本日は、祈りの日。
10月ですか。メタボ人にとっては節制を強いられる季節ですね。。
また、冒頭から温泉の話ですまぬが、”どんな泉質が好きですか?”と問われれば、即座に「そりゃあ白濁硫黄泉ですな。」と答える。硫黄の臭いがしなきゃ温泉とは言えない、とさえ思っている。
噴火の状況は毎日ニュースの冒頭で大々的に伝えられているが、先週の土曜日、長野、岐阜両県にまたがる御嶽山が突然、水蒸気噴火した。テレビでは、ヘリコプターによる取材の様子が連日流れているが、ある番組で、取材記者が「ここからでも硫黄の臭いを感じることが出来ます。」と報じたところ、某大学教授が即座に”硫黄に臭いはねえよ”とツイッターで突っ込みをいれたそうだ。
へ〜そうなんだ、と自分も初めて知った。臭いの元は、硫黄と水素の無機化合物である硫化水素によるものだそうだ。あの、俗に言う”黄身の腐ったような臭い”ってやつだ。なるほど、非常に勉強になった。これからは、好きな温泉は硫黄と水素の無機化合物である硫化水素の臭いがする白濁硫黄泉さ。と答えよう。なんて、これこそ”こまけぇこたあいいんだよ!”だろう。これからも「硫黄臭のする温泉さ」といおう。
日が短くなっているのに、前振りは長くなっているようで‥
さて本日10月3日は、成増陸軍飛行場を根拠飛行場としている陸軍飛行47戦隊(独立飛行47中隊から改変)の創立日であり、戦後発足した戦友会の「成増会」が靖国神社に昇殿参拝をし、戦時中に亡くなった隊員の方々の慰霊を行なう日だ。しかし、約10年前に会長であった刈谷氏が亡くなり、以降は組織的な参拝は行なわれず、有志のみの参拝と切り替わったが、それも2年前を最後に終わってしまった。当時、現役であった方々は齢90を越えられ、物理的に集まることが出来なくなってしまったのだ。私も、末席に参列させていただき、参拝後に昔の話をお聞きするのがとても楽しみだったけれど、それはもうしかたがないことなのである。
先日、当ブログにコメントが付けられた。それは、長崎原爆について調べている方からの問い合わせで、以下の様な内容だった。
『原爆搭載機「ボックスカー」が、当初ターゲットにしていた小倉に原爆を投下しようとした際、市街が雲に覆われていて照準が出来ないため、目標を長崎に変更したが、進路変更をするために、小倉から下関上空を通って少し南下している時、乗員が小月基地から上昇してくる屠龍と疾風を雲の合間に見つけた。万が一、気づかれたら、自分たちを追い体当たり攻撃されると危惧し、あわてふためいて長崎方向に舵をきった。その時、飛行機内はパニック状態で、かつ、急激に舵をきったので、一緒に飛行していた科学観測機と衝突しそうになっただけでなく、ある乗員が肘でインターコム機能を通信指令機能に入れてしまい、機内の会話の一部が大日本帝国中に響き渡ってしまった、というハプニングが起った。その時、小月基地から上昇してくる「屠龍」に搭乗していたのが、47戦隊の窪添中尉であったのかもしれず、確認をしたいのだが情報はないだろうか?』
以前、どの記事かは忘れたが、山口県の小月飛行場に駐屯していた47戦隊の一楽少尉が、哨戒任務中に長崎原爆を目撃した話をUPした。要約すると「哨戒中、八幡上空で目の端に光る物を感じ、振り向くと大きな雲が上がっていてすぐに特殊爆弾だと気がついた。」とおっしゃっておられた事だ。なぜ特殊爆弾と思ったのかは、その3日前、広島に原爆が落とされた時、小月飛行場にも続々と負傷者が運び込まれ、特殊爆弾が使用されたと言う話を聞いていたからだ。
終戦後、アメリカの戦略爆撃調査団が、故郷の高知に復員していた窪添中尉を訪ね、長崎原爆投下当日の状況(上の質問の件)を確認しに来た。窪添氏はアメリカの調査力に驚くとともに、B-29には気がつかなかったと答えた。その後、「もし、知っていれば、絶対に、やっつけていたのに」と悔しがっていたそうである。この話はごく一部の戦友の間にしか知られておらず、窪添中尉は「自分が死ぬまでは、公言しないで欲しい」と頼んでいたそうだ。窪添中尉にとっては、任務中、B-29を発見出来なかったことは”恥”であり、公表されるのは嫌なことであったのだろう。(当日は曇天であり、発見は至難なことだったと思いますが。)
さて、この話には疑問な点がある。もともと、小月基地は飛行第四戦隊が根拠飛行場として使用しており、戦争後期の主力戦闘機は「屠龍」だった。小月は7月28日にグラマンの奇襲を受け、47戦隊は多大な損害を被り、ベテランの空中勤務者多くを失っていた。屠龍はこの空襲の後、朝鮮半島大邱に避難していたらしい。疑問なのは、47戦隊員である窪添中尉が、47戦隊機ではない「屠龍」に乗っていたのか?という点だ。
屠龍は双発の複座戦闘機で、夜間戦闘にも強く、B-29キラーとして米軍に恐れられていた。しかし、戦闘機との戦いには不利で、米軍艦載機がB-29に随伴して来襲する際には戦闘に参加できず、退避行動をとらなくてはならなかった。昭和20年4月に硫黄島が陥落すると、陸軍航空隊のP-51がB-29に随伴するようになり、屠龍の昼間活動はほぼ封殺されてしまった。
窪添中尉は、陸軍士官学校57期生で、座間2中隊6区隊の歩兵から、第一次の航空転科(隊付から本科に入り2ケ月後)し、豊岡の航空士官学校を卒業し、常陸教導飛行師団の遠戦(遠距離戦闘機)から47戦隊へ着任した。(航空士官学校を修業すると、操縦は各飛行分科に従い各飛行学校に入校する。戦闘は近戦が明野、遠戦が常陸、偵察は下志津、重爆は浜松、軽爆と襲撃は鉾田で、実用機の修業の6カ月、将校学生の乙種学生で教育される。)
屠龍はデビュー直後、爆撃機の護衛という<遠戦>的な運用がなされていた。常陸陸軍教導飛行師団には遠戦訓練用の屠龍があり、窪添中尉が訓練を受けた可能性はある。
しかし、主力空中勤務者を失ってしまった47戦隊では、2月16日に館林上空でF6Fの隊長機を撃墜し、7月28日の奇襲時には唯一、無傷で帰還しすぐれた技量を持っていた窪添中尉は、その後、指揮官となって任務についていたので、戦隊所属機の疾風以外の戦闘機に乗ることは考えにくい。ましてや訓練飛行しかしたことのない屠龍に乗って実戦任務につくのは無謀なことだろう。
掲出の写真はいずれも成増飛行場で撮影されたもので、左から「愛機の前に立つ窪添竜温中尉(撮影時少尉)」、2枚目は右端が窪添中尉(撮影時少尉)で、上から有賀千秋曹長、丸山孝雄伍長、大森護伍長、いずれも第3中隊員の方々で3名すべて戦死されている。右の写真は、成増から九州・都城西飛行場へと出発する47戦隊の疾風だ。
今日の東京は日差しが眩しいくらいに晴れ渡っている。いつもならばもう家を出て靖国神社へ向かっている頃だ。せめて、成増飛行場とそれらに関わった方々を思い出しながら、赤塚郷より靖国の方角に向け手を合わせるばかりである。
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