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2014年8月

板橋農民、恐怖する。

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 世間はお盆シーズンに入りましたね。昨日、リハビリのため(温泉に浸かるだけですが)にシューイチで通っている埼玉スポーツセンターの温泉へ行きましたが、川越街道は働き者のトラックと外環に乗る車で大渋滞でした。源泉は相変わらずコンディションが良く、気持ちよかったです。。


”ネタに困ったら新聞記事”てなことで今回は昭和22年1月8日付けの毎日新聞から。

「何の恨み?板橋の恐怖」とセンセーショナルな見出しから始まる誌面ですが、時は戦後の混沌とした時代が続く昭和22年1月の事。成増陸軍飛行場跡が一時的に農地となり、収穫を目前に米軍家族住宅地としての転用が決まり、本格工事が始まろうかとする頃ですね。
松の内があける6日夜から7日早朝にかけ、志村中台を中心とした地域で、連続して放火魔が農家に次々に火を付けるという事件が起こった。その数11軒に及び、住宅や物置などが全焼した。犯人はまだ捕まっていない。
記事によれば、農家ばかりが狙われているので「農村への買出しをめぐって先鋭化した都会人と農村民との感情対立の結果ではないか」とみて捜査をしている。

放火のあった場所は、平和台方向から続く環八を走ると見渡せる地域にある。今でもなんとなく農村地帯だった頃の面影を感じられますね。6日午後8時46分に上板橋の宝田さん宅が最初に火をつけられ、翌午前2時頃に出火した西台の内田宅が最後だった。内田宅の隣人が放火魔の姿を見つけ追いかけたが、犯人は暗闇にまぎれ取り逃がしてしまった。若い男で戦闘帽を被り、陸軍の外套を着ていたという。(一番右の写真が犯行時の様子を語る隣人達)
狙われた農家の方々は、志村署生活係の談によれば、いずれも純朴な農家の方々で供米成績も良く、これまで検挙されたり監察を受けたこともないそうで、悪徳農家も見当たらないという。


この新聞記事には、実に興味深いことが書かれていた。それは、志村警察署への取材で聞き込んだ情報と思われる内容で、記事から引用すると「食料危機の訪れた昨年の買出し最盛期にも同方面への買出しは比較的少なく東上線上板橋、常盤台、東武練馬各駅で降りる買出し客は三駅合して一日わずかに120人程度、この辺に来る買出し客はほとんど縁故関係でねぎ(公定価格19円50銭)ごぼう(公22円10銭)にんじん(公20円70銭)がいずれも28円くらいで特に暴利を得ているとはいわれず、直接被害農家に対する恨みの犯行説は薄らいでいる」と結ばれている。

趣味を板橋区として定めて調べ始めた頃、板橋区内の交通事情と成増飛行場を大きなテーマとしていた。基本として統計資料を調査したけれど、東上鉄道時代と戦中戦後すぐの頃の資料を見つけるのに苦労し、特に終戦間際や直後については他の鉄道もそうだけれどよくわからない場合がほとんどだった。(資料が出てくるのは朝鮮戦争頃から)
記事によれば、昭和21年の買出し最盛期(おそらく夏から秋にかけての時期)に、上板橋、常盤台、東武練馬各駅で降りた買出人は、3駅で1日120人程度であったと書いてある。さすがに闇取り引きを取り締まっていただけあり、ちゃんと調べていたようだ。ということは、1日の乗降客数も把握していたのだろう。戸田橋など県境に接する場所に検問所が設けられていたという話も聞きますね。


新聞記事には、こんなお宝情報が隠れていることがあるので面白いモノです。明治時代の板橋競馬場や廃止後にグライダーの飛行実験が行なわれた様子なども新聞記事で詳しく取材されていて、あなどれません。
‥しかし、いかんせん老眼の身には記事を詳細に読むのがキツいっすね。。

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第69回終戦記念日記念・成増陸軍飛行場秘話11 〜或る少尉の記憶〜

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 夏も真っ盛りですが、夜耳をすますと虫の音が聞こえてきますね。季節は確実に進んでいるようです。


今日は終戦記念日。69年前の1945年、枢軸国によるポツダム宣言を無条件で受け入れ戦争を終結すると昭和天皇がラジオを通じ直接国民に伝えた日ですね。

終戦当日の成増陸軍飛行場の様子については何度か当ブログで記事にしたかと思いますが、今回も元戦隊員による回想をお届けします。
戦後まもなく、成増飛行場を根拠飛行場としていた飛行第47戦隊を中心とした人々と関係者により戦友会「成増会」が結成されましたが、長らく会長を務めておられた刈谷正意氏の逝去をもって規模を縮小し、その後、有志のみで続けられていた靖国神社昇殿参拝も一昨年が最後となってしまいました。刈谷氏が中心となって進めていた飛行第47戦隊史も未刊に終わっています。
実は、戦隊史は未刊に終わりましたが、原稿や資料は未刊と決定されるまでは収集が続けられていて、元の隊員による手記もいくつか残っており、その中の一つというわけです。


特操一期・富士隊 野村敬一少尉の回想。(文章中、原文より加筆一部省略箇所あり)

『昭和十九年八月下旬、フィリピン・ネグロス島の第三十二教育隊で九七式戦闘機を約十時間習ったままで、同期の一楽見習士官と共に、成増転属となりました。他の戦友達も後に散り散りに転出した様ですが、その時は東京転出を大いに羨まれました。黄の色眼鏡などを戦友に渡し、クラーク経由で九七式重爆に便乗、台北に寄った時は飯盒一杯の黄双(砂糖)を分けて貰い有り難かった。

石神井側の正門から成増に着くと(富士隊所属後はピストの裏から富士見台駅へ)先着の連中は訓練を始めており、補習班小屋内壁の場周諸元表が真夏に眩しく光り、フィリピン組は遅いじゃないか、との文句を浴びました。溝上大尉(副戦隊長)指導で、補助滑走路にて珍しい一式戦(隼)一型(二枚ペラ・環状クーラー)にて東から西に向けて地上滑走です。何人か目が私の番でした。百メートル位の先をニ単(鍾馗)が浮揚するのが視界に入りましたので慌てて左を踏み込んだところ、百度くらい回って脚が折れ訓練はオジャン、何か処分でもされるのかと戦隊長の処へ詫びに伺ったら、もっと思い切ってブチ当たる位にやって見よと逆に激賞されました

数日後補習班の一部は、柏の一戦隊に預けられ、広々した所で気楽に一式戦二型を習いました。一戦隊は九州に移動し、我々は再び成増に戻りました。新宿伊勢丹にあった酒保(将校専用販売所)で平服を求めましたが十月一日の任官申告には借り物の普通長靴でした。「ヨシ」の一言のみ。

その十月一日午後はさっそく一式戦の場周訓練です。滑走中座席内は滑油の焼けた白煙で充満し、煙りの多さにイヤな予感がしましたが、其のまま北向きに離陸しました。前の搭乗者が何故申し継ぎが無かったか、と不信でした。高度百五十メートルくらいになったとき、何かペラペラと飛散し、操縦桿を持っていられない位、前後左右にギコギコする振動が起きました。早めに左に旋回しましたが、照準器の傍の、晴れた空間に「シッカリシイヤ」の声とともに、おっ母の顔が浮かんだようで、原因も対策も浮かばないし、飛行場へ戻るのも時間が費かりそうで、不時着を決意しました。

たぶん大泉地区の上らしく人家には降りられませんので、懸命に青緑りの大きめの所を探して一目散。スイッチを切ると、振動はおさまりプロペラの風切り音のみが「速度・速度」と聞こえました。途中の高圧線をどう躱したかまるで覚えがありません、気がついたら畑の上に乗っていました。小鼻を撲ったらしく、立ち上がるとポタポタと血が滴り落ちていましたので、機体の傍で横臥じっとしていました。暫くすると乗馬姿の軍医さんが来て、傷口に絆創膏を貼る応急処置をして近くの陸軍病院へ収容されました。

病院にいる間に一寸先輩の渡辺少尉が殉職され、遺体と片腕とが別々に届きました。奥田戦隊長も態々ベッドまで見舞いを戴き「貴公は陸士か」とのお言葉に感激しました。
長い病院暮らしでも、なかなか「もうよいぞ」との声が掛かりませんでしたので、昭和二十年二月頃帰隊しました。後は専らピストでの目習いと旗振りです。温和な吉沢中尉も心配げにピストで並んで下さいました。

戦隊が泉佐野(大坂、四月初め〜下旬)に出た留守中、原田曹長が「一つやってみませんか」と奨めてくれたのを潮に四式戦(疾風)を始めた次第です。九千メートル以上の高空体験もしましたが、機体の動きは緩く、且つ冬期は西風下に大きく流されるなどあまり物になりそうではありませんでした。
六月頃、館林の四式振武隊(九十九里浜特攻)に転出し、相模出の純真でアドケない少年飛行兵六人の班長になり、近所の旅館を寝城にしました。

八月十四日、高等練習機で館林から真南の成増飛行場へ送って貰って、四式戦の修理機を受領することになりました。
当時の成増では滑走路以外はペンペン草が背丈くらいで、ちょっと荒れた感じでした。南端の掩体壕内で、翼端を支えてくれている整備班には埃が掛かって気の毒でしたが、全開の試運転を行ないましたところ、フラップの出方が左右不揃いでしたので、修理を頼んで懐かしの将校宿舎に泊まりました。
翌十五日は朝方から何か雰囲気が落ち着かず、昼頃宿舎で詣勅のラジオを聞き、いまさら空輸でもあるまいと、飛行場大隊長に挨拶して、手ぶらで電車で夕方館林に帰隊しました。』


野村少尉は成増着任早々に訓練中の事故で入院し、そのため操縦習熟から遅れ、主力の空中勤務者と共にあまり実戦には参加出来ず、隊が九州へ移動した時も留守要員として成増に残され、後に特攻要員(第187振武隊副隊長)として館林へ転出となりました。そのことが原因かはわかりませんが、戦後50年を過ぎても肩身の狭い思いを持ち続け、戦隊会の誘いをもらっても気が重かったそうです。

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常盤台住民、驚く。〜空からP-51Dが降ってきた〜

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 お盆後半はあまり天気がよろしくありませんでしたね。湿度が高くてたまりません。。


どうも8月は戦争関連の話題を取り上げてしまいますね。テレビでも戦争番組が多いからかな。

戦時中、我が板橋区は、東に陸軍造兵廠を含む工場地帯、西に成増陸軍飛行場が存在したため、空襲の標的としてたびたび狙われた。
板橋区役所が発行する「板橋区平和祈年マップ」の板橋区空襲被害一覧によれば大東亜戦争中、区内への空襲は20回、うち戦闘機による成増飛行場単独攻撃は4回だった。
一番最初の空襲被害は、昭和17年4月18日、米空母・ホーネットから飛び立ったドゥーリトル隊のB-25よるものだった。被害が報告されたのは、我が赤塚郷の下赤塚町で、民家2棟の屋根に友軍の高射砲片が落下したことによる被害だった。この時期、日本軍の本土防衛網は非常にお粗末で、東京市内や近郊に展開する高射砲部隊は数えるほどだったようだ。この空襲がきっかけとなり、田柄地域には首都防空用の成増飛行場が建設され、その周辺地域に高射砲陣地、照空陣地や聴音機陣地、電波標定小隊などが置かれた。

それにしても、ドゥーリトル隊を狙って赤塚に落ちた高射砲片はどこから飛んできたのだろうか?謎だ。B-25のうち一機は、板橋区に隣接する第一造兵廠を目標にしていたとも言われるが、荒川区尾久町9丁目の住宅地に爆弾を投下し、多数の死傷者を出した。この機が西方向へ飛び、それを狙ったのであろうか。

板橋区内への空襲は、当初、B-29単独によるものだったが、昭和20年2月16〜17日にかけ、硫黄島上陸作戦に先立ち、関東周辺の航空基地を叩く目的で空母艦載機による空襲を受けた。硫黄島が陥落し、飛行場が整備された4月初旬より、硫黄島に展開した最新式のP-51D戦闘機部隊がB-29と戦爆連合を組み、東京空襲に参加してくるようになった。
4月12日午前、P-51を93機護衛に従えたB-29爆撃機114機の戦爆連合が、中島飛行機武蔵野製作所を目標に攻撃をしかけてきた。そのとき、一機のP-51が友軍機の攻撃により我が板橋区上空で撃墜され、常盤台(上板橋4丁目付近)に墜落した。この戦果は、翌日の新聞で喧伝された。当時の新聞記事が掲載の写真だ。マイクロフィルムからのコピーなので読み辛いが、こんな内容が書かれている。

「帝都に醜骸さらしたP51」

『敵が戦爆連合をもつてする二回目の本格的空襲に又してもわが空地制空部隊は正確果敢なる迎襲を行ひ敵のほこるP51戦闘機の一機は東京都板橋区常盤台の麦畑の中にその醜態をさらした。すでに原型を止めぬまで破壊飛散した胴体は斜めになつて土中深くめり込んでいる。若い搭乗員の手には拳銃が握られ機銃弾もかなり多数残つているのもわが制空部隊の機先を制した猛攻ぶりがうかがはれる。目撃者の一人板橋警防団の栗木第四分団長は語る。「十一時二十分頃二十機位の編隊が上空で友軍と空中戦をやつていると見る間に急降下するやうな音が聞え約一千メートル位の上空から垂直に落ちてしまつたが日頃来の鬱憤が一時に晴れた気持でした。裏畑の中で被害が皆無であつたことはなによりだつた』

撃墜されたP-51戦闘機は、硫黄島を根拠飛行場とした第15戦闘機群78中隊所属機で、パイロットはゴードン・A・クリストーイ中尉だった。終戦後、米軍は真っ先に捕虜となった連合軍兵の救出を行ない、進駐後ただちに撃墜された自軍機の詳細な調査を開始し、米パイロット殺害に加わった日本人を捜し出して東京裁判のB・C級戦犯として断罪し処刑した。常盤台に墜落したP-51についても詳細な調査がなされ、状況を聞かれ取り調べを受けた人々は、さぞや生きた心地がしなかっただろうと思う。


板橋区には成増飛行場があったので、事故や故障でよく飛行機が墜落や不時着していたが、敵機が落ちたのはこの例だけのようだ。B-29は2機、池袋周辺に落ちている。尚、この新聞記事の出た4月13日夜、城北地区に大規模な空襲が行なわれ、板橋区内は戦時中最大の被害を被っている。


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赤塚郷民、(少し)反省する。

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 涼しい。。

北海道から帰っていらい、リハビリのため近くの温泉に通っている。おかげでだいぶ調子が良くなったようだ。
私が好きな温泉は、筆頭として新座の先にある埼玉スポーツセンター(埼スポ)だが、たまに板橋スパディオやさやの湯に行くこともある。さやの湯は、都内の温泉ランキングで常に上位に入る人気で、汲み上げた源泉を加水や加温せずにかけ流ししている点と、落ち着いた日本庭園や入場料のコスパの良さで、人気があるのも納得出来る。ただし、人気ゆえ基本的に混雑しているのが難だ。源泉が流れ込む最初の湯船が狭く10人も入ると目一杯である。ある時、子供がはしゃいでビチャビチャと水を跳ね上げながら走り回っているところに遭遇し、その水が顔にかかってまったり気分を台無しにされたことがあり、以来、足が進まなくなった。
その点スパディオは入場料の高さ故か適度に空いていて良いのだが、老舗ゆえのアクティビティの少なさがネックだ。思い切って全面改装すればいいのに、と勝手ながらに思う。赤塚新町のお風呂の王様も、温泉ではないのと常に混んでいるのであまり行くことはない。

で、この間、我がポストに和光市の極楽湯のチラシが入っていた。ここへ最後に行ったのは7〜8年前で、なんだか汚れていたイメージがあって、それ以来足が向かなかった。チラシを見て、久しぶりに行ってみようと思い、笹目通り沿いの板橋区と練馬区の境目あたりにある極楽湯へ出向いた。すると、お湯が真っ黒じゃないか!!黒湯は東京近辺が有名で全国的にはめずらしい泉質だ。ただ、浅草や蒲田方面に集中していて、板橋区民としては行き辛い場所にある。すっかり忘れていたが、汚いとは黒湯の印象のせいであり、施設が汚かったわけではないのだ。お湯は手を入れると6センチくらいで指先が見えなくなるくらい黒い。湯温は私の好きな38度(夏場)、すっかり寛ぐことができた。湯上がりに、体を冷ますためかき氷を食べるのだが、ここのかき氷はフワフワかき氷でまことに好みだった。これからは埼スポとともに贔屓の温泉になりそうだ。


‥温泉話が長くなった。
当ブログも、おかげさまで開設以来6年が経過した。基本的に、板橋区に関するあれこれを独断により書き進むというコンセプトで始めたが、取り上げるテーマがだいぶ偏っていることは認識している。地域的には生まれ育った赤塚郷の話題が多い。言い訳をさせていただければ、板橋町方面や熊野町、向原などは自分的に馴染みが薄く、話題の切り口を見つける感度が鈍いのだ。向原なんて、今年春に初めて歩いたくらいなのだ。

前にも書いたが、グルメ的な話題も、とくに現在の事情などはまず私自身が”食べ歩きをする”といった習慣がないのでアンテナが低く、本屋に並ぶ食べ歩き板橋区特集なんかも、ふ〜んと言った感じで眺めるくらいだ。それと、ネット上には個人ブログで板橋グルメ巡りを主催されている方が何人もおられるので、その方々に頑張っていただければ、なんて思ってしまう。さすがに52万人もの人口があると、板橋区に関するブログなどを書いておられる方達もたくさんいて、私も時々楽しませていただいている。なかでも「東京ダウンタウンストリート1980's 」http://blog.goo.ne.jp/kenmatsu_fsさんのブログは、ご自身の撮影された1970年代から80年代にかけての写真が惜しみなく使われ、参考になることが多い。

著者の方の名前やニックネームがわからないので、仮に1980年さんとお呼びするが、取り上げる話題は板橋区だけではないけれど、板橋町で育ち、現在も住まわれているようなので、写真や話題は板橋界隈に関することが多い。この点では私と似ている。違うのは、私が写真や資料を題材に描くのに対し、街歩きを基本とした視点でお書きになっているところだ。文章も手抜きをせず、説明文も私のように写真から読み取れとか自分で調べろ的な書き方をせず、きちんと書き起こしておられる。

こうした1980年さんのようなブログやサイトが増えてくるのはうれしい。巷には、貴重な(地域にとって)品々を集めておられたり、研究をされている方がたくさんおられるので、ネット上で情報公開をしていただくのはありがたいことだ。
そこで、日頃楽しませてもらっていることに敬意を表し、1980年さんや板橋町の方々が喜ぶような基本情報を提供させていただく。

今年になって、「大日本職業別明細図・板橋区」という地図を手に入れた。大正時代から出版が始まった全国版の地図で、板橋区版が発行されたのは1935年(昭和10年)2月だ。商店街や名士の家が載った、いわば住宅地図のはしり(江戸時代には武家屋敷割が描かれた絵地図があるけど)みたいなものである。1987年に柏書房から復刻版が出ているが、5万円以上もする高価な本だ。(そのかわり、東京市全域と周辺町村の地図が入っている)公開している図書館も近くにはないし、コピーするのも大変だ。ましてブログなんかでは使えないし、オリジナルを手に入れるのが一番なのだ。長年探し続け、大枚をはたいて購入したが、開いてみると我が赤塚郷に関する情報が少なく、がっかりして資料庫に押し込んでいた。もともと、この地図は裏面の広告収入が目的なようで、農村地帯なんかはあまり相手にしていなかったようである。
そのかわり、市街である板橋町方面の情報は多く、こちら方面を調べている方には有益な情報も多いと思う。

今回掲載の写真は、この大日本職業別明細図・板橋区の板橋町の一部分と、1980年さんがブログで幼い頃の記憶をもとに再現されていた昭和40年代初期の都立北園高校界隈の住宅地図だ。


で、この地図に対する考察は‥? それは、私より想い出や知識や切り口を持っている方々にお願いすることにしよう。といういつもの手抜きですみません。。(全然反省してないじゃないか!)

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