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2014年5月

☆祝!東武東上線開業100周年☆〜静かなる開業日〜

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 もはや暑いっすね。でも吹き渡る風は涼しく、まさに風薫る5月ですなあ。


今日からちょうど100年前の大正3年5月1日、東上線が開業した。(池袋〜田面沢間33.5km・10駅)
100年目の記念日だから気の利いた話題でも書ければいいのだが、開業日の出来事に関しては把握出来ないでいる。その理由のひとつとして、明治天皇の后、昭憲皇太后が4月9日に崩御され、記念の開通式が半年先に延期されてしまったことがあげられる。最近も天皇皇后両陛下や安倍首相、オバマ大統領が昭憲皇太后百年祭が行なわれている明治神宮を訪れているニュースをやってましたね。だから、開業を確認出来るのは、せいぜい当時の新聞各紙に掲載された東上線開業広告によることくらいだ。

正式な記念の開通式は、大正3年10月17日に沿線の成増、志木、川越町駅等で行なわれ、各駅前では手踊りや神楽などの余興がおこなわれた。成増駅では花火も打ち上げられたという。
開通当初は、単線で蒸気機関車が客貨車混合車両を引き、上下2時間おきに1本、1日9本が運行されていた。池袋から田面沢まで1時間15分だった。

板橋区内で、大正時代の東上線の資料を求めるのは困難だ。写真はほんの数枚で、開業当時のものは見たことがない。成増駅ではわりと賑やかに行事が行われたようなので残っていても良さそうなものだけど、未だ発掘されていない。始発の池袋駅や終点の田面沢駅の絵はがきや写真が残っていないとは信じられないんですがねえ。

で、写真が無ければ他の物、というわけで冒頭の絵の紹介といきますね。

お題は「下板橋雪景」/1921年、描いたのは洋画家・児島善三郎(1893年2月13日 - 1962年3月22日)だ。集英社刊「現代日本の美術・12巻」から解説の一部を抜粋してみる。

 「一度上京したが、胸をわずらい郷里福岡に帰り、闘病生活5年の後に再度上京(1920年)し、板橋に居を定め、下板橋付近の田園風景を描く。

雪の原を軽便鉄道が小さく煙を吐きながら走ってゆく。前景には、灰色の空をうつした堀と、鉄道の通る土手。そこから奥に引き込み、その向かって右に広がる雪の原は、しっかり描けている。児島は私たちが絵の批評を乞うと、いつも地面がしっかり描かれているかどうかを特に注意した。この<下板橋雪景>の広がりは、この雪の下の地面がしっかり描けているからだと、改めて思う。‥」

まぁ、絵ですからね。鉄道博物館の学芸員氏に確認したけれど、開業時の東上鉄道は、池袋〜下板橋間は確かに軽便鉄道として免許申請されたのだが、開業当初から普通のレール規格で運行していたはず、なのだそうだ。手前に描かれている線路は、赤羽線(日本鉄道線)と思われるが板橋駅との間にこんなにカーヴを描く場所はないし、”堀”とされるのはデフォルメされた石神井川じゃないだろうか。絵画は最終的に画家の頭の中にある風景を描くので、必ずしも写実(表面的に)ではないのであまり信じちゃあいけないが、それでもよくぞ描いてくれました。と感謝します。

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☆祝!東武東上線開業100周年☆〜G.W.期間特別・お宝公開Vol.7〜

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 G.W.も最終日となりましたね。ギリギリまで遊び回る方、最終日をノンビリ過ごす方、いろいろと思いますが、あっしはヘソ曲がりですのでこの期間は静かにイオンで立ち読みして過ごしたりしてます。。

5月1日は我らが東上線の開業100周年記念日でしたが、池袋駅ではイベントやら他駅でも記念グッズの販売など行なわれたようですね。こんなこと書くのもアレですが、古い時代の物は収集してますが、リアルタイムなグッズはどうも収集欲が沸かず、ついついスルーしちゃいます。(‥あとで欲しくなったりするんですが)自分の残り時間を考えるとね、まあ他の誰かが集めりゃいいじゃんて思ったりなんて‥


てなことで、G.M.期間特別公開第二弾!東上線の古い乗車券の紹介を。

もともと乗車券類は、使用が終われば回収・廃棄される物なので、出回ることは少ない。それでも、たくさんの収集家がいてコレクションの対象となっている。一番人気は官鉄(院線とか省線とか国鉄とかJR系ね)の乗車券で、後は営団や私鉄線と続く。当然、路線別でも人気度は違います。
我が東上線は収集家の間では人気度が低いのですが、それはもともと出回るブツが少ない、ということで、収集には時間が掛かります。じっと網を張りながら根気よく待ち続けると、ごく稀に大量に入手する機会に恵まれることがある。それが、今回公開するブツです。

そのことを踏まえつつ、では紹介を。(画像左側の列から)

時代はすでに大東亜戦争に入ってます。でも、緒戦のいけいけ時代である昭和18年一杯までは、まだ戦時中の特別税が加算されていることくらいで、切符そのものに変化はありません。それが、19年に入ると切符のサイズがA券からB券へと小さくなって行きます。厚さも東武練馬ゆきのような半硬券や、画面ではわかりにくいですが、新河岸ゆきの切符などは、社紋も無くなり粗末な紙に印刷されてます。

左画像の真ん中の列から右の画像までは終戦前後期の切符で、これらのうち殆どが、伊勢丹デパートの古本市で偶然一度に入手出来たブツだ。おそらく個人収集家のコレクションが売りに出されていたのだろう、何冊かの収集アルバムに収められていた。もうね、見つけた瞬間はアドレナリンが噴出しましたよ。こんな機会なんてホント奇跡でしかない。他の収集家には悪いけど、こういうブツはバラバラではなく、一度に一ヶ所になくてはならないものだと思う。

収集の興奮から醒め、あらためてこれらの切符を眺めていると、この切符を使用した人々は、板橋区内から秋田や本庄や白河や鉢形や九重や倉敷や備中箕島など、恐らく疎開や食料の買い出しに方々へ出かけた苦難の歴史を読むことが出来る。
画像二枚目の右列下に、ひときわボロい切符がある。上板橋駅から池袋行きで、一見、回数券に見えるけど、これは終戦前後の極端に物資が不足していた頃の切符で、ペラペラの紙に印刷され、もうほんとゴミみたいなものだ。よくもまあこんなものが今まで残っていたと感心、というか感動する。


‥つくづく思うんですよ。これらのモノは、私が生まれるよりもずっと前からいろんな人の手を経て、偶然、私の手元に集まっている。あっしはこれらのモノを今の時代、たまたま預かっているだけに過ぎないのだと。。


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板橋区民、ありそでなかった記念絵はがきを発見する☆

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 連休も終わり世間では通常営業に戻りましたね。さて、週末はドライヴにでも行くかなあ。

今日、5月9日は我が赤塚郷の徳丸原(高島平)で、高島秋帆先生が西洋式の砲術を披露した日だ。1841年だからいまから‥173年前ですかね。

これは、当時の日本にとって大事件だった。明治維新はここから始まったと言っていい。(‥と思う。)板橋区域が、歴史の教科書に登場するのはこの件の他にはない。治承4年に源義経が源頼朝を追いかけて板橋を通過したとか、永禄4年に上杉謙信が北条氏追討のため赤塚大堂を焼き払って赤塚中央通り(鎌倉街道)を進軍していったとかなんて、板橋区史かよっぽどマニアックな歴史書の中にしか出て来ない。

板橋区教育委員会が徳丸原調練や高島秋帆のことを本格的に調査・研究を始めたのは、平成に入ってからだ。
近年、新しく発見された資料などいろいろ出てきたので、また何年か後には訂正や加筆したバージョンを纏めていただけたらなあ、と思う。例えば、徳丸原調練に参加した隊員の日記が残っており、銃士隊員を仲間内では「スコードル連中」と呼んでいたり、調練当日の天候が、今までの研究では雨が降ったりやんだりの悪天候とされていたのが、日記では”晴れ”となっていたり、なかなか興味深い。もっとも、5月9日は旧暦なので、現在の6月下旬頃にあたり、梅雨のまっただなかだったことから、たまたま演習の時だけ雨がやんでいたのかもしれない。


‥徳丸原調練から81年後の1922年(大正11年)12月6日、赤塚郷の萬吉山松月院敷地内に高島秋帆を顕彰する碑が、そして秋帆が演習の指揮をしたとされる、新高島平駅付近にあった”弁天塚”には遺蹟碑(現在は徳丸原公園に移設)が建立された。建てたのは「高島秋帆先生紀功碑建設発起人」という団体で、発起人のほとんどが秋山好古など陸軍軍人であった。
陸軍の大御所達が名を連ねていたため、大正10年10月に紀功碑の趣意書が作られてからたった3ヶ月で募金が集まった。その90%が軍関係からの寄付金だったのだ。

このころ、世界的には第一次世界大戦が終わったばかりで、軍縮を議論しようとの意見が盛り上がり、日本では予算を削減されることを嫌った軍部が、様々な運動を起こしていた。その一つとして、勝海舟が「高島秋帆は陸軍の祖である」と陸軍史に書き残したことに目をつけ、これを顕彰して世間にアピールしようと画策したことだった。この時期を同一として、徳丸原や故郷長崎に残っていた高島秋帆別荘(原爆により倒壊)も国の史跡に認定された。

大正11年12月6日、松月院境内にて華々しく竣工式が行われた。記録によれば、「‥天気晴朗なるも寒気凛烈たり、朝来発起人場内に参集し時の来るを待つ(中略)通路の両側には赤塚村内両小学校(紅梅・赤塚小学校)貳千の児童は手に手に小国旗を翻し万歳声裡に来賓を迎ふ状快言はん方なし‥」
式典当日には秋帆先生遺品展も開かれ、遺族である石山家が保管していた遺墨19点程が発起人達に譲渡されたようだ。

で、お題にある「ありそでなかった」モノだが、このほど、式典当日の日付が印刷された袋に入った絵はがきセットを入手した。恐らくは関係者に配られたものなのだろう。存在すると予測していたけど、今まで現物が紹介されたことはなかった。

絵はがきには竣工したばかりの紀功碑や、弁天塚の遺蹟碑が写っている。大砲を利用した紀功碑が建つ場所は、徳丸原調練の際、陣屋が建てられていた場所なのだそうだ。なかでも注目は、4枚目の調練図の隣に載る、秋帆先生の肖像画だ。これは長崎の画家、 川原慶賀が描いたもので(シーボルトの肖像画で有名)、松月院に残る絵はその模写作品である。実はオリジナルの肖像画は現在行方不明で、この絵はがきに写る肖像画は巻きシワが見られ、オリジナルの絵と思われるのだ。オリジナルの絵を写真で複写したものは、他に見たことがない。


それにしても、秋帆先生が演習時に指揮をした”弁天塚”が消失したことは、誠に惜しいことをしたと思う。当時、声を上げる人はいなかったんだろうか。もし残っているならば、「高島平発祥の地」なんてことで拠り所にでもなったろうになあ‥

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板橋区民、遅ればせながら会津へ行く。車中泊で。

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天気予報に騙された。

いま、猪苗代湖に近い「道の駅ばんだい」へ赤塚基地を移動して書き込みしてます。
朝方の天気予報では”暑い”くらいの予報だったのに、会津磐梯山地方は地元の人が「雪降るんでねが」と言うほど寒い。しかも冷たい小雨が降っていた。。


なんていきなり愚痴書いてますが、板橋区民は今年正月にスズキハスラー(命名;赤塚号)という軽自動車を契約、なんと4月21日に納車されまして、ようやく念願であった車中泊しながら全国を回るという、新たなステージに進むことになりました。そこで、アメーバに旅の別バージョンとして「赤塚号が(で)行く!」と言うブログを立ち上げましたので、「板橋ハ晴天ナリ。」の更新が長く止まっている場合、ちょっと覗きに来てくださいネ!

  ↓      ↓      ↓       ↓
http://ameblo.jp/ezzgewehr/

*まだiPhoneからの更新の仕方がよくわからず、非常に見づらい状況ですがしばしお許しを‥

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板橋区民、母校で涙する。

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 ”初めての車中泊”お騒がせいたしました。まっ、カプセルホテルに泊まって旅行するのと変わらないんですがね。流行に乗った感がありお恥ずかしいことで‥


この間、仔細あって赤塚郷の徳丸本村にある我が母校を訪れた。

母校には、卒業してから20歳を過ぎて選挙の投票所に指定されていたので、中に入ったことはあった。でも、それは体育館だけで、教室のある棟に行くことはなかった。私が在学していたのは、もう40年!余りも前のことで、当然校舎は変わっている。が、一棟だけ、卒業の頃に落成した校舎が残っていた。当時は新築だけど現在はもっとも古い校舎となっている。

その新築だった古い校舎に、探したい物があった。

それは、新築のピカピカな廊下の壁に、落成記念か卒業制作だったのか記憶があいまいだけど、タイルの壁画を制作した記憶があり、それを卒業以来ぶりに確認したかったのだ。

ちょっと甘酸っぱいようなドキドキした気持ちで、記憶の底に残る場所へ行ってみた。‥すると、果たして壁画は‥あった。残っていた。しかもわりとキレイに。

当時、6年生のクラスは2クラスしかなく、1クラスの人数も30人台だったと記憶している。現在なら普通だけど、当時としては少ない人数だ。これは、東京オリンピックの年、昭和39年に徳丸3丁目に北野小学校が新設され、学区が分かれたために一時的に在校人数が減ってしまったからだ。

我が母校は徳丸本村の中心地にあり、それはまだ最後の農村風景を残す時代のことで、集合住宅などあまりなかった。だから、就学児童もジモピーばかりで、旧友の名前を思い出してみると、安井、粕谷、篠田、榎本、石田、石井、田中、田上、田口、加藤、中尾、小見戸、高麗‥etc なんだ、北野神社の田遊びで、もがり上にいる家じゃん、てな感じだった。

で、1クラス男女別に製作したから壁画は合計4枚あった。テーマはなんだろうな、空か海なのかなあ、我ら6年2組男子は海を題材にしたようで、掲出の写真が現物だ。恥ずかしながら板橋区民は作品中の”赤い蛸”を担当した。それは今でもハッキリ憶えている。当時、愛読していた板橋高校出身・永井豪先生の作風に影響されているのが見て取れる。当時、「ハレンチ学園」「学園番外地」「あばしり一家」「デビルマン」はリアルタイムで読んでいた。確か少年ジャンプは90円で、徳石公園の横にあったラーメン屋のラーメンと同じ値段だった。

面白い物で、現物を目にすると忘れ去っていた記憶や情景が次々に蘇ってくる。まさか、すっかりオジさんとなった自分が40年後に同じ場所に立ってこの壁画を見るなんて、当時はまるで想像などできなかったことだ。いや〜懐かしいな〜と感涙に咽んでしまった。

‥それにしても、この壁画、4枚並んだ全体像を撮影するのを忘れたが、いつ、誰が制作したのか、の解説が一切ないのである。◯◯年度卒業生製作とかどこを見てもなく、唐突に壁画があるのみである。もはや当時の関係者はおそらく父兄さえも来ることはないので、在校生や先生も、この壁画がいつ誰が作ったなんてわからないし、記録もないだろう。わかるのは、校舎が出来てから作られたんだろう、なんてことくらいだ。


いやいや、それにしても築40年なんていくら鉄筋コンクリート校舎でも、もう寿命だろう。おそらくはそう遠くない将来に取り壊されるんだろうなあ‥。壁画は、壁に直接貼り込まれているので、校舎とともに運命を共にするのだろう。その前に会えて良かった‥。

<モノクロ写真は、板橋区民が入学した頃の景色です>

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☆祝!東武東上線開業100周年☆〜お宝公開Vol.8〜

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 寒かったり暑かったり忙しい日々ですね。


今回はお宝公開Vol.8ということで、乗車券類の続きを。

乗車券もいろいろ種類がありますが、その中でも普通切符以外の物を紹介します。
(左上から)一枚目は‥団体用の往復券ですかね、代表者の名前の横に「団体関係実地踏◯◯」というハンコが捺されてます。区間が東上線で具体的にどの駅で使ったのかは書いてません。でもマニアならパンチの型で推測出来るかも。

二枚目は東武鉄道の優待乗車証ですね。この頃、常盤台住宅が販売され、購入特典として東上線の優待乗車証が付与されたのですが、こんな感じだったのでしょうか。
三枚目は戦時中の学生用定期券ですね。持ち主は17歳の中学生で、めずらしい名字なのでこの券を手に入れたとき、板橋区の電話帳で調べたら東新町に同じ名字の家がありました。
四枚目は回数券です。現在は券が一枚一枚バラバラで10+1枚/1組で発行されますが、昭和の時代は長方形の紙にズラズラと切符の紙片が印刷されてました。初片とは頭の部分でこの下に小さいサイズの券が続きます。

右の列は戦中戦後すぐの定期券ですね。定期券は紙のストックがあったのか、貧弱な紙に印刷されたタイプのものは見たことありません。どの定期も時期が近いので変化がわかりませんが、これ以前は年月日が枠で囲まれていたり、数字の表記が漢数字だったりします。

さて、あまり書く事がないから、というワケじゃないけど、注目して欲しい定期券がある。右列の志木ー池袋間の2枚だ。両方とも「松縄信太」という60代の方の名前が記載されている。
この定期券をいつどこから手に入れたのか忘れてしまったけど、10年以上前だったのは確かだ。
この「松縄信太」なる人物、実は、同姓同名の人間がいることを偶然、見つけた。私の手元に、神田の交通博物館(現・大宮の鉄道博物館)が昭和47年に発行した「開館50年史」という本がある。その歴代館長を紹介するページに、この「松縄信太」なる人物が出ているのだ。

まだ、交通博物館がある頃、当時の学芸員で”歩く鉄道図書館”といわれた佐藤先生にこの定期券を見せたところ、「松縄氏がどこに住んでいたか知らないけど、年齢的に間違いないんじゃないか。」との見解をいただいた。
交通博物館は、大正10年の鉄道開業50周年記念事業として誕生し、昭和20年10月に日本交通公社に運営を委託するまで国有鉄道が直営していた。それまでは、「館長」という職種はなく、鉄道大臣官房研究所長が館長を任じていた。
松縄氏が館長となったのは、まだ東京駅近くの永楽町ガード下にあった時代だ。その頃は「鉄道博物館」という名称だった。博物館は、関東大震災により甚大な被害を受け、8000点余りの収蔵品が灰燼に帰してしまったが、必死の復旧作業により、再度収集した展示品3500点をもって大正14年4月に再開された。その後を引継いだのが松縄館長だった。

松縄館長は、更なる設備や収蔵、研究の充実を計り、昭和4年には収集品が二万点に達するまでになった。そうなると、さすがにガード下では手狭となり、新たな博物館設置場所が求められるようになり、最終的に、昭和7年7月、総武本線の両国ー御茶の水間が開通したことにより、万世橋駅が縮小改築されることになり、昭和9年7月に同敷地内に新博物館を建設することになった。それを採決したのが、松縄館長であった。

新館建設決定を花道として、松縄氏は鉄道博物館を去った。氏は新潟県上杉村大字岡田出身で、東京帝国大学機械工学科を主席で卒業。アメリカ留学後、早大講師を経て、前述したけど大正15年に鉄道大臣官房研究所長となり、鉄道省のメートル法実行委員長を兼ね、メートル法の普及に尽力した。昭和9年、大臣官房研究所長を最後に退官し、そののちは日本信号株式会社取締役、内閣の度量衡制度調査会委員、財団法人信号会会長、同日本機械学会会長、鉄道省の東京・下関間幹線調査会委員、内閣の日本国有鉄道幹線調査会委員等を歴任し、昭和 24 年現在の東京芝浦工業大学初代学長に就任。昭和41年、86歳で没した。

これは推測だけれど、定期券の行き先が池袋なのは、芝浦工業大学の前身、東京高等工学校が池袋にあったからで、戦時中はそこで教師をしていたのではないだろうか。東京高等工学校は、もともと大正10年の鉄道敷設50周年を記念事業で、「鉄道博物館」と同時に「鉄道中学校」として財団法人鉄道育英会によって、永楽町にあった鉄道教習所内に開校したもので、当時から松縄氏とは接点があったのだろう。

‥それにしても、国鉄のお偉いさんが志木に住み(たぶん)東上線を利用していたことはなんとも面白いですね。捨て去られるモノがふとした偶然で残り、ロマンを現在に伝える‥そんなことが収集の楽しみでもあるわけですなあ。。あっそうだ、交通博物館最後の館長だった菅建彦氏も東上線住民(サンシティ)だったっけ。


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