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あ ぶ な い 板橋区。〜70年前のおもてなし〜

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 ‥ひさしぶりに花粉がキツイ年っす。。

今年は終戦から70周年、マスコミ等では年初から戦争関係のニュースが目立つようになりました。


知り合いに、板橋区内の小学校で教師をされていた女性がいる。現在、80代半ばくらいのお歳だが、かつてニュースキャスターとして活躍していた幸田シャーミンさん(1956年生まれ)の小学校時代を憶えていて、「シャーミンさんはね、成増小学校開校以来の秀才だったのよ。グラントハイツ入口横の中華屋の娘さんでね‥」なんて話を聞いたことがある。

まっ、そんな話の後、成増飛行場のことをお聞きしてみたが、飛行場関係者以外の人間にとっては近寄りがたい場所であったようで、当時は意識して避けていて何も記憶がないとおっしゃっていた。その代わり、終戦後の話となると急に声を潜め、「成増にはね、パンパンがいたのよ。」と言う。
この話を聞いたときは、まあ米軍基地もあるんだし当然だよなあ、くらいの感覚だった。その後、板橋区のことをいろいろ調べているうちに、ポツポツとそのことに関する情報に接する機会があり、現代でもあるような風俗の事情とは違うことに気づかされた。


‥以前、成増飛行場関係者に、休日の娯楽について話を伺ったことがあった。

「休みの日?、新宿伊勢丹の偕行社(将校クラブ)に買い物へ行ったよ。」
「知り合いになった近所の農家に酒保で購入した羊羹持って遊びに行ったなあ。」
「航空糧食のキャラメル持って小学校に飛行機の話をしに行ったりね。」etc‥

いや、そういうことじゃなくて、その、飲み行ったりとかコレ(小指ね)とかの話なんてお聞か頂けないかと‥

「ん?池袋か新宿の三業地だったかな。」
「上官の行きつけが八王子だったので、基地のトラックで‥」等々。

ちなみに、成増駅近くの郵便局あたり(戦時中の話)に慰安所があったが、もともと慰安とは文字通りの意味で、家族や親戚が訪ねてきたときにそこで面会したり、それ以外でも女学生などが兵隊を慰安(話をしたりトランプをしたりして遊ぶ)のために訪れる施設だった。

飛行47戦隊伝説の整備士、刈谷さんからはこんな話を伺ったことがある。刈谷さんは特殊喫茶(キャバレー)を好んだようで、成増飛行場が出来た頃はよく出撃していたらしい。
「ある時、池袋の地下道で顔なじみの特殊喫茶の女給とすれ違ったので、どこへ行くんだい?と聞くと、これから風船造りに行くんよ、と言うんだ。」
風船とは”風船爆弾”のことで、東京でも数寄屋橋の日劇(現・有楽町マリオン)などが徴用され製造工場になっていた。

戦前では、基本的には成増駅周辺にはその手のいわゆる風俗専門店はなかったという。

そして、終戦。前述の話、「成増にはね、パンパンがいたのよ。」
それはどういう経過でそうなったんだろう。

どなたが作者なのかイマイチわからない(恐らく、九条を守る会の関係者の方)が、ネットにUPされている「真実を知りたい No-2」というブログから、終戦直後、国内で何が起こったのかを解説した記事の一部を引用させていただく。

『「敗戦秘史 占領軍慰安所 国家による売春施設」いのうえせつこ(新評論)によると、敗戦直後、軍部があおり立てていた「鬼畜米英」敵占領軍が上陸してくる、という不安と恐怖で、東京・神奈川方面では疎開騒ぎが発生し、混乱したという。横浜市では戦時中より敗戦後の疎開者の数の方が多かったと言われているそうである。
 そんな中、8月18日、各府県長官宛てに「外国軍駐屯地における慰安施設について」という内務省警保局の通牒が発せられ、警察署長が性的慰安施設、飲食施設、娯楽場等の設置を働きかけるよう要請されている(下記、資料1)。どこに占領軍が駐屯するかは予想できなので、いまから内々にその手筈をしておくように、また、慰安所の設立は、日本女性を護る目的であることを理解させるように、というのである。

 また、同じ8月18日か19日のいずれかに「警察庁の高乗保安課長は、東京都の料理飲食業組合長・宮沢浜次郎と総務部長の渡辺政治氏を呼びつけ、占領軍に女を用意する仕事を申しつけた」という。さらに8月21日には、全国芸妓屋同盟会東京支部連合会、東京待合業組合連合会、東京都貸座敷組合(吉原、州崎などの公娼系)、東京都接待業組合(向島、小岩などの産業戦士慰安所)、東京都慰安所連合会、東京連技場組合連盟(麻雀)、東京都料飲食業組合の7団体を集め、高乗保安課長が「資金面では十分援助するから、皆さんの立場でやってほしいと話した」と明らかにしている。そして、8月23日には、上記7団体と警視庁から高乗保安課長他3名が参加し、後に「R・A・A」(Recreation Amusement Association)と改称される「特殊慰安施設協会」が結成されたのである。占領軍上陸以前に、戦地における軍慰安所設置の経験を生かし、政府と関係者によって、着々と占領軍のための慰安施設設置が進められていたということであろう。まさに「国家による売春施設」の設置である。

同書に掲載されているRAAの施設一覧表(鏑木清一著『秘録進駐軍慰安作戦』より)を見ると、キャバレーやダンスホール、ビヤホール、レストランとともに、「慰安所」と記されたものがあり、慰安婦の数も示されている。それを抜き出すと、

 成増慰安所(50名)小町園(40名)、見晴し(44名)、やなぎ(20名)、波満川(54名)、悟空林(慰安婦45名・ダンサー6名)、乙女(22名)、楽々(20名)、調布園(54名)、福生(57名)、ニュー・キャッスル(慰安婦100名・ダンサー150名)、楽々ハウス(慰安婦65名・ダンサー25名)、立川パラダイス(慰安婦14名・ダンサー50名)、小町(慰安婦10名・ダンサー10名)、上官クラブ(将校用慰安所 慰安婦随時派遣)、キャバレー「東光園」(ダンサー30名・慰安婦10名)である。』

簡単にいうと、ポツダム宣言を受け入れ敗戦となり、進駐軍が占領のために本土に上陸してきた際、兵士によって日本女性が襲われることを防ぐため、あらかじめ専用の施設を作ってしまえと、進駐軍の命令ではなく、日本政府の後ろ盾により横浜や都内近郊に売春施設が急遽設置されたのであった。東京都内では、大井・大森、芝浦、そして成増に置かれたのである。
国民へ向けては”性の防波堤”、進駐軍に対しては”おもてなし”という形で女性達を集めたというわけだ。

昭和20年8月28日、進駐軍先遣部隊が上陸してから各種慰安施設は賑わうのだが、軍の風紀の乱れや衛生上の懸念からGHQは早々に売春施設への出入りを禁止、MPによる取締りを強化し、昭和21年1月7日以降、GHQの「廃娼」指示によりRAAにより置かれた占領軍用慰安所はすべて閉鎖、解散させられた。しかし、RAAに組織された5万人以上の売春婦は街娼や赤線に散り、また基地周辺のパンパンと呼ばれる女性に姿を変えたという。

冒頭に貼った新聞に、こんな記事が載っている。

「パンパンガール取締り・内偵中」(板橋新聞・昭和二十一年七月十九日 金曜日)         

志村署長は去る六日東上線成増、下赤塚、東武練馬等に保安外勤係数名を午後六時より十時頃迄配置 問題のパンパンガールの取締り内偵を行った。当日縄に掛かつた者は約十名、何れも東上線を利用して出張、附近の民家や朝霞方面に同伴、用を済まして終電車で帰つていた。花柳病予防の見地からも今後厳重なる取締りを続行する。


‥そもそも、なぜ成増に占領軍慰安所が置かれたのだろう?成増はいわゆる三業地ではなかったし、飲み屋が連なるような繁華街でもなかった。グラントハイツが完成するのは昭和22年以降だし、家族住宅であったので、近くにそんな施設の必要性はあまりないんじゃないのかと思うのだが。。
占領軍用慰安所の設置場所を見ていると、成増、調布、福生、立川と陸軍飛行場のあった場所に置かれているので、占領軍による進駐を予測してのことだったのかもしれない。

どのような経過があったのかを知りたい所だけど、当時の事情をリアルに知る人もいない今となっては、元教師の方が噂として聞いていた「成増にはね、パンパンがいたのよ」という類の話が、ある種の”都市伝説”として一人歩きしてしまうんじゃないかと懸念する。

それと、軽い感じでパンパンなどと書いてしまっているが、いずれも当時、深刻な事情を抱えた女性たちであり、いわゆる”性の防波堤”とされてしまった方々には、ご苦労をなされたことと思う。戦争に巻き込まれるとは、こういうことが起こるということなのだ。

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コメント

おそらく朝霞にあったキャンプ・ドレイク(現朝霞駐屯地)関係だと思われます。

朝霞に置かなかった理由としては、朝霞よりも成増が川越街道にほど近く、自動車での利用が便利だったからではないでしょうか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF#.E3.82.AD.E3.83.A3.E3.83.B3.E3.83.97.E3.83.BB.E3.82.B5.E3.82.A6.E3.82.B9

投稿: 道の奥 | 2017年1月27日 (金) 12時29分

>>道の奥さま
コメントをありがとうございます。
慰安所は進駐が始まる前に設置場所が決まっており、進駐軍の命令で決められたわけではないのでどうなのでしょうか?交通の便にまで配慮したのならすごいオモテナシ方ですね。

投稿: | 2017年1月27日 (金) 14時43分

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