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〜桜田門外の板橋区〜

784788Sanoukiyo


いや〜久しぶり。

‥などと気楽に入りますが、この稿を3月3日にUPするつもりでしたが、上旬に風邪を引いてしまい1週間苦しんだ後、一年に一度の憂い、確定申告の提出書類作成に苦しみ、提出後の開放感から酒浸りの日々を送ってしまい‥というワケでして、今回は久しぶりに真面目に板橋区、いや、我が赤塚郷の偉人の話でも。


さて、なぜこの稿を3月3日に?‥え〜ひな祭りとは関係ないですね。
時は幕末、安政7年3月3日(現在の3月24日)の出来事でござんす。(現在の3月24日)場所は江戸城外桜田門外でありました。

この日は上巳の節句で、在府大名は江戸城に総登城するきまりでした。早朝、愛宕山に集合した浪士18人(水戸浪士17人、有村次左衛門一人が薩摩浪士)は降りしきる春の雪の中を一路江戸城桜田門へと向ったのでございます。
 
愛宕山の男坂を下り、江戸城の方向に真っ直ぐ歩くと杵築(きづき)藩邸横。浪士達は桜田門外の御堀端に出る。左の方に井伊家上屋敷の門。彼らは武鑑を手にして井伊直弼の登城を待ちました。当時は田舎から出てきた武士が武鑑を見ながら、諸大名の登城を見物する光景が珍しくなく、彼らを怪しむ者は誰もいません。

五つ半(朝9時頃)、井伊家上屋敷の門が開き、槍を一本立てて、行列がしずしずと出てきました。供廻りの徒士26人、足軽、草履取り、駕籠持ちを合わせて60余人。
まず森五六郎が訴状を持ち、大老に直訴するふうを装い乗物(高級な駕籠)に近づき、制止しようとした警固の徒士に斬りつけました。乗物脇の徒士が駆けつけようとした時、一発の銃声がとどろいて左右から浪士達が一斉に襲いかかった。合図の短銃を撃ったのは黒沢忠三郎。同士討ちを避けるために浪士達は白鉢巻きと白たすき、全員が斬奸趣意書を懐中にしていました。

 雪のために護衛の士たちは刀に柄袋を着け合羽を着ていて、浪士の襲撃に遅れをとる。しかし乗物脇を離れず、柄袋と合羽を取った御供目付河西忠左衛門が二刀で奮戦。乗物に突進した浪士の稲田重蔵を斬り倒しました。見届け役の斎藤監物は、眼前で次々と同志が雪の中に倒れてゆくのを見て、役目を忘れて戦いの中に斬り込む。
 
‥そして、ついに有村次左衛門は大老・井伊直弼を引き出して首を落とした。。


そうです、あまりにも有名な”桜田門外の変”の一件ですね。
それと我が赤塚郷に何の関係が??


‥今から10数年前のこと、成増陸軍飛行場の調査をしていたあっしは、赤塚氷川神社近くの清涼寺(赤塚4丁目)に、戦時中、飛行場を攻撃に来た米軍艦載機が機銃掃射をした際に流れてきた弾が、この墓地内の墓に当たり、弾痕の残った墓石が存在するとの情報を得、実地調査に寺を訪れました。その時、頂上ど真ん中が欠けた墓石を見つけ写真を撮ったのです。(が、どこへしまい込んだか現在行方不明‥)

まあ、その話はこの辺にしときますが、その清涼寺の境内に、立派な石碑が建っていたのに気がつきました。正面には「佐野先生頌徳碑」とあります。裏面には佐野先生の彰徳文と、建碑に関係した方々22名の名前が刻んであります。碑が建てられたのは昭和17年9月でした。戦時中の建立か、ふむふむ、と碑文を読んでみた。

碑文
「故佐野蔵吉先生ハ旧静岡藩士佐野秀宣翁ノ末子ニシテ桜田門外ノ変ニオケル主脳水戸浪士佐野竹之助ハ実二先生ノ兄ナリ‥」

およ!水戸浪士佐野竹之助とは!家に帰りすぐに調べると、この方は桜田門外の変で井伊直弼の駕篭に刀を差し込んだ御人ではないか。確実な第一次資料として何を読んだらいいのかはわからなかったが、小説などでは初太刀を入れたとか2太刀目を入れたとか、とにかく大老を切った人物であることは間違いないようだ。襲撃の後、佐野竹之助は老中脇坂安宅邸に自訴したが、襲撃時の傷が元で絶命したという。享年21才だった。

そんな人物を兄に持つ人がなぜ、我が赤塚郷にいたのだろうか‥

碑文の続きはこうだ。
「‥先生ハ幼ヨリ父翁ノ薫陶ヲ受ケ儒道ニ渉リ皇典ヲ研究シ修養大イ二努メラレタリ明治維新トナリ教育制度布カルルヤ先生二ハ卒先育英ノ道二志シ身ヲ教育界二投セラル後上京本府教育二従ヒ明治十四年陽春二ハ父翁二従ヒ我旧母校石成尋常小学校校長トシテ着任セラレタリ(因二石成尋常小学校ハ明治九年上赤塚村清涼寺内二開校ス)云々‥」と続き、佐野先生は、真摯で温良慈愛を持って生徒と接し、自費で校具を購入したり、学用品を子弟に買い与えたりし、生徒達に慈父のように慕われ、父兄からの信頼も絶大な人物だったという。

成増は、もともと石成と呼ばれていて、清涼寺は「石成山清涼寺(明治初期は清冷寺)」の山号を持っている。明治維新のころまでは無住で、寺守りの人がささやかな寺子屋を開いていたのだそうだ。
明治七年に徳丸村に紅梅小学校、つづいて下赤塚村に下赤塚小学校が開校されると、上赤塚村と成増村の人々がその寺子屋を仮用し、明治9年に石成小学校を開校した。翌明治10年に公立学校として認可される。当初の教員は2名で生徒は80名(男61名、女19名)であった。明治24年、赤塚小学校の開校により閉鎖された。

佐野蔵吉は、明治14年に父親の秀宣翁とともに赤塚の地に来て、石成小学校の校長に奉職した。兄、佐野竹之助について調べると、元は水戸藩士であったようで、明治維新の後、多くの徳川家家臣がそうであったように、静岡県に移住したのだろう。
父親は、明治18年7月8日に69歳で没し、その墓は清涼寺墓地にあり、今でも大切に供養されている。(真ん中の写真)
佐野蔵吉先生は父の死の4年後、明治22年に亡くなっている。碑文には「孝養大イ二努メタル父ヲ失ヒシヨリハ落胆著シク快快トシテ楽マサリシカ遂二明治二十二年四月二十三日突然トシテ逝カル‥」と続く。どうも、不幸な亡くなり方をされてしまったようだ。

碑が建立された昭和17年は、佐野先生が没してから53年目にあたる。50回忌の記念に建てたのかと思うけど、どうも中途半端な時期な気がする。碑文の最後には「‥先生ノ教へヲ受ケタリシ我我同志大東亜戦時下旧恩ヲ思フコト特二深シ依ツテ相謀リテ碑ヲ建テ其ノ徳ヲ頌シ之ヲ不朽二伝ヘントス」とある。


佐野竹之助と佐野蔵吉、2人に共通するのは幼いときから父親に受けた儒道による教育であったが、兄は(こういう言い方は過激だけど)テロリストとなり、弟は教え子達から長年にわたり敬愛を受ける人物となった。どちらも儒道の影響を受けた結果、別れた道なのかはわからないが、我が赤塚郷に眠る歴史なのである。

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コメント

「快快」は「怏怏」だと思います。よく間違います。

投稿: | 2020年3月 8日 (日) 16時02分

>>名無しさま
間違いのご指摘をありがとうございました。ちなみに、桜田門外の変の佐野竹之助と石成村の佐野先生家とは関係がないのでは、との説もありますが、決め手となる資料は見つかっておりません。

投稿: | 2020年3月 8日 (日) 18時37分

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