慰安婦65名・ダンサー25名)、立川パラダイス(慰安婦14名・ダンサー50名)、小町(慰安婦10名・ダンサー10名)、上官クラブ(将校用慰安所 慰安婦随時派遣)、キャバレー「東光園」(ダンサー30名・慰安婦10名)である。』

簡単にいうと、ポツダム宣言を受け入れ敗戦となり、進駐軍が占領のために本土に上陸してきた際、兵士によって日本女性が襲われることを防ぐため、あらかじめ専用の施設を作ってしまえと、進駐軍の命令ではなく、日本政府の後ろ盾により横浜や都内近郊に売春施設が急遽設置されたのであった。東京都内では、大井・大森、芝浦、そして成増に置かれたのである。
国民へ向けては”性の防波堤”、進駐軍に対しては”おもてなし”という形で女性達を集めたというわけだ。

昭和20年8月28日、進駐軍先遣部隊が上陸してから各種慰安施設は賑わうのだが、軍の風紀の乱れや衛生上の懸念からGHQは早々に売春施設への出入りを禁止、MPによる取締りを強化し、昭和21年1月7日以降、GHQの「廃娼」指示によりRAAにより置かれた占領軍用慰安所はすべて閉鎖、解散させられた。しかし、RAAに組織された5万人以上の売春婦は街娼や赤線に散り、また基地周辺のパンパンと呼ばれる女性に姿を変えたという。

冒頭に貼った新聞に、こんな記事が載っている。

「パンパンガール取締り・内偵中」(板橋新聞・昭和二十一年七月十九日 金曜日)         

志村署長は去る六日東上線成増、下赤塚、東武練馬等に保安外勤係数名を午後六時より十時頃迄配置 問題のパンパンガールの取締り内偵を行った。当日縄に掛かつた者は約十名、何れも東上線を利用して出張、附近の民家や朝霞方面に同伴、用を済まして終電車で帰つていた。花柳病予防の見地からも今後厳重なる取締りを続行する。


‥そもそも、なぜ成増に占領軍慰安所が置かれたのだろう?成増はいわゆる三業地ではなかったし、飲み屋が連なるような繁華街でもなかった。グラントハイツが完成するのは昭和22年以降だし、家族住宅であったので、近くにそんな施設の必要性はあまりないんじゃないのかと思うのだが。。
占領軍用慰安所の設置場所を見ていると、成増、調布、福生、立川と陸軍飛行場のあった場所に置かれているので、占領軍による進駐を予測してのことだったのかもしれない。

どのような経過があったのかを知りたい所だけど、当時の事情をリアルに知る人もいない今となっては、元教師の方が噂として聞いていた「成増にはね、パンパンがいたのよ」という類の話が、ある種の”都市伝説”として一人歩きしてしまうんじゃないかと懸念する。

それと、軽い感じでパンパンなどと書いてしまっているが、いずれも当時、深刻な事情を抱えた女性たちであり、いわゆる”性の防波堤”とされてしまった方々には、ご苦労をなされたことと思う。戦争に巻き込まれるとは、こういうことが起こるということなのだ。

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板橋区民、(少し)本気出す。〜シツコイようだが啓志駅について〜

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 板橋区内の桜も満開ですね。しかし、今年は花粉症の症状が酷く花見に出かける気力がありません。。


もう過去に何度も記事にしておりますが、東上線上板橋駅からグラントハイツ(練馬区光が丘地区)までを結んでいた側線について追加情報など。

啓志線は、終戦の翌年1946年に入って直ぐ、旧成増陸軍飛行場跡地に進駐軍用家族住宅を建設する資材などを運搬するため、旧陸軍第一造兵廠(現陸上自衛隊練馬駐屯地)構内まで敷設されていた側線を延長して作られた。
開通したのは3月25日で、途中の旧陸軍第一造兵廠構内を「練馬倉庫駅」、終点を「啓志駅」とした。”啓志(ケーシー)”という名前を付けそれが認められた経過については未だに判然としていない。

1947年6月、基地は”グラントハイツ”と命名され、啓志の名称もグラントハイツに変更された。しかし、市販の地図など更新をきちんとしていないものは、昭和30年代に入ってからも”啓志”の名称のままであった。
1947年12月には国鉄我孫子機関区所属のガソリンカー・キハ41000形10両を借り受け、翌年2月下旬まで旅客運行を行っていた。線路は練馬倉庫を出た後、概ね田柄川に沿って走り、グラントハイツ手前で複数方向に分岐し、それらのうち一番南の線路終点に”啓志駅”はあったようだ。当時の地図には啓志駅が記されたものもあるけど、ほとんどは<マニアからみて>正確さが足らず、決定打となる地図がない。今のところ、板橋区民が見た中では掲示の写真にある地図が一番良いように思う。

この地図を基準として見ると啓志駅は、秋の陽公園と、光が丘秋の陽小学校の体育館とプールとの境目あたりに存在していたと考えられる。ちなみに、田柄高校前の信号に東方向からぶつかる道路は、もともと田柄川の流路で、啓志駅地図上の二重線で描かれた部分にあたる。

で、いつも言うように、実際の写真があれば一発で解決するのだけれど、現在のところまだ確認できないので、アメリカのメリーランド州にあるNARA2で複写をした、1950年代に撮影された航空写真を見てみると‥う〜ん、イマイチわかりませんねえ。。これはおそらく旅客営業廃止後の様子で、西から東方向に向けて撮影されている。左側には田柄川の流路が写っており、グラントハイツ内からはコンクリートで護岸されているようだ。こんなことにも当時の経済格差が見て取れますね。。

ウィキペディアの東武啓志駅の項に、出典先として練馬区のH.P.内にある、ふるさと練馬の思い出写真 ケーシー駅のリンクが貼ってあり、このリンク先にハイツ返還後に撮影された啓志駅プラットホーム跡の写真がUPされているけど、どうもその写真と航空写真の風景とは一致しないような気がします。そもそも、旅客用としては短命に終わった駅にプラットホームが設置されていたのかどうか、昭和22〜23年頃に米軍が撮影した空中写真を見ても判然としません。


‥、結局今回の記事でも啓志駅の全貌を明かすことはできませんでしたが、お詫びのしるしに新情報を。

現在、自衛隊練馬駐屯地から出土した啓志線の線路が、地元の北町小学校、北町中学校に寄贈され展示されています。
「なんだよ、関係者じゃなきゃ見れないじゃん!」と憤慨しているアナタ。実はもう一箇所、東武練馬駅に近い練馬区北町地区区民館1階の青少年育成第八地区委員会の入り口のところにも展示されているんですよ!!興味のある方は是非お足をお運びくださいませ!

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