« 2014年2月 | トップページ | 2014年4月 »

2014年3月

☆今夜は東武練馬祭り!☆

0864


 ちょっと風邪を引いたようです。。


先程、テレ東で放映された「アド街っく天国」ご覧になりましたか?我が故郷「東武練馬」特集でしたね。
練馬区北町側と板橋区徳丸側をバランス良く編集していました。2位が北町商店街、1位が徳丸北野神社は納得ですが、まさか北野神社が1位とは思いませんでした。

番組から依頼され、開業時の東武練馬駅の写真と東武鉄道の昭和30年代の制服制帽一式を貸しましたが、写真は違うもの(おそらく昭和30年代)が使われてました。見たことない写真だけどどこから借りたのかなあ。制服制帽は冒頭の東武練馬駅名を決める会議のシーンで使われてました。先日、番組ノベルティとともに返却されましたが入っていたのは手ぬぐいとボールペン。。まっいいですけどね。

ずいぶんと時間を割いて練馬自衛隊を紹介してましたが、自衛隊も大サービスしてましたね。憶えている人もいるかもしれませんが、ずいぶん昔、「なんでも鑑定団」の出張ロケもやってました。その時ロケを見学した後、東武練馬駅から池袋へ向かう電車でロケ帰りの中島先生と北川先生と乗り合わせましたが、大声で番組ギャラの低さを話していて、おいおい、と思ったのも良い想い出です。。


先月も若大将のゆうゆう散歩?でしたか加山雄三が下赤塚を散策してましたが、現在、これもテレ東で放映しているドラマ「三匹のおっさん」も撮影地がときわ台〜上板橋なので、毎週かかさず見ています。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

〜桜田門外の板橋区〜

784788Sanoukiyo


いや〜久しぶり。

‥などと気楽に入りますが、この稿を3月3日にUPするつもりでしたが、上旬に風邪を引いてしまい1週間苦しんだ後、一年に一度の憂い、確定申告の提出書類作成に苦しみ、提出後の開放感から酒浸りの日々を送ってしまい‥というワケでして、今回は久しぶりに真面目に板橋区、いや、我が赤塚郷の偉人の話でも。


さて、なぜこの稿を3月3日に?‥え〜ひな祭りとは関係ないですね。
時は幕末、安政7年3月3日(現在の3月24日)の出来事でござんす。(現在の3月24日)場所は江戸城外桜田門外でありました。

この日は上巳の節句で、在府大名は江戸城に総登城するきまりでした。早朝、愛宕山に集合した浪士18人(水戸浪士17人、有村次左衛門一人が薩摩浪士)は降りしきる春の雪の中を一路江戸城桜田門へと向ったのでございます。
 
愛宕山の男坂を下り、江戸城の方向に真っ直ぐ歩くと杵築(きづき)藩邸横。浪士達は桜田門外の御堀端に出る。左の方に井伊家上屋敷の門。彼らは武鑑を手にして井伊直弼の登城を待ちました。当時は田舎から出てきた武士が武鑑を見ながら、諸大名の登城を見物する光景が珍しくなく、彼らを怪しむ者は誰もいません。

五つ半(朝9時頃)、井伊家上屋敷の門が開き、槍を一本立てて、行列がしずしずと出てきました。供廻りの徒士26人、足軽、草履取り、駕籠持ちを合わせて60余人。
まず森五六郎が訴状を持ち、大老に直訴するふうを装い乗物(高級な駕籠)に近づき、制止しようとした警固の徒士に斬りつけました。乗物脇の徒士が駆けつけようとした時、一発の銃声がとどろいて左右から浪士達が一斉に襲いかかった。合図の短銃を撃ったのは黒沢忠三郎。同士討ちを避けるために浪士達は白鉢巻きと白たすき、全員が斬奸趣意書を懐中にしていました。

 雪のために護衛の士たちは刀に柄袋を着け合羽を着ていて、浪士の襲撃に遅れをとる。しかし乗物脇を離れず、柄袋と合羽を取った御供目付河西忠左衛門が二刀で奮戦。乗物に突進した浪士の稲田重蔵を斬り倒しました。見届け役の斎藤監物は、眼前で次々と同志が雪の中に倒れてゆくのを見て、役目を忘れて戦いの中に斬り込む。
 
‥そして、ついに有村次左衛門は大老・井伊直弼を引き出して首を落とした。。


そうです、あまりにも有名な”桜田門外の変”の一件ですね。
それと我が赤塚郷に何の関係が??


‥今から10数年前のこと、成増陸軍飛行場の調査をしていたあっしは、赤塚氷川神社近くの清涼寺(赤塚4丁目)に、戦時中、飛行場を攻撃に来た米軍艦載機が機銃掃射をした際に流れてきた弾が、この墓地内の墓に当たり、弾痕の残った墓石が存在するとの情報を得、実地調査に寺を訪れました。その時、頂上ど真ん中が欠けた墓石を見つけ写真を撮ったのです。(が、どこへしまい込んだか現在行方不明‥)

まあ、その話はこの辺にしときますが、その清涼寺の境内に、立派な石碑が建っていたのに気がつきました。正面には「佐野先生頌徳碑」とあります。裏面には佐野先生の彰徳文と、建碑に関係した方々22名の名前が刻んであります。碑が建てられたのは昭和17年9月でした。戦時中の建立か、ふむふむ、と碑文を読んでみた。

碑文
「故佐野蔵吉先生ハ旧静岡藩士佐野秀宣翁ノ末子ニシテ桜田門外ノ変ニオケル主脳水戸浪士佐野竹之助ハ実二先生ノ兄ナリ‥」

およ!水戸浪士佐野竹之助とは!家に帰りすぐに調べると、この方は桜田門外の変で井伊直弼の駕篭に刀を差し込んだ御人ではないか。確実な第一次資料として何を読んだらいいのかはわからなかったが、小説などでは初太刀を入れたとか2太刀目を入れたとか、とにかく大老を切った人物であることは間違いないようだ。襲撃の後、佐野竹之助は老中脇坂安宅邸に自訴したが、襲撃時の傷が元で絶命したという。享年21才だった。

そんな人物を兄に持つ人がなぜ、我が赤塚郷にいたのだろうか‥

碑文の続きはこうだ。
「‥先生ハ幼ヨリ父翁ノ薫陶ヲ受ケ儒道ニ渉リ皇典ヲ研究シ修養大イ二努メラレタリ明治維新トナリ教育制度布カルルヤ先生二ハ卒先育英ノ道二志シ身ヲ教育界二投セラル後上京本府教育二従ヒ明治十四年陽春二ハ父翁二従ヒ我旧母校石成尋常小学校校長トシテ着任セラレタリ(因二石成尋常小学校ハ明治九年上赤塚村清涼寺内二開校ス)云々‥」と続き、佐野先生は、真摯で温良慈愛を持って生徒と接し、自費で校具を購入したり、学用品を子弟に買い与えたりし、生徒達に慈父のように慕われ、父兄からの信頼も絶大な人物だったという。

成増は、もともと石成と呼ばれていて、清涼寺は「石成山清涼寺(明治初期は清冷寺)」の山号を持っている。明治維新のころまでは無住で、寺守りの人がささやかな寺子屋を開いていたのだそうだ。
明治七年に徳丸村に紅梅小学校、つづいて下赤塚村に下赤塚小学校が開校されると、上赤塚村と成増村の人々がその寺子屋を仮用し、明治9年に石成小学校を開校した。翌明治10年に公立学校として認可される。当初の教員は2名で生徒は80名(男61名、女19名)であった。明治24年、赤塚小学校の開校により閉鎖された。

佐野蔵吉は、明治14年に父親の秀宣翁とともに赤塚の地に来て、石成小学校の校長に奉職した。兄、佐野竹之助について調べると、元は水戸藩士であったようで、明治維新の後、多くの徳川家家臣がそうであったように、静岡県に移住したのだろう。
父親は、明治18年7月8日に69歳で没し、その墓は清涼寺墓地にあり、今でも大切に供養されている。(真ん中の写真)
佐野蔵吉先生は父の死の4年後、明治22年に亡くなっている。碑文には「孝養大イ二努メタル父ヲ失ヒシヨリハ落胆著シク快快トシテ楽マサリシカ遂二明治二十二年四月二十三日突然トシテ逝カル‥」と続く。どうも、不幸な亡くなり方をされてしまったようだ。

碑が建立された昭和17年は、佐野先生が没してから53年目にあたる。50回忌の記念に建てたのかと思うけど、どうも中途半端な時期な気がする。碑文の最後には「‥先生ノ教へヲ受ケタリシ我我同志大東亜戦時下旧恩ヲ思フコト特二深シ依ツテ相謀リテ碑ヲ建テ其ノ徳ヲ頌シ之ヲ不朽二伝ヘントス」とある。


佐野竹之助と佐野蔵吉、2人に共通するのは幼いときから父親に受けた儒道による教育であったが、兄は(こういう言い方は過激だけど)テロリストとなり、弟は教え子達から長年にわたり敬愛を受ける人物となった。どちらも儒道の影響を受けた結果、別れた道なのかはわからないが、我が赤塚郷に眠る歴史なのである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

板橋区民、鷹と火縄銃を連射する。

0867194218_2302357

 ああ、なんて暖かい日なんだ‥羽毛布団を干したらフカフカになった。。シアワセ。。


告知を忘れていたが、昨日今日と我が赤塚郷の中心地、赤塚城趾公園下の溜め池公園を中心とした地区では、赤塚梅まつりが行なわれている。毎年3月第一土日だったけど、今年は2週間遅れの開催だ。

話は変わるが、昨日、注文していたカメラ・NikonD4sが手元に来た。本日は天気も良く、赤塚城址公園では古武道大会が開かれている。おお、新カメラをおろすにはうってつけじゃあないか、と言うことで、早速、赤塚城趾へ向かった。
外は晴天で風もなく暖かい。赤塚中央通りも梅まつりへ向う人達がたくさん歩いている。

城址公園の梅林はちょうど満開だった。家族連れやご夫婦、カップルがいっぱいいる。開封して充電したばかりのD4sを取り出す。”軽い”というのが第一印象だ。カメラは道具と割り切っているので、求めるのはギリギリの条件でどのくらい良い画を吐き出すのか、いかに楽に撮影出来、撮影後の処理も楽になるか、だけだ。ギリギリの条件とは何も極地で使うという意味じゃなく、雨の降る日の薄暗い室内で三脚もなしで撮らなきゃならないとか、絞りがもう少しとか撮って出しのjpegで使えるとかそんな感じかな。


さて、古武道大会ではいよいよ鷹匠の登場だ。付けているレンズは28-300、画角は万能で良いのだが、D3sではピントがはずれまくり、泣かされているレンズだ。D4sはAF性能が大幅に進化しているとの噂なので、期待をして付けてみた。
期待する‥が、おい!AF-Cモードはどこじゃあああ。説明書も見ずに持ち出したのでわからんじゃあないか。D3sではボディのスイッチでそれとわかるが、う〜ん。。そのままAF-Sモードで撮影したが、飛翔する鷹のピンを追うとやはりはずれるカットも出てくる。まあこれは単に腕のせいかな。。ちなみに画角はDXの1.5倍モード、450ミリ相当で撮っている。FINEのMサイズjpeg、カードにXQDを使っているので連射はさすがに早い。音も静かで軽い感じがする。ISOは800、Pオートで他のモードはすべてオートかノーマルか切った状態だ。

我が板橋区の誇る西洋流火術鉄砲隊保存会の演武も、発砲の瞬間の火薬のガスと火粒が飛び出す瞬間を概ね捉えることができた。やっぱり、フラッグシップといわれるカメラはいいなあ。性能の良いカメラを使うと、出来の悪い画をカメラの所為に出来なくなるのがね、身が引き締まるんですよ。

後は早くアドビライトルームやフォトショがD4sのRAWに対応することを待つばかりだ。。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

年度末記念☆祝!東武東上線開業100周年☆〜お宝公開Vol.6〜

0947087008710873

 年度末ですね。私事ですが、G.W.前期間や師走よりも年度末を向かえる時期が一番忙しいんです。確定申告もあるし。。息抜きとしてブログを書く方が多いと思いますが、時間配分のヘタなあっしはそんな器用な人間じゃないんす。

‥と言い訳をしつつお宝公開の続きを。あ、一枚目に、本日撮影した石神井川橋梁を走る百周年記念ステッカーを貼った東上線の写真をUPしときますね。車掌さんも思わず石神井川の桜に見とれてます。。


え〜っと今回のお宝も、沿線案内図ですね。「東武鉄道線路案内」とあり、東武本線と東上線が描かれているので、合併後の大正9年以降、大正11年12月改称の川越町駅が描かれているので、それ以前に発行された案内図だ。
制作はあの鉄道路線図の大家、「吉田初三郎 (1884~1955)」の手によるものだ。もっとも、大正から昭和にかけての日本の観光ブームによりひっぱりだことなり、大正名所図絵社が設立され、その工房で大量生産されたものと思われる。この案内図は東武博物館でも展示されていたかな、確か。

吉田初三郎による最初の鳥瞰図である『京阪電車御案内』が発表されたのが、大正3年(1914年)なので、東上鉄道が開業したのと同じ年、今年でちょうど100年となる。
初三郎は京都で生まれた。10歳で友禅図案師に丁稚奉公し、25歳のとき鹿子木孟郎に師事して洋画を学ぶが、鹿子木のすすめで商業美術に転向した。独特の鳥瞰図法を編み出し、それがうまく時代の波に乗り、初三郎のスタイルがスタンダードとして認知された。該当地の風土や歴史を事前に調査し、さらに現地に入って踏査写生および取材を行い、彼の目線で描くことが特色であったと言う。

顧客は鉄道省を筆頭に、鉄道会社やバス会社、船会社といった各地の交通事業者、旅館やホテル、地方自治体、それに新聞社などであった。

「該当地の風土や歴史を事前に調査し、さらに現地に入って踏査写生および取材を行い、彼の目線で描くことが特色であった。」とあるけど、板橋区域で言えば、東新町の「安養院」が描かれているのがすごいですね。見渡すと寺院ばっかですがちゃんと「岩窟ホテル」も描かれてます。

これが時代が下り違う制作者の手になると、昭和初期には兎月園が入ったり、昭和10年代に常盤台住宅地が、国民総動員法が制定されるとハイキングなどの体力増進を主眼とした案内図へと変化してゆく。その違いに想いを馳せるのが案内図を眺める楽しみですね。

大人気の初三郎鳥瞰図でしたが、第二次世界大戦下、地図などは軍事機密に属する情報だったので、製作を止められてしまった。その後は忘れ去られた存在となったけど、1999年、堺市博物館で大規模な回顧展が開かれたのを契機として各地の博物館で展覧会が開かれ、再評価されるようになった。


てなことで、現在、吉田初三郎の鳥瞰図は古本界で高額で取引されてますね。あっしは1990年代後半に手に入れたので数千円で買えました。助かった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年2月 | トップページ | 2014年4月 »