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2014年9月

板橋区民、役に立つ。☆祝!東上線100周年・2014年初秋☆

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 9月に入り、すっかり秋の気分になりました。

先週、川越市博物館と川越市役所の方が拙宅を訪れた。10月から約一ヶ月間、博物館のギャラリーで「東上線100年」の企画展示を行なうので所蔵品の貸出しをお願いしたい、とのことだった。もちろん、事前に連絡はいただいており、企画書もメールにて確認していたので資料の確認にいらしたのだ。
普通、自治体の博物館が企画展を計画する場合、展示が始まる2年前には準備が始まる。これは、予算の審査が前年度に行なわれるからで、直前になって企画が決まる場合は場所も限られ予算もあまりなく、どこかの部署が無理を引き受けることもある。

今回の展示は、前年度末(今年3月)に市役所が企画し、市役所内で行なう予定を聞いた博物館の方が、急遽ギャラリーの提供を申し出て決まったとのことだった。
定期的な特別展ではないので規模は小さいけれど、現在、東武博物館で行なわれている東上線展が終了するのを待ち、フライング東上号を始めいくつかのHMや資料も借りて来るので、予算の無い時によく行なわれる”パネル展”のような内容ではない。
今回、私が貸したのは、東上鉄道の創立趣意書や開通1週年紀念チラシ、東上線川越町及池袋間汽車発着時間表などのいわゆる「東上線草創期基本セット」(他に乗車券など)だ。東武博物館と内容がダブる物もあるので、全てが展示されるわけではないだろう。

展示の見所は、未だ場所が特定出来ていない田面沢駅の位置の謎を解明する企画で、特に担当者の方が東上鉄道開業時の終点・田面沢の出身であり、駅の場所を特定するために、なみなみならぬ意欲で調査をされていることだ。一足先にその候補地をお聞きしたが、おお、なるほどね。と言う場所だった。必ず開業時の写真はあると思うので、時間はないけれど、ぜひ探し出していただきたいものだ。


博物館や資料館が企画展示を行なう時は、まず、自分の所や役所が所有している資料を探し、ほかには関係資料を所蔵している自治体や大学の博物館や企業や財団法人が経営する博物館などから借りる場合が基本で、それに個人所有の資料が加わることがある。博物館や資料館から借出す場合は、書類や運送や保険等、面倒なやり取りは多いがシステムが整っているので、問題は起こりにくい。しかし、個人所有、とくにマニアが所有している資料を借りるのは敬遠されがちだ。(いわゆる”鉄ちゃん”関連の資料は、公文書以外は個人収集家が所持している場合が圧倒的である。)

以前、こんなことがあった。ある東上線沿線の資料館で、鉄道を含む企画展が行なわれた。その時、あるマニアから資料を借りたのだが、展示が始まって一週間後にそのマニアが資料館に見学に来て自分の愛蔵品が並ぶコーナーを見た。すると、自分の貸した資料を、自分の意に添わない展示の仕方をされているのをみて、マニアは怒って資料館にクレームを付け、展示している資料を引き上げさせてしまったのだ。これをやられたら資料館は困ってしまう。マニアはマニアで、自分の大切な愛蔵品が失礼な(間違った)展示をされて衆目に晒されるのは許しがたいことなのだろう。

まあ、この例は極端なことと思うけれど、マニアというものは対象に対する愛着や拘りが強いので、時にこう言う問題を起こす場合があるというのはわかる気がする。だから、博物館ではあまり個人(特にマニア)から所蔵品を借りたくないのが本音だ。
私もマニア(収集家)な一人だが、常に標語にしている言葉がある。それは”One of Them”という言葉だ。直訳通りの意味だが、近視眼的になっちゃあいけない、みたいなことですかね。


で、掲載の写真ですが、過去の板橋区発行の出版物に掲載されていたり、東上線の本などで見覚えのある方もおられるかも知れませんが、中板橋駅の開業祝賀会の写真だ。たびたび当ブログでも取り上げてきたけど、中板橋駅は石神井川の水を引き込んで作った遊泉園プールの臨時駅として開設され、昭和8年に正式な駅として開業した。写真はその時のもので、台紙には「板橋町四ツ又遠藤写真館」と印刷されている。四ツ又は板橋区役所の近くにあり、写真館はそこにあったのだろう。(前回紹介した全日本職業詳細地図では確認出来ない。)

板橋区には公文書館があり、ここには板橋区関係の写真が25000点程所蔵されていて、閲覧が可能だ。個人が借りて使用する事もでき、営利目的でなければブログ等にUPすることもOKだ。公文書館が我が赤塚郷に近ければ利用させていただくのだが、借りるたびに出向いて申請をしてまた返却するのがメンドウなので一度も利用したことはない。
掲載の中板橋駅開業の写真も公文書館に所蔵されているけど、それはどこかで複写してプリントされた写真だ。私は収集家(マニアとは呼ばない)なので、こうした写真はオリジナルが見たい。とくにカメラが普及していなかった時代の記念写真は、ほとんどが写真館の写真師が撮影しているので、台紙を見ると誰が撮ったのかがわかったり、細部の様子をチェック出来たりする。それに、オリジナルの写真を自分で所蔵していれば、いつでも自由に使うことが出来ますし。

何年か前、長年に渡り「空襲で焼けた下板橋駅」とキャプションされ使用されてきた写真が、実は同じ日に被災した尾久駅ではないかとの推理をしたことがあった。出典は1980年発行の「ドキュメント東京空襲」という本であったが、その掲載写真が警視庁のカメラマンだった石川光陽氏の撮影したオリジナルと比べると、駅舎を中心にトリミングされた写真であり、フルフレームの写真を検証すると、2本の照明塔がカットされているのが認められた。照明塔は広大な車両基地を照らすための設備であり、下板橋駅には必要がない物だ。尾久駅には、現在でもほぼ同じ位置に照明塔が立っている。このように、なるべくオリジナルや一次資料にあたることは大事なことなのである。

‥こんなささやかなブログだけれど、たまに写真や資料を貸して欲しいと打診が来る。こころよく応じる時もあればお断りする事もある。そのことで、時に残念な思いをさせられたこともあるけれど、常にワンオブゼムワンオブゼムと呪文のようにつぶやき、気持ちを抑えている。。

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もう少し詳しく「中板橋駅開業写真」を眺めて見る。

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 相変わらず、すっきりしない天気が続きますね。。

前回、せっかく中板橋駅の開業写真をUPしたけれど、雑文のほうが長かったのでもう少し詳しく写真を見て行くことにする。

中板橋駅は、夏季限定の臨時駅としてスタートした。当時、旧川越街道の上板宿のはずれであった中板橋駅界隈は、関東大震災後に巣鴨から移住してきた牧場や畑が広がる閑散とした所だった。そこに、上流でたくさんの客を集めていた石神井水泳場にインスパイアされた地元の有力者達が資金を出し合い、遊泉園と言うプールを作った。その後、遊泉園は人気のスポットとなり、園内には食堂など娯楽設備も出来、隣接地にはテニス場も設けられるようになった。新川越街道の工事も始まり、大谷口には巨大な水道タンクが現れ、賃貸住宅の建設が盛んに行なわれていた頃だ。

‥そんな時代の流れで、臨時駅であった中板橋駅を正式な駅として運用して欲しいという要望がおこるのは必然だ。すでに昭和5年の下赤塚駅を皮切りに、東武練馬、金井窪、大山駅が開業している。

さて、「中板橋駅開業写真」を検証してみよう。
台紙に印刷されているように、板橋区役所近くの”遠藤写真館”が撮影を担当している。この写真館は他にも板橋区内のいろいろな記念写真を撮影している。
台紙には表紙があり、内側には”昭和8年10月22日”と撮影日が書かれている。ん?東武鉄道によれば、開業日は”1933年(昭和8年)7月12日”となっている。さて、これはどういうことだろう?普通なら”こまけえことはいいんだよ”で済むが、こちとらそうはいかない。このままでは「中板橋駅開業」としてこの写真が紹介された場合、7月12日との整合性がつかないのではないか。

ま、基本として新駅開業に関する公文書を見れば答えは一発でわかる。一次資料である公文書に書いてあるならばその通りであり、なんらかの理由で式典が10月に行われたと考えるしかない。ただ、今は手元に公文書資料が無いので結論はわからない。
昭和8年7月12日(水曜日)は、時期的にプールの開業にあわせた日と思われ、開業記念式典が行なわれた10月22日は[日曜日]で、曜日的には出席者の都合にあわせての日であり、正式開業日は違うのかもしれない。プールの営業は8月末までなので、開業式典まで約2ヶ月間ある。臨時駅の場合、おそらく毎年開設許可願いを提出したものと思われるが、常設駅設置への手続きの都合でこうなったのですかねえ?

次に検証するのは駅舎の位置だ。現在の中板橋駅は、南口と北口があるが、どちらが先に出来たのか‥そもそも2ヶ月間しか営業しない臨時駅時代に駅舎はあったのだろうか?(仮設の掘っ建て小屋程度なら想像出来るけど)オリジナル写真に写る駅舎とおぼしき建物は、なかなかちゃんとした造りに見え、拡大してみるとどうも”新築”ではないような気がする。その奥の線路の向こう側には建築途中の建物も見えますね。
まあ、現在の駅舎の敷地的にも、写真に写る入口と思われる場所が道路側に面していると考えると、駅舎は南側に造られたと結論して良いだろう。

もう一つ、駅舎の入口前に白い2本の柱が立てられ梯子に人が登って何か作業をしてますね。これは何でしょうかねえ?昭和初期頃まで戦争に勝ったり、なにかイベントがあると”凱旋門”を建てるブームがありましたが、どうなのでしょうか。

それにしてもすごい人出ですね。式典会場の外には露天が並び、たくさん人がいるように感じます。◯◯焼なんて暖簾も見えます。新駅開業の時は花火が打ち上げられたり里神楽やお囃子が出てお祭り騒ぎだったと記録に出てきますが、現在確認出来る東上線の駅開業記念写真では、駅舎をバックに地元の有力者達が雛壇に並んで写る、と言うパターンばかりで、中板橋駅のような宴席を高い位置から撮影した写真は他には無いと思います。(雨降ったらどうするつもりだったんだろう‥)

現在の中板橋駅は、駅前商店街が充実していてとても賑やかですね。旧川越街道沿いに広がっている大山とはひと味違っていて、板橋区の商店街の中でもひときわ”昭和の香り”が漂ってます。元は戦後の闇市から始まったと言われていますが、そんな感じがまだ残っているのでしょうかね。。

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板橋区よ、あの話はどうなった?

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 連休最終日、三郷市の”めぐみの湯”へ湯治に行った。赤塚郷から外環道の下をひた走ること1時間、約25キロの行程だが、ここらへんが自分が原チャリで出かけられる最遠端かもしれない。ここは、週末でも空いていて、お湯は褐色の塩化物強塩温泉で加水加温循環ナシの生源泉である。戸田の彩香の湯と同じ泉質だけれど、彩香の源泉湯船はほぼ壷湯で3人も入れば一杯だ。良い源泉だがさやの湯と同様、浴槽のキャパが狭いのが残念。私的ベストスリーは「ヌルヌルの埼スポ」「黒湯の極楽」「褐色のめぐみ」あとは強酸性湯と白濁硫黄泉があれば最高なんだけどなあ‥


また、温泉について熱く語ってしまった。。

昨夜、テレビを付けていると”練馬区に保証金50億円返還命令 日大の病院撤退で東京地裁”というニュースが流れた。いまから2年前の2012年3月末をもって光が丘の日大病院が撤退し、練馬区に預けておいた保証金50億円を返還せよと練馬区を訴えた件だ。撤退の理由は、1991年に30年間の病院運営を前提に練馬区と病院の土地建物の賃貸契約を締結したが、日大は累積赤字を計上したことから契約を解除したいと言うことだった。これに対し、練馬区側は「保証金は病院運営を30年継続することの担保が目的で、返還時期は少なくとも契約締結の30年後」と主張していた。判決は、賃貸契約である限り「賃貸借の期間は20年を超えることができない」とする民法の規定が適用されるとして、保証金の返還を求めた日大の訴えを認めた。

‥この判決だけ見ると、裁判には勝ったがなんとなく日大側の方が姑息で悪そうじゃん、と思ってしまうが事はそう単純ではないようで、もともとは、1986年11月に開設された練馬区医師会立光が丘総合病院の債務が、1991年には95億円に達し、医師会の資産を売却しても不足した金額について、練馬区が病院の購入、医師会館購入、補助金によりこれを救済し、その財源として日本大学より50億円の融資を受け、練馬区は以後日本大学に同院の運営を委託したことから始まった。この際、練馬区は融資の50億円を保証金の扱いとしたが、預り金でなく、一般財源として処理した。以後、練馬区の会計上、この50億円は存在しないことになったが、日本大学は30年経過後この50億円が帰ってくると考えていた。しかし、練馬区側は2009年9月28日、これを返済する用意を何もしておらず、病院が存続する限り返済する必要はないとした。日本大学側はこの問題を含めた契約の見直しを練馬区側に提案したが、練馬区側は拒否、そして日大側が東京地裁に訴訟を起こしたという次第らしい。

撤退への遠因は他にもいろいろあるようで、2005年に西武池袋線の高野台駅前に開業した順天堂大学病院に対して練馬区が行なった優遇政策に腹を立てた、などなどまあドロドロしている。

私は、このニュースを聞き、2008年5月20日、東武鉄道がいきなり東武東上線・下板橋駅上部に新ビルを建設し、日本大学医学部付属板橋病院の誘致を検討していると発表した、衝撃のニュースを思い出していた。
日大病院が光が丘を撤退すると発表したのは2011年7月だが、水面下では、日大病院は練馬区に嫌気がさし、東武鉄道と手を組んで新たに駅上という交通至便な立地に新病院を開業し、その資金にあてるため、練馬区に預けておいた50億円の保証金が欲しかったのか、と単純に考えていた。これを機に、池袋という一大ターミナルに近いわりに開発から置いてけぼりにされたような下板橋駅界隈が発展し、さらに現在の豊島区側から板橋区側へと駅が移動してくれれば最高じゃん!とかね。最近、高視聴率で話題に上がるテレビ東京の人気番組「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」を見ていると気がつくが、地方の都市では、地域の総合病院がターミナル場と化し、もはや街の中心となっているのだ。

‥さて、現在、あの夢のような話はいったいどうなったのか‥

平成23年(2011年)3月、板橋区議会の予算審査特別委員会、都市建設分科会において板橋区議の元山芳行氏がこの件について板橋区側に質問をした。それに対しての板橋地域まちづくり推進担当課長の返答はこうだ。

「下板橋につきましては日本大学さんと東武鉄道さんのほうで20年5月にプレス発表しましたけれども、その後、結論から言うと基本協定にまだ至っておりません。基本協定の締結になるまではお互いに守秘義務を課しているので、行政のほうにも詳しい進展状況はお話しいただけません。ただ、東武鉄道さんには二、三か月に一遍来ていただいて状況をお伺いしていますが、最近の1月に来た段階でもまだ協定になっていないと。ただ、はっきりとテナントの金額にかなり差があるということですので、東武鉄道さんのほうで一応もう一度どんな形の床面積が必要かというのを精査をしながら交渉しているというだけしか把握してございません。」

この返答から3年以上が経過するが、話が進展している様子はない。

平成26年度第4回区議会定例会も11月中旬から始まるが、果たしてこの問題は取り上げられるのであろうか‥。東上線沿線住民の総意だと思うが、昔から東武鉄道も本線に対して東上線をないがしろにしている感は否めない。本線線路の高架化に金がかかるから東上線は後回しな、とかさ。おかげで今日現在も、今年の鉄道人身事故日本ワーストワン記録をキープしている。このワースト記録はここ数年間不動の地位にある。東武は何んらかの対策を行なっているのだろうか、疑問に思う。
ここは一つスコットランドに習い、東上業務部は東上線独立の沿線住民投票を実施してみてもいいんじゃないかなあ。

これも昨日のニュースだが、東武鉄道が、2012年5月の開業から849日目で東京スカイツリータウンの累計来場者数が17日、1億人を突破したと発表した。「国内外からさらに多くの人に来てもらうため、さまざまなイベントをやっていきたい」なんて鼻息は荒い。下板橋駅事業の遅れも、東京スカイツリータウンに事業資金を注ぎ込んだせいもあるだろう。
しかしさあ、開業849日目で1000000000人てさ、割ってみれば1日あたり約118000人、朝8時から夜10時までの営業として14時間で1時間あたり約8400人、1分間で140人が入場したという計算になる。ちなみに2013年度の東京ディズニーランドとシーの1日あたりの平均入場者数は86000人だ。スカイツリータウンに何ヶ所入口があるのかわからないが、朝から晩まで押すな押すなと人が押し寄せているのだろうか?”こまけえこたぁいいんだよ”ってことですけどね。ええ。


そんな事でなにか今回の記事にふさわしい写真はないかと収蔵箱をごそごそしていると、薄いセロファン紙の袋に”板橋日本大学病院”と印刷された写真ポストカードが出てきた。状態からおそらく昭和10年(1935年)に現在の大谷口に開院した当時の物と思われる。近隣にはすでに豊島病院が「伝染病治療施設」として、養育院は「貧しい人々のための救済病院」として存在していた。

まっ、もう日大病院は練馬区から撤退しているんだし、東武鉄道も板橋区も病院が駅に出来れば周辺に病院城下町が形成されて急速に進む高齢社会の中で活性化するだろうし、もしかすると、巣鴨を越える人気の町となるかもしれない、なんて。大谷口の既存の日大病院施設も最新医療施設に更新できるしね。
‥と妄想を書き綴ってみました。。


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