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2014年6月

☆祝!東武東上線開業100周年☆〜お宝公開Vol.9〜

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  ‥暑い。。いや熱い。。

 6月に入りました。実は、先週半ばに今回のVol.9記事を書いたのですが、ようやく書き上げ公開のボタンをクリックしたとたんにエラー表示。戻るボタンを押してもエラー。その瞬間、数時間かけて書いた内容が全てパーになったことを悟り、ショックのあまり日数が経っていました。。

とういことでようやく立ち直り、記憶を取り戻しながら失われた記事の再現をします。。


お宝披露も第9回ということで、そろそろネタ切れ気味、ここらで内容をうす〜く伸ばして・・なんて手抜きはせずにいきましょう。今回は、東上線の各駅で月初めに配られる「ゆぁ東上」についてお送りします。

東上線利用者のミナサンなら、当然手にしたことがありますよね?東上業務部が責任発行している「ゆぁ東上」。そのルーツについては、以外に、というかまったく知られていないと思う。名だたる鉄道誌や東武鉄道の社史や年表にすら載ったことがない。沿線案内の一つであるのになんででしょうねえ?

まあそれも仕方がないのかもしれないけど、収集品としては、なかなか手に入らない物の一つだとは思う。基本的に、読んで用済みになったら捨てちゃうモノですからね。その点新聞と同じだけれど、歴史的事件や事故が載る訳でもなし、ただのチラシ扱いですか。私も偶然手に入ったようなケースが多いですね。サンプルが少ないので統計的に検証するのが難しくもあります。世の中にはマニアックな人もいるので、コンプリート収集されている方がおられるかもしれません。

所持している品で、一番古いのは昭和12年10月1日発行で、タイトルは「東上線ニュース」となっています。第5号とあるので、第1号は6月発行かな。最初はB4くらいの版で見開き4ページ、内容はほとんどが沿線ハイキングコースの紹介です。昭和14年にA3くらいの大きさに版型が変わりまが、内容は変わりませんね。大東亜戦争前後期のモノは収集がないので、いつまで続いていたのかはわかりません。

戦後になると、昭和24年7月1日発行のモノが第5号とあるので、この年の3月から再開されたのでしょうか。名称も「東上線ガイド」に変わっています。大きさはA3くらいで、それ以前と同じサイズです。
実は、これ以降昭和30年代、40年代、50年代のモノは未収なので、どういう経過で「ゆぁ東上」に変化して行ったのかはわかりません。以外に思われるかもしれませんが、切符の方がまだ集めやすいくらいで、ホント収集家泣かせなしろものです。。

さて、どうして「東上線ニュース」が誕生したのか‥この辺は権威ある学者とか研究家の考証がないので、勝手に想像するしかありません。そこで、このお宝公開シリーズで登場した沿線案内を思い出していただきたいのですが、初期の頃は、沿線図がドンと描かれているだけで、解説文はなかったですね。描かれているポイントも、狩猟地や神社仏閣が多かったようです。昭和初期になって、ようやくハイキングのポイントが載った沿線案内が出てきました。

この頃、アメリカ発の世界恐慌が発生し、日本にも影響が及びました。鉄道会社も、旅客や貨物の扱いが減り、なんとかしなきゃならん、と沿線の観光地や住宅地の開発に力を入れ始めました。沿線案内も情報量が多くなり、ポイント情報の他に、描き方として紀行文的な記事を必要とするようになりました。そこで、冊子よりも経費の安く済む、タブロイド新聞のような体裁の情報誌が生まれてきたのではないでしょうか。これならば広告もより多く載せることが出来ますしね。

もう一つ、昭和13年という年も大きなポイントかもしれません。昭和9年、日本は日中戦争に踏み切りました。事態は膠着し、戦線は拡大してゆきます。そして、昭和13年4月、国家総動員法が発令されます。総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したものです。そんな中、国家のため、国民の健康を増進しよう!という気運が高まってきました。国の政策ではないけれど、セミプロ?の国民が国に媚を売って運動を起こした、みたいな感じですかね。
そんな気運に鉄道会社も乗っかり、体力向上健康増進にはハイキングを!のスローガンの元、生まれてきたのが「東上線ニュース」なのかもしれません。


‥ああ、猛烈に熱い部屋で記事を書いていたら、ボーっとしてきましたので話題を変えますが、「東上線ニュース」の時代、我が赤塚郷は池袋から一番近いハイキングの場として紹介されていました。その一例を画像でUPしておきました。
コースは、東武練馬駅で下車し、現在の徳丸通りを北へ。川越街道から続く松月院通りはまだ西台へは通っておらず、現在の徳丸駐在所あたりで行き止まり。おそらくは大坂を下り徳丸原へ。開削されたばかりの新河岸川や荒川まで出たら現在の新高島平駅近くにあった”弁天塚”へ。そのまま南方向へ今の新大宮バイパスあたりにあったであろう道を諏訪神社へ、大きくカーブしてる部分は新大宮バイパス沿いにある諏訪神社の飛び地で、乳房榎のような古木(ストリートビューで確認すると解説板が立っている)のある場所かな。そこを通り過ぎ、松月院通りを渡り赤塚中央通りをまっすぐ下赤塚駅へと向かう。

それにしても、本文が面白いですね。「‥東武練馬駅で下車すると一面大根畑と芋畑だ。これでも東京市の一部かと一驚する。」だの、「‥大根畑と芋畑の路を十五丁計り歩くと徳丸原に至る。我国最初の洋式操練を行なったと云ふ場所である。戦時当制にある今、往時の鉄砲を操つた兵士の姿を偲ぶも意義があろふ。」などと当節の時代を反映している。

それと、今では紹介されることもなく、忘れ去られた感があるけれど「痔佛宅蔵尊・じぼとけたくぞーそん」がお勧めスポットとしてプッシュされている。これは松月院通りのココス近くに建設中のJA板橋の裏にある「四葉観音堂」に今でも祀られている。効能はその名のとおり”痔”に霊験あらたかなお地蔵様で、遠く飛騨や甲斐、信州や会津から詣でる人が多いとありますね。たしか、江戸時代から有名だったと思います。この近辺には小さなクリニックの集まったモールがありますが、痔の専門医院とかつくれば流行るかもしれませんね。。


‥てなことで次回、第10回はどんなネタでいきますか、う〜ん取りあえずビールでも飲むか。。

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板橋区民のお伊勢参り。車中泊で。

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 ‥板橋区の雨は止みましたか?

あっしは朝も早よから600キロも愛車・赤塚号を運転して、はるばる三重県松坂市、といっても海の方角ではなく内陸部にある道の駅「飯高駅」の駐車場に場所を借りております。(地酒車内飲みしながら書いているので多少文章がへんなのはお許しを)

実は、赤塚号が納車されてからずっと心に引っかかっていたことがありまして、それは車の安全祈願のお祓いをしていただくこと、で、板橋区内の神社に、と思っていたけれど、どうせなら神社の親玉(失礼!)である伊勢神宮の近くにある猿田彦神社で是非にもお祓いを受けたいと願い、こうして遠路やってきたわけであります。

道中、事故渋滞に巻き込まれましたが赤塚号を無事、猿田彦神社まで運転し、本殿昇殿参拝の後、神主様によりお祓いを受けました。ほっ安心。(安全運転しなきゃ意味ないじゃん!)


てなことで、そちら方面のっことはアメーバブログ「赤塚号が(で)行く!」にてUPしてありますので、ご笑覧くださいませ。。

http://ameblo.jp/ezzgewehr/entry-11873226600.html


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☆祝!東武東上線開業100周年☆〜お宝公開Vol.10〜

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 すっかり梅雨ですね。。晴れたら暑いし雨降ったらジメジメ。。

お宝公開も第10回目を迎えました。今回は戦後の普通乗車券を紹介していきましょう。


終戦直後の混乱がようやく収まり、朝鮮戦争が始まった昭和24年頃から切符の品質も落ち着いてきたようです。(右から)一枚目のシートは、昭和20年代から30年代にかけてのもので、まだなんとなく戦前の様式を残していますね。よく見ると、昭和25年頃から”〜より〜ゆき”の表示が”〜から〜ゆき”へと変化しています。初乗りも5円から10円に値段が上がっています。

二枚目のシートは昭和30年から数年間のもので、両矢印式というやつですね。説明書きが多いですがなかなか味のある切符です。そのせいでしょうか、昭和32年頃には説明書きの省かれたシンプルな切符が登場します。しかし、それではやはり説明不足だったのか、数年後には発行駅を真ん中に印刷した両矢印式の切符が発行されます。(三枚目のシート)

と、まあ切符も集めてみればこうした変化が楽しめますね。切符の収集も、一般の人から見れば「こんなゴミ集めてどうすんだ?」となかなか理解されません。しかも、入手するには”金で買う”という手段しかありません。しかも、一枚数百円から数千円もしますので、(中には万円近くなる切符もある)ますますあきれられてしまいます。。あっしからすれば、アイドルの投票権を買って大騒ぎする人達を理解出来ないですから、人の趣味は放っておきましょうね。


平成7年、板橋区立郷土資料館で東上線を特集した特別展が行われました。私も展示に協力し、コレクションを貸出ししました。切符類は、一度に展示ケースに並べて展示されました。さて、ゴミといわれた切符のコレクションは、はたして見学者の目にどう映るのか、興味津々で、展示ケースの傍に立ち、観察していました。
暫くすると、ある老夫婦がやってきました。旦那さんの方は興味無さげにコレクションを一瞥しただけで展示ケースから離れようとしました。その時です、ご婦人が「あら、この切符、私たちが初めてこの町に来た時のものじゃない?」離れようとした旦那さんが戻ってきます。「ああ、ほんとだ。こんな切符だったんだねえ‥」とそれからしばらく、結婚して新しく引っ越してきたのであろう頃の話をひとしきりしておりました。
そのとき、私は目から鱗が落ちた思いがしました。「そうか、そんな見方もあるのか。。」乗車時に購入し、降車時に手元を離れ、捨てられてしまう切符には”時が凝固される”そんな作用があるんだろう。「切符を収集していて良かった。」と改めておもった瞬間でもありました。。

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板橋区民、地場野菜で涙する。

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 梅雨も、一休みですかね。。

今週初め、松月院通りを通行中、コメダ珈琲の近くに新しくできたJA東京あおば赤塚支店の前に人だかりが出来ていた。ああ、そう言えば新店舗がオープンするってチラシが入っていたな‥と思い出し、露天が出ていたので覗いてみた。

そこにはトマトや人参や蕪とともに大根が並べられていた。一つは普通の青首大根で、もう一種類、細いタイプの大根が売られていた。袋には「志村みの早生大根」のシールが貼られている。
”志村みの早生大根”!これはめずらしい。実は、板橋区内の地域の名前を冠する地場野菜は非常に少ない。かつて上板橋地域では大根の栽培が盛んであったが、それは戦前までのことであり、植えられていたのも「練馬大根」がほとんどだった。

では、どういう経緯で「志村みの早生大根」が復活したのであろうか‥それはこんな事情があったようだ。

そもそもこの取り組みは、2010年2月頃、板橋第九小学校の栄養職員をはじめ数人の方々の「地元の伝統野菜を給食て使いたい」という思いから始まった。その話しがJA東京あおばに伝わり、農業生物資源研究所(ジーンバンク)に「志村みの早生ダイコン、別称・清水夏大根」が、あることを突き止め、2010年暮れに播種を行なった。

無事成長した大根から新たな種を採取し、板橋の組合員の畑で本格的に栽培される事になった。
志村みの早生大根は、江戸時代には「べったら漬」や「そばの薬味」として使われていて、江戸市民には馴染み深い野菜だった。病気に弱く栽培が難しかったので、交配種の青首ダイコンが開発されると、昭和40年には生産量は激減、昭和の終わり頃には栽培されなくなってしまった。復活以来、いまでは10軒の農家が栽培している。


購入した大根をさっそくおろして、しらすで和えて食べてみた。

ゔっ、、、、かっ辛いっっっっ!!!

青首大根という水分が多く、甘くて生ぬるい大根に慣れ切ってしまった舌が悲鳴をあげた。ニガイ!口がイタイ!‥目からは涙、鼻水がとめどなく流れてくる。。これだ、これが大根だったのだ・・と思い出した。
同時に、この大根の栽培が衰退した理由がよくわかった。しかし、甘い大根が主流の現在、この辛さは新鮮だ。翌日、蕎麦つゆにこの辛味大根を入れ蕎麦を食すと、とても美味しかった。甘い大根は蕎麦つゆには合わないですね。江戸時代の庶民は、その辺よくわかっていたようだ。


新規オープンしたJA東京あおば赤塚支店内には販売所があり、練馬大根を使ったドレッシングや、練馬産麦芽で作った地ビールなどが売られていた。恐らく、これからも「志村みの早生大根」など地場野菜も入荷があれば販売されるのだろう。楽しみだ。(写真を撮る前にうっかり葉っぱを切り落としてしまい、なんだかマズそうな写りになってしまいました。。)

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イタバシクミンカクタタカヘリ。〜かふして古民家は残つた〜

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 梅雨らしい天気模様になってきましたね。。

 

 

今から69年前の6月23日(20日とも22日とも言われるが)は、大東亜戦争中、沖縄での地上戦が、沖縄守備軍最高指揮官の第32軍司令官・牛島満陸軍中将の自決により終了した日である。(正確には組織的戦闘が終了した日。)

 

かねてから、戦争がおこると板橋区に本籍を置く人々が、兵士となってどこの戦場に赴くのか気になっていたが、いまだによくわからない。軍隊に入るとは、大まかに分ければ、志願して軍の学校に入り職業軍人となるか、徴兵検査を受けた後、いわゆる”赤紙”にて招集されるかのどちらかだ。
軍の学校(士官学校など)を卒業した場合、”将兵”として赴く戦場は全地域にわたるが、招集された”兵隊”は板橋区の場合、まず麻布の連隊に配属(違ってるかも)されたらしい。そこで兵隊の訓練を受け、戦場に送られるのだ。

 

さて、我が故郷・赤塚郷の徳丸に、蕎麦いなりで有名な蕎麦屋・爽風庵 槙がある。隣に大きな茅葺き屋敷があり、その敷地内に建てられている。昭和43年に、屋敷の主である粕谷さんが始めた店だ。母屋は平成15年(2003)12月に「粕谷尹久子家住宅」として区有形文化財に指定され、平成19年(2007)3月、板橋区に寄贈された。

 

板橋区において、志村近辺の工業地と違い、昭和の後半まで準農村地帯であった赤塚郷でさえ、現存する茅葺きの家はたった2棟(ひとつは郷土資料館へ移築)しか残っておらず、このことからも、オリジナルの場所に存在し続けることがいかに大変であるかが伺える。
「粕谷尹久子家住宅」が、何故、現代まで残り得たのか‥それは、あまり知られてはいない。今回はその物語を書いてみたいと思う。

 

 

粕谷正三は、大正8年8月、江戸時代に徳丸村の名主を務めていた粕谷家に、父・直右衛門と母・なみの次男として生まれた。
正三さんは大変優秀な人物で、紅梅小学校在学中に転校し、開成中学を学年トップで卒業して一高から東京帝国大学法学部政治学科に入学(中曽根康弘元総理の1年後輩)した。在学中に高等文官試験に合格し、台湾総督府に任ぜられるが、その直後の昭和17年9月29日に海軍主計見習尉官に採用され、海軍経理学校に入学した。

 

昭和18年1月、経理学校を卒業した正三さんは海軍主計中尉に任ぜられ、巡洋艦・阿賀野乗組みを命ぜられた。阿賀野は昭和17年10月に竣工し、第10戦隊(水雷戦隊)の旗艦となった。18年11月のブーゲンビル島沖海戦に参加した直後、12日朝に米軍潜水艦の魚雷が命中し、その時の爆発により重傷を負い内地送還となり呉海軍病院で入院・療養した。

 

昭和19年2月、傷の癒えた正三さんは、鹿島海軍航空隊付きとなり海軍主計大尉に任ぜられた。同年10月、南西諸島海軍航空隊分隊長に補せられ、宮古島基地(宮古島にいた記録が残っていないが、周辺の資料により断定)に赴任した。
そして、昭和20年1月。粕谷正三大尉は、南西諸島海軍航空隊本部副官(航空参謀・棚町整大佐の副官)として、米軍が目前に迫る沖縄本島へ移動する。

 

沖縄本島の南西諸島海軍航空隊本部は、通称「巌部隊」と呼ばれ、本島南西部にある小禄(おろく)海軍飛行場を根拠基地としていた。ちなみに、小禄飛行場は現在の那覇空港であり、当時の位置としては現在、自衛隊の使用している部分にあたる。
米軍の空襲はすでに前年の10月から始まっており、正三さんはその合間を縫って小禄の寿山に構築された巌部隊司令部本部壕に赴任した。このとき、一帯に設けられた巌部隊の壕には、約3500名の兵員がいた。

 

3月23日、米軍は54万の大軍と1500隻の艦船で沖縄本島を包囲し、26日から猛烈な艦砲射撃を開始した。4月1日、米軍は本島中部の読谷、北谷海岸から上陸を始めた。5月末までに那覇市内、そして首里を占領した。
6月4日、とうとう米海兵隊は小禄飛行場の西側の鏡水から戦車部隊を擁し上陸してきた。激戦は続いたが、巌部隊はじりじりと追いつめられていった。6日、事態は悪化し、海軍司令官であった太田実少将が海軍次官宛てに、あの有名な電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」を発信した。

 

6月11日、米軍は海軍の根拠地壕、並びに正三さんのいる巌部隊司令部壕に迫ってきた。その日の夜、太田司令官は沖縄守備軍最高指揮官・牛島満陸軍中将宛に「敵戦車群ハ我司令部洞窟を攻撃中ナリ。根拠地隊ハ今2230玉砕ス。従前ノ厚誼ヲ謝シ、貴軍ノ健闘ヲ祈ル」と発信し、13日午前1時に司令部壕内にて部下6名と共に自決した。
司令官自決を知った粕谷正三大尉は、翌14日夜半、最後まで残った主計科および各科の生き残りの兵30数名を率いて壕を出、小禄雙ヶ丘に展開する米軍に斬り込んだ。数度の攻撃をくり返した後、とうとう負傷者ばかりとなってしまう。粕谷大尉は、もはやこれまでと全員を集め車座となり、自ずから対戦車地雷の信管を叩き、散華した。行年、25歳だった。

 

 

‥生存者も少なく、混乱の極みにあった巌部隊の戦闘の様子や、幹部とはいえ一将校の最後が、なぜ伝わったのだろうか、それはこうした後日談があったからだ。

 

戦争も終わり、世の中が落ち着いてきた昭和24年6月14日のこと、ひとりの元海軍将兵が徳丸の粕谷家を訪れた。粕谷家では戦争が終わっても戻らない正三さんの消息を探し、昭和21年春に旧海軍省に出かけた。そして、そこで初めて粕谷正三主計少佐(死亡後昇進)が沖縄本島で戦死していたことがわかったのである。優秀で自慢の家族を失い、悲しみの縁にいた粕谷家は、その年の11月、ようやく正三さんの葬儀を済ませた。

 

‥粕谷家を訪れたのは、かつて巌部隊で正三さんと戦友であった金子軍医大尉だった。

 

太田司令官自決の後、総員斬り込み突撃の命令が出されたが、金子軍医大尉は、衛生兵3名を率いて壕内に残り、身動き出来ない重傷者や、負傷して戻ってくる兵士の治療にあたれと上官から言い渡され、壕に留まり終戦まで生き延びた。粕谷大尉とは旧知の間柄で、戦後数年して、徳丸の実家まで正三さんの最後の様子を知らせようとやってきたのだった。

 

この金子軍医大尉の沖縄戦における巌部隊の話は、金子大尉の手記を元に、新潮社の「新潮 昭和28年3月号」に「ある手記から」と題され、田宮虎彦名義で掲載された。その文章の一部を省略・抜粋し記してみる。

 

 

「‥はっきりした日附けはわからない。六月三日か四日、とにかく六月にはいったばかりの明け方であつた。私は炸裂する艦砲弾の轟音に眠りをやぶられた。(略)いよいよ来たー当然、来るものが来た、と私は考へていた。(略)壕の中が殺気だつていた。遠く近く、艦砲弾は、私たちの陣地に、雨のやうに降りかかつて来る。ニ・三時間、それはつづいた。やがて、その艦砲がぴたっとやんだと思ふと、今度は、轟々と潮騒のやうに押しよせて来る地響きが遠く聞こえて来た。
<来たぞぉっ、戦車だっ>その時、壕の中で、誰かが叫んだ。粕谷主計大尉の声だつたやうに思ふ。(略)七時近い頃であった。戦車は遠くで一斉にとまると、同時にその戦車砲がパッパッと火を噴きはじめた。(略)だが、それも日没前になると、火蓋をとじて、一斉にあとへひいていつた。その日が攻撃が終わった訳であつた。(略)しかし、その眠りも翌朝六時前から、私たちの陣地に落下してくる艦砲のダ、ダアーンと炸裂する響きでやぶられる。(略)戦車砲で、私たちの火器をうちつぶしてしまふと、戦車のかげからアメリカ兵が姿をみせた。私たちの方から小銃でうちかけると、アメリカ兵は戦車のうしろに、さっと、身をかくして、また戦車砲で応射をはじめた。そんなことをくりかへしているうち、私たちの陣地からは、真裸になつた兵隊が、三・四人で爆雷をかかへて壕から飛び出していつた。えつさ、えつさといふ決死のその掛声が、不気味に私の耳にも聞こえて来るやうになつた。(略)

 

(6月14日、総員切り込みの命令が下りる。)‥壕内で飯が炊かれた。握り飯が、斬り込みに行く兵隊たちにくばられた。最初に下士官以下五十名をひきつれた部隊長が、天皇陛下萬歳を叫びながら飛び出していつた。それから、つぎつぎに、三・四十人づつの下士官や兵隊たちが整備長以下の士官につれられて壕を出ていつた。そして、最後に、残った兵隊たちを、粕谷主計大尉がひきいて、切り込みに出た。
粕谷主計大尉は、南方作戦で火傷した左手を、壕の入口まで見送った私に、ニ三度ふつてみせて、「あとをたのむ」といふと、かすかに白い歯をみせて笑った。私が挙手の礼をかへすと、大尉は、そのままくるりと私に背をむけ、指揮刀(徳丸の実家から持ってきた家宝の備前長船)を合掌するやうにかかげ持つたかと思ふと、「天皇陛下萬歳」とひと声叫んで、壕の外の闇にのまれていつた。(略)

 

‥ある夜、私とならんで、花火のやうな照明弾をながめていた森野という主計兵が、私の耳に口をよせると、ささやきかけるやうな声で、「軍医中尉、聞こえるでせう」と、いひかけて来た。森野は、あの最後の切り込みの夜、粕谷主計大尉に引率されて出て行つた兵であつた。私は、その森野から、粕谷大尉たちが、幾度も斬りこみをくりかへしたあとで、生き残つたものたちばかりが真中に爆雷を囲んで車座になり、一緒に自決した話をきかされていた。森野はその時の傷跡を顎から頬にかけて残していた。私は部隊の士官のうち、兵科は違つたが粕谷大尉と親しくしていたので、その話を聞かされてから、森野に何となく親しみおぼえるやうになつていた。(略)

 

(前段の、ささやきかけるやうな声で、「軍医中尉、聞こえるでせう」と、いひかけて来た。の文に続く)私は、それで、「何がー」と森野にききかへした。すると、森野は「聞えるじやないか、軍歌がー」といつた。私は、何となくはつとして、森野の顔をみた。すると、その眼が、異常な喜びにかがやいているやうに、ぎらぎらと光っていた。森野は、それから、突然、両手を萬歳するやうにひろげると、「援軍だ、援軍がきたぞ」とふりしぼるやうな声をあげた。私たちは、思はず、森野の上にをりかさなつて、その口をふさいでいた。
その時になつて、森野は、はつと我にかへつたやうであつた。そして、悪戯をみつけられた子供のやうに、悲しげな笑ひを頬にうかべた。そして、一人だけ、壕の中へ帰つていつた。
私たちが、明け方、壕にはいつてみると、森野は手榴弾で自決していた。手榴弾を胸に抱いたらしく、咽喉から肩にかけて、えぐりとられたやうに肉がとびちつていた。(以下略)」

 

粕谷正三大尉は、巡洋艦・阿賀野勤務時、ブーゲンビル島沖海戦にて負傷し、呉の海軍病院に入院していた。怪我がある程度癒えた昭和19年1月、懐かしの徳丸に1ヶ月ほど帰京し、療養した。その折、ふと家族にこんな言葉を漏らしていた。「俺は死んでも靖国神社には行かぬ。この家の棟に留まって皆を守るよ‥」

 

粕谷家住宅が有形文化財に指定され、敷地ともども板橋区に寄贈されてから、毎年秋、文化の日前後に粕谷家住宅は公開されている。その屋敷内の書斎の机に、正三さんの妹である尹久子さんが書いた粕谷家住宅の紹介文が置かれている。そこには沖縄に散った兄の思いを忘れないために、この家を後世まで残す。と記されている。

 

 

こうして、板橋区内最古の茅葺き屋敷は、いまも徳丸の地に生き続けているのであった。

 

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板橋区民、北へ。

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赤塚郷は相変わらず梅雨って感じですか?


‥なんて挑戦的な書き込みで始まりましたが、板橋区民は現在、新潟湾のフェリー乗り場にいます。
これから、新日本海フェリーの「ゆうかり号」に我が愛車、スズキ・ハスラー「赤塚号」とともに乗り込み、一路、北へと向かいます。

さて、行き着く先はナホトカかウラジオストックか(画像に出てますケド)‥乞うご期待!!
(ライブな様子はアメーバの別ブログ、「赤塚号が(で)行く」にて配信しております。

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