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板橋区民、本気出す。2015

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‥すっかり新年気分はなくなりましたね。

昨年は東上線開業100周年記念の年でした。今年は、大東亜戦争終戦から70周年です。ということで、板橋区民もそちら方面への調査にやる気をスイッチしました。

先の戦時中、我が赤塚郷の南、土支田・田柄・高松町方面にかけ、「成増陸軍飛行場」が存在しておりました。現在の練馬区光が丘団地一帯ですね。飛行場の詳しい歴史については、今まで当ブログにてたびたび記事にしてきましたのでご覧いただければ幸いです。(但し、ブログ機能の欠点で過去記事を辿るのは大変なので、検索サイトで適当な文字列→成増飛行場に関するワードを入れて検索して下さい。)

簡単ですが飛行場の歴史を説明すると、昭和17年4月に米空母から発艦した爆撃機が東京を初空襲、急遽帝都を守護するため板橋区に防空飛行場を建設(皇居上空まで3分で到達できる位置が条件)、昭和18年10月から飛行47戦隊にて運用を開始、同19年11月より空対空特攻隊を含め米軍との戦闘が始まり、同20年2月頃から沖縄特攻隊の編制・訓練基地も兼ねる。5月下旬47戦隊は九州へ移動、入れ替わりに第100飛行団が再編成のため駐屯、沖縄陥落後は本土決戦特攻隊の編制・訓練基地となるが終戦。

てな流れです。

さて。

戦時中のことに関しては、現在までに刊行されている戦記本や行政が発行している本で調べれば、だいたいの流れがわかります。ネット上でも、当ブログを含めたくさんの記事がヒットしますね。ただ、ネットに出て来る情報は、利便性が優れているゆえにソースが怪しい場合が多いのが珠に傷です。常に出典を考えながら情報を読まなくてはなりません。一番確かな情報は”一次資料”から引用された情報で、それは当時を実際に経験した方の証言も含まれます。
ただし、体験者が語る証言は扱いに慎重になる必要があります。事実には客観的な事実や主観的な事実もあって、それを聞き取る側の心構えも慎重にしなくてはならず、残された記録が信頼して良い物かどうかを判断する感覚が必要になります。

‥まあ、そんなことを考えているといつまでも調査は進みませんけどね。。(反省)

事を調べるにあたり、文献を読んだりネットで検索してもどうしても出て来ないことがあります。その場合は、他の方法を考えなければなりません。

‥んなこと言ったってどう調べりゃいいのよ?

これが”壁”ってやつで、だいたいの調査がここで挫折をしてしまいます。”どうしたらその答えに辿り着けるのか”、これが最大の難関です。
ホント、難しい。ああ、若いうちから勉強しておけば良かったなあ。。なんて思うのはこんなときですね。まっ、そんなこと言っててもしかたないっす。いろんな資料を、その周辺にまで広げながら読むという地味で膨大な作業をこつこつ続けるしかないのかな、と思います。

さて。

成増陸軍飛行場についてわからないことの一つに、「終戦直後のこと」があります。もうね、戦時中のことに関しての情報に比べると極端に少ない。唯一、飛行場を管理していた第43飛行場大隊に在籍していて、最後まで業務を行なっていた、元成増会々員で飛行場の機密資料を保管してきた高橋正治氏の証言記録が残るのみだ。その記録も「(昭和20年)10月下旬に終了業務を終え、11月1日に司令部に報告に行き成増飛行場を後にした。」という内容で、進駐軍による接収の様子はわからない。

さあ、どうやって調べるのか‥まず浮かぶのは公文書の存在だ。進駐軍や日本政府の公文書。それには国立公文書館が作る「アジア歴史センター」のサイトで調べるのが手っ取り早いが、現在までに公開されているのは終戦以前の項目までで、進駐や占領後の情報はあまり出て来ない。(グラントハイツ建設時の書類などは見られる。)

その為、調査は長い間停滞していた。しかし、所沢や調布の飛行場接収に関しては、それらを研究する優秀な方々がいて、米軍の資料などを集めてほぼ解析していた。出典も載っている項目はあるけれど、米国国立公文書館所蔵資料など、ちょっとやそっとでは調べられないものだった。
以来、ずーーーっとモヤモヤしていたが、ある研究者から終戦直後の成増飛行場の写真が1970年代の「航空ファン」誌に出ていた記憶がある。との情報を頼りに、古本屋サイトで該当の雑誌を入手すると、やはり出典はアメリカの公文書館であるとわかった。う〜むやはりこれは行かねばならぬ、と一大決心をしてワシントンD.C.の隣に位置するメリーランド州カレッジパークにある、米国国立公文書館新館・NARA2へと出かけたのは今から7年前だった。今から思えば準備不足もあり、またNARA2の検索システムにも不慣れだったため、反省点は多かったけれど、少しは貴重な資料を持ち帰ることはできた。

長かったけど、ようやく本題に移ります。

成増飛行場に、いつ進駐軍がやってきたのか?
正月の酒も抜けない頃、ネットで東京周辺の進駐軍の占領状況が載っているサイトを読んでいると、ふと目についた資料に、出典として”外務省外交記録”のキーワードが出ていた。そうか、外交文書は、元は外務省の管轄文書なのか、と気がついた。そんなの常識じゃん、と頭の良い人は思うだろうが、そこは凡人の悲しさですね。。ムダな時間を過ごしてきました。。

そこで先日、正月太りでだぶついた体を奮い起こし、板橋区民にとってはアウェーの地である六本木・麻布地区をめざして寒風吹きすさぶ中、赤塚郷を出た。目指すは麻布台にある外交資料館だ。外務省のHPを見ると外務省には外交資料館が附属していて、そこのHPでは現在公開されているマイクロフルム化された外交資料一覧がPDFで見られるようになっており、ポツダム宣言受領時からの資料が揃い、進駐軍が占領を始めたころの文章も存在していた。PDFにより該当しそうな項目は検討がついたが、詳細まではわからない。だから実際に現地でマイクロフィルムを確認する必要があった。

渋谷駅から一時間に2本しか出ていない都営88番新橋東口行きのバスに乗り、外交資料館へ向かう。受付で書類に記載し、身分証明所を提示した。館員の方に、これこれこう言う事柄について調べたいがどういう方法でアクセスするのかと聞くと、項目の載った分厚いファイルを渡された。ネット上の情報よりも一段階詳しい項目があり、ページを手繰って行くと、「連合軍進駐状況一覧表」という項目があった。

これだ!

さっそくマイクロフィルムを借出し、ページを辿ってゆく。Oh! I Gat it!! そいつが、冒頭の写真である。ページの途中なので記載が省略されているけれど、昭和20年10月15日、午後5時現在の状況を示している。
表を読み取ると、「成増飛行場は9月21日、40人の進駐軍警備兵により接収された。」という内容だ。

嗚呼、長かった。。資料自体は何年も前から公開されていたのだが、ここに辿り着くまで時間がかかった。たった1行の文だけど、これで、成増陸軍飛行場に進駐軍がやってきたのは昭和20年9月21日のこと。と堂々と書けるようになった。

誠に感慨深いことである。。

関連資料として、7年前にNARA2で入手した「終戦直後の成増飛行場」の写真資料の状況を公開しちゃいますね。
NARA2では、一日3回の時間帯で資料を借出(一度に借りられる量はこのワゴンに載る量)して閲覧することができる。申請した資料はワゴンに乗せられて閲覧者に引き渡される。2番目の写真は、紙焼きで保存された東京へ進駐した時に撮影された写真が納められたファイルで、8×10(インチ)でプリントされた写真が入っている。中には乾燥により反り返っていて複写に難儀するプリントも。複写は自分のカメラで申請もいらず自由に撮影できるし、営利目的でないならネットなどでも公開出来る。(これがアメリカの太っ腹な所だ。)ただし他者が複写した写真を勝手にコピーして使用する事は出来ない。
ファイルの中には、書籍で使われたり映像で見たことのある有名な写真がいくつもあった。その、たくさんあるファイルの一つに、「航空ファン」で使用された「終戦直後の成増飛行場」の写真を見つけた。裏面にはキャプションが付いている。

そのキャプションにはこう記載されていた。
「破壊された日本機が並べられた滑走路から離陸する米陸軍第1騎兵師団のL-4連絡機。1945年10月8日、日本、東京にて。」

米陸軍第1騎兵師団は、東京の占領を行なうために最初に進駐した部隊だ。キャプションには板橋区あるいは成増とは記載されていないが、東京には他に海軍の東京(羽田)飛行場と陸軍の調布飛行場があるけれど、写真の背後に映る風景から羽田ではないし、破壊された47戦隊マークの付いた四式戦が写っていることから、成増飛行場にほぼ間違いないと推察されている。
よって、9月21日に進駐してきたのも米陸軍第1騎兵師団の警備隊と考えて良さそうだ。同師団は朝霞の士官学校や調布飛行場も接収している。


いやはや、たった1行の記録や写真を見つけ出すのに、なんと手間や時間がかかるもんだと啞然としちゃいますね。ちいさな事をこつこつと。歴史を辿るのはこの積み重ねなんだなあと改めて感じた次第でした。。

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