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2014年11月

板橋区民、収集癖について語る。第三話

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 収集歴について語る、第三回目。ちなみに、この話はインターネットも携帯電話もまだ普及していなかった約20年前のはなしです。


切符販売会の会場で、ある大物収集家に声をかけられ、その方に収集品を譲っていただけることになり、後日、その機会を得た。

大物収集家は、切符の入ったファイルを取り出し、ここから欲しい物を持って行けと言う。切符には個々に値段を書いたシールが貼られていたが、その金額を見て驚いた。それは泉友社(現・線友社)で売られている物より3倍も5倍も高い値段が書かれていたのだ。口を悪く言えば”いいカモ”にされたわけだが、それでも、その切符がなかなか手に入らないものであることはわかった。切符は昭和30年前半の頃まで見られた、東武鉄道の社紋が印字された種類だった。収集を始めた時、割とすぐに枚数は集まったが、それらは同じ昭和30年代でも地紋に「とぶてつ」の字が入った(社紋とは違う)後期のものだったのだ。

「ウッス、全部買わせていただきまスッ!」

収集をしている方ならわかると思うけど、こうした物はほとんどが”一期一会”で、機会を逃すと二度と出会えるかどうかはわからず、チャンスを逃すと後々必ず後悔することになる。

‥大物収集家は、うれしそうに頷き、そして言った。

「アンタ、今度ウチの入札会に来ないか。」

口を悪く言えば”入札会で他の収集家と競わせてさらに高い値段で売りつけるのかよ”と思わないではなかったが、

「あざぁっす。勉強になりまッス!」

と答えた。

入札会の行なわれる日、いつもは薄い財布を膨らませ、大物収集家のお宅へと向かった。入札会場へ入ると、先客が何人かいた。促されるままテーブルに座ると、奥様がコーヒーとケーキを運んでいらした。

ここでちょっと脱線するが、切符の収集の手段は他にもいくつかある。例えば、神保町の神田古書センター(あの、男のオアシス羽賀書店のあるビル)の6階にあるアベノスタンプコイン社とか新橋の新橋スタンプなど、昔は切手収集家や古銭収集家向けの店であったものが、テレホンカードやオレンジカードなどの扱いを始めそれに乗じて記念切符や乗車券類なども売られていた。

ある◯◯商会と言う店で、こんなことがあった。店頭で手垢の付いたファイルを覗いても、たいていは昭和40年50年代の国鉄普通切符ばかりで、面白いものがない。ところが、である。そこで帰らず、余り気の進まない記念切符や、カード類(東武には東武カードがあった)などを何回か買い求めていると、最初の頃はそっぽを向き、相手もしてくれなかった店主が、「こんなのもあるよ。」と別のファイルを店の奥から出してくる。それはあきらかに店頭に置いてあるファイルとは違っていた。そうして、さらにがまんして買い続けていると、ある日店主にこう声をかけられる。

「今度、いい品が入ったら電話するわ。」

そう、向こうから連絡をしてくるようになるのだ。たまにショーケースの内側の、奥の方でお茶を飲んでいたりする人がいるが、ようするに、彼らは上客連中なのだ。前述のように、向こうから誘いがかかったり、お茶やケーキが出てくるようになると、収集家として”認められた”ということになるわけだ。
自分のコレクションを借りに来る人に対し、もったいつけたように”このファイルシート1枚分集めるのに、小型車1台分かかりましたよ”と得意げに話すことがあるけど、それは以上の経過を経て収集をしてきた意味を含んでいる。

大物収集家の入札会では、さすがに珍しいものが出て来る。戦前や戦時中の切符、イリーガルな珍しい種類のものなどだ。それとは別にバス(乗合自動車)の乗車券なども扱っていて、板橋乗合自動車の表紙付き回数券も購入出来た。都営三田線も、開業初日に大物収集家が直接購入した入場券などを譲ってくれたが、終点であった「志村駅(現・高島平)」の入場券は売ってくれなかった。
大物収集家は手放すことのない貴重品は普段、銀行の貸金庫に預けていた。明治期や大正期の超貴重な乗車券類や連絡船、満鉄など大陸の鉄道切符など珍品が揃っていた。

収集家の中でも、一目置かれる大物にはどのようにしてなるのか‥それはもう収集にかける情熱や欲望が人より抜きん出ていることで、労を惜しまず、全国に出かけて猟歩し続ける才能のある人達だ。

交換会では”盆回し”が行なわれる。「盆回し」とは、入札方式の1種で、分譲する品を容器(盆)にいれて最低値を記して一同に回覧する。欲しいと思ったら最低値以上の金額を記したメモを折りたたんでその盆に入れ、盆が1周し出品者のところへ戻ると、一番高い値段を入れた人が入手することになる。この容器の中には複数の品が入っているので、たとえ自分の欲しくないモノが入っていても買わざるを得ない。古本屋と親しくなり、獲物を譲ってもらう場合でも、段ボール一箱単位で買わされることがある。この世界では売り手が圧倒的に有利なので、いらないのモノが入っていようが泣く泣く高い金額を払って引き取るしかないのだ。大物達は桁違いの金額と足を使って買い集めているのである。

そんな収集家にも二通りある。それは、ひたすら収集を続ける人間と、収集した品を売ることを厭わない人間だ。前述の大物収集家は、その道の先輩から「モノは、一度手にしたらもうそれでいいじゃないか。手に出来た満足感を味わえたなら、またそれを売って他のモノを手に入れる。そういう方法もあるんだよ。」と、諭されたそうである。これこそ達人の境地なんだろう。売り手側になる人間とはそんな人物達なのかもしれない。

大物収集家は、売りはしないが見せるだけならと言い、奥からある品を持ってきた。それは、東上線の進駐軍専用の乗車券だった。発駅と着駅が空欄になっていて、駅員が書き込む形式の切符だった。朝霞から有楽町行きと書かれていて、啓志線のものではなかったが確かに珍しい。東武社紋で全体が青く印刷されており、東武本線でも同じような切符を見たことがあった。他に”市電乗換え”の切符も見せてくれたが、これも珍品だ。地下鉄連絡切符の市電バージョンで発売期間が短かく、まさにお宝券だ。あとは”中仙道乗合”の開業広告チラシなども見せてくれた。

廃駅となった切符も手放さずに収集していて、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の池袋駅の次にあった「上屋敷駅」発行の切符を自慢げに見せてくれた。東上線では「金井窪駅」が廃駅としては有名だが、大物収集家も60年近く収集しているけれども、金井窪駅発行の切符は手にしたことは無く、他社線から金井窪駅行きの切符しか持っていなかった。私は後にその”幻の切符”を手に入れるのだが、それはまた、新章にて。

    

                  〜次回へ続く。 Coming Soon!〜

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板橋区民、収集癖について語る。第四話

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 怒濤の勢いで第四話へ突入。これはインターネットも携帯電話も普及していなかった頃の話です。

大物収集家の入札会では、珍しい切符が手に入ったり勉強になったりしたけれど、入手できる枚数は少なくなる。他にブツを手に入れる方法は、「交通趣味」などの趣味誌の広告欄に掲載される個人収集家が発行する入札誌を取り寄せることだ。しかし、たいていは国鉄が主流で、私鉄の券はなかなか出て来ない。それと、確立は低いが古本市で入手出来る場合があった。

今でも行なわれているかわからないが、新宿の伊勢丹デパートで開催された古本市に行った時のことだ。(秋や年末になると古本市を催事場で開催するデパートがあった。)特に切符があるとは思わず、絵はがきや戦記物の本を探して歩いていると、ショーケースのブースに店開きしていた古書店に、古い収集アルバムが置いてあった。

昔の”紙もの”収集家は、紙製のアルバム(今のようにビニール袋仕様のファイルはなかった)に入場券など収集物を直接糊で貼付けて整理する方法が一般的で、経年劣化により収集品がダメージを受けてしまうことが多かった。質の悪い紙で作られたファイルは、糊と台紙の成分が染み出て貼付けたモノが変色したりシワシワになってしまう場合があるのだ。しかし、古本屋の店頭で見つけたアルバムは、中の台紙にパラフィン紙が貼ってあり、そこへ収納できるタイプの物だった。

アルバムを開くと驚いた。それは、切符収集家が手放したであろう収集アルバムで、しかもまだ誰も手をつけていなかったのか、多数の切符の中に終戦直後の東上線の切符がズラリと並んでいたのだ。脳ミソから一気にアドレナリンが噴出し、一枚一枚が相当な高額だったが震える手で抜き出し買い求めた。電卓を叩きながら古書店主は一言いった。

「またお探し物が入ったら、連絡しますよ。」

言葉通り、翌日、その古書店主から電話が来た。
「昭和20年代の上板橋駅発行の定期券が出てきたけど、いかが?」

相手から電話がかかってきた場合、断るともう二度と連絡をしてこなくなるので、急いで伊勢丹デパートの売り場へ行った。現物を見ると、定期券は変色し上の方がボロボロで少し欠けていて状態が悪い。それなのに、おいおいそりゃないだろう、と言う程の値段が付いていた。これも勉強か。。と思い購入したが、家に帰ってから激しく後悔した。
今は、その定期券は収集アルバムに納め、オークションなどでヒートアップした際に頭を冷やす為の戒めとして、眺めることにしている。


話は変わるが、私の叔父(父親の兄)も実は大した収集家らしく、子供の頃、私の父親にタバコのカートン紙を捨てずに集めて譲るように頼んでいたのを憶えている。タバコは10個が1カートン単位でまとめてパッキングされているが、そこに広告やご当地柄などが印刷されており、その違いが収集心をくすぐるらしい。とくに海外の免税品店で売っている日本煙草のパッケージが延髄の品だった。他にはずれ宝くじやテレフォンカードなども集めていたようだが、叔父の収集の全貌はわからない。
以前、自分が乗車券類の収集をしていると言った時、叔父は自身が使っていた定期券や国際興業バスの回数券(昭和30〜40年代)を譲ってくれたことがあったので、そこらへんの物にはあまり執着はなかったのかもしれない。ただ、”乗り鉄”趣味はあったようで、全国を乗り歩いていたようだ。

その叔父から、「美濃」を紹介してもらった。

「美濃」は美濃収集会が発行する入札誌で、B5版見開きモノクロページには、昔の新聞より小さなフォントでびっしりと郵貯や古銭、乗車券、カード、古本ほか膨大な入札品類が載っていた。こうした入札誌は古書店などでも発行していて、いろいろな種類がある。
前回今回掲出の金井窪駅や開業早々の大山駅発行の切符は、この「美濃」で入手した。当時は今ほど老眼が進んではいなかったので、このような入札誌も漁れるだけあさり、眼をまっ赤にしながら目を通したものだ。


‥この項を書いている今、叔父が亡くなったとの連絡が入った。もう何年も前から痴呆症が進み、施設に入所していた。

下谷区西町小学校を卒業(姉である叔母も卒業・池波正太郎と同級だった)し、高等小学校を出て参謀本部陸地測量部に勤務していた。最初の頃はガダルカナル島の地図を作成していたが、それがフィリピンや小笠原諸島、伊豆大島とだんだん本土に近づき戦局の悪化を感じていたと言う。昭和19年現役で入隊し、中支武漢の高射砲部隊に入隊し、終戦後は土木工事に従事させられ、昭和21年5月に上海から福岡に復員した。叔母の旦那はインパール作戦後のイラワジ会戦に参加しながら無事生還した。両叔父ともに戦死したものと思われていたので、復員した時、家族はとても驚いたそうだ。

叔父の死去により、私の祖父一家は全員この世からいなくなった。ただ、あの世では全員が揃ったことになる。もう昔の話を聞くことも出来ないのは残念だが、いたしかたがない。
収集家の一人として叔父が集めてきた収集品の行方が気になるが、捨てられることなく、新たな収集家の元に渡ることを願いたい。合掌。


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板橋区民、90歳について思ふ。

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 皆さん、板橋農業まつりへは行きましたか?今年も大船渡のサンマと船渡ラーメンをいただきました。


先週亡くなった叔父の通夜・葬儀が済んだ。享年90歳だった。5年程前から認知症が進み、最後は眠ったまま静かに天に召されたと言う。

叔父は昭和19年に現役で招集され中国戦線に送られたが、いわゆる赤紙で招集された兵隊としては一番下っ端の方だったのだろう。配属は中国内陸部の武漢で高射砲部隊だった。戦時中の話を詳細に聞いてはいないが、おそらく終戦までは占領地で安定していたため戦闘行為は行なわれず、戦後に中国軍の管理下で道路工事の強制労働に就かされた。その時、このまま日本へは帰れないのではないかと思ったそうだ。

同じころ招集された他の叔父達は、フリピンやビルマへ送られジャングルを彷徨う過酷な経験をされている。兵役年齢に達せず本郷にいた父親は、祖父が警防団におり任務で不在なので、空襲のたびに家財道具をリヤカーに積んで本郷の坂を逃げ回り、しんどかったと語っていた。いずれにせよ戦争とはすべての人間を過酷な状況に置くものだ。


叔父の葬儀から帰宅すると、ポストに手紙が入っていた。それは、堀山隊長からのものだった。堀山氏は成増陸軍飛行場にて編成された、特攻隊・第194振武隊の隊長で陸士57期卒業の陸軍将校だ。大正12年生まれの御歳91歳、パソコンでメールや写真のやり取りも出来るスーパーな方である。

手紙の内容は、最近、第184振武隊の合戸伍長から資料が届き、その内容を知らせてくれたものだ。
第183振武隊と第184振武隊は第30飛行師団が編成を担任し成増で編成された特攻隊で、昭和20年5月3日に市ヶ谷の陸軍航空本部で辞令を受け、その日のうちにトラックで成増へ移動した。成増で1ヶ月間特攻訓練を行ない、両隊は6月3日朝に山口県の防府基地へ向け成増飛行場を飛び立った。出発前夜は近隣の旧家にて宴会をしたそうである。

防府での訓練の後、7月8日に都城東飛行場へ移動、出撃の時を待った。最初の頃は都城の料亭に宿泊していたが、7月下旬、飛行場近くの三角兵舎(特攻隊員の宿舎)へ移動、いよいよ出撃も近いと覚悟をした。
そして向かえた8月15日。天皇陛下の重大な放送があると飛行場大隊に集められたが雑音が酷く、誰も内容がわからなかったという。夕方、隊長により「明朝、払暁(夜明け前)に出撃する。各自準備をするように。」と命令された。

三角宿舎に戻った隊員達は一睡もできずに過ごし、16日午前4時にトラックで飛行場へ向かった。しかし、飛行場には深い霧が立ち込め前方視界が5メートルほどしかない。あたりが明るくなっても霧は晴れず、そのままピストで待機していると、トラックが乗り付けられ、高級将校が降りてきて出撃の中止を言い渡した。飛行機には近づかず、三角兵舎に戻れと命令され、そこで日本が終戦したことを知った。

以上は、同じ隊におられた鹿児島市在住の伊地知伍長より直接伺った話であるが、伊地知さんは、恐らく隊長達は終戦を知りながら出撃をしようとしたと思っているそうで、「もし、あの朝、霧が晴れていて出撃していたら、戦争は終わっていたのに、自分たちはどこへ向かって飛んでいたのだろうと自問することが今でもあるんですよ。」と語っていらしたのが印象に残っている。

冒頭の写真は、都城市にある都城歴史資料館に展示されている、合戸伍長が寄贈した資料だ。左は持ち歩いていた遺髪の箱、右は飛行訓練記録ノートである。資料館には他に飛行47戦隊員で、振武隊の護衛任務中にグラマンの奇襲を受け撃墜された河井少尉の残した遺書も展示されている。


先の戦争を兵士として経験された方々は、すべて齢90歳以上に達しようとしている。老衰で語ることが出来ない方も多く、また、残り少ない時間を静かに過ごさせてくれと取材を拒否される方もおられる。いきおい、堀山隊長のように元気な方に、海外を含め方々から取材の依頼が集中してしまうようだ。来年は終戦70年の記念イヤーでもあるために、ますます引っ張り出されそうで、お体が心配ではある。

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土方歳三(本物)、板橋区へ現れる。

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 朝晩はさすがに寒くなりましたね。。あっしの癒しコース「白子スシロー→埼スポ」も「白子くるまやラーメン→和光市極楽湯」へ変更になりました。。

ここの所、自分語りばかり続きましたので今回は板橋区のネタでも。


幕末の板橋区で有名な出来事といえば、砲術家・高島秋帆が武州徳丸原で行なった日本初の洋式調練ですが、一般的には新選組局長・近藤勇が千葉の流山で捕縛され、東山道軍の拠点であった板橋宿の豊田家へ預けられ、宿場外れの野原で斬首された事件ですね。
明治時代に入ってから、JR板橋駅近くの北区側(板橋区ではなく残念)に永倉新八が発起人となって建立された新選組の供養墓(供養塔)があり、新選組ファンの聖地として賑わっています。

さて、赤塚郷にある板橋区立郷土資料館では10月8日から11月30日まで「幕末動乱 ー開国から攘夷へー」と題した特別展が行われています。幕末維新の醍醐味がギュッと詰まった見応えのある展示となっていて、こちらも多くの観覧者が訪れています。

展示の目玉は「最古の土方歳三オリジナル写真」で、あまりに貴重なので公開は今月28日~30日のわずか3日間のみ!だ。

いや〜これはすごいですぞ。土方歳三の写真はよく紹介されているけれど、修正された写真も多く、正真正銘のオリジナルを見ておくのは大事なことだ。
今回公開される写真は、有名なエピソードとして伝えられている、函館戦争時に土方歳三の小姓を勤めていた市村鉄之助が、土方の親族である日野宿の佐藤彦五郎宅へ届けた物ではなく、医者で野崎村(現・三鷹市)の名主だった吉野泰三の息子である泰之助が明治34年(1901)頃、北海道旅行の際に入手した写真だ。

じゃあ”最古の写真”ってなんだよ?佐藤家伝来の写真じゃないなら後年複写されたブロマイド写真かもしんないじゃん。なんて認識のアナタ、甘いですぞ。そんなアナタは子母沢寛や司馬遼太郎に騙され‥いや感化され過ぎていますぞ。

その理由は、特別展で販売されている図録の巻末に載る藤井和夫氏の検証論文により紹介されている。論文をそのまま写すことは出来ないので、詳しくは図録を購入していただくこととして、要点だけ抜粋すると‥

・そもそも佐藤彦五郎宅へ市村鉄之助なる人物は来ておらず、持参したとされる土方歳三の写真や遺髪や短歌など遺品も現存していない。

・現存する土方歳三写真はガラス湿板写真を含め5枚あり、湿板写真と紙焼き1枚は現在不明。鶏卵紙に焼付けられた写真は、吉野家所蔵以外はすべて複写されたものである。

どうですか、ショックでしょ。あっしなんか今まで疑問にも思いませんでしたよ。そんな遼太郎やヒロシに騙されて、完全に信じちゃってました。官軍迫る函館五稜郭で、歳若い小性に遺品を持たせ、古里へ向けて逃したなんて涙々の物語じゃないっすか。あの涙を返せ!と思わず叫んじゃいました。。

論文では、いかにして”市村鉄之助伝説”が誕生したのか多くの資料を元に解き明かしていく。最後は、今日でも伝説が日々創造され続くことを憂い「研究論文は研究論文”伝説”は伝説として読む能力、言うならば歴史小説リテラシィを身につけろ」、と結んでいて痛快だ。

‥ただし、ですね、土方歳三の写真には刀の鞘に手をかけた全身像と、腰の所で拳を握っている半身像の二種類があると言われているけど、それらの写真についての検証がなされていないことが気になる。半身写真もトリミングして修正を施されたものなんですかね‥


約15年前、板橋区役所一階のギャラリーで、三鷹の龍源寺に門外不出で秘蔵されている、近藤勇着用とされる道場用の袴と天然理心流のぶっとい木刀が展示されたことがあった。それまで近藤勇はガタイのいいがっしりした体形のイメージがあったけど、袴は以外に小さく腰回りも細かったのに驚いた記憶がある。
近藤勇も、宿場はずれの谷端川近くの野原で斬首されたというのが史実であり、舞台としてはけっしてドラマチックなものではないそうで、事実というのは味気ないものです。”人は信じたいものを信じてしまう(ジュリアス・シーザー)”は名言ですね。。

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板橋区と高倉健。

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 ‥いや、わかってます。何でもかんでも板橋区と関連付けるのは恥ずかしくないのか?ってコト。でもココはそういうブログなんです。。

今週水曜日(19日)、俳優の高倉健さんが都内の病院で逝去されたというニュースが日本列島をかけめぐった。各マスコミでは特集が組まれ、追悼の映画がテレビで放映されたり急遽放送が決まったり、と賑やかだ。特にNHKは生前最後の独占密着映像を持っているせいか、張り切りぶりが目立つ。昨夜は”クロ現”でも特集され、この週末には密着ドキュメンタリーの再放送を総合で行なうようだ。渥美清さんが亡くなった時も同じようなことをしていたっけ、と思い出した。

健さんの逝去が発表されると、追悼コメントを求めて縁の方々へマスコミが殺到していたが、その中で、映画監督の山田洋次氏が「撲にとって渥美清さんと高倉健さんは、間違いなく、めぐり合うことのできた2人の偉大な俳優でした。」とおっしゃっていた。健さんと渥美さんは山田監督の松竹映画「幸せの黄色いハンカチ」で共演もしている。

渥美清さんはあまりにも「男はつらいよ」シリーズが有名なため、”東京の下町生まれで下町育ち”のイメージが強い。しかし、確かに生まれは上野車坂(昭和3年・1928年)だが、8歳の時に板橋区清水町へ転居し、現在の志村第一小学校へ通い、卒業後は志村の高等小学校・国民学校を出て戦時中を板橋区内で過ごした。志村第一小学校には渥美清の記念コーナーが作られている。

で、健さんと板橋区の関係は‥

まず思い浮かぶのは、1975年公開の東映製作「新幹線大爆破」っすね。もう何度か書いてますがその内容は‥

<東京発博多行の「ひかり109号」に爆弾が仕掛けられた。その爆弾は「時速が80キロ以下になると自動的に爆発する」という恐るべき物であった。やがてデモとして仕掛けられた貨物列車が爆発脱線し、爆弾の存在は疑いが無くなる。大捜査線を展開する警察、爆弾解除を試みる国鉄、事実を知らされ騒然となる109号の1200人の乗員乗客達。博多に到着する12時間の間に事件は解決するのか?そして、犯人達の狙いは一体何なのか?>というストーリーで、この犯人達のリーダを演じているのが健さんだ。

当時は「ジョーズ」とか「大地震」とか「タワーリングインフェルノ」といったパニック映画がブームで、この映画もそれに便乗した体裁をとっている。しかし、これは営業の煽り文句に過ぎず、実は、その根底には高倉健さんがひたすら演じ続けてきた”社会の不条理に追いつめられた男が、最後の最後に立ち上がる”ということが根底に描かれている。
「新幹線大爆破」では、高度経済成長の時代に落ちこぼれた、社会の負け犬たちが寄り集まり、起死回生を求め、高度成長の象徴の一つとして、新幹線を狙う。社会に対する恨みが犯行の動機だけれども、むしろ体制への反抗という面を持っているのだ。

映画では、犯人達のリーダーである健さんは、板橋区志村で町工場を営んでいるという設定だ。その工場は河の近くにあるので、新河岸か舟渡あたりなのだろう。他の仲間も三田線の蓮根駅近くの女のアパートに潜伏していたり、志村車両工場での緊迫したアクションシーンも有りとなかなか板橋人を楽しませてくれる映画だ。


健さんと板橋区を結ぶもう一つの映画がある。それが2001年公開の東映創立50周年記念作品「ホタル」だ。ストリーはこうだ。

「鹿児島県知覧で漁師をしている山岡(高倉健)とその妻・朋子(田中裕子)。朋子は肝臓を患い透析を続けていた。時は昭和が終わり、平成に時代が移り変わったある日、山岡の元に青森から、藤枝が雪山で自殺をしたという知らせを受ける。藤枝は山岡と同じ、特攻隊の生き残りでもあった。
山岡は、かつて特攻隊員に“知覧の母”と呼ばれていた富屋食堂の女主人・山本富子から、ある事を頼まれる。それは体が不自由になった山本に変わって、特攻で散った金山少尉(本名:キム・ソンジェ)の遺品を、韓国に住む遺族に届けて欲しいという頼みだった。金山は山岡の上官で、知子の婚約者でもあったのだ。山岡は複雑な気持ちだったが、余命僅かな知子のことを考え、韓国に向かう決意をする。しかし金山家の人達は、山岡達を快くは思ってくれなかった。山岡は遺族に金山の遺品を渡し、遺言を伝えた。金山は日本の為に出撃したのではなく、祖国と知子の事を思い出撃した事を‥」

健さん演じる山岡が所属する特攻隊は、明野教育飛行師団が編成を担任した第51振武隊がモデルとなっていると思われる。その記事は以前書いたので以下に再録する。

『第51振武隊は、3月29日、明野で編成された。5月6日から28日にかけて知覧を出撃、9名戦死。この隊については、直木賞作家である豊田穣氏著「日本交響楽7・完結編」に描かれている。(以下引用)

「明野で編成された隊は、まず所沢に飛行機を受領に行った。彼らが受領したのは、隼三型という戦闘機であった。自分が乗って突入する飛行機が決まると、彼らは東京に近い成増の飛行場で、突入の訓練を受けた。この頃研究されていたのは、敵のレーダーによる発見を避けるため、敵発見までは低空で接近し、突入の前に千メートルまで高度をとり、急降下あるいは暖降下するという方法であった。陸軍の飛行機は軍艦に突入することになれていないので、海上を飛ぶための航法の訓練も必要であった。一ヶ月ほど成増で訓練を行った後の4月下旬、いよいよ知覧に移動することになった。その隊員の中に、背の高いがっちりした男がいた。男は京都出身で名を光山文博といった。実は、光山少尉は朝鮮人であり、今までに判明している朝鮮・台湾出身者14名の特攻戦死者のうちの一人であった。5月上旬、富屋食堂に光山少尉がふらりと現れた。昭和18年10月から知覧の教育隊で、一年間教育を受けている間に親しくなっていたのである。トメさんは懐かしそうに光山少尉を迎えたが、この時期にやってくるのは特攻隊員であるからと、瞬時に悟った。5月10日、第51振武隊員のうちの10名が富屋食堂にやってた。トメさんは、彼らが明日出撃なのだとわかった。隊員達にはあきらめの表情が浮かび、屈託もない。やがて宴もたけなわとなり、隊員一人一人が歌を歌うことになった。光山少尉の番がきた。では私の故郷の歌をうたいます—アリラン、アリラン、アラリヨ‥‥—隊員一同とトメさんは驚いた。そのとき初めて光山少尉が朝鮮人であることを知ったのであった。光山少尉は、朝鮮の布地で織った財布を形見としてトメさんに預け、翌日午前6時30分、知覧飛行場を飛び立ち、帰らぬ人となった。」』

第51振武隊は、3月末に成増飛行場へ移動し、4月一杯訓練を行なったが、その頃、成増飛行場を根拠としていた47戦隊は、四国沖に米軍艦隊が現れるとの情報で、大阪の佐野陸軍飛行場へ移動していた。東京への空襲も激しい時期で、板橋区内も大きな被害を受けていた。空襲警報のたびに飛行機を基地周辺に設けられた掩体壕へ隠さねばならず、飛行場大隊の方々も大変な労力だったろう。


いつも思うのだが、特攻隊員は出撃命令が下った瞬間から死への葛藤が始まるのではなく、葛藤は何波にも分けてやってくるのではないのだろうか。最初はもちろん特攻を希望した時、そして特攻隊員への任命が下った時だろう。(当然、血気盛んで葛藤を感じない隊員もいたかもですが)その葛藤を訓練に集中することによって克服してゆくのだ。
しかし、特攻隊の映画ではあまり訓練風景は出て来ず、描かれるのは知覧など、特攻の出撃基地での風景ばかりだ。天候不順で出撃が延びたり、機材の不調により代かえ機待ちで出撃出来ないこともあるけれど、特攻隊は、基本的には直前に前線基地へ移動し数日で出撃(生への執着を断つためとも言われる)する。先の引用にあるように、富屋食堂のトメさんの本では、出撃前夜の特攻隊員達は、すでに達観の境地にいる方々が多かったと述懐されている。

だから、特攻隊員の葛藤を描くには前線基地ではなく、それ以前の訓練基地を舞台にした方がリアルなんじゃないかと思うのだが、そんな丁寧な映画作品はなかなかないですねえ。。もし「ホタル」がそんな映画だったら、成増をモデルにした飛行場が出てきたのでは、なんて思うのですが‥


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