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年末事件簿〜それは赤塚郷から始まった〜/昭和戦後の大事件。

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 先週は、マックフライポテトLサイズや吉牛の食べ納め、新河岸のクラショウの高級肉特売や来年1月に値上げするティッシュやトイレットペーパーの買出し、また、来春大幅値上げが発表されたサントリーウイスキーの確保等、忙しかった。特にウイスキーは1本1000円〜1500円も値段が上がり死活問題だ。せめて500円くらいの値上がりでは済まないのだろうか?山崎12年なんて先々週末には見かけたが今ではどこにもない。プンプン。


と、年末らしく気ぜわしい日々が続きますが、テレビでは過去を振り返る番組が多く流れる時期ともなりましたね。
我が赤塚郷も、残念ながら新聞を騒がす事件が過去にたびたびおこった地域であることは認めざるを得ませんけど、中でも最大の事件は、今からちょうど44年前の昭和45年(1970年)12月18日に起った「上赤塚交番襲撃事件」だろう。事件の様子を朝日新聞の記事から引用する。

『同日午前1時半ごろ、板橋区の上赤塚派出所(赤塚3-41-1)に3人の若い男が「自動車が故障したので、迎えが来るまで待たせてほしい」といって入ってきた。いい終わるなり3人は、見張り中の高橋孝志巡査(20)にむかって、それぞれ長さ30センチほどのビニールホースに仕込んだ鉛の棒をふりかぶってなぐりかかった。

奥の休憩室にいた安部貞司巡査長(42)が、物音に気づいて同室の戸をあけたとたん、1人が休憩室に入り込み飛びかかった。阿部巡査長は手首をなぐられながらも、そばの短銃保管庫からピストルを取り出し、1人にむかって前から2発発射した。弾丸は2発とも胸に命中し、犯人はその場に倒れた。』

結果、京浜安保共闘(日本共産党<革命左派>神奈川県委員会)のメンバーである柴野春彦(24・横浜国大)は胸に2発の銃弾を受け死亡。同・渡辺正則(23・横浜国大)は右上腕部に銃弾を受け全治2週間。同・少年S(18・川崎市内の定時制高校)は腹部に銃弾を受け全治不明の重傷。高橋孝志巡査が流れ弾に当たり腰背部に貫通銃創。右目上部挫創。頭部打撲。全治5週間。安部貞司巡査長は右上腕に打撲。全治1週間の怪我を負った。

なぜこんな事件が起ったのかと言うと、前年12月に逮捕された革命左派指導者の川島豪が、この年の春頃から自身の奪還を獄外指導部に対して指示していた。獄外指導部(最高指導者・永田洋子)は様々な奪還方法を検討した結果、川島を乗せた護送車を襲撃し川島を奪還することとしたが、その際に補助的に銃が用いられることになり、交番襲撃による銃の奪取が計画された。この事件は、左翼運動家が警察官に射殺された初めてのケースとなった。

その後、銃奪取に失敗した革命左派は、交番のかわりに銃砲店からの銃奪取を目指し、翌年2月に真岡銃砲店襲撃事件を起こすことになる。土田国保・警視庁警務部長は「犯人を射殺したことは警察官の職務規定を遵守した正当防衛である」と発言し、これに怒りを覚えた過激派グループが1971年12月に土田邸に爆弾入りの小包を送りつけ、土田夫人が爆弾で殺害されてしまう(土田・日石・ピース缶爆弾事件)。ここから京浜安保共闘が赤軍派と統合した連合赤軍は過激さを一層増し、対外的なテロ事件をおこす一方、「山岳ベース事件」などの内部粛正が行なわれた。

そして、1972年2月19日、あの「あさま山荘事件」が起る。

数々の凶悪なテロ事件を起こした連合赤軍を、警察は都市部で徹底した職務質問やアパートの居住者に対するローラー作戦を行い、総力を挙げて行方を追いつめていた。連合赤軍は群馬県の山中に逃れるが、警察の山狩りにより、榛名山や迦葉山のベースを発見されたことをラジオのニュースで知り、群馬県警察の包囲網が迫っていることを感じ、隣接する長野県に逃げ込むことにした。
彼らは長野県の佐久市方面に出ることを意図していたが、装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出て別荘地に建つあさま山荘に人質を取り立てこもった。

事件は、NHKや民放で連日生中継され、28日の強行突入のシーンは、NHK(9時40分から10時間40分に渡って放送)では平均50.8%の視聴率を記録した。これは事件から40年以上が経過した現在でも、報道特別番組の視聴率の日本記録なのだそうだ。私も、夢中で中継を見ていて、学校に遅刻しそうになってしまったのを憶えている。

立てこもりが長期に渡った理由の一つとして語られているのが、上赤塚交番襲撃事件の時に犯人を射殺したことで過激派が凶暴化し、以降の様々な事件が引きおこってしまったと言う判断があり、そのため警察側の発砲許可が突入直前まで許可されず、犯人は全員逮捕できたが警察側に3人の死者と16人の重軽傷者が出る結果となってしまった。


それにしても、なんで襲撃先として上赤塚派出所が選ばれたのだろう?赤塚郷住人としては気になるところだ。ウィキペディアの記事によれば、「銃奪取のための交番襲撃については楽観視しており、計画らしい計画も立てないまま交番襲撃は決行された。」てなことらしく、東京都下の田舎ののんびりした交番だったのが理由だったようですね。。(2番目の写真は当時のニュース映像/左手の林は赤塚氷川神社の参道)

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