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板橋区民、収集癖について語る。第四話

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 怒濤の勢いで第四話へ突入。これはインターネットも携帯電話も普及していなかった頃の話です。

大物収集家の入札会では、珍しい切符が手に入ったり勉強になったりしたけれど、入手できる枚数は少なくなる。他にブツを手に入れる方法は、「交通趣味」などの趣味誌の広告欄に掲載される個人収集家が発行する入札誌を取り寄せることだ。しかし、たいていは国鉄が主流で、私鉄の券はなかなか出て来ない。それと、確立は低いが古本市で入手出来る場合があった。

今でも行なわれているかわからないが、新宿の伊勢丹デパートで開催された古本市に行った時のことだ。(秋や年末になると古本市を催事場で開催するデパートがあった。)特に切符があるとは思わず、絵はがきや戦記物の本を探して歩いていると、ショーケースのブースに店開きしていた古書店に、古い収集アルバムが置いてあった。

昔の”紙もの”収集家は、紙製のアルバム(今のようにビニール袋仕様のファイルはなかった)に入場券など収集物を直接糊で貼付けて整理する方法が一般的で、経年劣化により収集品がダメージを受けてしまうことが多かった。質の悪い紙で作られたファイルは、糊と台紙の成分が染み出て貼付けたモノが変色したりシワシワになってしまう場合があるのだ。しかし、古本屋の店頭で見つけたアルバムは、中の台紙にパラフィン紙が貼ってあり、そこへ収納できるタイプの物だった。

アルバムを開くと驚いた。それは、切符収集家が手放したであろう収集アルバムで、しかもまだ誰も手をつけていなかったのか、多数の切符の中に終戦直後の東上線の切符がズラリと並んでいたのだ。脳ミソから一気にアドレナリンが噴出し、一枚一枚が相当な高額だったが震える手で抜き出し買い求めた。電卓を叩きながら古書店主は一言いった。

「またお探し物が入ったら、連絡しますよ。」

言葉通り、翌日、その古書店主から電話が来た。
「昭和20年代の上板橋駅発行の定期券が出てきたけど、いかが?」

相手から電話がかかってきた場合、断るともう二度と連絡をしてこなくなるので、急いで伊勢丹デパートの売り場へ行った。現物を見ると、定期券は変色し上の方がボロボロで少し欠けていて状態が悪い。それなのに、おいおいそりゃないだろう、と言う程の値段が付いていた。これも勉強か。。と思い購入したが、家に帰ってから激しく後悔した。
今は、その定期券は収集アルバムに納め、オークションなどでヒートアップした際に頭を冷やす為の戒めとして、眺めることにしている。


話は変わるが、私の叔父(父親の兄)も実は大した収集家らしく、子供の頃、私の父親にタバコのカートン紙を捨てずに集めて譲るように頼んでいたのを憶えている。タバコは10個が1カートン単位でまとめてパッキングされているが、そこに広告やご当地柄などが印刷されており、その違いが収集心をくすぐるらしい。とくに海外の免税品店で売っている日本煙草のパッケージが延髄の品だった。他にはずれ宝くじやテレフォンカードなども集めていたようだが、叔父の収集の全貌はわからない。
以前、自分が乗車券類の収集をしていると言った時、叔父は自身が使っていた定期券や国際興業バスの回数券(昭和30〜40年代)を譲ってくれたことがあったので、そこらへんの物にはあまり執着はなかったのかもしれない。ただ、”乗り鉄”趣味はあったようで、全国を乗り歩いていたようだ。

その叔父から、「美濃」を紹介してもらった。

「美濃」は美濃収集会が発行する入札誌で、B5版見開きモノクロページには、昔の新聞より小さなフォントでびっしりと郵貯や古銭、乗車券、カード、古本ほか膨大な入札品類が載っていた。こうした入札誌は古書店などでも発行していて、いろいろな種類がある。
前回今回掲出の金井窪駅や開業早々の大山駅発行の切符は、この「美濃」で入手した。当時は今ほど老眼が進んではいなかったので、このような入札誌も漁れるだけあさり、眼をまっ赤にしながら目を通したものだ。


‥この項を書いている今、叔父が亡くなったとの連絡が入った。もう何年も前から痴呆症が進み、施設に入所していた。

下谷区西町小学校を卒業(姉である叔母も卒業・池波正太郎と同級だった)し、高等小学校を出て参謀本部陸地測量部に勤務していた。最初の頃はガダルカナル島の地図を作成していたが、それがフィリピンや小笠原諸島、伊豆大島とだんだん本土に近づき戦局の悪化を感じていたと言う。昭和19年現役で入隊し、中支武漢の高射砲部隊に入隊し、終戦後は土木工事に従事させられ、昭和21年5月に上海から福岡に復員した。叔母の旦那はインパール作戦後のイラワジ会戦に参加しながら無事生還した。両叔父ともに戦死したものと思われていたので、復員した時、家族はとても驚いたそうだ。

叔父の死去により、私の祖父一家は全員この世からいなくなった。ただ、あの世では全員が揃ったことになる。もう昔の話を聞くことも出来ないのは残念だが、いたしかたがない。
収集家の一人として叔父が集めてきた収集品の行方が気になるが、捨てられることなく、新たな収集家の元に渡ることを願いたい。合掌。


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コメント

 さて、この記事の続きは長らく休んだままのようですが、いかがでしょうか。
 私は京浜急行沿線ですので私鉄に関してはこれが中心になっています。ですが特に面白いものがあれば交換用には出さずに手元に置いておきます。

 現在東武の硬券で取ってあるのは4枚のみ。昭和30年代前半に使用された発駅名( )書きの矢印式、同じく発駅から上下方向に着駅が←→で表示された一般式の変形。この2枚は格別珍しくありませんが、関東の私鉄でこのような様式のものを使用していたのはおそらく東武だけでしょう。
 3枚目は硬券印刷券売機券の見本。日付は40年5月、北千住→姫宮となっています。
 一時期東急や京王がかなり硬券印刷券売機券を導入しましたが、機械の不調が多く、間も無く軟券の機械に更新されてしまいました。東武で実際に稼動したかどうかは判らず、私もこのような券はほかに見たことが無かったと思います。

 4枚目が私が知りたいものです。A型の補充券で赤横2条。日付は14年8月。(税共)となっているのが気になりますが、「3」等、通用発売日共と表記があることから昭和14年に間違いないでしょう。区間は中板橋から池袋で、それぞれゴム印が押してあります。
 これもまた私は同類のものを見た覚えがありません。もちろんどこの駅でも設備していた様式でしょうから、やはり珍しいわけでもないと思います。ただそれにしては何故見かけないのだろうかと感じて、こちらでお訊ねする次第です。よろしければお手持ちの資料を交えて切符の記事の続きをお願いします。
 また出来ることなら東上線の乗車券の変遷をまとめたページを作っていただけると幸いです。現在そのようなページはウェブには無いはずです。参考資料として非常に有用であると思います。

 最後にこれを書くに当たって、東上線関連の極めて珍しい切符の記事を読んだことがあったのを思い出しました。「フライング東上号」という特別列車が走ったことがあったが、その特急券は幻の存在だとあります。これについて何かご存知でありませんか。
 長くなりました。今回はここまでとします。またお邪魔させていただきます。

投稿: 大森山谷 | 2016年4月21日 (木) 18時41分

>>大森山谷さま
コメントをありがとうございます。

戦前の東上線A型の補充券/赤横2条は見たことがありません。ご所蔵されておられるようでうらやましいかぎりです。
私は解説できるほどの種類の切符を所蔵しておりませんので、現況でそのような記事を書いたならばマニアの方々から大顰蹙を買うでしょう。切符収集家の方も、東上線の切符はなかなか目にしないと言っておりました。フライング東上もそうですが、東上鉄道時代の券や進駐軍用の券、ハイキング用の券、市電接続の券など存在はわかっていても実物が見つからないものが多々あります。希少品の切符を持っている方々が協力しあって<東上線の乗車券の変遷をまとめたページ>が作られれば良いですね。。

投稿: オーク | 2016年4月21日 (木) 20時31分

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