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☆疑惑の二造銃弾☆

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 本日、日本アニメ映画界の巨星、宮崎駿監督が引退を公式に宣言しましたね。現在公開中の「風立ちぬ」が長篇アニメ作品としての最後になるということです。公開直後に同作品を見に行きましたが、兵器拒絶バリアが強く、私にはイマイチな作品でした。(堀辰雄パートは別として)軍用機の話なんだから遠慮しないで描きゃいいのにと思いましたよ。

そういえば、ずいぶん前に生宮崎駿氏を真近で拝顔したことがある。都内某所の披露宴会場で、ジブリのアニメータの結婚式がありその場でお見かけしたっけ。そのアニメーターの方はネコバスやキキのデザインを担当しており、メインキャラ以外は宮崎駿氏からイメージを与えられ、造形するようなシステムになっているようでした。(推測ですが‥)
この時期はちょうど高畑勲監督が「ホーホケキョ となりの山田君」を製作していて、鈴木敏夫プロデューサーが、この披露宴の音を映画の披露宴シーンのガヤ音に使うからと言ってDATを設置していたっけ。それにしてもさすがに有名監督なので、宴会中の宮崎氏の席には親戚達がサインを求めてひっきりなしにやってきていた。ろくに食事も取れず大変だなあと思いつつ、色紙にマジックで描かれる絵を見ていたのですが、トトロって、左耳の左下から描きはじめる、ということを発見しました。。

さて、前回は八重の桜にからむ砲弾の話題についてでしたね。知らない人も多いと思いますが、かつて工業王国であった板橋区の原点は、明治維新直後、加賀藩下屋敷の敷地に置かれた火薬製造所にあります。それは大東亜戦争終結まで、東京第二陸軍造兵廠(二造)として役割を終える約70年余の間、存在してました。

確か、当ブログではニ造について取り上げたことはなかったですが、それはですね、最初から最後まで軍需工場として存在したため公表された情報や資料が少なく、また、専門的な研究対象として調査されたことがあまりない(板橋区でも多少は調査している)ので、なかなか書きにくいのですよ。一次資料から調べて行ったらそりゃもう大変、何十年かかることやら‥。以前、アメリカの公文書館でちらりと連合軍接収時の二造に関する文書群を見ましたが、絶望したくなるくらいの量に目眩がしました。。

私も長年の収集で二造に関する資料はいくつか持っているけど、どう紹介していくのか悩ましく、結果今日に至る‥のですよ。。
まあそんなことで取りあえずは簡単な略年表から。

明治4年(1871年)幕臣沢太郎左衛門がベルギーより輪入した火薬製造機械・圧磨機圧輪を兵部省に引き渡す。
明治6年(1873年)加賀藩前田家下屋敷が接収され陸軍省に売却される。
明治9年(1876年)元・加賀藩前田家下屋敷跡地の石神井川沿いに陸軍砲兵本廠板属廠が建設される(約3万坪)。黒色火薬の製造を開始する。
明治12年(1879年)砲兵本廠改粗により東京砲兵工廠板橋火薬製造所と改称する。
明治27年(1894年)日清戦争勃発により、無煙小銃用火薬の実用を開始する。
明治33年(1900年)無煙猟用火薬の製造を開始。軍用火薬の需要減により、民間用の火薬製造を始める。
明治39年(1906年)黒色火薬の製造を休止する。設備の一部を目黒製造所に移す。
明治44年(1911年)NN猟用無煙火薬の製造を開始し、従来の無煙猟用火薬の製造を中止する。
大正12年(1914年)火工廠体制に一本化され、陸軍造兵廠火工廠板橋火薬製造所と改称する。
大正14年(1916年)軍備整理に伴う職工整理計画により、人員整理を行う。全従業員数は150人程度。
昭和6年(1931年)火薬工場の製造工室を系統的に移設整備する。
昭和10年(1935年)NN猟用火薬の製造を中止。粗質無煙火薬で強力なマーズ猟用無煙火薬の製造開始。
昭和12年(1937年)支那事変発生後、軍需動員法が発令され、休止設備の運転開始、全設備の昼夜操業が始まり、工員も大幅に増員される。終戦時従業員数・2099人
昭和15年(1940年)兵器本部の新設に伴い、火工廠は東京第二陸軍造兵廠と改称する。
昭和20年(1945年)4月13日に空襲を受けるが被害は軽微。敷地は15万2千坪まで拡大。8月15日終戦時以降、製造停止。


ざっと以上な歴史ですが、付記をつけたらすごいことになるので、それは追々の話にしますね。

大本は、幕臣の沢太郎左衛門さんが幕末に欧州へ派遣され、苦労して火薬の製造技術を学んで製造機械まで購入して帰国するんですが、とりあえず滝野川に火薬製造所を作ろうと企画したところで維新戦争に巻き込まれ、器材を幕府船に積み込んで北海道に行く途中、一隻は銚子沖で沈没、圧磨機圧輪を積んだ船も新政府側に接収されてしまい、以降は年表の通りになるのです。

この圧磨機圧輪は黒色火薬を製造する機械で、水車を動力としてます。石神井川が敷地内を流れる加賀藩前田家下屋敷跡は、東京に近い郊外でもあり、この当時まで猪が出るくらいの鬱蒼とした林に覆われていて、火薬のような危険物を製造するにはうってつけの場所でした。現在の石神井川を見てもピンとこないでしょうが、昔は水深も浅く、特に圧磨機圧輪が置かれた場所はいまも名残りがあるけど、川が急カーブを描いていて激しい水流を得られる利点が考慮されていたんですね。この圧磨機圧輪は、現在、記念碑として板橋区加賀西公園に設置されている。(ちなみにそこは二造の正門のあった場所だ。)

圧磨機圧輪により製造されていた黒色火薬は、硝石、硫黄、木炭を混合して作り、後に主流となる無煙火薬は、綿や紙などの繊維状の物を硝化して作られました。

何だか、表題を☆疑惑の二造銃弾☆なんて付けましたけど、ちっとも話が進みませんね。もう疲れてきたので、すっとばして書いちゃいますが、板橋で製造した火薬はどうなるかと言いますと、おもに今の東京ドーム一帯にあった東京砲兵工厰に運ばれ、兵器として完成されます。この製造所は、都心に近いことと日露戦争で兵器の増産が急務になったので、明治39年に今の北区十条一帯の広大な敷地に移設されます。ここが後の東京陸軍第一造兵廠となり、板橋側で製造された火薬を構内電気軌道を利用して、現在の埼京線を越えて一造側に運び兵器の製造をしたというわけなんです。

ああ、もう目がしょぼしょぼしてきた‥。以上、ご理解いただけましたか?

話は変わるけど、昨年だったかな、銃弾収集家が長年集めた江戸時代から近年までのコレクションを、板橋区の郷土資料館が引き取ったのですよ。たぶん日本一のコレクションじゃないかなあ。海外のコレクターも延髄の逸品も多いそうだ。話によると、海外で300年かけて発展した銃器類が、幕末期に集中して日本に輸入されたせいで、試作品として作られた希少なものまでが日本国内に残っているらしい。

コレクションには日本製の物も多く含み(ようやく本題に近づいた‥)メイド・イン・ジャパンとなれば、東京砲兵工厰製や一造製の弾もあるわけですよ。んで、その中に”二造製”の銃弾が存在しているらしい。あれ?板橋は火薬だけ作ってたんじゃないの?、私もそう信じてました。上の写真の”アリサカライフル”の銃弾の薬莢の裏が無地か、”ろ”とコード記号が刻印された弾がメイド・イン・板橋製だそうなんですって。でも、そう言われてもねえ‥。根拠も説明してくれないと、あっしらシロウトにはわからんですよ。ちなみにアリサカライフルは、海外で日本製の小銃を呼ぶ呼び名で、三十年式歩兵銃や三八式歩兵銃、九九式小銃なんかもArisaka rifleと呼ばれるんです。秋帆先生が輸入したゲベール銃と同じですね。(ゲベールは小銃の意味)


と、いうことで疑惑の二造銃弾の解明は何も解決せずこのへんで。。次回続く、のか?


大河ドラマ「八重の桜」も明治編に入り、同志社大学設立を目指して夫・新島襄との二人三脚が始まりました。こそっとつぶやきますが、西南戦争はキッチリと描き、最終回は日露戦争前までのようですよ。


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