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2015年1月

板橋区民、2015新年を言祝ぐ。

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 板橋区民の皆様、そして当ブログへアクセスいただいた方々、明けましておめでとうございます。本年も「板橋ハ晴天ナリ。」をどうぞ宜しくお願い致します。


皆様方、初詣にはお出かけになりましたでしょうか。拙も赤塚郷の出世稲荷神社を詣でた後、神官の総本山である天皇陛下とともに新年を賀すべく、一般参賀の行なわれる皇居へ向かいました。

今年の一般参賀では、昨年12月に成年皇族となられた秋篠宮家の佳子内親王が初めてお出ましになるとのことであり、そのお姿を納めるべく、5年間使用したニコンD3sをドナドナし、年末のセールで新たに購入したD750にナノクリ70-200の望遠+2倍のテレコンを付けて参上した。

思えば初めて一般参賀へ出向いたのは高校生の頃。昭和天皇陛下のご尊顔を納めるべく、買ったばかりのオリンパスOM-2に135ミリを装着して撮影に挑んだ。しかし、人人人で埋め尽くされる宮殿東庭の参賀会場はカメラを構えることさえ困難な状況で、さらに陛下がお出ましになると一斉に日の丸の旗が振られ、とても撮影出来る状態ではなかった。天候と時間帯により長和殿ベランダへ直接日光が射す状況もあり、露出もむずかしく、カメラ初心者であった高校生の私にはろくな写真は撮れなかったのである。

‥あれからウン十年の歳月が流た。カメラもデジタルカメラへと進化し、レンズ性能もフォーカスも格段の進化を遂げ、撮影感度も自由自在な時代になった。しかぁ〜しである。一般参賀の行なわれる宮殿東庭は、昔とかわらず人人人で埋め尽くされ、打ち振られる旗に視界は塞がれとても撮影出来る状況にはない。
そこで、D750である。D750には背面の液晶が可動するバリアングル機構が搭載され、カメラを両手で掲げたままライブビューで映像を確認出来るのだ。これにナノクリ70-200の望遠+2倍のテレコンを付け、さらにDXモードで1.5倍にする。そうすると実に600ミリの超望遠レンズへと変貌するのだ。よし、これでイケるぞ、とお出ましの時間を待った。

1月2日午前11時50分、目指すは第3回目のお出ましである。1時間半前に桜田門駅に着き参賀の列についたので、自分の立ち位置は後方であまり場所は良くない。天候は薄曇りで直射日光こそ当たらないが、長和殿ベランダはコントラストに乏しくオートフォーカスが不安な状況であった。夕方のニュースでは、今年の参賀人数は81000人とのことで、1回に平均16200人もの参賀者が宮殿東庭にひしめいているのである。

時間通り、天皇陛下を先頭に各皇族方がベランダにお出ましになった。とたんに日の丸の旗が振られ万歳万歳の合唱がおこる。一般参賀は外国人観光客にも好評で、背の高い外人達が視界を塞ぐ。必死でカメラを掲げ構図を伺うが、ただでさえフォーカスしずらいことに加え、レンズに入り込む旗や頭や腕などでフォーカスが大きく狂い、シャッターチャンスをうまく捉えられない。お出ましがあり手を振られたあと、天皇陛下のお言葉を賜ったのちまた手を振られご退場、この間10分あるかないかである。

‥とまあ必死の状況で撮影した一部が冒頭の写真である。画像の水平なんて取れる状況ではなく、絵はトリミングしてありますが、佳子内親王のカメラ目線をバッチリ捉えることが出来ました。いやお美しい立ち姿ですね。新年にふさわしい眼福な映像となりました。これもデジタルの進化のおかげなのかもしれません。。


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赤塚郷民の初詣。2015

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 皆様方、そろそろアルコール分は抜けましたか?拙は元日に開けた竹鶴17年を本日中に空けますぞ。


あっしの生まれ育った赤塚郷で参拝客No.1初詣スポットと言えば、ダントツで東京大仏の鎮座している浄蓮寺だ。正月三が日はお寺周辺に交通規制が敷かれるほどで、これでもかと人が押し寄せる。以下は成増の菅原神社、赤塚の諏訪神社、徳丸の北野神社が人出の多い神社かな。高島平地区は昭和の始めまで荒川の氾濫源だったのでほとんど住居もなく、従って歴史ある神社が存在し無かったので、現在の住民の方々は台地上に鎮座する寺社へ参らなくてはならない。

初詣に神社へ行くと、基本的にはお賽銭を投げて柏手を打ったり、その後はおみ籤を引いたりお札やお守りを買ったり絵馬を奉納したり、または昇殿参拝をしてお祓いを受けたりしますね。その他、氏子の方は餅米や酒や帚など神社で使用する用品の現物奉納もします。神楽殿や社殿には掲示板が置かれ、寄付金を奉納した方々はお名前が紙に書かれ貼り出されています。

参拝の折、掲示板に貼り出されたお名前を見ると、だいたいその土地の有力者がわかるので、いつも眺めることにしている。
赤塚の諏訪神社では、毎年、気になるお名前を見かける。それがタレントの山田邦子さんだ。記憶ですが、確か昭和の頃からずーっと変わらず一番の奉納金額で先頭にお名前が載っている。(写真は本日撮影)
山田邦子さんは生まれは荒川区で、高島平団地が出来た当時に越してきている。も寄り駅は新高島平駅なので、位置的に諏訪神社が氏神様なのだろう。

彼女は1980年代初めにテレビタレントとして頭角を現わし、90年代半ばまで、数々の冠番組を持ち「唯一天下を取った女芸人」とまで言われていた。しかし、その後のプロデュースに失敗して大バッシングを受け、急速に人気を落としマスコミへの露出が減ってしまった。
でも、引退をすることもなく今年新年のテレビ番組でも元気な姿で活躍する姿を拝見した。2007年にビートたけしの健康番組に出演した際、乳がんが発見され2回の手術を経て摘出した。それ以降は社会活動に熱心に取り組んでおられるそうだ。


山田邦子さんは、現在別の土地にお住まいで、おそらく諏訪神社の氏子連でもないと思うが、それにしても何故長年奉納を続けているのか気になる。実家のご家族は高島平にまだおられると思うけれど、そのためなんですかね?とんねるずの石橋貴明もとっくの昔に家族共々赤塚郷の人ではないけれど、いまだに地元の人と交流があると聞きます。我が赤塚郷には、なにかしらの土着パワーがあるのかもしれんですなあ。。

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板橋区民、本気出す。2015

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‥すっかり新年気分はなくなりましたね。

昨年は東上線開業100周年記念の年でした。今年は、大東亜戦争終戦から70周年です。ということで、板橋区民もそちら方面への調査にやる気をスイッチしました。

先の戦時中、我が赤塚郷の南、土支田・田柄・高松町方面にかけ、「成増陸軍飛行場」が存在しておりました。現在の練馬区光が丘団地一帯ですね。飛行場の詳しい歴史については、今まで当ブログにてたびたび記事にしてきましたのでご覧いただければ幸いです。(但し、ブログ機能の欠点で過去記事を辿るのは大変なので、検索サイトで適当な文字列→成増飛行場に関するワードを入れて検索して下さい。)

簡単ですが飛行場の歴史を説明すると、昭和17年4月に米空母から発艦した爆撃機が東京を初空襲、急遽帝都を守護するため板橋区に防空飛行場を建設(皇居上空まで3分で到達できる位置が条件)、昭和18年10月から飛行47戦隊にて運用を開始、同19年11月より空対空特攻隊を含め米軍との戦闘が始まり、同20年2月頃から沖縄特攻隊の編制・訓練基地も兼ねる。5月下旬47戦隊は九州へ移動、入れ替わりに第100飛行団が再編成のため駐屯、沖縄陥落後は本土決戦特攻隊の編制・訓練基地となるが終戦。

てな流れです。

さて。

戦時中のことに関しては、現在までに刊行されている戦記本や行政が発行している本で調べれば、だいたいの流れがわかります。ネット上でも、当ブログを含めたくさんの記事がヒットしますね。ただ、ネットに出て来る情報は、利便性が優れているゆえにソースが怪しい場合が多いのが珠に傷です。常に出典を考えながら情報を読まなくてはなりません。一番確かな情報は”一次資料”から引用された情報で、それは当時を実際に経験した方の証言も含まれます。
ただし、体験者が語る証言は扱いに慎重になる必要があります。事実には客観的な事実や主観的な事実もあって、それを聞き取る側の心構えも慎重にしなくてはならず、残された記録が信頼して良い物かどうかを判断する感覚が必要になります。

‥まあ、そんなことを考えているといつまでも調査は進みませんけどね。。(反省)

事を調べるにあたり、文献を読んだりネットで検索してもどうしても出て来ないことがあります。その場合は、他の方法を考えなければなりません。

‥んなこと言ったってどう調べりゃいいのよ?

これが”壁”ってやつで、だいたいの調査がここで挫折をしてしまいます。”どうしたらその答えに辿り着けるのか”、これが最大の難関です。
ホント、難しい。ああ、若いうちから勉強しておけば良かったなあ。。なんて思うのはこんなときですね。まっ、そんなこと言っててもしかたないっす。いろんな資料を、その周辺にまで広げながら読むという地味で膨大な作業をこつこつ続けるしかないのかな、と思います。

さて。

成増陸軍飛行場についてわからないことの一つに、「終戦直後のこと」があります。もうね、戦時中のことに関しての情報に比べると極端に少ない。唯一、飛行場を管理していた第43飛行場大隊に在籍していて、最後まで業務を行なっていた、元成増会々員で飛行場の機密資料を保管してきた高橋正治氏の証言記録が残るのみだ。その記録も「(昭和20年)10月下旬に終了業務を終え、11月1日に司令部に報告に行き成増飛行場を後にした。」という内容で、進駐軍による接収の様子はわからない。

さあ、どうやって調べるのか‥まず浮かぶのは公文書の存在だ。進駐軍や日本政府の公文書。それには国立公文書館が作る「アジア歴史センター」のサイトで調べるのが手っ取り早いが、現在までに公開されているのは終戦以前の項目までで、進駐や占領後の情報はあまり出て来ない。(グラントハイツ建設時の書類などは見られる。)

その為、調査は長い間停滞していた。しかし、所沢や調布の飛行場接収に関しては、それらを研究する優秀な方々がいて、米軍の資料などを集めてほぼ解析していた。出典も載っている項目はあるけれど、米国国立公文書館所蔵資料など、ちょっとやそっとでは調べられないものだった。
以来、ずーーーっとモヤモヤしていたが、ある研究者から終戦直後の成増飛行場の写真が1970年代の「航空ファン」誌に出ていた記憶がある。との情報を頼りに、古本屋サイトで該当の雑誌を入手すると、やはり出典はアメリカの公文書館であるとわかった。う〜むやはりこれは行かねばならぬ、と一大決心をしてワシントンD.C.の隣に位置するメリーランド州カレッジパークにある、米国国立公文書館新館・NARA2へと出かけたのは今から7年前だった。今から思えば準備不足もあり、またNARA2の検索システムにも不慣れだったため、反省点は多かったけれど、少しは貴重な資料を持ち帰ることはできた。

長かったけど、ようやく本題に移ります。

成増飛行場に、いつ進駐軍がやってきたのか?
正月の酒も抜けない頃、ネットで東京周辺の進駐軍の占領状況が載っているサイトを読んでいると、ふと目についた資料に、出典として”外務省外交記録”のキーワードが出ていた。そうか、外交文書は、元は外務省の管轄文書なのか、と気がついた。そんなの常識じゃん、と頭の良い人は思うだろうが、そこは凡人の悲しさですね。。ムダな時間を過ごしてきました。。

そこで先日、正月太りでだぶついた体を奮い起こし、板橋区民にとってはアウェーの地である六本木・麻布地区をめざして寒風吹きすさぶ中、赤塚郷を出た。目指すは麻布台にある外交資料館だ。外務省のHPを見ると外務省には外交資料館が附属していて、そこのHPでは現在公開されているマイクロフルム化された外交資料一覧がPDFで見られるようになっており、ポツダム宣言受領時からの資料が揃い、進駐軍が占領を始めたころの文章も存在していた。PDFにより該当しそうな項目は検討がついたが、詳細まではわからない。だから実際に現地でマイクロフィルムを確認する必要があった。

渋谷駅から一時間に2本しか出ていない都営88番新橋東口行きのバスに乗り、外交資料館へ向かう。受付で書類に記載し、身分証明所を提示した。館員の方に、これこれこう言う事柄について調べたいがどういう方法でアクセスするのかと聞くと、項目の載った分厚いファイルを渡された。ネット上の情報よりも一段階詳しい項目があり、ページを手繰って行くと、「連合軍進駐状況一覧表」という項目があった。

これだ!

さっそくマイクロフィルムを借出し、ページを辿ってゆく。Oh! I Gat it!! そいつが、冒頭の写真である。ページの途中なので記載が省略されているけれど、昭和20年10月15日、午後5時現在の状況を示している。
表を読み取ると、「成増飛行場は9月21日、40人の進駐軍警備兵により接収された。」という内容だ。

嗚呼、長かった。。資料自体は何年も前から公開されていたのだが、ここに辿り着くまで時間がかかった。たった1行の文だけど、これで、成増陸軍飛行場に進駐軍がやってきたのは昭和20年9月21日のこと。と堂々と書けるようになった。

誠に感慨深いことである。。

関連資料として、7年前にNARA2で入手した「終戦直後の成増飛行場」の写真資料の状況を公開しちゃいますね。
NARA2では、一日3回の時間帯で資料を借出(一度に借りられる量はこのワゴンに載る量)して閲覧することができる。申請した資料はワゴンに乗せられて閲覧者に引き渡される。2番目の写真は、紙焼きで保存された東京へ進駐した時に撮影された写真が納められたファイルで、8×10(インチ)でプリントされた写真が入っている。中には乾燥により反り返っていて複写に難儀するプリントも。複写は自分のカメラで申請もいらず自由に撮影できるし、営利目的でないならネットなどでも公開出来る。(これがアメリカの太っ腹な所だ。)ただし他者が複写した写真を勝手にコピーして使用する事は出来ない。
ファイルの中には、書籍で使われたり映像で見たことのある有名な写真がいくつもあった。その、たくさんあるファイルの一つに、「航空ファン」で使用された「終戦直後の成増飛行場」の写真を見つけた。裏面にはキャプションが付いている。

そのキャプションにはこう記載されていた。
「破壊された日本機が並べられた滑走路から離陸する米陸軍第1騎兵師団のL-4連絡機。1945年10月8日、日本、東京にて。」

米陸軍第1騎兵師団は、東京の占領を行なうために最初に進駐した部隊だ。キャプションには板橋区あるいは成増とは記載されていないが、東京には他に海軍の東京(羽田)飛行場と陸軍の調布飛行場があるけれど、写真の背後に映る風景から羽田ではないし、破壊された47戦隊マークの付いた四式戦が写っていることから、成増飛行場にほぼ間違いないと推察されている。
よって、9月21日に進駐してきたのも米陸軍第1騎兵師団の警備隊と考えて良さそうだ。同師団は朝霞の士官学校や調布飛行場も接収している。


いやはや、たった1行の記録や写真を見つけ出すのに、なんと手間や時間がかかるもんだと啞然としちゃいますね。ちいさな事をこつこつと。歴史を辿るのはこの積み重ねなんだなあと改めて感じた次第でした。。

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板橋区民、ホタル館について考えてみたが頭が痛くなる。

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 ここ数日、イスラム国に拉致された日本人のニュースに隠れてしまっているが、我が赤塚郷にある「ホタル館存廃問題」が世間を騒がせているらしい。その概要は以下の通り。

『東京・板橋区が25年間行ってきたホタルの飼育事業をめぐり、施設内で代々飼育されてきた実態はなかった」などとする調査報告書をまとめた。

一昨年には2万匹いたとされる板橋のホタルが、飼育実態が疑問視されて以降、区が調査を実施し、去年、発見されたのはわずか200匹あまりだった。

「ゲンジボタル」は、福島県大熊町から譲り受けたものを代々交配させてきたとされていたが、DNAを調べた結果、本来、西日本に生息するものがほとんどと判明。関係者の証言などから「ホタルが外部から持ち込まれていたと考えられる」としている。

区では「いつからどれだけ持ち込まれていたか、詳しくは分からない」としているが、今年度中に施設を閉鎖する方針だ。』


この問題は、最近急に持ち上がったものではなく、ずっと前から存在していた。「あんなワケの分からんムダな施設は廃止してまえ!」なんてことを板橋区の職員が言っていたのを10年くらい前に聞いたことがある。
ホタル成虫への羽化の時期になると、マスコミや広報紙などで公開告知がされるので一度でかけたが、あまりの行列に断念して以来、結局は見ずに終わってしまった。

今回の報道で、あらためてネットを検索し、板橋区議会議事録や各関係所のHPやブログを読んでみたが、あまりに問題の枝葉が広がり過ぎていて、私の頭の処理能力を超え判断が麻痺してしまった。

ブログ記事上に掲載の「板橋区ホタル生態環境館」の写真は民主党区議の中妻じょうた氏のブログから、新聞記事は共産党区議の松崎いたる氏のブログからお借りさせていただいた。写真の通り、ホタル生態環境館のたたずまいは贅をこらした物ではなく、いたって質素で築40年らしい。この中で、館長兼技術者を含む職員3名とボランティアにより活動を行っていた。年間の予算は1600万円とも2500万円ともいう。(2500万円は人件費込みか?)

報道された記事(板橋区役所の発表)をみるかぎり、ホタル館で不正行為が行なわれていたので処分を行なった。と読める。板橋区議会議事録を見ると、この問題を追及してきたのは共産党の区議もいれば民主党の区議もいる。一方、ホタル館存続の支持をしているのは「市民ネット」の区議だけど、必ずしも意思が統一されているわけではないようだ。

ホタル館の館長兼技術者の行動が問題視されていて、昨年3月に板橋区役所から解雇され、現在裁判で争っていると言う。館長氏はホタル育成のためのノウハウを蓄積し、その特許まで取得した。
『ホタル生態再生事業、ホタル生態累代水槽、自然河川水質浄化の技術支援をしている。
特許第3902476号 発明の名称 「ホタル累代飼育システム及び方法」
特許取得年月日 平成19年1月12日 特許権者 東京都板橋区 発明者 阿部宣男(板橋区ホタル飼育施設)』

この阿部宣男氏が前館長兼技術者で、彼をサポートをしていたのが「いたばしホタルの安全<いのち>を守る会」だ。会の設立当初から会長を務めてきた樋口都久二氏も現在はその任を引き、同会のHPは現在体制を立て直すとのことで、一部の記事等は削除されている。

阿部氏の経歴をネット上の情報から抽出すると、『1955年板橋区生まれ。1980年板橋区の職員に採用、区立こども動物園に配属される。1983年板橋区こども動物園に淡水魚水族館が併設されて、こちらの担当になる。1989年温室植物園に転属して、温室の無農薬化に取り組む。同年7月、無農薬化を聞きつけた議員の思いつきから植物園でのホタル飼育を命じられる。1992年区は温室植物園の閉園を決定。阿部氏は区長の理解をとりつけ、区所有の空き建物を改造して「板橋区ホタル飼育施設」(現・東京都板橋区ホタル生態環境館)とし、ホタルの飼育を継続。1999年から茨城大学大学院理工学研究科の稲垣輝美の研究(光が人間に与える効果の研究)に協力。「社会人特別選抜」により茨城大学大学院理工学研究科後期博士課程を受けることを勧められ、2002年に同課程に合格、46歳の大学院生となる。2005年修了し、博士(理学)を取得。』

と、なかなかの勉強家でもあるようだ。しかし、である。氏はどうも博士号を取得してからへんな方向へ走り出し、特に先の東北大震災以降、カルト科学の推進者ではないかとの指摘が相次ぎ問題が大きくなったようだ。
まっ、とにかくこの問題を突き詰めて行くと、先に書いたようにあまりに枝葉が付き過ぎて何が何だかわからなくなってくる。そこで問題の根はどこにあるのかを探してみた。そのヒントが共産党の松崎いたる区議のブログに掲載されていた、平成4年(1992)12月23日付けの朝日新聞記事だ。

記事を要約すると、「(1992年に区は温室植物園の閉園を決定し)温室植物園で飼われていた約二十万匹のホタルの幼虫やサナギの大半が死んでしまった。そのことを憂いた「高島平ホタルをとばす会(代表・樋口都久二氏)が区に要望し、区みどり課が担当してホタルの飼育施設を造ることになった。」ということだ。
そして、その施設の館長兼技術者として阿部宣男氏が抜擢されたワケなのである。当然、樋口氏と阿部氏はその前から付き合いがあったのだろう。

ぶっちゃけて私見を述べさせてもらうが、こんなストーリーが浮かぶ。

@温室植物園の廃止が決まり、ホタルが大量に死んだことに義憤を感じた市民グループが区に陳情した。

@そのことをマスコミにリーク、朝日新聞や東京新聞が掩護射撃の記事を掲載、問題が大きくなった。
(約二十万匹のホタルの幼虫やサナギの大半が死んだが、施設にはそんな数を飼育出来るキャパはなく、捏造された数字とされている。)

@弱い者いじめをする板橋区、とのイメージをレッテル貼りされることを恐れた板橋区側が折れた。

‥あれ、なんだかどこかで見たような従軍慰安婦報道みたいな経過と似ているような気が‥

そうそう、これも追加で。

@役所、議会が承認した事業なのでなかなかやめられず、ズルズルと今日まで至る。


現在施設は廃止の方向に進んでいるようだけど、なんでここまで時間がかかったのか?=なぜ大切な税金が使われ続けたのか、またその責任はどうなるのか。館長氏の解雇だけで終わらすのかよ、という気が板橋区民としては思わざるを得ない。この問題を追及してきた区議さんには敬意を持つけれど、それにしても時間がかかり過ぎる。民主主義はコストがかかるからなのか?いやいや、区議先生は他にもいろんな大事な案件を抱えてらっしゃるからしかたないっすよ、てなことですかねえ。議会の議事録を読んでいても、勉強不足な区議さんがいるなあとの感が否めないでもないですなあ。。

それと市民グループさん‥もともとは”優しさ”から出発しているのでしょうが、どうも、時が経過して行くにつれ、方向性が変わってしまった気がしますね。
「日の丸起立問題」など平和教育が過激度を増し世間を騒がす日教組も、元はと言えば終戦後、自分たちの教え子に間違った教育を行ない戦場へ送り出してしまった、という反省から出発している。その趣旨は大いに良しなのですが、時が過ぎるにつれ‥。


今後は「板橋ホタル館の存続を求める会」が、文字通りホタル館の存続を求めて運動をして行くそうですが、ホタル飼育の技術は区の職員に継承されておらず、新たに外部から指定管理者を招くのもねえ‥。現在施設内にはホタル自体の棲息がほとんどないのだから、残った個体はそれぞれの生息地にリリースするってわけには‥


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