« 2014年11月 | トップページ | 2015年1月 »

2014年12月

板橋区民、師走を感じる。

5022050222


 とうとう、12月に入りましたね。。もう師走ですか。。昭和が終わり、平成に入ってから急に”季節感”を感じられなくなった気がしますが、バブル時代ってやつが季節感を消し去ったのかもしれないですね。。

さて、先月末、安倍総理大臣が衆議院を解散し、今月頭に衆議院議員選挙が公示され、窓の外では選挙により代議士先生の座を目指す立候補者の選挙カーが忙しく走り回ってます。まさに”師走”ってやつですかね。街宣活動の他、駅頭や商店街など、人出の多い場所では立候補者による立会演説が行なわれています。

板橋区は中選挙区の東京11区で、立候補者は、自民前職の下村博文氏(60)、民主新人の熊木美奈子氏(53)、共産新人の山内金久氏(66)、無所属新人の下村芽生(めい)氏(27)の4人だ。
有力候補とされているのが自民前職の下村博文氏で、先の安倍内閣では文科省大臣を務めておられた。以前から安倍首相の側近として活躍しており、現職の大臣でもあったので今回の選挙では盤石と予想されている。

選挙戦が始まるにつれ、戸別訪問や投票依頼の電話作戦、ビラ撒きなど運動員による選挙活動も活発に行なわれている。
先日、拙宅の郵便受をのぞくと(冒頭の写真の)ビラが入っていた。誌面には大きな活字で下村博文氏に対する金銭問題を追求する文字が踊っている。裏面では「政治資金規正法」に違反しているのではないのかと別な問題を追及する記事が載っている。一見しただけではどこの誰が出所したビラなのかよくわからない。
いや〜これが怪文書ってヤツですか?うん、選挙はこうでなくっちゃ!とチャカしては不謹慎ですね。

この怪文書っぽいビラ、冒頭に”The Liberty Plus”と言うロゴが描かれ、ちいさな文字で「この一冊でニュースの真実がわかる」とキャプションが付いている。右上にはHPへの案内が載っているので、パソコンで検索してみた。すると‥あの宗教団体、幸福の科学がバックにいる幸福実現党が製作しているであろうニュースサイトに繋がった。このニュースサイトには、下村博文氏を糾弾する記事が大きく取り扱われている。

で、なぜ選挙戦の最中にこんなビラが撒かれているのか、また、このビラによって誰が得をするのだろうか‥と考えると、無所属新人の下村芽生(めい)氏の存在が浮かんでくる。民主新人の熊木美奈子氏は、板橋区選挙区出身の前都議会議員で昨年の選挙で落選しているし、共産新人の山内金久氏は長年、板橋区議会議員を務めていた。だから、今回の立候補は理解できる。しかし、突然ふってわいてきたような下村芽生氏は、立候補したその背景が気になる人物ではある。

なあんてもったいぶって書いてますが、すでにネット上や一部マスコミの記事によれば下村芽生氏は幸福の科学に関係する人物であると特定されている。下村博文氏が文科大臣時代に、幸福の科学が設立した「幸福の科学大学」の認可を見送った為、”今まで(大学認可のために)陰ながら応援していたのに裏切りやがって許せねえ!”とばかり、幸福の科学が選挙区にわざわざ同じ下村姓を名乗る若くて美人な候補者を”刺客”として送ったのだとされている。

もちろん下村芽生氏は無所属新人の候補者であり、氏のアメーバブログにも幸福の科学に関係があるとか応援を受けているとかそんなことは一切書かれてはいない。ところが、世はネット社会であり、下村めい 板橋区 などで検索すると、たちどころに氏の背景を検証する記事が出てくる。中には氏の選挙活動を追いかけ、ビラを配ったり応援演説をする人達にターゲットを絞り、それらの人々のプロファイリングを行なって、彼らが幸福の科学の関係者であることを暴いてみせるブログなどもあったりする。

いや〜すごい世の中ですなあ。。

なんか、こんな隠しごとをするなら最初から所属や応援団体を名乗ればいいじゃん、とか思いますけどね。隠したりすると、何か後ろめたい物があるんじゃね?とか同じ名字を名乗って間違えて投票するのを期待してるんかい?とか邪推してしまいますがな。もっとも、幸福の科学は1990年代の初め頃、直木賞作家の景山民夫氏や歌手で女優の小川知子氏などを広告塔として派手に宣伝をし、党名を前面に出して国政選挙に打って出たこともあったけれど、同時期に世間を大いに騒がせたオウム真理教のとばっちりで、世間からは”カルト宗教”視され大惨敗し、それ以来、あまり団体名を表に出さなくなったような気がしますね。

景山民夫氏は、いわゆる”団塊の世代”の人で、放送作家として活躍し多くのバラエティー番組などにも出演していた。1990年頃に幸福の科学に入信し、強烈なマスコミ批判を行なったためメディア界から敬遠されてしまった。1998年、自宅の書斎で喫煙しながら趣味のプラモデル制作をしていたところ、接着剤から気化したシンナーに引火し、やけどもしくは一酸化炭素中毒で亡くなった。50歳だった。
告別式の模様はワイドショーでも大きく取り上げられ、出棺の際、小川知子に付き添われた妻が「バカヤロー! 寂しいじゃねーか!」と大声で叫んでいた姿を今でも思い出す。ちなみに、この告別式が行われたのが我が徳丸の「東武練馬シティホール」だった。当時、なんで自宅のある成城じゃなくて東武練馬なんだ?と不思議だったなあ。葬儀は幸福の科学が取り仕切ったという。

まあとにかく選挙戦なんてものはとても人間臭いものであって、昔から足の引っ張り合いがひどかった。
私のコレクションの中に、昭和初期の新聞類があるけれど、それを読むともうね、すごいことが書いてありますよ。まだジャーナリズムが未成熟な時代だったからね〜とも思うけど、下世話なタブロイド紙もどきな記事が満載だ。
大正時代後期から昭和の初め頃は新聞を発行するのがブームだったようで、板橋や巣鴨あたりに発行所を持つ新聞が多数出ていた。たいていが月一回か二回の発行ペースだったようだ。これらの新聞についてはまたの機会に項を改めて記事にしますので、しばしお待ちくださいませ。。


そんなこんなで14日の投票日まであと9日間、候補者同士の壮絶なデットヒートが繰り広げられるわけなのである。静かな年末はまだちょっと先ですなあ。。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

板橋区民、収集癖について語る。第五話

Unknown1_2Ki415_23968Img_2458g_2


 一段と寒さが増してきましたね。。フトコロも寒いですが、今週始め、牛丼の吉野屋が一部商品の大幅値上げを来週水曜日から実施すると言うニュースが流れました。今やチェーン店の牛丼は庶民の物価感を計るアイテムとして定着しているので、マスコミも大きく取り上げます。この吉野屋、どこにでもあるような印象がありますが、実は板橋区内には3店舗しかない。大山駅南口と成増の川越街道沿いと高島平大門の高速下にある店舗だ。
幸い我が赤塚郷には2店舗あるので、さっそく高速下の吉野家へ、100円も値上がりする牛カルビ丼の食べ納めに行ってみた。気のせいかも知れないけど、店内はいつもよりだいぶ混んでるように感じました。。

て、今回は牛丼の話をしたいわけじゃなくて、ちょっと間が空いてしまいましたが、我が収集癖の話の続きをします。興味のない方、すみません。


<もうお忘れの方もおられるかと思いますが、これは今から約20年程前の、まだ携帯電話やインターネットなどが一般に普及する前の話です。>
ええっと、基本的にあっしは板橋区に関係する物を収集しています。その中には東上線や三田線、国際興業などのバス関係も含まれております。割合としては、こういう言い方は好きではありませんが、いわゆる”紙くずコレクション”と呼ばれている紙ものの資料が多いですね。集め方は過去4回に渡って記事に書いてきました。で、今回はあっしが出会った”紙くずコレクション”の達人の話をします。

あっそうだ、その前に”収集の王道”、入札誌の話をしなきゃ。

古い物を収集する方法は、古美術商や古書店、骨董市やリサイクルショップ、現在ならネットオークションなどなどありますね。まあ収集する目的によっていろいろ手段が変わるわけですが、収集を始めてしばらくした頃、自分の興味ある分野で年に何度か大きな入札会が行なわれることを知りました。一つは神田小川町で行なわれる「古典籍展観大入札会」。これは、東京古書組合のなかで、古典籍をおもに扱っている業者がつくっている会で、現在28店が加盟し90年の歴史があります。 他には京都の「古裂會」(写真参照)やテレビ「何でも鑑定団」でおなじみ、レギュラー鑑定士の田中大さん率いる「思文閣」(写真参照)なんかも有名ですね。どれも豪華な入札誌を発行していますが、正規で購入すると数千円もします。。(今はネットで閲覧可能)

ここらへんの業者は一般人には敷居が高く、入札誌は主に博物館や大学などに配られ、出品物もそれこそ博物館や美術館級のものや歴史の教科書なんかに登場する人物由来の品が並んでいる。最近も、「中世の赤塚郷観音堂にあった鰐口・応永27年(1420年)製」<上赤塚観音堂(赤塚五丁目二六番地)に収められていた可能性が高い>が確か「古裂會」に出品され、鰐口は板橋区により無事落札され、2013年度の板橋区有形文化財に指定されている。(写真参照)http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/043/images/img_43968_1_1.jpg.html

あっしも若気の至りで無謀にも「古裂會」や「思文閣」に入札したことがあり、幸い?にも落札し、大枚はたいて書幅を購入した。たしか、戦国時代後期の武将、板倉宗重の手紙だったかな。父は板倉勝重で、坊さんだったけど徳川家康に還俗を命じられ京都所司代を任じていた。宗重の弟は、徳川家光に島原の乱で天草四郎の討伐を命じられたが返り討ちにあい、小説などでは徳川の代官として悪役を演じさせられていますね。
なんで大枚はたいて”板倉宗重の手紙”なんぞを手に入れたかというと、父の板倉勝重が家康に取り立てられた時に貰った領地が赤塚郷だったから、という理由です。以下四代に渡り赤塚郷(の一部)は板倉家のものでした。出来れば四代すべての書幅を入手したかったのですが、いまだかなわず‥ですね。(あくまで若気の至りで、あんな大枚を今は払えないのが理由です。)
そのかわり、しばらくはあの高額な入札誌がタダで送られてきたので、目の保養と勉強にはなりました。。

さて、ようやくですが”紙くずコレクション”の達人の話をします。

入札誌は、上記のようなカラーページ満載の高額な物ばかりではなく、様々な古書店や古美術商や個人コレクターからも発行されています。前に、先月亡くなった叔父から紹介された「美濃」という入札誌のことを書きましたが、ある時、「美濃」に板橋区で発行された新聞が出品されているのを見つけました。その一部が前回記事にUPした写真なんです。商品を落札し、出品主と何度かやり取りをするうちに、関連の新聞がまだあるので譲ってくれると言う。「あざっす、全部いただきます。」とまた”若気の至り買い”をしたのはいうまでもありません。

この売り主が、資料収集コンサルタントで、東洋文化新聞研究所代表の羽島知之氏だった。羽島氏は新聞資料収集家や研究者で組織する新聞資料研究会会長でもある。当時、今のみなとみらい線「日本大通り」駅近くにある「日本新聞博物館」(写真参照)の設立に協力していて、氏の所蔵する膨大な新聞コレクションの整理をしている最中で、必要のない物をこつこつと入札誌などで売っていたのだ。

意識的に収集されたり縮刷版の出るような大新聞や地方有力紙と違い、吹けば飛ぶような小さな新聞社の出した新聞は、読み終われば捨てられるだけの運命にあり、後世に残ることは稀だ。そのような新聞に価値を見出し、執念で収集し続けた羽島氏の様な方は凄いのひとことだ。
当時、取引はそれだけで終わったけれど、今でもネットオークションで板橋区関連の紙もの資料を落札すると、出品主が羽島氏だったことが何度もある。


達人は、もう一人いる。         〜次回第六話へ続く〜

| | コメント (7) | トラックバック (0)

板橋区民、収集癖について語る。第六話

Unknown


‥達人は、もう一人いる。。

いきなり続きから始めます。

時々、テレビ東京の人気番組「何でも鑑定団」のコーナーで◯◯鑑定大会という特集をやりますね、切手とか石とか西洋アンティークとか。その中で、「紙くず鑑定大会」というのがありました。最近全く取り上げられなくて残念だけど、自分の収集ジャンルとしてはこれが一番近いかもしれない。

その「紙くず鑑定大会」の鑑定士を務めたのが、野島寿三郎氏だった。

野島氏は、昭和7年岩手県盛岡市生まれで早稲田大学を中退。父親の転勤のため、少年時代は松本や東京、京城など各地を転々とした。学生時代から古銭や切手、マッチの収集に目覚め、昭和30年代には銀座のすべての商店マッチなどを精力的に集めていた。また、浮世絵研究家(筆名:飯島利種)としても知られている。

その収集歴や収集の方法、紙類の分類を纏めて本にしたのが「ペーパーコレクション入門 紙くず収集百科」だ。
この本には明治以降の収集家の話も載っていてなかなか興味深い。中には昭和41年に作られた相撲の番付表を模した「蒐集家番附」が紹介されていて、この番付表には全国の紙くず収集家の180人の名前とそれぞれの収集品(切手やスタンプを始めマッチラベルとか絵はがきとか大入り袋とかお札とか地図とか宝くじとか妻楊子とかetcetc‥)が載っている。

日本人はどうも昔から一定の収集癖を持つ人が生まれるようで、幕末、高島秋帆先生の弟子であった仙台藩の蘭学者・大槻磐渓が残したスクラップブック「積塵成山」(「ちりもつもればやまになる」)なども有名です。この十数冊あるブックには盤渓が収集した様々な紙類(漢詩や和歌や手紙や地図や暦や広告や絵などetcetc‥)がランダムに貼られている。
板橋区民的には高島秋帆先生との書簡が興味深く、徳丸原調練以前の長崎時代での出会いから、幕末文久年代の秋帆との別れまでの手紙と手紙袋(これが洒落ている)が残っているのが凄いですね。

‥ちょっと話が脱線してしまいました。上記に興味をお持ちの方は新潮社発行の「江戸文人のスクラップ」工藤 宜 (著)をお読みくださいませ。。

野島氏は、この番付表に載っている顔見知りの収集家との交流を本に書き綴ってゆく。それによると昭和25年頃、銀座通りの屋台で古銭や切手などが売られており、やがて屋台が取り締まられ、一部は新橋の地下鉄構内に移動したとかで、今でも切手屋や鉄道関係の店が新橋にあるのは鉄道発祥の地であるばかりではなく、こんな歴史的な流れも影響したのかもしれない。

さて、野島氏が明治以降の蒐集家の巨頭としてあげているのが「三田平凡児」「宮武外骨」の二人だ。
もともと「趣味」という言葉は、明治40年頃から雑誌で使われ出したのが始まりという。三田平凡児(三田平凡寺)は大正8年(1919年)に、「我楽他宗」と名付けた各種蒐集家の集う趣味の同好会を創設した。会員の顔ぶれは各界著名人にまで及び、美術家、建築家、医師、職人、芸者、議員までもが名を連ね、互いの蒐集を評価し協力しあう、幅広い情報ネットワークを張り巡らしていた。ちなみに三田平凡児の末娘は夏目漱石の長男と結婚している。その息子がマンガ家で文筆家の夏目房之介氏だ。

もう一方の宮武外骨(1867-1955)は、名前を聞いたことがある人もいるかもしれない(本名は宮武亀四郎)。日本のジャーナリストの草分けで、作家、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家でもあった。外骨の出版した刊行物の中でも最も有名なものは「滑稽新聞」で、明治34年(1901年)に大阪で創刊された。とにかく何者にも媚びず、権力を徹底的に批判することをモットーとし、気に入らなければ同じマスコミをも強烈に批判した。また時事批評だけでなく下世話な世相の話題まで扱い、他愛ない小説に見せかけて(縦組みのページを)横に読むと性的なネタが隠れていたりと、今日各種ウェブサイトで一般化した技法(アスキーアートや縦読みなど)の原形も見られるといったアナーキーぶりだった。

昭和2年(1927年)に博報堂の創業者・瀬木博尚の資金援助を受け、東京帝国大学法学部に明治新聞雑誌文庫(通称「明治文庫」)が創立され、外骨は東京帝国大学の嘱託となった。外骨が全国の旧家を回って収集を行った新聞等の資料は文化史としての歴史的価値のあるもので、現在の東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センターに改組された明治新聞雑誌文庫に所蔵され、広く研究のための利用に供されている。

野島氏は、郷里盛岡で骸骨物の蒐集していた叔父が三田平凡児と懇意にしていて、戦時中や戦後になって大学に在学中、叔父の使いでしばしば三田平凡児宅(夏目漱石長男の家)を訪れたという。その時、宮武外骨にも遭ったことがあるそうだ。
氏は平成11年3月、南小岩に紙くずを中心とした趣味のリサイクル・ショップコレクションの素材店「コレクターズ」を開いた。何でも鑑定団に初めて出演したのは平成12年の5月か6月(収録は4月)だ。

「鑑定団」を見て野島氏の店を知り、早速、原チャリに乗って環七通りをひたすら南小岩まで走らせた。店は住宅街の中にあった。
店内はさすがに雑然としていたが、一応、ジャンル別に商品が並んでいたので探しにくいことはなかった。客は自分だけだ。カウンターの奥に、テレビで見た野島氏ご本人がおられた。しばらくゴソゴソと商品を探索していると、野島氏が声をかけてきた。

野「あなた、何を探してるの?」

オ「板橋区関係の紙ものです。それと東上線とか東武カードとかetc‥」

野「う〜ん、むずかしいね。記念切符とか東武カードはあると思うけど‥」

野島氏に名前を聞かれたので答えると、意外な話をしてきた。

野「私の昔からの顔見知りで、あなたと同じ名字で似た様なモノを熱心に探している人がいるなあ‥」

オ「もしかして、◯◯ですか?」と自分の叔父の名前を告げ収集の品目をあげると、

野「そうそう、タバコパッケージとか宝くじとかテレフォンカードね。カードは番号にこだわりがあったねえ」

う〜む、どうやら収集癖は確実に遺伝するようだ。叔父は戦時中に駐屯していた中国の武漢でも、タバコのパッケージなどの収集をしていたというから凄い。蒐集の世界も、熱心さの度合いにより別次元のステータスに入り込むようで、自分もようやく叔父の到達した世界に辿り着いたかと感じたものだ。

反面、弟である父は収集にはまったく興味がなかった。そのかわり父はギャンブル狂だった。子供のころの父と出かけたシーンはギャンブル場ばかりだ。東武練馬駅南口にあったパチンコ屋(今はコンビニのサンクス)ニュー銀座は、一列の座席が一本の止まり木のような金属の棒で、台に玉を一つずつ入れ、バネの付いたレバーで弾くタイプだった。当時は三点方式がなかったのか景品はタバコのカートンや缶詰やチョコレートに変えていたっけ。他には戸田の競艇場や府中、西船橋の中山競馬場などもよく行った。後楽園の場外馬券場は、中に入るとタバコの煙で室内がクッキリ二層に別れていた(煙は上で大人の腰のあたりで別れていた)光景を憶えている。
特に、G1レースの時は総武線が超ラッシュで網棚の上に乗せられた(買出し列車かよ!)こともあった。勝てば秋葉原で万世のステーキ、負ければ池袋地下街のスナックランドで立ち食いのコースだ。もちろん、後者の方ばかりだった。

父が日大板橋病院で亡くなった時、病室のベッド脇にあった小物入れの引き出しの中に、使っていた小銭入れがはいっていた。中を見ると免許証などと一緒に複数の馬券が挟まっていた。入院していたのに、いつの間にこんなものを買っていたのか‥苦笑せざるをえなかった。ギャンブル狂の性癖は、ベクトルが違うだけで収集癖と似たようなものかもしれない。

その後、野島氏の店「コレクターズ」へ行くことはなかった(あまり自分の欲しい収集品がなかったため)が、最近ふと思い出しネットで検索をかけても、数年前の情報しか出てこず、グーグルアースのストリートビューで辿っても店が見当たらない。いったいどうなったのか、気になるところだ。

明日は、先月亡くなった叔父の納骨式だ。とうとうお墓の中に納められ、先に入っていた父母や兄弟と一緒になる。残された膨大なコレクションの行き先がどうなるのかはわからないが、その価値を理解し、愛して引継いでいく人や機関の元に納まることを願うばかりである。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

年末事件簿〜それは赤塚郷から始まった〜/昭和戦後の大事件。

Kamiakatsuka_koban71465_s


 先週は、マックフライポテトLサイズや吉牛の食べ納め、新河岸のクラショウの高級肉特売や来年1月に値上げするティッシュやトイレットペーパーの買出し、また、来春大幅値上げが発表されたサントリーウイスキーの確保等、忙しかった。特にウイスキーは1本1000円〜1500円も値段が上がり死活問題だ。せめて500円くらいの値上がりでは済まないのだろうか?山崎12年なんて先々週末には見かけたが今ではどこにもない。プンプン。


と、年末らしく気ぜわしい日々が続きますが、テレビでは過去を振り返る番組が多く流れる時期ともなりましたね。
我が赤塚郷も、残念ながら新聞を騒がす事件が過去にたびたびおこった地域であることは認めざるを得ませんけど、中でも最大の事件は、今からちょうど44年前の昭和45年(1970年)12月18日に起った「上赤塚交番襲撃事件」だろう。事件の様子を朝日新聞の記事から引用する。

『同日午前1時半ごろ、板橋区の上赤塚派出所(赤塚3-41-1)に3人の若い男が「自動車が故障したので、迎えが来るまで待たせてほしい」といって入ってきた。いい終わるなり3人は、見張り中の高橋孝志巡査(20)にむかって、それぞれ長さ30センチほどのビニールホースに仕込んだ鉛の棒をふりかぶってなぐりかかった。

奥の休憩室にいた安部貞司巡査長(42)が、物音に気づいて同室の戸をあけたとたん、1人が休憩室に入り込み飛びかかった。阿部巡査長は手首をなぐられながらも、そばの短銃保管庫からピストルを取り出し、1人にむかって前から2発発射した。弾丸は2発とも胸に命中し、犯人はその場に倒れた。』

結果、京浜安保共闘(日本共産党<革命左派>神奈川県委員会)のメンバーである柴野春彦(24・横浜国大)は胸に2発の銃弾を受け死亡。同・渡辺正則(23・横浜国大)は右上腕部に銃弾を受け全治2週間。同・少年S(18・川崎市内の定時制高校)は腹部に銃弾を受け全治不明の重傷。高橋孝志巡査が流れ弾に当たり腰背部に貫通銃創。右目上部挫創。頭部打撲。全治5週間。安部貞司巡査長は右上腕に打撲。全治1週間の怪我を負った。

なぜこんな事件が起ったのかと言うと、前年12月に逮捕された革命左派指導者の川島豪が、この年の春頃から自身の奪還を獄外指導部に対して指示していた。獄外指導部(最高指導者・永田洋子)は様々な奪還方法を検討した結果、川島を乗せた護送車を襲撃し川島を奪還することとしたが、その際に補助的に銃が用いられることになり、交番襲撃による銃の奪取が計画された。この事件は、左翼運動家が警察官に射殺された初めてのケースとなった。

その後、銃奪取に失敗した革命左派は、交番のかわりに銃砲店からの銃奪取を目指し、翌年2月に真岡銃砲店襲撃事件を起こすことになる。土田国保・警視庁警務部長は「犯人を射殺したことは警察官の職務規定を遵守した正当防衛である」と発言し、これに怒りを覚えた過激派グループが1971年12月に土田邸に爆弾入りの小包を送りつけ、土田夫人が爆弾で殺害されてしまう(土田・日石・ピース缶爆弾事件)。ここから京浜安保共闘が赤軍派と統合した連合赤軍は過激さを一層増し、対外的なテロ事件をおこす一方、「山岳ベース事件」などの内部粛正が行なわれた。

そして、1972年2月19日、あの「あさま山荘事件」が起る。

数々の凶悪なテロ事件を起こした連合赤軍を、警察は都市部で徹底した職務質問やアパートの居住者に対するローラー作戦を行い、総力を挙げて行方を追いつめていた。連合赤軍は群馬県の山中に逃れるが、警察の山狩りにより、榛名山や迦葉山のベースを発見されたことをラジオのニュースで知り、群馬県警察の包囲網が迫っていることを感じ、隣接する長野県に逃げ込むことにした。
彼らは長野県の佐久市方面に出ることを意図していたが、装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出て別荘地に建つあさま山荘に人質を取り立てこもった。

事件は、NHKや民放で連日生中継され、28日の強行突入のシーンは、NHK(9時40分から10時間40分に渡って放送)では平均50.8%の視聴率を記録した。これは事件から40年以上が経過した現在でも、報道特別番組の視聴率の日本記録なのだそうだ。私も、夢中で中継を見ていて、学校に遅刻しそうになってしまったのを憶えている。

立てこもりが長期に渡った理由の一つとして語られているのが、上赤塚交番襲撃事件の時に犯人を射殺したことで過激派が凶暴化し、以降の様々な事件が引きおこってしまったと言う判断があり、そのため警察側の発砲許可が突入直前まで許可されず、犯人は全員逮捕できたが警察側に3人の死者と16人の重軽傷者が出る結果となってしまった。


それにしても、なんで襲撃先として上赤塚派出所が選ばれたのだろう?赤塚郷住人としては気になるところだ。ウィキペディアの記事によれば、「銃奪取のための交番襲撃については楽観視しており、計画らしい計画も立てないまま交番襲撃は決行された。」てなことらしく、東京都下の田舎ののんびりした交番だったのが理由だったようですね。。(2番目の写真は当時のニュース映像/左手の林は赤塚氷川神社の参道)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

板橋区民、2014年の大晦日なのでお宝を公開する。

50249

 とうとう、2014年も大晦日。‥年々、月日や時間が過ぎるのが早く感じるなあ。。と思っている皆さん、それは単に物忘れが進んでいるせいですぞ。と、自分のことを棚に上げつつ本年最後のお宝を‥


ちょっと、なんすかこれ?歳末に公開するお宝にしては地味じゃね?珍しくもないじゃん。
‥なんて声が聞こえてきますが、んじゃあこんなモノはいったいどこで手に入るんですかい?まさか板橋区中を回って盗んでくるんじゃあ?なんて警察のお世話になるような方法で手にしたもんじゃないっす。これはちゃんとヤフオクに出てたのを落札したんですよ。

過去、6回?でしたか我が収集癖の歴史を語りましたが、それは昔々の収集法の話でした。
ウチに初代のパソコンが来た(確かMacのパフォーマー5430だったかな、今のi-macみたいなモニター一体型のPC)のが1996年のこと、まだモデムでピーヒョロロ〜とインターネット接続していた時代でした。当時のスペックではHPを見るのも一苦労で、写真が多いとものすごく時間と接続料がかかりましたっけ。その後すぐにISDNが出来るようになり、電話FAXと別回線で接続できてだいぶ便利になりました。ADSL方式はそれからまた数年後。で、現在はフレッツ光ですね。ネットを始めた当時はまだGoogleさんは誕生していなかったので、ヤフーさんとかインフォシークさんとかグーさんといった検索サイトを使ってました。

1999年9月、ネット上でヤフーオークションのサービスが始まりました。現在でも日本国内のネットオークションサイトでは最大規模じゃないっすかね。楽天にもオークションはあるけど、商品の多彩さにおいてはだいぶ劣ります。
あっしがヤフオクに参加するようになったのは、開設直後からだったかな。10年くらい前にIDとパスワードを盗まれて悪用され(事前に気がつき損害はなかった)、新規IDにした時に評価がゼロの振り出しに戻りましたが、その時点で500回くらいの取引をしていました。

さて、今の世の中が大きく変わったのは、昭和から平成になったからではなく、”デジタル化”というものがものすごい速度で進化していったからだと思います。これは40代以上で、そのデジタル化のスピードを目の前で見て来た方なら同感していただけるのではないでしょうか。デジタル化により急速に衰退していった産業も多いですね。例えば写真。今はほぼデジタルに置き換わり、フイルムも気軽に手に入る時代ではなくなりました。あの、コニカフィルムが会社ごと無くなっちゃうなんて(ホント)信じられないことでした。。
しかし、デジタル化とともに普及した携帯電話とインターネットは、世の中を大きく変えました。衰退した物もありましたが、それによって得られた便利なシステムはもう後戻りは絶対にできないでしょう。

あれ、なんか話がグローバルな方向に膨らんでなに語ってるんだかわからなくなってきました。
ええっと、冒頭の写真に写る住所プレートをヤフオクで落札した話から脱線したんでしたね。そう、収集の方法も、インターネットの普及により変わりました。現在ではクレジットカード決済やネットバンクのサービスも始まり、ますます便利に。もう多大な時間と手間と交通費をかけてお宝を探すこともなく、目の前の電子箱をカタカタと動かせばあら不思議、いろんな珍しい品が次々と‥なんてオーバーですが、まあ、多彩なモノが集まり易くはなりました。

でもね、15年ほどネットオークションを楽しんでますが、そりゃ便利なもんですけど、出品する側の心理を考えるとネットオークションに出すのを嫌う人もいるのがわかります。ヤフオクは商品を7日間しか置けないし、競ったとしてもクリスティーやザザビーみたいに大きな金額になるわけでもなし、思った程商品が高く売れるもんじゃないんっすよ。やっぱり、その商品を欲しがるマニアの間で競わせることが一番なんです。その点、昔と変わらないもんで、専門業者が行なう販売会やマニア間で流通する入札誌は貴重品が手に入る可能性が高く、ネット時代になっても決して廃れてはいません。

それでも、冒頭の住所プレートのようにおもわぬモノが出てくるのがネットオークションの面白い所。恐らく、ゴミの収集業者あたりから流出したのでしょう。ブックオフを回り、いわゆる”背取り”という方法で価値の高い本を見つけ出しオークションで売る人がいるように、収集された不用品の中から価値の出そうなモノを見つけ出して売る業者がいます。特に「紙くずコレクション」の対象となるものは”捨てられた”モノからサルベージされるのではないかなと思います。


以前程ではないですが、今年もいろいろな収集品が我がコレクションルームに納まりました。それらの品々は、また追々、当ブログの記事にて紹介してゆきますので、来年もどうぞ宜しくアクセスをお願い致します。
今年も当ブログに訪問していただいたたくさんの皆様方、どうぞ良いお年をお迎え下さいませ。多謝。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年11月 | トップページ | 2015年1月 »