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2014年1月

2014年・新年なので、お宝でも公開するか。☆祝!東武東上線100周年☆

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 板橋区、及び周辺区、または当ブログにお越しの皆様方、明けましておめでとうございます。ここ、武蔵国赤塚郷も晴天のおだやかな新年を迎えております。赤塚中央通りも、東京大仏浄蓮寺へ向かう人々でごったかえしております。


2014年は、そう、昨年もたびたび触れてきたけど、板橋区内を東西に貫通する東武東上線が開業して100年目となる記念の年だ。正式な開業日は1914年(大正3年)5月1日。当時は東上鉄道株式会社として発足し、池袋駅 - 田面沢駅(現・川越市駅 - 霞ヶ関駅間)間が開通した。
開業当初の駅は池袋駅・下板橋駅・成増駅・膝折駅(現・朝霞駅)・志木駅・鶴瀬駅・上福岡駅・川越町駅(現・川越市駅)・田面沢駅の9駅で、翌6月17日に上板橋駅・高階駅(現・新河岸駅)が開業した。

開業まで様々な曲折を経たけど、それはネット上で他のマニアの方々が記事にしておられるので、参考にして下さいネ。(新年早々手抜きですんません。)

なぜ先を急ぐかと言うと、早く私の秘蔵するお宝の自慢をしたいからなんす。(キリッ。)


では自慢いきます。

掲出のチラシは、東上線が開業して一年目に配られた”開通一周年記念汽車賃半額イベント”の広告だ。B5版くらいのペラペラなチラシだけど、これはすごい逸品なんですぞ。数年前に私の手元に来てくれましたが、これと同じ物が、沿線の自治体が出した自治体史に掲載されている。地図や新聞広告や公文書資料を別にすると、最古級と思われる資料だ。もしかすると自治体史に掲載されたオリジナルの品そのものかもしれない。。

戦前の東武東上線、中でも大正期の東上鉄道時代の現物資料は極端に少なく、東武博物館にもあまり収蔵されていない。えっと、あまりというのは抽象的過ぎますね、川越機関区で撮影された開業時の写真集とか線路夫の半纏とかそれなりにはあります。が、東上線好きの私を含めたマニア達を満足させてくれるほどの情報や資料は残念ながらないんです。

今年は東上線開業100周年。そんなときにこそ、まだ知られていない資料が世に出てくる可能性があるのですぞ。博物館や資料館が企画展を計画する時、担当の学芸員はその知識やコネや伝手を辿り、情報を求めて資料を探しまくり、地元に眠る新資料を発掘したり、市井のマニアから私蔵されている資料を引っぱり出し、光が当てられるのだ。

‥しかし、残念ながら私の情報収集網には今年、東上線の特集展示が行なわれるという話は一件も無いのである。トホホ。まあ、東武博物館はやってくれると期待したいが、まだ博物館HPに情報はない。


しかたがないので、本年は、20年以上かけて収集してきた私蔵の資料を、過去に公開した物を含めて、当ブログで紹介していくことにする。


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☆祝!東武東上線開業100周年☆〜お宝公開Vol.2〜

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 新年スタートダッシュ新記事up!を目論んでましたが、もう松の内も過ぎちゃいましたね。。


前回と順番が違っちゃいましたが、今回のお宝は、東上鉄道が開業した時に配られたであろう開業案内図だ。
確か、東武博物館や大宮の鉄道博物館も所蔵している逸品ですな。大正3年6月に開業した上板橋駅が存在し、大正4年4月に開業した川越西町駅(現・川越駅)が無いことから、その間に制作された案内図ですかね。終点である田面沢駅から先もちょっと描かれていて、もっと路線は延びるぜ、という意思を感じさせます。沿線は寺院の紹介がごく簡単に記されてますが、成増南方の稲荷とはどこなんですかね?

前回、東上鉄道創業の話は、他の方が調べたブログとかHP とかウィキペディアを参考にしてね、と逃げましたけど、見ていただきましたか?実は、創業時の話はちょっと複雑なので書き上げるのが大変なんすよ。。

東上鉄道は、大正3年(1914年)に開業した。今年で100年だけど、ところで、私の父方も母方も爺さん婆さんの生まれは明治時代だ。特に父方の祖父は明治20年生まれで、その両親はナンと江戸時代!生まれだ。曾祖父は安政4年生まれだから、安政の大獄の前年で、高島秋帆先生もまだ岡部で幽閉されていた頃ですね。さすがに父方の祖父は私の生まれる前に亡くなっているけど、明治34年生まれの祖母とは普通に会話をしていた。小学生の時、明治生まれの父親を持つ同級生がいて、当時、「おまえの親父、明治生まれかよっ!」と驚いたけど、今となって思えば、50代で子供を設けるのは珍しくもないことで、郷ひろみなんてこの夏に57歳で双子の父親になる、なんてニュースが最近ありましたっけ。

話がだいぶ脱線してるけど何が言いたいんだよ、てなことで、そう、大正3年はそんな昔の話じゃないってことなんですよ。

そんな昔の話じゃないけど、わからないことが多すぎる。だいたい、終点の田面沢駅はどこにあったのか?なんてのもわかっていない。過去にマニアの方々が研究し、ほぼ駅の場所は特定されているけど、決定的な証拠はまだ無い。始点の池袋駅でさえ、開業時の写真すら発見されてないし、駅がどんな様子だったのかを示す資料もない。私が知っている限りでは、池袋の豊島区立郷土資料室が所蔵している、大正期から昭和20年に空襲で焼けるまで存在した通称”池袋モンパルナス”の想い出を描いた絵図面に、東上線の池袋駅が書かれているものがあることくらいだ。

今から20年くらい前、板橋区立郷土資料館で東武東上線の特別展が行われた。その時、講演会があって、当時、東武博物館の館長だった花上氏が講演をした。この展示会は画期的で、目玉は、花上氏が所蔵していた、フライング東上を始めとする東上線で使われた往年のヘッドマークの数々を一堂に展示したことだ。それまでヘッドマークは、花上氏のお宅の縁の下に長年眠っていて、もう少しレスキューが遅ければ朽ち果てていたかもしれなかったのだ。その時すでにフライング東上のHMは湿気でボロボロになっていた。
それらのHMは、花上氏が東武鉄道現業の頃、廃棄処分されるとの内部情報があり、処分場で待ち受け、貰い受けてきたものだった。

花上氏の講演が終わり、最後に質疑応答があった。その時、一人の小柄な老人が立ち上がり、私は、東上鉄道の創業に関わった内田三左衛門の孫だと名乗り出られた。内田氏が創業時、東奔西走した人物だったことは、下板橋駅近くに建つ東上鉄道記念碑に確か刻まれていたと記憶する。
俗に、「歴史は勝者によって作られる」という言葉があるけど、東武鉄道の社史には、東上鉄道設立に関しての記述はごく簡単に触れられているのみで、大正9年の東武鉄道との合併以前の話でも、初代・根津嘉一郎が中心となって設立を行なった、なんて話になっている。この内田の孫という老人は、子供のころから祖父に東上鉄道設立の苦労話を聞かされていたのだろうか、その過程で、はからずも創業の功績を奪われ、歴史から抹殺されてしまった祖父の悔しい思いを受け継いでおられるのか、しきりに花上氏に対し、名誉回復を訴えておられた姿を今でも憶えている。もちろん、創業時に尽力をつくした人物は、他にもたくさんいるだろう。

内田三左衛門は板橋で醤油醸造業を営み、内田家の墓は西台の蓮華寺にあるという。


という感じで次回、Vol.3をお楽しみに!

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2014年・新年なので、雑談をする。

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 今日は1月15日。いまだにこの日が成人の日と思ってしまいます。。成人の日が過ぎると、正月が終わったという感覚になりますネ。

シングルの祝日が週末にくっつけられるようになったのはいつからでしたっけ?もう忘却の彼方っす。先週末がそうでしたが、連休中の夜中でしたかBSで映画「新幹線大爆破」をやってましたね。板橋区民必見の傑作映画です。この映画の解説は以前当ブログしましたが、あらすじをウィキから引用すると‥

「ある朝国鉄に、本日東京駅を出発した「ひかり109号」に爆弾を仕掛けたと、脅迫電話がかかってきた。犯人は今でいう「負け組」となった三名のグループで、新幹線に爆弾を仕掛け、誰も殺さず殺されずに巨額の身代金を得ようと完全犯罪を計画したのであった。終盤まで、犯人グループと警察当局・国鉄とのスリリングな駆け引き、そして乗客乗員らのパニックが続く。」

映画「新幹線大爆破」は1975年7月5日に公開された高倉健主演の東映映画だ。パニック映画・特撮映画として、日本よりも海外で評価が高い作品なんだそうで、後にキアヌ・リーブス主演の「スピード」はこの映画をインスパイアして製作された、と言われている(ようです。)


だから、この映画のどこが板橋区民必見なのよ?って話は前にしたけど、高倉健を首魁とする犯人の「負け組」三名グループが潜伏していたのが、板橋区の蓮根・西台の三田線沿線とか新河岸川の工場地帯で、昭和40年代後半のここいら辺の映像がふんだんに出てくるんですよ。志村検車場とか西台駅構内とかもうね、なつかしくて涙が出てくる。冒頭の写真は、犯人の一人が匿われていた女のアパートを警察が急襲するシーンで、都営三田線6000形が高架を走る横の道路を、右端からやってくるパトカーが右折して九州石油のGS前で止まり、刑事が右奥のアパートに踏み込む。この画を1976年度版の住宅地図で確認すると、ロケで使われたアパートは篠崎アパートとだということがわかる。アパートの部屋の中シーンも実際にそこで撮影されているようですね。

特に感動したのは、女の部屋をガサ入れしているシーンで、捜査員が東武デパートの紙箱をパッと開ける一瞬がある。いや〜すごい。その小道具が映画の美術が用意したものなのか、ロケをした部屋に実際にあったものなのかわからないけど、”東武デパートの紙箱”がリアルだ。
東上線沿線民ならば、デパートと言えば池袋東武一択ですね。でも三田線沿線民は池袋駅に出るのはバスでわりと長距離乗らなくてはいけない(もしくは東上線の駅まで行く)、または巣鴨で乗り換えなくてはならないので、デパートなら銀座まで出る。
部屋の主の疲れた出で立ちの女は、水商売で働いている。いかにも場末のキャバレーに勤めているといった風情だ。そう、そこで”東武デパートの紙箱”ですよ。女は恐らく、池袋の安キャバレーで働いているんだろうなとその一瞬で思い起こさせるんですな。

そんなことで板橋区内のシーンばかり注視して観ているせいか、後半の止まる事が出来ない新幹線のスリリングなパートが全然頭に入って来ない。それと、この映画は犯人一味の首領を高倉健が演じているだけあって、場末の板橋に吹き溜まった「負け組」達のやりきれない切なさが描かれ、決してただのパニック映画になっていないのだ。

この映画のもう一つの主役、東海道新幹線のシーンは、<当時の国鉄に撮影協力を交渉した所、この映画のタイトルを聞かされた国鉄が難色を示し、タイトルの変更を要求されたが東映は拒否。このため撮影協力を得られず、ロケーション撮影が思う様にできなかった。>とウィキにあるけど、以前、神田にあった交通博物館の館長だった菅氏からこんな話を聞いた事がある。

「新幹線大爆破の撮影に協力してくれと東映に頼まれ、当時、国鉄の藤井松太郎総裁秘書だった私がその話を総裁に具申すると、そんな映画許可出来るか!とにべもなく却下されたよ。」

てな調子だったそうだ。
ちなみに菅元館長は中台のサンシティにお住まいの板橋区民である。


では今宵の雑談はこのへんで。寒いんで風邪引いたかなあ‥


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☆サンシティ大爆破☆

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 また、はま寿司へ行ってしまった。。今週は貝類のキャンペーンをしてますし。最近の私の体は、ぎょうざの満州のW餃子定食と、はま寿司で出来ていると言っても良いかも。。


えっと、前回の雑談の中で、中台のサンシティが出てきましたね。サンシティは板橋区のほぼまん中にある高層集合住宅街だ。1970年代の半ばに開発がはじまり、80年から入居が開始された。この話は以前もブログで記事にしたことがあるので重複するかもしれませんがお許しを。(ブログは気軽に加筆訂正が出来るので非常に便利なツールだけど、過去記事が検索しづらく、ページも埋もれてしまうという欠点がある。たまに、何年も前にUPした記事に苦情や感想のコメントをいただくことがあるけど、気がつかないこともあったりする。)

はいはい、サンシティの話ですね。
ここで、問題です。板橋区内で、高級住宅地と言えばどこでしょうか?「常盤台住宅地!」ピンポーン!てな解答はハズレではないけど、ちょっとね。間違えちゃないがもはや歴史的過ぎますね。

すでに解答は出てるけど、この中台の丘陵地域に建つ「サンシティ」こそが板橋区の高級住宅街のレジェンド、ラグジュアリーな街区なのですよ。なんつっても上板橋駅へも志村三丁目駅へもアクセスの悪い不便な地(広いから場所にもよるけど)にあるし、公共交通機関なんて庶民的なものは相手にしない‥とは言い過ぎですが、そんな立地にある。

竣工当時の分譲価格については手元に資料がないけど、噂によれば、おいそれと庶民が購入を考える価格ではなかったらしい。(当時の板橋区基準ね。)なんでも世田谷区の住宅街くらい‥の価格設定だったようだ。当然そこに入居するのは、金持ちか将来それなりの収入を得るスキルを持つ方々だった。ここは、目黒や世田谷の高級住宅地を求める、土地自体のブランドを欲するようなただの成金が買い求めるような所ではなかったのだ。だから、住人も意識の高い方が多く、現在でもコミュニュティの結束は固く、様々な活動も行っている。

サンシティは、コミュニティ間の連絡に早くからインターネットを活用していました。今から15年前の早い時期から独自ドメインを取得してH.P.を作っており、その母体はコミュニティで開催されていたパソコン倶楽部だったという。(そこらへんの歴史は、H.P.に詳しいので、ご覧下さい。→http://www.suncity.jp/mokuji/mokuji.shoukai.htm)

板橋区内の情報を伝えるH.P.が少なかった時代、よくこのサンシティのH.P.を覗かせてもらっておりました。

私も、ネットを始めたのは確か1997年くらいからで、ISDNサービスが普及したころでしたかね。それまでは通信料金が高かったので、区内の図書館に設置されたパソコンから、パソコン通信を覗くぐらいでした。たしか当時の板橋区には、「ヒューネットいたばし」という草の根パソコン通信ネットがあったっけ。割安なネット専用回線サービスが始まり、インターネットが普及したころに「板橋けやきネット」へと受け継がれ、現在はどうなのかな?まだネット上にそのページの残骸が残ってますね。→http://www.m-n-j.com/medianetjapan/pasotu/keyaki.html シスオペとかフォーラムとか懐かしい単語が並び、涙が出てきます。

えっと、本日のお題は「サンシティ大爆破」でしたね。ネット通信の想い出話に耽り忘れてました。当局に通報されそうなヤバイお題ですが、別に、爆弾を仕掛けたとかいう予告じゃありませんので通報はしないで下さい。
サンシティが開発される前、この台地には旭化成研究所があった。何を研究していたのかわからないけど、昭和44年の住宅地図を見ると、高台には発火製危険物倉庫群があったようだ。それ以前は何があったかというのが、掲出の写真ですね。これは戦前に前野町の現在、淑徳大学の建つ高台あたりから撮られたもののようだ。写真の現物は絵ハガキで、ローマ字で”東京瓦斯電気工業株式会社・火薬工場”とある。
この東京瓦斯電気工業株式会社は、大正~昭和初期に鉄道車両、自動車、航空機、その他を手がけた機械製造会社で、航研機を組み立てた航空機メーカーでもある。いすゞ自動車、日野自動車、ハスクバーナ・ゼノアの前身で、小松製作所やDMG森精機にも事業の一部が引き継がれている。戦前は軍需工場でもあり、爆弾の信管なども作っていたらしい。

板橋区は工業で発展した地域ですが、ようするに住宅地にはそぐわない危険な工場などを置ける場所ということで、それがすなわち前回もしつこく書いた”場末の板橋”のイメージを増幅させたんですね。単なる農村地帯ならそんなことはなく、それはただの田舎なのだ。


以前、西台の元・都立志村高校の近くの、大きな農家のお宅でこんな話を伺ったことがある。「昔、中台に火薬工場があってね、何度か爆発事故が起こったのよ。一度すごい爆発があって、ウチの土蔵の壁が崩れたことがあったワ。」
と、そんな物騒な土地だったんですね。サンシティは起伏のある土地に広がる緑の多い林を誇りに思い、大切に管理しているけど、実は危険な火薬庫を窪地に置き、林によって爆発の被害を抑えていたその名残でもあるのです。板橋区加賀の第二造兵廠跡もかつてはそうだったけど、こちらは土地ごと造成され、今ではまったく面影もありませんね。


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