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2014年4月

今日から新年度だし久しぶりに兎月園の記事でも書くか。

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 今日も昨日に引き続き花見日よりでしたので、7-11で弁当買って前谷津川石川緑道で花見ランチしました。ここの桜は徳丸随一のお花見スポットですね。桜の木も古木然とした木が多いですがですよ、あたしが中学生の頃、まだ前谷津川が暗渠化される前は桜なんてなかったんですよ。なんか年寄りになった気分です。。


さて、新年度第一回目は久しぶりに兎月園の話題です。

成増駅から南東方向にかつて存在していた遊園地「兎月園」については何度か記事にしてきましたね。おさらいする場合は「兎月園 成増 板橋ハ」などでググって下さい。‥不親切で申し訳ない‥

先日、昭和5年(1930年)に発行された「旅の小遣帳」と言う冊子を読む機会があり、その記事から兎月園を紹介してみますね。板橋区域を通る東上線にはまだ、上板橋、下板橋、成増駅しかなかった時代の話です。


『野菜サラダのやうに、むさし野西郊の若葉が盛り上がるところへ、梅雨の雲がホワイトソースよろしくドロリとかかって東上線ーー列車と云っても機関車に客車一䑓は勇ましくも穂麥の波を押し分け走つてゆく‥‥。なつかしい煤煙の香り「成増!なりますーゥ」

池袋から三丁目、なりますーゥの駅から二町、兎月園へ‥‥。

 いきな造りの案内所を囲んで躑躅が燃へ盛り、黄色い小鳥の小屋があり、細い僕と太い園主が築山の径を上つてゆくと「蘭の間」と云つて、休憩用小住宅につきあたる。園内にはかうした家が二十三軒もあり、家族連れのお晝食に可く、電話をチリチリと掛ければ川魚料理、鯉コク、園内の畑からもぎたての茄子、胡瓜が運ばれる。で実業家、参謀本部の勉強家、時には水野、宇垣のおんたいがお見へになるさうだ。
瀧がある。そばの生簀に荒川の鯉がアラヒになるのを待つてる。風呂がある、無料である。

 松林の中に一如庵ー茶室。自称風流紳士がよく茶飯を焚いてこがすところ‥‥茶道一年生に手ごろな道場である。むさし野から圓く畑をどけたやうなグランド、遠足が二組、三組。
先生「さあーーこれから池に行きますから落ちないやうにーー」

 岐阜提灯にザブザブ藤の房がゆれて、虻がお昼のサイレンよりもはげしく唸り、向ふ岸、かきつばたの咲くあたりに、女中さんの洗ひもの姿がなまめかしい。見ていると虻が藤の花を落す。茶店の人がそれを池に掃き出す。次に緋鯉が麩と異がへてパクツとやるーーノンビリした遊園地ーー兎月園は、たしかにイキである。』 


なかなかに趣のある紀行記事ですね。
兎月園は、関東大震災後に東京市内の上流階級や資産家達がこぞって郊外地に畑を求め、休日に家族友人と畑作を楽しむために置かれた”成増農園”の休息所として始まった。オーナーが東武鉄道の社長である初代・根津嘉一朗と懇意で、根津は相当な遊び人(料亭・芸者方面)であったため、その意見を多く取り入れているという。

それにしても、記事中に出てくる「参謀本部の勉強家、時には水野、宇垣のおんたいがお見へになる」とは誰のことなのかなあ‥。宇垣は当時陸軍大臣だった宇垣一成で、水野は海軍大佐の水野広徳かな?二人とも軍縮・平和主義者ですね。兎月園は軍人さんの利用も頻繁で、成増陸軍飛行場設置の遠因になったとも言われているようです。戦時中は軍の慰安施設となり、戦争末期には特攻隊の宴会に使われていたと聞きます。

ただ、飛行47戦隊の方々によると、”遊びに行ったのは池袋とか新宿とか八王子だねぇ”とおっしゃってました。あとは成増駅近くの面会所とか。面会所は訪ねてきた家族や知人と合う場所で、たまに慰安に訪れる女学生と遊ん(トランプやったり懇談したり健全なやつね)だとか。


上に掲載のカラー図は、マッチのラベル(たぶん)に描かれた兎月園の広告です。”温泉”てありますが、当時の温泉の基準てなんだっんでしょうねえ。。今のおふろの王様光が丘店みたいなもんかな。

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板橋区民、大阪で涙する。

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 おばんです。ワイ、大阪に行ってましてんねん。

‥こんな大阪弁があるのかはわかりませんが、2年振りの大阪訪問ですね。前回は吹田市にお住まいの、元飛行47戦隊空中勤務者・一楽少尉宅をお訪ねした時でした。そのときは環状線内には行かなかったし、それ以前も開業したばかりのUSJと通天閣界隈をほんの少し回っただけで、実質今回が初めてと言ってもいいかもしれない。

いやそれにしてもすごい。着いて早々、環状線の中で東南アジア系の人に声をかけられた。英語だったけど訛りがきつく、しかも詳しく説明したいらしくいろいろ言葉を重ねてくるのでますますわからなくなる。そこへすかさず初老のおっちゃんが私の隣に割り込んできて、「あんたらなんやねん?どっか行きたいねんか?Where you goねん?」と大阪弁ブロークン英語でまくしたてる。間に鋏まれた私は??状態であった。結局、この電車は天王寺に止まるのかを聞きたかっただけで、しょっぱなからまるでテレビで見た事あるようなコテコテの大阪人劇場を体験してしまった。


‥本題に行きましょう。大阪へやってきた目的の一つは、本日をもって大阪環状線弁天町駅に隣接した「交通科学博物館」が閉館すると聞き、まだ訪れたことがなかったのでこの機会にと思ったことと、桜の時期の関西も行ったことがなかったので、数日間の予定で出かけたワケです。

「交通科学博物館」は、かつて神田にあった「交通博物館」の姉妹館として昭和37年(1962年)に開館した。運営しているのは交通博物館と同じ交通文化振興財団(親会社はかつての国鉄→JR東日本→JR西日本)である。
交通博物館は、文字通り”交通”のための博物館で、親会社であった鉄道関係の他にも船や飛行機、自動車など乗り物系全般の展示を行っていた。

2006年に交通博物館が閉館し、展示されていた鉄道以外の展示物は借りていた物は返却し、残った物は大宮の鉄道博物館の所蔵物になった。しかし、大宮はあくまで鉄道の博物館なので、鉄道以外の所蔵物を展示する予定はなく、一部は交通科学博物館へ貸し出すこととなり、その中に”航空エンジン”があった。

交通科学博物館には交通博物館から来た航空エンジンがいくつか展示されているけれど、その一つが中島製の”誉(ハ-45)”エンジンだ。
誉エンジン‥大東亜決戦機と呼ばれた四式戦疾風(キ-84)に使われた大馬力高性能の陸軍機エンジンである。そう、言わなくてもわかりますね。かつて成増陸軍飛行場の飛行47戦隊に昭和20年初頭から配備された戦闘機だ。戦争末期には陸軍特攻機として使用され、現存機は知覧特攻記念館に展示されている。

知覧に展示されている機体は、エンジン部分がカバーされているので見ることができないが、交通科学博物館展示のエンジンは、中島飛行機工場の地中から発掘されたもので、エンジンそのものをじっくりと見られる。どこで発掘されたのか記載がないのでわからないが、エンジンは三鷹の中島工場で製作された。この三鷹の工場は、米軍の東京空襲目標の一番にエントリーされている。ドゥーリトル以来の、昭和19年11月24日から始まった東京空襲の最初の目標がこの工場で、以降、頻繁に空襲を受けた。

この工場への攻撃は、伊豆ルートと房総ルートがあり、いずれも成増飛行場の47戦隊が迎撃を受持ち、伊豆半島コース(富士山を目標に侵入し、富士上空で東方向に転向して三鷹を目指す)では八王子上空が警戒空域となっていた。我が板橋区におとされた爆弾も、三鷹工場で落とし損ねた爆弾によるものもあったようだ。

とまあそんなことで、誉エンジンとは交通博物館閉館以来、8年振りの再会であった。交通博物館には”整備の神様”といわれた元47戦隊の整備中隊長・刈谷中尉が寄贈した四式戦の高度計が収蔵されていて、閉館直前の特別展示では、誉エンジンの横に刈谷さんの高度計が並ぶという奇跡のコラボが実現した。

本日をもって交通科学博物館は閉館したけれど、2016年春、京都の梅小路蒸気機関車館に隣接した土地に、新しく「京都鉄道博物館」として生まれ変わる。運営はJR西日本の作る財団が行なうのだろうが、鉄道博物館とあるように、大宮と同じく、鉄道以外の展示を行なう予定は無いそうだ。科学館に展示されていた鉄道以外の資料は、借りている物は返却されるが、大宮の鉄道博物館が所蔵しているものは大宮に返されても展示の予定はないし、収蔵場所の問題もあるので対応に苦慮していると聞く。もちろん、誉エンジンも行き先は不明だ。

まっ個人的には、所沢の航空記念館に貸出しされるのが良いと思いますがねえ。所沢には成増飛行場編成の沖縄特攻振武隊・堀山隊長の飛行服も展示されているし。ちなみに一楽さんの飛行服はスミソニアン博物館に展示されていた‥っけかな。刈谷さんの高度計も現在は鉄道博物館に所蔵されているけど、二度と表に出ることはないんだろうなあ‥


交通科学館は別れを惜しむファンで大盛況だったけど、さすが交通博物館の姉妹館だけあって、交通博物館を彷彿とさせる雰囲気や景色がそこここに残り、初めて行ったのに懐かしかったですね。特に模型鉄道パノラマ展示は交通博物館とそっくりで、思わず感涙しちゃいました。。

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見えない板橋区。その1

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G.W.も近いですね。あっしはいつもG.W.期間は遠出をいたしません。ええ。

‥私が板橋区を趣味とする、との想いを得たのは平成の初め頃のことで、それは、こんな体験から始まった。昭和の後半から平成の10年くらいまで、板橋区内では遺跡の発掘が盛んに行なわれていた。大きな現場になると、縄文時代まで掘り上がると遺跡が一般に公開されることがあった。(旧石器時代の発掘は、関東ローム層を掘るので縄文以降の遺構が破壊されてしまうため)
ある発掘現場で、縄文前期の住居跡を見学する機会があり、出土した土器片が散らばる六畳くらいの竪穴式住居を見学した。中央には火を焚いた跡も残り、そこで確かに6000年前の板橋人が暮らした痕跡を感じることができた。住居跡の中で、ふと空を見上げると「ああ、そうか、6000年前の板橋人も同じ空を見、泣いたり笑ったりして暮らしていたのか‥」そんな感慨が胸に湧いてきた。同時に、6000年から現在までの歴史を意識する感覚が芽生えたのだ。「よし、これからは板橋区を知ることを趣味としよう。」‥

‥まあ、そういうことですね。

本題に入りますか。
最近、板橋区の統計を確認していないけど、区内では日々マンションや住宅が竣工しているので、人口は増え続けているのだろう。爆発的に増え始めたのは関東大震災以降と云われ、戦時中は疎開した人達などがいて減ってるかと思えば、軍需工場勤めの人達が流入しているので、そんなには変わらなかったのだろう。
有史以来、ということで鑑みるとさすがに旧石器時代は”人間が短期間暮らしていた”痕跡があるくらいだけど、板橋のすごいところは縄文時代や弥生時代、古墳時代には集落が点々と存在していて、それなりの人口があったことだ。人間が一番少なかった時期は奈良・平安時代といわれ、これは、発掘された遺構の少なさにより判断されている。
近現代では国勢調査のシステムが出来上がり、江戸時代には宗門人別改帳他いろいろな方法で人口を推測する方法があったけど、飛鳥時代や平安時代なんて古い時代では、まあ戸籍は作られていたけれどさすがに極わずかしか現存していないですね。だから、遺跡の発掘調査によって推測するしかない。

前説が少々長いっすかね。
当ブログは、基本的に自分の収集した逸品や写真を軸として話を展開してゆく、という様式で進めている。で、今回は左の写真、なんだかわかります?土器名は器台といいます。後の三方(神棚で神饌を乗せる台)ですかね。シールには「後期弥生式土器 東京都板橋区前野町(出土)」と書いてあります。(出土)とあるように、これはレプリカ品だ。教材用に作られた物かもしれない。本物は、前野町の常楽院というお寺にある。(隣の写真が常楽院が所蔵している本物)

常楽院は板橋区民の憩いの場、「さやの湯」の対面、イズミヤの北側裏手にある古刹だ。興味のない人はまったく知らないだろうけど、常楽院は、別名「土器寺」と呼ばれ、なんと常設の展示室まである。(3.11大震災で大きな被害を受け、現在、修復作業が続いている)なんで寺に土器が集まってるのかというと、ご住職であった守山聖真(明治21年〜昭和42年)が考古学に興味があり、勉強をしていたためで、場所も遺跡の包蔵地帯に位置し、時期的にも周辺の開発が進んでいた時代であり、また、農地を多く所有していたため、農作業中に土中から出てきた土器類が持ち込まれたという経過があった。

前野町は、もともと考古学者たちが目をつけていた地域で、1938、39年に杉原荘介(後、明治大学考古学教室主任教授)により本格的に調査された。守山聖真住職が常楽寺境内を中心に発掘したのは、その後の大東亜戦争中から戦後にかけてのことだ。
現在は「前野町遺跡群」と総称されているが、この遺跡群からは縄文から江戸時代までの出土物が出ているけれど、中でも充実しているのが弥生時代の土器で、この遺跡からの出土品は「前野町式土器」として分類され、弥生時代最後期の土器として位置付けられている。この次に分類されているのが、東上線の東松山市若松町の五領遺跡から出土した「五領式土器」で、古墳時代初頭という時代区分となる。あっしのようなトウシロには写真の器台の違いがわかりませんが、発掘された土器群を総合的に判断して決めるもののようです。


‥いやいや、すごいですね。これで”時代”が決められるわけですよ。あの弥生時代が前野町で終わり、東松山から古墳時代が始まる。。その橋渡しを東上線がしているようじゃありませんか。
ってね、この分類ってやつは数ある学会や研究会で様々に提唱されているもので、統一見解じゃあないんですよ。2004年に開催された「東北・関東前方後円墳研究会」で提示された編年指標ってことですね。板橋区民としてはこの指標を押すべきですな。うん。

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見えない板橋区。その2

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 相変わらず昼と夜の寒暖差が激しく、なんとなく体の調子が狂いますね。


見えない板橋区。‥ようするに地下の話です。
今回紹介しますのは、「鑿井(さくい)地層断面図」ってやつです。地層をボーリング調査した際に採集した実物土壌サンプル。

このサンプルは、1971年(昭和46年)に常盤台1-44で採集された。常盤台駅から中板橋駅へ向かう踏切を渡ってすぐの場所で、板橋区民もたまに行くラーメン屋の”騎士”がある所(正確には隣のビル)ですね。
もともとは「曙湯」というお風呂屋さんがあった場所で、おそらくは廃業(建替え?)した際に地層の調査を行なったのだろう。サンプルに添付されている書類によると、工事着手日は昭和46年6月21日、掘進開始は6月28日、終了は8月1日とある。
採取された土壌サンプルは地層の種類ごとにガラスの小瓶に分けられ、木のケースに収められている。全部で20本、地下170mまで掘り下げている。

では、地表から順に紹介していきますね。

0 〜 65センチ・・・赤土
65 〜 90センチ・・・砂利
65 〜 220センチ・・・砂
220 〜 230センチ・・・砂
230 〜 400センチ・・・砂
400 〜 560センチ・・・砂まじり粘土
560 〜 630センチ・・・砂利
630 〜 720センチ・・・荒砂
720 〜 885センチ・・・砂混り粘土
885 〜 990センチ・・・中砂
990 〜1100センチ・・・砂
1100 〜1290センチ・・・粘土
1290 〜1360センチ・・・中砂
1360 〜1485センチ・・・粘土混り砂
1485 〜1540センチ・・・荒砂
1540 〜1555センチ・・・砂
1555 〜1675センチ・・・荒砂
1675 〜1700センチ・・・粘土混り砂


さて、あっしは土壌に関してはさっぱりなトウシロだから専門的な解説は出来ないけど、砂が多いのは、近くを石神井川が流れているせいだとわかりますね。石神井川は数千年前にはすでに存在しており、自然の状態では常にコースを変えているので、この場所が川筋であった時代もあったのだろうし、もっと古い時代には海水がきていたこともあるだろう。

遺跡の発掘調査ではもっと詳しく調べ、火山灰の堆積状態までわかるから(富士山噴火とか浅間山噴火とか)もう少し時代がわかってくる。
今の若者は知らないだろうけど、板橋区は武蔵野台地の縁にあるので荒川に面した崖では地層が観察出来、とくに三園にあった崖は「成増露頭」と呼ばれ教科書にも載り、社会科見学の場所になったり、全国から見学者が訪れる名所だった。現在は残念ながら開発のためマンションが立ち並び観察は不可能になってしまいましたね。(たまに工事とかしてると見ることができる)
ここだけではなく、大正時代の後半に徳丸通りが切り通しになったときも地層がむき出しになり、女学校時代の有徳高校生が見学している写真が残っている。昭和40年代に盛んに区画整理が行なわれていた時にも、いたるところで地層を観察することができたんですよ。


‥それにしても、地表から170メートル下は何年くらい前なのかなあ。。区内では1500メートル堀ると温泉が出るようですが(湯温39度前後)、板橋スパディオの露天にある解説版には温泉のある地点は北京原人がいた時代と書いてありますね。更新世という地質時代の区分で、約258万年前から約1万年前までの間をさすようだけど、これじゃあまり幅が大きくてわかりませんね。。


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板橋区民、美智子妃殿下に遭う。

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 喉風邪が治らない‥

風薫る季節となりました。
今日のことです。板橋区民は所用があり皇居の二重橋近くを歩いていた。この場所に来るのは、ケネディ駐日大使が天皇陛下へ着任の挨拶に、皇居へ馬車で参内する景色を見に行った日以来だ。

あのだだっ広い皇居前広場を横断しようとした所、警察官に止められた。

警「もうすぐ美智子妃殿下がお出かけになられるので、車列が過ぎるまでお待ち下さい。」

おお、これはなんと幸運なこと、皇后陛下にお目にかかれるなんて。。
板橋区民の他には、数人の観光客と社会科見学の小学生のグループがいるだけだ。警備の警察官が小学生達に声をかける。「みんなで手を振れば、美智子妃殿下が手を振ってくれるかもしれないからな、」小学生達は「美智子って何?」なんて不敬なことを小声で言い合っていた。最近の小学生は、皇室なんて興味がないのかな?と思い、天皇陛下の奥さんだよ、と教えると「ええ!すっご〜い」とようやく納得してくれたようだ。

待つこと5分、二重橋から続く坂道のゲートが開かれると、警備の車両に先導されて、妃殿下のお車がやってきた。板橋区民は、「大きく手を振るんだぞ」と小学生達に言いつけ、その後ろでカメラを構えた。小学生達に妃殿下は手を振りかえして下さるだろう、との打算が区民の胸の内にあったのは否めない。(不敬な行為をお許しください。。)

先導の白バイが「前に出てくるなよ。」と小学生達に注意をしつつ通り過ぎた直後、お車の窓を全開にして手を振る美智子妃殿下のお姿が見えた。「そら、もっと大きく腕を振らんかい」と小学生達をけしかける必要も無く、ものものしい車列と皇后陛下のオーラに圧倒されたのか、バンザイをする子までいるではないか!さすが、日の本に生まれし子供らであった。

皇后陛下の車列は一瞬で通り過ぎてしまったが、そのお姿をカメラと記憶に収めることができた。後でわかったが、美智子妃殿下は、この時、銀座のデパートで催されている絵画の展覧会にお出かけになるところであった。


ところで、以外にも天皇皇后両陛下は我が板橋区にお出ましになることが多い。中小企業の視察や、最近では震災の後、成増住宅に避難した被災者の方々をお見舞いに何度か来られたりしている。(板橋を地盤とする安倍総理の腹心・下村文科省大臣の力っすかね)特に美智子妃殿下は、お忍びでちょくちょく常盤台にある書道美術館を訪れになる。でもこれは、妃殿下の書道の先生が館長をしておられるからですね。。


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☆祝!東武東上線開業100周年☆〜G.W.期間特別・お宝公開Vol.6〜

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 2014年、G.W.週間がやってきました。前にも記事にしたけど、ゴールデンウイークとは、我が赤塚郷で撮影された大映映画「自由学校」(昭和26年)が、同時期に同タイトルで競作された松竹版「自由学校」と5月上旬に同時公開され、大きな話題となったために映画業界が作った言葉だ。

明日、5月1日は東武東上線が開業して満100周年の記念日となる。そこで、今日はその前夜祭ということで、板橋区民が秘蔵する東上線初期時代の切符を公開しよう。
いままでもちょくちょく公開してきたけど、ブログは新記事UPにより過去記事が埋もれ、検索が難しくなるので、この機会に再度公開する物も新規でコレクションに加わった物も合わせ、一気に披露する。


まず、左上の切符から紹介していきますね。

上2枚は、A型昭和初期券と呼ばれる形式の切符だ。写真ではわからないけれど、切符の表面には<GJRてつだいしゃう>と描かれた字紋が印刷されている。おそらくは、鉄道省の印刷所に依託して印刷された切符なのだろう。
これ以前、大正時代の切符は入手が困難で、20数年の収集歴の中で出会ったことはない。地方自治体の発行する本の中で、東上鉄道時代の「鶴瀬から上野行き」の切符の写真を見たことがあるけれど、白地の切符に”上”の字を円形にぐるっと一周させた印が押されていた。大正後期になると、先の切符と同じ様式で、料金表示などが数字ではなく漢字で書かれたものとなる。

真ん中2枚の切符は、東武鉄道独自の字紋が印刷されたものだ。二重丸に線が入ったもの‥と書いてもなんだかわかりませんね。これは後日、マクロ撮影してUPしますね。
さてこの切符、私的には世紀の大発見!な代物なんですよ。なにがすごいって?発行駅が中板橋駅ってなってるでしょ。え?まだわからない?中板橋駅はいつ開業したか知ってますか?公式記録では昭和8年7月12日ですね。でも切符には”昭和2年8月18日(24日)”と印字されてますね。これは、石神井川沿いに開園した「遊泉園」プールへの臨時駅時代のものなんすよ。東武鉄道の社史にも”臨時駅”との解説しかなく、この切符の存在により、最初からこの駅は中板橋という名前が付けられていたことを証明する超一級資料なのだ。(大げさ)

お次は上板橋より池袋ゆきの切符。右側が斜めに切断されてますね。これは切符の右側に上から下へ線が引かれ、”小”と書いてあるのですが、この線から切断して子供用の切符として使用したもの。

その次は大山より池袋ゆきの切符。昭和6年9月16日の日付が入ってますね。大山駅開業が昭和6年8月25日なので、開業から3週間後のもの。当時は今みたいな大商店街はなく、人気もなく閑散とした寂びしい旧川越街道沿いの駅だったとか。

真ん中の列の切符に移りましょう。4枚目、ちょっと変わった切符ですね。「川越市より入間川水泳場ゆき」とあります。埼玉県川越市小ヶ谷364番地(当時は入間郡田面沢村小ヶ谷364番地)、川越市-霞ヶ関間に存在し、夏期のみ営業する臨時駅で、東上鉄道開業時の終点、田面沢駅の場所にほぼ一致する。
入間川水泳場駅の開業は昭和9年7月10日のことで、水泳に訪れる人への便宜を図るために池袋起点33.7km地点、現在の入間川橋梁の東詰に「入間川」の名称で開設されている。この年の営業期間は7月10日から8月30日までであった。その後は毎年夏になると開設されるようになり、期間も多少の変動はあったものの7月下旬から8月末の営業とされた。昭和11年までは「入間川」の名称での開設であったが、昭和12年から17年までは「入間川水泳場」の名称で開設された。ただし、昭和16年に一旦「入間川」に戻っている。17年7月20日から8月31日に開設されたのを最後に、以降はなくなったようですね。

じゃ、次。東武堀之内駅は現在の北池袋駅で、昭和9年開業。昭和20年4月の城北地区大空爆によりいったん休止された後、昭和26年9月1日から北池袋駅として再開されました。
右側の列から大東亜戦争期に入りますが、切符の様式に大きな変化はありませんね。武蔵常盤駅(現・ときわ台駅)は昭和10年開業。新倉駅は今の和光市駅ですね。昭和9年に開業しました。昭和の終わり頃まで成増駅を過ぎると一気に農村風景が広がり、和光市駅前なんてまだ畑地がありましたから、今のあの大都会になった景色が信じられませんね。

最後は、そう、あの幻の「金井窪駅」の切符です。昭和6年9月27日開業、昭和20年4月13日の城北大空襲により休止、その後廃止された。この切符については過去いろんな記事で自慢しまくったので、今回は控えますね。。小さい切符は補充式乗車券で駅名が空欄になっており、必要に応じて発駅着駅の印を押し、料金を手書きする方式です。この切符、「金井窪より池袋ゆき」になってますが、下の切符と同じ昭和17年4月発行なんだけど、パンチの切り口の型が違うのが不思議ですね。なんでだろう?


じゃ、この続きをお楽しみに☆

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