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2014年2月

☆祝!東武東上線開業100周年☆〜お宝公開Vol.3〜

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 いや〜ちょっと目を離していたらもう2月ですよ。立春です。
ようやく懸案事項が終わったので、新記事連載をがんばります☆


えー今回は東上線百年ネタ第3弾ということで、これは珍しい東上鉄道時代(たぶん‥東武鉄道の文字が入っていないので)の沿線案内っす。たしか東武鉄道博物館でも展示されてたかな。東武鉄道百年史にも使われていて、実物はけっこう良質の紙に印刷されてます。

沿線案内の路線は、坂戸町まで開業しているけど川越町駅があるので、大正5年から大正11年までの間に作成されたものかと思ったけど‥池袋に立教大学があるので、大正7年以降の路線図ですね。東京藝術劇場の場所にあった豊島師範学校は明治42年の開校。もう一つは成蹊学園ですかね?
東西を貫くのは旧川越街道ですね。だから板橋町も描かれているのでしょう。白子宿の先の”不動滝”は、「神龍山 清龍寺不動院」。いまでも滝行のみ3000円、特別祈祷つき5000円で修行が出来るそうですから、興味のある方は是非トライしてみてはいかが。

それにしても膝折(朝霞)から志木、新河岸にかけて”猟地””狩猟地”なんて書いてありますね。”狩猟”ですよ。熊ですか?鹿ですか?いのししですか?の世界。この時代はまだワイルドな武蔵野が生きていた時代ですね。

路線図で街場が描かれているのは川の近くが多く、これも舟運が栄えていた大正以前の景色ですね。基本、神社仏閣が多く描かれてます。街場に建つ煙突は何を表しているんすかねえ?工場でもなさそうだし‥。。あと、川越町はわかるけど、なんで坂戸町があんな大きく描かれているのだろう?このころはまだ未開の地(失礼!)とまで謂われていた所だったはず。。どうもこの時代の基準がよくわかりませんね。

路線図の左奥には、これから伸長予定の高坂や松山(東松山)が描かれてます。特に当時既に有名だった”吉見百穴”(国の史跡指定・大正12年)がド〜ンとありますね。さらにその隣にひときわ大きく描かれているものがある。読むと「岩窟ホテル」って書いてあります。「岩窟ホテル」?
なんじゃそりゃとさっそくカタカタっと調べてみると‥

「明治から大正時代の終わりにかけ、東松山市郊外の松山城跡の本丸下の懸崖をノミとツルハシだけでくりぬき、中央アジアで見かけるような宮殿風の建物をつくった男がいた。しかし内部の完成にはいたらず、実際に使われることはなかったという。
岩窟ホテルの正式名称は、「岩窟ホテル高壮館」というそうで、高橋峰吉という安政5年生まれの農夫が明治37年から大正14年までの21年間かけて、ノミひとつで掘りあげた建築物である。しかし、2度の崩落事故が内部で起こり、現在では建物周辺に柵が設けられていて入ることはできない。」

また、「岩窟ホテル」の名は、高橋峰吉がひたすらノミとツルハシだけで岩を掘り続ける、その様子が周囲から「岩窟掘ってる」と呼ばれ、転じて「岩窟ホテル」と称されるようになったものなのです。

てな話がスタンダードになっているようでゲスが、あっしはこう思うんです。
おフランスのアレクサンドル・デュマ・ペールが書いた『モンテ・クリスト伯』って小説があるじゃないですか。日本では、明治時代に黒岩涙香が『史外史伝巌窟王』の題名で翻案し、1901年(明治34年)3月18日から1902年(明治35年)6月14日まで『萬朝報』に連載された。以後、日本では長く『巌窟王』(がんくつおう)の名で一般に親しまれることとなったんですな。そんで、大正時代初めに、吉田岩窟王事件という強盗殺人事件が起った。これは昭和の岩窟王事件、日本岩窟王事件、吉田翁事件、吉田石松老事件ともいわれるくらい長く世間をにぎわせた。だから、”岩窟”という言葉は当時わりとブームな言葉だったんじゃないかな、そんなこともあって「岩窟ホテル」と称されるようになったと。この説はどうですかね?

この「岩窟ホテル」、ほんの15年くらい前までは見学出来たそうですが、崩落の危険のため立ち入り禁止となり、いまは心霊スポットとしてその道の人達には人気の場所だそうです。そこで、東上線百周年を記念して整備し、観光スポットとして復活させたら面白いんじゃないかと思いますね。


いや〜「八海山」の大吟醸を嘗めつつ、「内案路線道鉄上東」を眺めながら、いろいろな妄想に耽るのは楽しいですねえ。。

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☆祝!東武東上線開業100周年☆〜お宝公開Vol.4〜

Ikebukuro

 超さぶいと思ったら我が赤塚郷は雪に埋まってました。。

イケナイ‥、一つの懸案事項が終わり酒浸りの日々だ。昨夜は響12年、今夜はバランタイン17年をロックで嘗めながらブログの記事を書きはじめた。。このままでは後半は前回のようにヨレヨレになりそうだ。。次の懸案事項は確定申告書の仕上げか‥ああ‥頭が痛い‥


ていうことで、今回は衝撃の写真です。

‥こりはどこの埼玉の田舎?単線だから坂戸と越生線との分岐地点?‥いやいや、洞察が甘いですぞ。これは、これはですね、ななな〜んと!!皆がご存知の”池袋駅”であるぞ!あっ、正確にいうと池袋駅をバックに北方向を撮影した写真ね。わかるでしょ?直線の線路は埼京線、右にカーヴを描くのは山手線だ。

あ、うちらの世界では埼京線じゃなくて赤羽線ね。はぁ?とっくの昔に埼京線と名前が変わっただろが、と突っ込むのはシロウトさんだ。実は今でも、赤羽線はちゃんと存在している。赤羽駅から池袋駅間は、JR東日本社内では赤羽線という規定だ。埼京線という名は東北本線と赤羽線と山手貨物線の合体を総称した呼び方に過ぎない。赤羽線沿線の踏切には赤羽線と書いてあるのですよ。山手線も、おおざっぱには言えば東北線と東海道線と山手環状線の合体物なんすよ。

オタクっぽい話になってきたので最初に戻します。
えっと上の写真はですね、ウィキペディアの”池袋駅”の項に掲載の写真の同じ場所で振り向いて反対側を撮った写真なんすね。(カメラ位置は線路をはずしてちょっとずれてますが。)
電柱はすでに建ってるけど、山手線の電化は明治42年の暮れなので、撮影時期は明治30年代の後半から40年の初め頃ですかね。直進する赤羽線が当時の日本鉄道品川線で、右に行くのは豊島線、電柱の建っている左側に東上鉄道の軽便路線が敷設されるっちゅうことです。

品川線と豊島線が分岐している場所に、現在の池袋大橋が架かっていると思われますが、あんまり景色が違い過ぎて、まっっ、たく想像できませんね。もうほんと池袋村そのまんまの景色だ。電柱に隠れている茅葺き屋根の家々が見える場所は堀之内村(北池袋)ですかね。その先が下板橋。おそらく、当時の池袋駅周辺よりは街場だったと思われます。
池袋の発展は、前回の東上路線図に描かれているように、明治42年に豊島師範学校や成蹊学園が、大正に入って立教大学が引っ越してきて、上野の美術学校に通う貧乏学生のためのアトリエ付き下宿村(池袋モンパルナス)が出来、関東大震災後に一気に宅地化繁華街化したのがその歴史だ。

写真に写る畑?というか作物は何でしょうね。白っぽいのは花畑なんだけど、菊の花??その方面の知識がないのでわかりませんが。。


ああ、ここまで書いてウイスキーがロックで5杯目、頭クラクラ心臓がバクバクしてきたので一時書き込みをストップします。。続きはしばしお待ち下さい。スンマセン‥

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☆2014年・国指定重要無形文化財板橋区田遊びまつり強化週間始まる!☆

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 先週末はすんごい雪でしたね。ここ、赤塚郷もすべてが雪に埋もれて静かでした。。

なんて前回の池袋駅の記事の続きもマトモに書いていないのに新たな記事でスミマセン。。


本日から、我が板橋区が誇る”田遊びまつり”のシーズンが始まった。トップバッターは赤塚氷川神社の田遊びだ。
あまり知られてないけど、板橋区の田遊びは3ヶ所で行なわれている。
赤塚氷川神社では、大東亜戦争により中断したまま、戦後まつりの進行を知る方々がいなくなり、近年になってから一部の様式を復元して行なわれている。


赤塚氷川神社の田遊びまつりは、平日の夕方前におこなわれるので、北野や諏訪と違い、ほとんど、いや、まったくと言っていいほど外部の見学者は来ない。でも、今年はまつりの直前になって、保護者に連れられた20人近い子供達がやってきた。もちろん皆、地元の子達だ。

「ほう、これは関心関心」と思っていたら、いつもと違い、どんど焼きがほぼ終わりかけたころ、氏子連の婦人方が餅の用意をし、どんど焼きの灰を集めて焼き網を乗せ餅を焼きはじめた。なんだ、そうか。子供達は焼き餅が配られるということを知り動員されたのか。
まっ、たとえ餅に釣られたとしても、これは良いことなんじゃないのかな。きっかけは何でもいいんすよ、たぶん子供達はこのことを大人になっても憶えてるんじゃないかなあ。。どんど焼きの火で焼いた餅、なんてご利益もありそうだし。

それにしても、こんなアイデアを考えるのは常盤台の天祖神社くらいじゃないかなと思っていたけど、赤塚氷川神社もなかなかやるではないか。感心致しました。


さて、明日11日は徳丸の北野神社、13日は大門の諏訪神社でそれぞれ田遊びまつりが行なわれる。両方とも有名なのでたくさんの見学者がやってくる。
以前、田遊び強化週間の記事でまつりの開始時間について記述をした所、お叱りのコメントをいただいたことがある。これはつい自分が現場に着く時間を基準にしてしまった私が悪いんすが、保存会の人間ではないけど、ジモピーとして言いたいことがあるんすよ。

それは、そもそも、田遊びの開始時間とはなんぞや、ということ。北野神社では当日朝から、諏訪神社では前日から田遊びの準備は始まっている。準備それ自体も田遊びまつりの一つであり、行事はもう始まっているのだ。準備が終わり、日が暮れてから三々五々神社に集まり直来が始まる。そこで酔っぱらい良い気分になってから何となく、もがり上にて神様に対し、一年の農耕の様を演じて見せるのだ。それは時間を決めて行なわれるものではなく、途中飲みながら休みながらグダグダと明け方までおこなわれるのが本来の姿なのですぞ。

‥なんてジジイの小言みたいな文句は読み飛ばして下さい。


では、まつり開始の目安時間を以下に。


徳丸北野神社:2月11日午後6時ちょっと前から。(もがり上で始まる時刻の目安)

赤塚諏訪神社:2月13日午後7時30分過ぎから。(十羅刹社への行列出発時刻の目安・社務所内の接待行事開始は7時過ぎくらいから)

あくまでも時間ぴったりに始まるものではないですので、お気をつけ下さいネ。

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☆祝!東武東上線開業100周年☆〜お宝公開Vol.5〜

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 え〜大変申し訳ありませんでした。


‥と、いきなりお詫びから入りましたが、なんのことかと申しますかと言いますと、最近、飲みながら書いていることが多くって、途中から文章に乱れが生じて結局中途半端に終わるという自体が続いていますが申し訳ありません。なので本日は最初からチョーヤの黒糖梅酒を飲んでしまい酔っぱらって書いてます。。

それはさておき、たびたび書いてますがブログというツールは書き込みや訂正などが容易で、そこが良い点ですが過去記事が埋もれてしまい、検索に手間がかかるという弱点があります。だから過去の記事を訂正しても気がつかれにくいし訂正した事を告知したとしても、その書き込み自体もすぐに埋もれてしまい‥なんてことになっちゃうんですね。

‥と、長い前振りでしたが、お宝公開Vol2でしたか東上鉄道創業に奔走した内田三左衛門さんのことを書いた時、内田サンの出身を川越の豪商とか書いてしまいましたが、内田サンは板橋で醤油醸造業を営んでおりました。西台中央陸橋近くのお寺に墓があるのに変でしたね。酔っぱらってうろ覚えのまま書いてしまいました。。スミマセン。


気を取直して、さて本日公開のお宝は東上鉄道創立事務所が発行した東上鉄道株式会社の創立趣意書、仮免許申請書、仮免許状、目論見書、施設費用概算書、営業上収支概算書、それと定款をまとめた綴りです。
恐らく創立時の東上鉄道について解説する場合、この綴りが基礎資料となるかと思います。いや〜自分が所持していた事をすっかり忘れていて、先日、資料庫からひょっこり出てきました。いつ手に入れたのか記憶にない‥なんてことはどうでもいいですね。

今日はこの綴りの最初のページに貼られている東上鉄道敷設線路の予定図を公開します。

東上鉄道は、東京と上州を結ぶことから命名された、ちゅうことは有名な話ですね。でも、計画としては最終的には渋川を越え、越後の長岡までを結ぶ路線として計画されていました。まん中の写真がその全体図です。まあ結局はお上である官鉄に負けて寄居までの開業となったことがわかる図でもありますね。
それにしても、当初に計画されていた東上鉄道の駅名がすごいですねえ。三枚目の写真を見ていただければ解りますが、始点は巣鴨町字氷川ですが現在のどこらあたりですかね、大塚あたりかな。。他にも竹マ沢とか大井とか小坂とか能増とか今市とか小前田とか一体どこなんだよ、という感じですか、明治というか江戸時代の香りのする地名ですね。成増なんか白子ですよ。‥まあこれは川越街道の白子宿なのでしょうがないですね。

つうことで、梅酒で頭がグルグルしてきましたので今夜はこの辺で。文書かいてるより地図眺めて妄想している方に意識が働いてしまうんです〜〜〜


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