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2014年10月

本日は、祈りの日。

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 10月ですか。メタボ人にとっては節制を強いられる季節ですね。。

また、冒頭から温泉の話ですまぬが、”どんな泉質が好きですか?”と問われれば、即座に「そりゃあ白濁硫黄泉ですな。」と答える。硫黄の臭いがしなきゃ温泉とは言えない、とさえ思っている。
噴火の状況は毎日ニュースの冒頭で大々的に伝えられているが、先週の土曜日、長野、岐阜両県にまたがる御嶽山が突然、水蒸気噴火した。テレビでは、ヘリコプターによる取材の様子が連日流れているが、ある番組で、取材記者が「ここからでも硫黄の臭いを感じることが出来ます。」と報じたところ、某大学教授が即座に”硫黄に臭いはねえよ”とツイッターで突っ込みをいれたそうだ。
へ〜そうなんだ、と自分も初めて知った。臭いの元は、硫黄と水素の無機化合物である硫化水素によるものだそうだ。あの、俗に言う”黄身の腐ったような臭い”ってやつだ。なるほど、非常に勉強になった。これからは、好きな温泉は硫黄と水素の無機化合物である硫化水素の臭いがする白濁硫黄泉さ。と答えよう。なんて、これこそ”こまけぇこたあいいんだよ!”だろう。これからも「硫黄臭のする温泉さ」といおう。

日が短くなっているのに、前振りは長くなっているようで‥

さて本日10月3日は、成増陸軍飛行場を根拠飛行場としている陸軍飛行47戦隊(独立飛行47中隊から改変)の創立日であり、戦後発足した戦友会の「成増会」が靖国神社に昇殿参拝をし、戦時中に亡くなった隊員の方々の慰霊を行なう日だ。しかし、約10年前に会長であった刈谷氏が亡くなり、以降は組織的な参拝は行なわれず、有志のみの参拝と切り替わったが、それも2年前を最後に終わってしまった。当時、現役であった方々は齢90を越えられ、物理的に集まることが出来なくなってしまったのだ。私も、末席に参列させていただき、参拝後に昔の話をお聞きするのがとても楽しみだったけれど、それはもうしかたがないことなのである。


先日、当ブログにコメントが付けられた。それは、長崎原爆について調べている方からの問い合わせで、以下の様な内容だった。

『原爆搭載機「ボックスカー」が、当初ターゲットにしていた小倉に原爆を投下しようとした際、市街が雲に覆われていて照準が出来ないため、目標を長崎に変更したが、進路変更をするために、小倉から下関上空を通って少し南下している時、乗員が小月基地から上昇してくる屠龍と疾風を雲の合間に見つけた。万が一、気づかれたら、自分たちを追い体当たり攻撃されると危惧し、あわてふためいて長崎方向に舵をきった。その時、飛行機内はパニック状態で、かつ、急激に舵をきったので、一緒に飛行していた科学観測機と衝突しそうになっただけでなく、ある乗員が肘でインターコム機能を通信指令機能に入れてしまい、機内の会話の一部が大日本帝国中に響き渡ってしまった、というハプニングが起った。その時、小月基地から上昇してくる「屠龍」に搭乗していたのが、47戦隊の窪添中尉であったのかもしれず、確認をしたいのだが情報はないだろうか?』

以前、どの記事かは忘れたが、山口県の小月飛行場に駐屯していた47戦隊の一楽少尉が、哨戒任務中に長崎原爆を目撃した話をUPした。要約すると「哨戒中、八幡上空で目の端に光る物を感じ、振り向くと大きな雲が上がっていてすぐに特殊爆弾だと気がついた。」とおっしゃっておられた事だ。なぜ特殊爆弾と思ったのかは、その3日前、広島に原爆が落とされた時、小月飛行場にも続々と負傷者が運び込まれ、特殊爆弾が使用されたと言う話を聞いていたからだ。

終戦後、アメリカの戦略爆撃調査団が、故郷の高知に復員していた窪添中尉を訪ね、長崎原爆投下当日の状況(上の質問の件)を確認しに来た。窪添氏はアメリカの調査力に驚くとともに、B-29には気がつかなかったと答えた。その後、「もし、知っていれば、絶対に、やっつけていたのに」と悔しがっていたそうである。この話はごく一部の戦友の間にしか知られておらず、窪添中尉は「自分が死ぬまでは、公言しないで欲しい」と頼んでいたそうだ。窪添中尉にとっては、任務中、B-29を発見出来なかったことは”恥”であり、公表されるのは嫌なことであったのだろう。(当日は曇天であり、発見は至難なことだったと思いますが。)

さて、この話には疑問な点がある。もともと、小月基地は飛行第四戦隊が根拠飛行場として使用しており、戦争後期の主力戦闘機は「屠龍」だった。小月は7月28日にグラマンの奇襲を受け、47戦隊は多大な損害を被り、ベテランの空中勤務者多くを失っていた。屠龍はこの空襲の後、朝鮮半島大邱に避難していたらしい。疑問なのは、47戦隊員である窪添中尉が、47戦隊機ではない「屠龍」に乗っていたのか?という点だ。
屠龍は双発の複座戦闘機で、夜間戦闘にも強く、B-29キラーとして米軍に恐れられていた。しかし、戦闘機との戦いには不利で、米軍艦載機がB-29に随伴して来襲する際には戦闘に参加できず、退避行動をとらなくてはならなかった。昭和20年4月に硫黄島が陥落すると、陸軍航空隊のP-51がB-29に随伴するようになり、屠龍の昼間活動はほぼ封殺されてしまった。

窪添中尉は、陸軍士官学校57期生で、座間2中隊6区隊の歩兵から、第一次の航空転科(隊付から本科に入り2ケ月後)し、豊岡の航空士官学校を卒業し、常陸教導飛行師団の遠戦(遠距離戦闘機)から47戦隊へ着任した。(航空士官学校を修業すると、操縦は各飛行分科に従い各飛行学校に入校する。戦闘は近戦が明野、遠戦が常陸、偵察は下志津、重爆は浜松、軽爆と襲撃は鉾田で、実用機の修業の6カ月、将校学生の乙種学生で教育される。)
屠龍はデビュー直後、爆撃機の護衛という<遠戦>的な運用がなされていた。常陸陸軍教導飛行師団には遠戦訓練用の屠龍があり、窪添中尉が訓練を受けた可能性はある。

しかし、主力空中勤務者を失ってしまった47戦隊では、2月16日に館林上空でF6Fの隊長機を撃墜し、7月28日の奇襲時には唯一、無傷で帰還しすぐれた技量を持っていた窪添中尉は、その後、指揮官となって任務についていたので、戦隊所属機の疾風以外の戦闘機に乗ることは考えにくい。ましてや訓練飛行しかしたことのない屠龍に乗って実戦任務につくのは無謀なことだろう。


掲出の写真はいずれも成増飛行場で撮影されたもので、左から「愛機の前に立つ窪添竜温中尉(撮影時少尉)」、2枚目は右端が窪添中尉(撮影時少尉)で、上から有賀千秋曹長、丸山孝雄伍長、大森護伍長、いずれも第3中隊員の方々で3名すべて戦死されている。右の写真は、成増から九州・都城西飛行場へと出発する47戦隊の疾風だ。

今日の東京は日差しが眩しいくらいに晴れ渡っている。いつもならばもう家を出て靖国神社へ向かっている頃だ。せめて、成増飛行場とそれらに関わった方々を思い出しながら、赤塚郷より靖国の方角に向け手を合わせるばかりである。

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連休だが台風が来そうなので、板橋区他のラーメンを思い出してみる。

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 大型の台風が刻一刻と近づいているようで、晴れてはいるけど不穏な空模様ですね。

特に意味はないけど、ふとラーメンについての想い出を書いてみたくなった。と言っても評論出来るほどの知識や情報はありませんが。では。


いまはそう多くはないが、一時、テレビではラーメンブームが叫ばれ、特集やランキング番組がバンバン放映されていた時期があった。平成に入り、バブル経済が崩壊した頃だったと記憶する。新横浜ラーメン博物館がオープンしたのは1994年3月でしたっけ。ブームは暫く続き、そこから派生した”つけ麺”により再び盛り上がり‥そして現在に至る、という感じですかね。

あっしの想い出のラーメンは、実家の近くにあった「徳丸屋」だ。徳丸5丁目6丁目界隈には他に店屋物の店はなかったと記憶する。(宮の下交差点の所に香味屋という中華店もあったっけか‥)店内はとても狭く他にアイスクリームや夏には団子、冬になると肉まんや今川焼を売っていた。記憶にある一番昔の値段はラーメン一杯が90円だった。たしか週刊少年ジャンプと同じ値段だったと思う。シナチクとナルトとほうれん草とチャーシュー、海苔、ネギが入ったオーソドックスな、いわゆる醤油味のラーメンだった。他にはチャーシュー麺と親子丼とタマネギがいっぱい入ったカレーくらいしかメニューはなかった。店は平成の初め頃に閉店してしまった。

昭和40年代始めの頃、ラーメンは支那ソバとか中華ソバという呼び名が一般的だったようだが、子供達はラーメンと言っていた。『カタカナで「ラーメン」と呼ばれるようになったのは昭和33年に発売された世界初の即席麺「チキンラーメン(日清食品)」の誕生後です。』とラーメン博物館のHPで解説されているが、広まったのは、藤子不二雄の描く「ラーメン好きの小池さん」のキャラクターが子供らの間で定着していたのが大きかったんだろうと思う。

もう少し時代が進み、初めてラーメンを意識したのは高校生の頃だった。ちょうど、インベーダーゲームが流行っていた時期で、巣鴨の17号沿い、巣鴨商店街入口に近い場所に「元祖札幌や」という店があり”わざわざ”食べに行った。最近、17号を通った時にチラリと見たがスタミナラーメンだったか他の店に変わっていましたね。ニンニクを効かせた味噌ラーメンの店で、家に帰るとニンニク臭いと文句をいわれたっけ。「元祖札幌や」は北海道ラーメンを東京に初めて紹介したラーメンチェーンだそうだが、他にも「どさん子」とか「どさん娘ラーメン」もあった。高校3年の時、サンシャインシティが開業し、そこにオープンしたマックでバイトをしていたが、アルパ館にも「元祖札幌や」が出来てよく食べに行った。(ここも最近閉店してしまったらしい。)
板橋区内では、高島平の松坂屋ストアの一階にあったラーメン屋へよく行った。今でいえば日高屋みたいな感じで値段が安かったからだが、そこの餃子が好きだった。母親が作る、身がパンパンに入ったやつではなく、亀戸ぎょうざのような細身タイプの餃子だった。

大学4年の時、学校を休学してヨーロッパを彷徨った。我々は新人類といわれた世代であり、その頃、ちょうど格安航空券が出回り始めた時期で、パキスタン航空一年オープンで往復14万円だった。(南回り航路で30時間以上かかった。)、1970年代までは協定料金が守られており、往復30万円でも安いくらいで若者はシベリア鉄道を使って渡欧していた。(探せば、期日ギリギリに共産圏航空会社が格安航空券を販売したこともあったらしい。)
自分は、「地球の歩きかた」の初版本を持って旅に出た。今とはだいぶ違いヨーロッパ全土を一冊でカバーしていた。しかし、旅先で出会った日本人バックパッカーの中には、五木寛之の「青年は荒野をめざす」に騙さ、いや、インスパイアされて新潟からナホトカへ渡り、シベリア鉄道経由で来た連中がいて、中には数年間も旅を続けている猛者もいた。

最初に降り立ったのはパリだった。しばらくフランス国内をブラブラしていたが、毎日毎日食べ物はフランスパン。日本では食べ慣れておらず、しかも外側もやわらかい物が普通だったように思うが、本場モンは外側が硬く、連日食べていると唇の端が切れ痛くてしょうがなくなった。さすがにイヤになり、思い切って日本食を食べようと、確か「赤坂(店名は記憶違いかも)」というラーメン屋に行った。当時は1ドル270円くらいでフランスフランもレート的にそんな感じで、一杯が1500円くらいした(日本では一杯450円くらいかな)。早速ラーメン(東京風醤油ラーメン)を食べたが、とてもおいしく感じようやく生き返った気がしたものだった。現在ではパリはもちろんヨーロッパもラーメンブームらしく、多くの店があるようだけど、当時はヨーロッパでもラーメン屋があったのはパリだけだったと思う。

その後、日本に戻り学校を卒業したが、時はバブル直前の時代。数年後には渡米しN.Y.で働くことになった。そのころはジャパンアズナンバーワン!の勢いはものすごく、ロックフェラーセンターも買収してしまうほどだった。
N.Y.は昔から寿司屋を含め日本食レストランが多く、80年代半ばには焼き魚を提供する定食屋やお好み焼き屋まであったが、ラーメン専門店はなかった。(いや、イーストヴィレッジにどさん子ラーメンがあったなあ‥ただ東南アジア人が作っててこれじゃない感があった。)そこへ、バブルの後押しがあったと思うがやってきたのが、落語家・林家木久蔵(現・木久扇)さんの”木久蔵ラーメン”だった。木久蔵ラーメンは1982年(昭和57年)に、木久扇と横山やすしが「全国ラーメン党」を結成したことを機に販売を開始したものだ。思えば、ラーメンブームはこの頃から始まったのかも知れない。
ようやく本格的なラーメンが食べられる!と喜び勇んで食べに行ったが、なんだか小ギレイでちんまりとしたラーメンで、あまり感動はなかったような記憶がある。数年前にN.Y.へ行った時には、ラーメン店はずいぶん普及していた感じがした。(短期滞在なので行きませんでしたが。)なんでも、近郊をあわせると60店舗くらいあるのだとか。

で、バブル崩壊後に日本へ帰ってきたけど、すでにラーメンブームが熱くなっていて、その最強が”荻窪ラーメン”だった。あっしも「春木屋」とか煮タマゴが有名だった「丸福」とか行きましたね。板橋区内では、いわゆる環七ラーメンで有名だった「土佐っ子」がえらい人気で、夜中でも行列が絶えず、印をつけた割り箸を持って横一列で何重にも並ぶ光景は異様でした‥あの油ギトギトの凄まじい店舗は忘れられません。この店は空中分解しましたが、その血を受け継ぐ「下頭橋ラーメン」はSB通りの東武ストア前でまだ営業していると思います。
あとは、上板橋の「中華中本」。今では「蒙古タンメン中本」として全国区で有名なチェーン店になりましたが、90年代初めまではおじいさんとおばあさんがカウンターに立つ古ぼけた店でした。場所は川越街道のレッドロブスターの角を西へ2本目の路地を左に入ってすぐだった。とにかく爺さん婆さんは喧嘩ばっかりしていて、ラーメンが出てくるまで一時間!かかった。だからなのか店内には漫画本がたくさんあり、常連は◯◯ラーメンね、と予約してから店にきていた。この場合の予約は、店が混むからではなく、ラーメンが出来るのに時間がかかったからだ。店主の来歴はわからないけど、当時としてはあの超辛いメニューの数々は異例だったろう。一体、あのメニューはどこで発想を得たのだろうか‥。店舗は住宅地図を見ると昭和51年には無いが昭和60年の地図には記載されている。店主の体調不良で一度閉店したが、熱心な常連客が暖簾を譲ってもらい、現在のようなチェーン店にまで成長した。

あとは‥旭町だか成増だか、区境の住宅街にあったころの「道頓堀」。ここも回りはただの住宅地なのにえらい行列が出来てましたね。今は成増の川越街道沿いにあります。川越街道沿いと言えば下赤塚のY'sラーメン。ここは蓮根本店の支店で、本店は10年くらい前に閉店してしまった。
当ブログ的には、板橋区最古のラーメン屋はどこか?を探りたいところだが、店自体が地元で創業◯◯年と謳っているなら調べ易いけど、そのような店の情報はひっかかってこない。郷土資料館から出ている「板橋の平和」という図録に、昭和10年代半ばくらいに撮影された、中仙道の都電下板橋電停近くにあった「岩朝大衆食堂」の建物には「支那そば」の幕が下がっているのが認められる。しかし、それはメニューの一部であり、ラーメンが主役の店ではない。現在も営業している店としては、ネットで調べると東新町にある「白くまラーメン」が昭和40年代開業としていて、昭和51年の住宅地図では「サッポロラーメン白くま」と表記されている。

2000年代に入ってから”つけめん”ブームに火がついたが、すでにあっしの体はメタボ化し、ラーメン屋から離れて行った。なので、以降はあまりラーメン屋の情報がない。今では数ヶ月に一度くらいしか行かなくなったが、メタボもあるけど、それはラーメンの値段が高くなったのも原因かと思う。前は600円くらいが相場という感覚だったが、いまはちょっとトッピングを増すと1000円を超えてしまう。かつ屋でトンカツ定食が520円、吉牛で頭の大盛りとけんちん汁で520円、ぎょうざの満洲でW餃子定食529円、平日の浜すしなら10皿食べても1000円いかない。ジローや福しん、満洲や日高屋などメニューの一つとして安い店はあるけど、なんともコスパが悪い気がする。


最後に勝手に決めつけてしまうが、現在、板橋区内で一番人が入っているラーメン屋は、高島平の「丸源ラーメン」だろう。ここは全国チェーン店だが、そそるメニューが充実していて人気があるのはうなずける。個人的には下赤塚駅南口の「大番ラーメン」もいいけど、笹目通り沿いで極楽湯近くにある「くるまやラーメン」が好きかな。住所的には和光市白子だが練馬区との区境にある。ここの「ネギ味噌ラーメン」はニンニクが利いていて、高校生の頃に通った巣鴨の「元祖札幌や」に味が似ている。チャーシューを追加すると1000円近くになるが、懐かしくてついつい足が向いてしまうのだ。

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板橋区民、収集癖について語る。第一話

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 だいぶ間があいてしまいました。。前回はラーメンにまつわる個人的想い出を書きましたが、”おまえの個人的想い出なんて読むだけムダだ”とお叱りを受けるのでは、と思いつつ秋の夜長ということで今回は収集について語ってみますね。


思えば、いろんな物を収集してきた。子供時代ならば、誰でもそんな経験はあるだろう。物心ついた時から花の種やら木や雑草の実(ドングリとかビーズとか)や貝の化石、高島平や西台の野原に捨てられていた産廃物から抜き取った真空管やトランジスタなどの半導体などなど。お小遣いをもらえるようになってからは切手(きっかけは親戚から貰ったもの)や古銭(これも祖母が譲ってくれた)など‥古銭は徳丸の大きな農家の庭を丹念に探すと大正期や昭和初期のものが落ちていたので拾ったりした。おそらくは”建舞”などで撒かれた小銭だったのだろう。小学生ながら東武練馬駅南口にあった骨董屋へ出入りし、嘉永通宝などを買った(一枚百円だった)。

北野神社から下った弁天坂の近くにパン屋と駄菓子も売る文房具屋があり、近所の子供達はそこを溜まり場に買い食いなどをしていた。小学校高学年の頃、(仮面)ライダーカードを集めることが流行し、ライダースナックを売っていたパン屋の店先に、食べ散らかしたスナックが道路に散乱していた光景を今でも思い出す。自分は、なぜかカード類には関心が向かなかったが、その頃はプラモデル作りや秋田書店の戦記本収集をしていてお金が回らなかったからだろう。女子達は紙石鹸や消しゴムなどイイ臭いのする物やカワイイ物を集めていたのは今と変わらないですね。
子供時代の趣味や収集は続かないもので、ほとんどの人は高校生になるころには他に興味が移ってしまい、物を収集する人などはぐっと少なくなるものだ。その頃の自分は写真趣味の方へ移ってしまっていた。

こうして様々な物を集めてきたけれど、整理された切手や古銭以外、ほとんどのものは無くなったり母親に捨てられたりしてしまった。特に母親は収集物を”ゴミ”としか認識しておらず、ちょっと関心が薄くなっているともういらない物と判断され、無断で処分されてしまったりした。中には、今でも持っていればなあと残念なものもある。
そんな中、ずっと手元に残っていた物がある。それが、掲載の東上線の切符だ。これは小学校低学年の頃、ほしくて自分の意志で駅員に渡さず、ポケットに隠したまま改札を通って入手した物だ。昭和50年代の始めころの話だが、東武デパートの5階か8階に手品の品を売るコーナーがあり、その隣に切手やカードを販売している店があり、鉄道グッズや使用済みの切符も売っていた。特に興味はなかったけど、売価も安かったので、何気なく昭和30年代の山手線の切符を購入した。それも一枚ではなく複数枚買った。思えば当時、自分では気がついていないが、収集の方向性はすでに備わっていたのかもしれない。


‥それから時が経ち30代となってから、”板橋区を趣味とする”と宣言し、歴史の探究や収集を始めた際、最初に集めようと思ったのが交通関係のグッズであった。特に切符の収集には執念が燃え上がった。内に持っていた収集の癖に気がつき、その才能?が表に出てきたようだ。
さて、もともとは回収されるべきである使用済み切符をどのように収集するのか?東武デパートにあった店はすでに無かった。そんな時(1990年代初め)、たまに古本市をやっていた有楽町の交通会館地下商店街で古本を見ていると、ムサい男共の集団がひしめいている貸しギャラリーがあった。何気なく覗くと、おお、切符が売られてるじゃないか!その時、初めて東上線の切符(硬券)を手に入れた。ほとんどが昭和30年代の物で、切符収集の世界では私鉄はあまり人気がなく、特に東上線は集めている人が少ないようで容易に数を集めることができた。但し、それはまだ自分が”シロウト”であったに過ぎないことが、後々になってわるのだ。

興味のない人からすれば、切符は発売駅や料金の違いくらいしかないだろうと思われるだろうが、面白いことに数を集めてみると、年代により地紋の種類やフォントや様式の違いが変わってくることに気がつく。そうすると、その変化がいつ起こったのかのだろうかと言うことを知りたくなる。それにはもっと集めなくてはならない。販売会で買ってしまえばそこで物はもう無くなるわけで、他に求めなくてはならなくなる。会場では「交通趣味」という冊子が売られていて、そこには全国各地で開かれる販売会の告知や、紙上オークションが行なわれていた。その冊子を手に取ったことが”収集地獄”の始まりだった‥

        

   〜この項、長くなりそうなので記事を一度UPします。続きはまたあとで Coming Soon!〜

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板橋区民、収集癖について語る。第ニ話

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 収集エピソードの続きです。


「交通趣味」は鉄道きっぷ収集の愛好者団体である「日本交通趣味協会」が発行する雑誌で、90年代の初めまではカラー刷りで書店でも販売されていたが採算が合わなくなったのか、やがてモノクロ印刷の同人誌のような体裁となり、会員のみに配布される冊子となった。実店舗が新橋5丁目にあり、様々な鉄道グッズも販売されている。おじさんの街新橋を象徴するニュー新橋ビル4Fある交通趣味ギャラリーとは違う店だ。

この冊子に載っていた情報を頼りに、収集の泥沼に嵌って行くことになるわけだが、当時はまだインターネットなぞ存在せず、携帯電話も維持費が高額で一般人には普及していなかった頃で、情報は足で探す時代であった。今から思えば、昔ながらの収集方法が残っていた最後の時代だったのだろう。
冊子には、個人売価や交換会、デパートなどの催事への出店情報が載っていて、紙上オークションも行なわれていた。
オークションは美術商などのオークションと同じ方法で、商品には最低価が書かれており、入札者は出せる金額の最上限の価格を書いて入札した。現在のヤフオクなどとは違い、例えば1000円が最低価の場合、自分が4000円で入札したら次点の人間が1100円で入札していても、入札価の4000円を支払わねばならなかった。だから、入札には神経を使ったものだ。

販売会は全国で行なわれていたが、こちらがほしいのは東上線と都営三田線(板橋区内の駅のみ)とターゲットが狭かったので、地方まで出向くことはしなかった。一番有名で大々的に行なわれたのが泉友社(現在の線友社)の販売会で、前回触れた有楽町交通会館の催事はこの泉友社の販売会だった。販売は年に数回行なわれた。切符と言っても種類がいろいろとあり、主な分類としては「硬券」や「軟券」「カード類」に別れ、日にちにより目玉の出品物が変わった。
いわゆる”物見遊山”的な参加ではなく、欲しい物を目指して販売会に参加すると、そこには人間の欲から発するいろいろな世界が見えてくる。それは、趣味の世界を極めるための、頂上の見えない高い山(あるいは深い沼かもしれないが‥)を目指すがごとくの、厳しくも険しい道を登り始めることにもなる。


販売会に参加すると、いわゆる”常連”さん達の姿に気がつく。彼らはいつも必ず先頭グループを形成し、一見和気あいあいと情報交換をしたりだべっている。漏れ聞くと前日の夜から並んでいるようだ。

開店時間直前になると、主催者は展示ケースに”ブツ”を並べ始める。さっきまでの和気あいあいとした空気は一変し、常連さん達は殺気‥と言うか狂気を発しながら並べられた切符の入ったファイル(祝!東上線の記事で掲載した切符収納のファイルと同一のもの)を睨みつけている。「スタート」と同時に店内に飛び込み、そのファイルを奪い合い、胸に囲いこむ。それは一瞬の出来事で、ほんの少し遅れた者でさえ商品の入れられたファイルを手にすることは出来ない。新参者などはその光景になすすべもなく唖然と立ち尽くすしかない。

その後、常連は獲物を仕留めた猛禽類のごとく安全な場所に移動し、なめるようにファイルを眺め、欲しい切符を一枚一枚駕篭の中に放り込んでゆく。

さて、常連達が独占し、欲しい物が抜き取られた後のファイルはどうなるのか‥。
つぎは常連同士の間を回った後、手下のような笑みを浮かべ、ぐえっへっへと揉み手で摺り寄ってくる常連達の知り合いの手に渡されることになる。そうして、スカスカとなったファイルが展示ケースの上に放り投げられ、ようやくシロウトである自分の様な人間が手にすることができるのである。まっ、こう書くと品物が買えないじゃんと思われるだろうが、集めるターゲットは人によりけりなので、必ずしも先にファイルを取られたからと言って残念がることもない。特に私鉄券は人気がないので残っていることは多いのだ。(一番人気は国鉄の廃線入場券など官鉄発行のめずらしいものなど)

すでにこうした光景は状態化していたので、当たり前だがどうしても欲しい場合は常連さんに習い、いち早く並ぶしかないのである(または常連さんと仲良くなる事)。これよりもエグイなと思うのは鉄道部品の販売会で、常連達はさらに先鋭化され自分たちで”出席簿”をつくり、名前と順番を記したノートを会場の先頭に置き、場所取りをする。これはあくまで自主ルールな物なので、場所に並んでいなければ無視しようが構わないのだが、先鋭化された常連は非常にやっかいな方々であるので、この世界でやっていくためには従うのが通常である。

何度か販売会に参加しているうち、その常連さんの一人に声をかけられた。

「アンタ、なに探しているの?」
「ウッス。自分、東上線と三田線ッス」
「あんまり無いだろう?」
「そうなんッス、いつもムダ足ばかりで‥」
「そんなに探してるなら、‥譲ってやろうか?」

‥後にわかるが、声をかけてきた方は切符収集界では大御所で、名の知られた人物だった。


                 〜次回に続く。 Coming Soon!〜

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2014板橋区文化財公開ウイーク開催中!

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 ‥我が収集人生について語っている最中ですが、うっかり忘れていたことがありましたので急遽UPいたします。


板橋区では、恒例の「いたばし文化財ふれあいウィーク 文化財特別公開」が10月11日(土曜日)から11月9日(日曜日)まで行なわれています。区内各所で催し物や文化財が公開されておりますので、是非お越し下さいませ。詳しくは以下のリンク先をご覧下さい。

http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_event/064/

その中でも、今年6月の記事で取り上げた「旧粕谷家住宅(徳丸7-11-7)」では、10月27日(月)~11月9日(日)まで、特別に内部を公開している。(10時~16時)
公開された粕谷家住宅内の片隅に、この古民家を後世に残すきっかけとなった、先の大戦でこの家から出征し沖縄の地で亡くなられた、粕谷正三さんの写真や遺品がひっそりと置かれている。ここで、もう一度、先に公開した記事を再掲する。


粕谷正三は、大正8年8月、江戸時代に徳丸村の名主を務めていた粕谷家に、父・直右衛門と母・なみの次男として生まれた。
正三さんは大変優秀な人物で、紅梅小学校在学中に転校し、開成中学を学年トップで卒業して一高から東京帝国大学法学部政治学科に入学(中曽根康弘元総理の1年後輩)した。在学中に高等文官試験に合格し、台湾総督府に任ぜられるが、その直後の昭和17年9月29日に海軍主計見習尉官に採用され、海軍経理学校に入学した。

昭和18年1月、経理学校を卒業した正三さんは海軍主計中尉に任ぜられ、巡洋艦・阿賀野乗組みを命ぜられた。阿賀野は昭和17年10月に竣工し、第10戦隊(水雷戦隊)の旗艦となった。18年11月のブーゲンビル島沖海戦に参加した直後、12日朝に米軍潜水艦の魚雷が命中し、その時の爆発により重傷を負い内地送還となり呉海軍病院で入院・療養した。

昭和19年2月、傷の癒えた正三さんは、鹿島海軍航空隊付きとなり海軍主計大尉に任ぜられた。同年10月、南西諸島海軍航空隊分隊長に補せられ、宮古島基地(宮古島にいた記録が残っていないが、周辺の資料により断定)に赴任した。
そして、昭和20年1月。粕谷正三大尉は、南西諸島海軍航空隊本部副官(航空参謀・棚町整大佐の副官)として、米軍が目前に迫る沖縄本島へ移動する。

沖縄本島の南西諸島海軍航空隊本部は、通称「巌部隊」と呼ばれ、本島南西部にある小禄(おろく)海軍飛行場を根拠基地としていた。ちなみに、小禄飛行場は現在の那覇空港であり、当時の位置としては現在、自衛隊の使用している部分にあたる。
米軍の空襲はすでに前年の10月から始まっており、正三さんはその合間を縫って小禄の寿山に構築された巌部隊司令部本部壕に赴任した。このとき、一帯に設けられた巌部隊の壕には、約3500名の兵員がいた。

3月23日、米軍は54万の大軍と1500隻の艦船で沖縄本島を包囲し、26日から猛烈な艦砲射撃を開始した。4月1日、米軍は本島中部の読谷、北谷海岸から上陸を始めた。5月末までに那覇市内、そして首里を占領した。
6月4日、とうとう米海兵隊は小禄飛行場の西側の鏡水から戦車部隊を擁し上陸してきた。激戦は続いたが、巌部隊はじりじりと追いつめられていった。6日、事態は悪化し、海軍司令官であった太田実少将が海軍次官宛てに、あの有名な電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」を発信した。

6月11日、米軍は海軍の根拠地壕、並びに正三さんのいる巌部隊司令部壕に迫ってきた。その日の夜、太田司令官は沖縄守備軍最高指揮官・牛島満陸軍中将宛に「敵戦車群ハ我司令部洞窟を攻撃中ナリ。根拠地隊ハ今2230玉砕ス。従前ノ厚誼ヲ謝シ、貴軍ノ健闘ヲ祈ル」と発信し、13日午前1時に司令部壕内にて部下6名と共に自決した。
司令官自決を知った粕谷正三大尉は、翌14日夜半、最後まで残った主計科および各科の生き残りの兵30数名を率いて壕を出、小禄雙ヶ丘に展開する米軍に斬り込んだ。数度の攻撃をくり返した後、とうとう負傷者ばかりとなってしまう。粕谷大尉は、もはやこれまでと全員を集め車座となり、自ずから手榴弾のピンを引き抜き、散華した。行年、25歳だった。


‥生存者も少なく、混乱の極みにあった巌部隊の戦闘の様子や、幹部とはいえ一将校の最後が、なぜ伝わったのだろうか、それはこうした後日談があったからだ。

戦争も終わり、世の中が落ち着いてきた昭和24年6月14日のこと、ひとりの元海軍将兵が徳丸の粕谷家を訪れた。粕谷家では戦争が終わっても戻らない正三さんの消息を探し、昭和21年春に旧海軍省に出かけた。そして、そこで初めて粕谷正三主計少佐(死亡後昇進)が沖縄本島で戦死していたことがわかったのである。優秀で自慢の家族を失い、悲しみの縁にいた粕谷家は、その年の11月、ようやく正三さんの葬儀を済ませた。

‥粕谷家を訪れたのは、かつて巌部隊で正三さんと戦友であった金子軍医大尉だった。

太田司令官自決の後、総員斬り込み突撃の命令が出されたが、金子軍医大尉は、衛生兵3名を率いて壕内に残り、身動き出来ない重傷者や、負傷して戻ってくる兵士の治療にあたれと上官から言い渡され、壕に留まり終戦まで生き延びた。粕谷大尉とは旧知の間柄で、戦後数年して、徳丸の実家まで正三さんの最後の様子を知らせようとやってきたのだった。

この金子軍医大尉の沖縄戦における巌部隊の話は、金子大尉の手記を元に、新潮社の「新潮 昭和28年3月号」に「ある手記から」と題され、田宮虎彦名義で掲載された。その文章の一部を省略・抜粋し記してみる。


「‥はっきりした日附けはわからない。六月三日か四日、とにかく六月にはいったばかりの明け方であつた。私は炸裂する艦砲弾の轟音に眠りをやぶられた。(略)いよいよ来たー当然、来るものが来た、と私は考へていた。(略)壕の中が殺気だつていた。遠く近く、艦砲弾は、私たちの陣地に、雨のやうに降りかかつて来る。ニ・三時間、それはつづいた。やがて、その艦砲がぴたっとやんだと思ふと、今度は、轟々と潮騒のやうに押しよせて来る地響きが遠く聞こえて来た。
<来たぞぉっ、戦車だっ>その時、壕の中で、誰かが叫んだ。粕谷主計大尉の声だつたやうに思ふ。(略)七時近い頃であった。戦車は遠くで一斉にとまると、同時にその戦車砲がパッパッと火を噴きはじめた。(略)だが、それも日没前になると、火蓋をとじて、一斉にあとへひいていつた。その日が攻撃が終わった訳であつた。(略)しかし、その眠りも翌朝六時前から、私たちの陣地に落下してくる艦砲のダ、ダアーンと炸裂する響きでやぶられる。(略)戦車砲で、私たちの火器をうちつぶしてしまふと、戦車のかげからアメリカ兵が姿をみせた。私たちの方から小銃でうちかけると、アメリカ兵は戦車のうしろに、さっと、身をかくして、また戦車砲で応射をはじめた。そんなことをくりかへしているうち、私たちの陣地からは、真裸になつた兵隊が、三・四人で爆雷をかかへて壕から飛び出していつた。えつさ、えつさといふ決死のその掛声が、不気味に私の耳にも聞こえて来るやうになつた。(略)

(6月14日、総員切り込みの命令が下りる。)‥壕内で飯が炊かれた。握り飯が、斬り込みに行く兵隊たちにくばられた。最初に下士官以下五十名をひきつれた部隊長が、天皇陛下萬歳を叫びながら飛び出していつた。それから、つぎつぎに、三・四十人づつの下士官や兵隊たちが整備長以下の士官につれられて壕を出ていつた。そして、最後に、残った兵隊たちを、粕谷主計大尉がひきいて、切り込みに出た。
粕谷主計大尉は、南方作戦で火傷した左手を、壕の入口まで見送った私に、ニ三度ふつてみせて、「あとをたのむ」といふと、かすかに白い歯をみせて笑った。私が挙手の礼をかへすと、大尉は、そのままくるりと私に背をむけ、指揮刀(徳丸の実家から持ってきた家宝の備前長船)を合掌するやうにかかげ持つたかと思ふと、「天皇陛下萬歳」とひと声叫んで、壕の外の闇にのまれていつた。(略)

‥ある夜、私とならんで、花火のやうな照明弾をながめていた森野という主計兵が、私の耳に口をよせると、ささやきかけるやうな声で、「軍医中尉、聞こえるでせう」と、いひかけて来た。森野は、あの最後の切り込みの夜、粕谷主計大尉に引率されて出て行つた兵であつた。私は、その森野から、粕谷大尉たちが、幾度も斬りこみをくりかへしたあとで、生き残つたものたちばかりが真中に爆雷を囲んで車座になり、一緒に自決した話をきかされていた。森野はその時の傷跡を顎から頬にかけて残していた。私は部隊の士官のうち、兵科は違つたが粕谷大尉と親しくしていたので、その話を聞かされてから、森野に何となく親しみおぼえるやうになつていた。(略)

(前段の、ささやきかけるやうな声で、「軍医中尉、聞こえるでせう」と、いひかけて来た。の文に続く)私は、それで、「何がー」と森野にききかへした。すると、森野は「聞えるじやないか、軍歌がー」といつた。私は、何となくはつとして、森野の顔をみた。すると、その眼が、異常な喜びにかがやいているやうに、ぎらぎらと光っていた。森野は、それから、突然、両手を萬歳するやうにひろげると、「援軍だ、援軍がきたぞ」とふりしぼるやうな声をあげた。私たちは、思はず、森野の上にをりかさなつて、その口をふさいでいた。
その時になつて、森野は、はつと我にかへつたやうであつた。そして、悪戯をみつけられた子供のやうに、悲しげな笑ひを頬にうかべた。そして、一人だけ、壕の中へ帰つていつた。
私たちが、明け方、壕にはいつてみると、森野は手榴弾で自決していた。手榴弾を胸に抱いたらしく、咽喉から肩にかけて、えぐりとられたやうに肉がとびちつていた。(以下略)」

粕谷正三大尉は、巡洋艦・阿賀野勤務時、ブーゲンビル島沖海戦にて負傷し、呉の海軍病院に入院していた。怪我がある程度癒えた昭和19年1月、懐かしの徳丸に1ヶ月ほど帰京し、療養した。その折、ふと家族にこんな言葉を漏らしていた。「俺は死んでも靖国神社には行かぬ。この家の棟に留まって皆を守るよ‥」

粕谷家住宅が有形文化財に指定され、敷地ともども板橋区に寄贈されてから、毎年秋、文化の日前後に粕谷家住宅は公開されている。その屋敷内の書斎の机に、正三さんの妹である尹久子さんが書いた粕谷家住宅の紹介文が置かれている。そこには沖縄に散った兄の思いを忘れないために、この家を後世まで残す。と記されている。


こうして、板橋区内最古の茅葺き屋敷は、いまも徳丸の地に生き続けているのであった。

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