板橋区民、散歩する。
気がついたら、12月も半ば近いじゃないか。
約一ヶ月も更新をサボっていたお詫びに、板橋区民とっておきのお散歩スポットでも書いてみよう。。
ということでスタートはすでに赤塚郷民御用達となった、徳丸七丁目の「はま寿司」からにしよう。今日からはま寿司ではマグロ大トロキャンペーンが始まった。一皿に一個だけど、本日はみなみマグロの大トロだ。油でつるつる滑って箸でつかめないくらいの大トロ。これで90円!!!‥ああ満足。腹一杯食べたので、腹ごなしに板橋区民の育った徳丸六丁目界隈をぶらぶらしてみた。
徳丸六丁目は、武蔵野台地の突端に位置し、荒川や前谷津川などに削り取られ舌状台地を形成している。だから坂が多い。
徳丸は遺跡が多く、ほぼ全域が埋蔵物包蔵地に指定されている。旧石器時代から現代まで、延々と人間が暮らし続けてきた絶好の土地なのだ。特に六丁目には遺跡が集中し、鎮守である北野神社も遺跡の上に建っている。
そんなことを頭に描きながら歩いてみよう。
六丁目は昭和40年代から始まった宅地造成が進み、今では住宅地と化している。大きいマンションの建つ所は、たいていが苗木を作っていたお宅の土地だ。北野神社の周辺は私の子供時代、畑もあまりなく、雑木林と荒れ地の続く寂しい場所だった。
昭和50年代初め、埋蔵文化財に関する新法律が施行され、遺跡の包蔵地として指定されている場所を開発する時には、発掘調査を行わなければならなくなった。法律施行以前に宅地開発されたいくつかの場所はすでに破壊されてしまったが、それでも残された土地は多く、あちこちで緊急発掘調査が行なわれていた。
私はその頃まったく遺跡の発掘調査に興味が無かったので、なにのんびり工事してるんだ。くらいの印象しか残っていない。
調査の終わった土地は住宅地と化してしまったが、それでも区民農園になったり、畑になったりしている所が今でもある。そんな場所を散歩の時に目をこらしてみてみよう。ほら、よく見ると地表に数千年前の弥生土器とか縄文土器の破片が出てるのを見る事ができる。写真は縄文土器片だ。いやまさか植木鉢の破片じゃん、なんてことはない。発掘調査の時に出た残土の中に紛れ込んでいた物が雨に洗われ、地表面に出てるのだ。拾い上げると面倒な事になるので、目視するだけにしよう。
六丁目には崖が多い。もともとは川の浸食で崖になったのだろうが、現在出てる面はほとんどが道路の拡幅工事の為に削られたものだ。そんな崖もお宝の宝庫だ。
昭和30年代の初め、東京大学の学者が徳丸に調査にやってきた。戦時中に防空壕を掘っていたら貝の化石が大量に出てきたので、金属供出されてしまった柄杓やお玉をこの貝で代用品として作っていたのをどこかから聞き込んでやってきたのだ。これは調査報告書が残っていて、私の手元にもある。
私も小学生時代、道路造成中の工事現場で遊んでいたら、下水道を掘っていた残土の中に大量の貝が混ざっているのを見つけたことがあった。早速家へ持ち帰り、菓子箱に脱脂綿を敷き詰めて標本にしていたが、母親にそんな汚いもんは捨てろといわれ、皆処分されてしまった。今、様々な収集したり、物を捨てられないのは、その時の悔しさの影響もあるのだろう。
写真の崖は、かつて化石堀りをして遊んだ場所だ。現在では、誰も近寄ろうとしないであろう何の変哲もないと言おうか、雑草の生い茂るばっちい場所にしか見えない。しか〜し、雑草をかき分けて入り込むと、壁面に粘土層が露出しているのがわかるだろう。掘ってみれば、貝の化石がまだ出てくるはずだ。ほとんどの人達は気がつかずに通り過ぎるだろうと思う。あの時代、ここで這いつくばって遊んでいた人間にしかわからない場所なのだ。
ということで、ちょっと思考を変えて散歩してみると、別な世界が見えてくるもんですぞ。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント