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2013年9月

☆疑惑の二造銃弾☆

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 本日、日本アニメ映画界の巨星、宮崎駿監督が引退を公式に宣言しましたね。現在公開中の「風立ちぬ」が長篇アニメ作品としての最後になるということです。公開直後に同作品を見に行きましたが、兵器拒絶バリアが強く、私にはイマイチな作品でした。(堀辰雄パートは別として)軍用機の話なんだから遠慮しないで描きゃいいのにと思いましたよ。

そういえば、ずいぶん前に生宮崎駿氏を真近で拝顔したことがある。都内某所の披露宴会場で、ジブリのアニメータの結婚式がありその場でお見かけしたっけ。そのアニメーターの方はネコバスやキキのデザインを担当しており、メインキャラ以外は宮崎駿氏からイメージを与えられ、造形するようなシステムになっているようでした。(推測ですが‥)
この時期はちょうど高畑勲監督が「ホーホケキョ となりの山田君」を製作していて、鈴木敏夫プロデューサーが、この披露宴の音を映画の披露宴シーンのガヤ音に使うからと言ってDATを設置していたっけ。それにしてもさすがに有名監督なので、宴会中の宮崎氏の席には親戚達がサインを求めてひっきりなしにやってきていた。ろくに食事も取れず大変だなあと思いつつ、色紙にマジックで描かれる絵を見ていたのですが、トトロって、左耳の左下から描きはじめる、ということを発見しました。。

さて、前回は八重の桜にからむ砲弾の話題についてでしたね。知らない人も多いと思いますが、かつて工業王国であった板橋区の原点は、明治維新直後、加賀藩下屋敷の敷地に置かれた火薬製造所にあります。それは大東亜戦争終結まで、東京第二陸軍造兵廠(二造)として役割を終える約70年余の間、存在してました。

確か、当ブログではニ造について取り上げたことはなかったですが、それはですね、最初から最後まで軍需工場として存在したため公表された情報や資料が少なく、また、専門的な研究対象として調査されたことがあまりない(板橋区でも多少は調査している)ので、なかなか書きにくいのですよ。一次資料から調べて行ったらそりゃもう大変、何十年かかることやら‥。以前、アメリカの公文書館でちらりと連合軍接収時の二造に関する文書群を見ましたが、絶望したくなるくらいの量に目眩がしました。。

私も長年の収集で二造に関する資料はいくつか持っているけど、どう紹介していくのか悩ましく、結果今日に至る‥のですよ。。
まあそんなことで取りあえずは簡単な略年表から。

明治4年(1871年)幕臣沢太郎左衛門がベルギーより輪入した火薬製造機械・圧磨機圧輪を兵部省に引き渡す。
明治6年(1873年)加賀藩前田家下屋敷が接収され陸軍省に売却される。
明治9年(1876年)元・加賀藩前田家下屋敷跡地の石神井川沿いに陸軍砲兵本廠板属廠が建設される(約3万坪)。黒色火薬の製造を開始する。
明治12年(1879年)砲兵本廠改粗により東京砲兵工廠板橋火薬製造所と改称する。
明治27年(1894年)日清戦争勃発により、無煙小銃用火薬の実用を開始する。
明治33年(1900年)無煙猟用火薬の製造を開始。軍用火薬の需要減により、民間用の火薬製造を始める。
明治39年(1906年)黒色火薬の製造を休止する。設備の一部を目黒製造所に移す。
明治44年(1911年)NN猟用無煙火薬の製造を開始し、従来の無煙猟用火薬の製造を中止する。
大正12年(1914年)火工廠体制に一本化され、陸軍造兵廠火工廠板橋火薬製造所と改称する。
大正14年(1916年)軍備整理に伴う職工整理計画により、人員整理を行う。全従業員数は150人程度。
昭和6年(1931年)火薬工場の製造工室を系統的に移設整備する。
昭和10年(1935年)NN猟用火薬の製造を中止。粗質無煙火薬で強力なマーズ猟用無煙火薬の製造開始。
昭和12年(1937年)支那事変発生後、軍需動員法が発令され、休止設備の運転開始、全設備の昼夜操業が始まり、工員も大幅に増員される。終戦時従業員数・2099人
昭和15年(1940年)兵器本部の新設に伴い、火工廠は東京第二陸軍造兵廠と改称する。
昭和20年(1945年)4月13日に空襲を受けるが被害は軽微。敷地は15万2千坪まで拡大。8月15日終戦時以降、製造停止。


ざっと以上な歴史ですが、付記をつけたらすごいことになるので、それは追々の話にしますね。

大本は、幕臣の沢太郎左衛門さんが幕末に欧州へ派遣され、苦労して火薬の製造技術を学んで製造機械まで購入して帰国するんですが、とりあえず滝野川に火薬製造所を作ろうと企画したところで維新戦争に巻き込まれ、器材を幕府船に積み込んで北海道に行く途中、一隻は銚子沖で沈没、圧磨機圧輪を積んだ船も新政府側に接収されてしまい、以降は年表の通りになるのです。

この圧磨機圧輪は黒色火薬を製造する機械で、水車を動力としてます。石神井川が敷地内を流れる加賀藩前田家下屋敷跡は、東京に近い郊外でもあり、この当時まで猪が出るくらいの鬱蒼とした林に覆われていて、火薬のような危険物を製造するにはうってつけの場所でした。現在の石神井川を見てもピンとこないでしょうが、昔は水深も浅く、特に圧磨機圧輪が置かれた場所はいまも名残りがあるけど、川が急カーブを描いていて激しい水流を得られる利点が考慮されていたんですね。この圧磨機圧輪は、現在、記念碑として板橋区加賀西公園に設置されている。(ちなみにそこは二造の正門のあった場所だ。)

圧磨機圧輪により製造されていた黒色火薬は、硝石、硫黄、木炭を混合して作り、後に主流となる無煙火薬は、綿や紙などの繊維状の物を硝化して作られました。

何だか、表題を☆疑惑の二造銃弾☆なんて付けましたけど、ちっとも話が進みませんね。もう疲れてきたので、すっとばして書いちゃいますが、板橋で製造した火薬はどうなるかと言いますと、おもに今の東京ドーム一帯にあった東京砲兵工厰に運ばれ、兵器として完成されます。この製造所は、都心に近いことと日露戦争で兵器の増産が急務になったので、明治39年に今の北区十条一帯の広大な敷地に移設されます。ここが後の東京陸軍第一造兵廠となり、板橋側で製造された火薬を構内電気軌道を利用して、現在の埼京線を越えて一造側に運び兵器の製造をしたというわけなんです。

ああ、もう目がしょぼしょぼしてきた‥。以上、ご理解いただけましたか?

話は変わるけど、昨年だったかな、銃弾収集家が長年集めた江戸時代から近年までのコレクションを、板橋区の郷土資料館が引き取ったのですよ。たぶん日本一のコレクションじゃないかなあ。海外のコレクターも延髄の逸品も多いそうだ。話によると、海外で300年かけて発展した銃器類が、幕末期に集中して日本に輸入されたせいで、試作品として作られた希少なものまでが日本国内に残っているらしい。

コレクションには日本製の物も多く含み(ようやく本題に近づいた‥)メイド・イン・ジャパンとなれば、東京砲兵工厰製や一造製の弾もあるわけですよ。んで、その中に”二造製”の銃弾が存在しているらしい。あれ?板橋は火薬だけ作ってたんじゃないの?、私もそう信じてました。上の写真の”アリサカライフル”の銃弾の薬莢の裏が無地か、”ろ”とコード記号が刻印された弾がメイド・イン・板橋製だそうなんですって。でも、そう言われてもねえ‥。根拠も説明してくれないと、あっしらシロウトにはわからんですよ。ちなみにアリサカライフルは、海外で日本製の小銃を呼ぶ呼び名で、三十年式歩兵銃や三八式歩兵銃、九九式小銃なんかもArisaka rifleと呼ばれるんです。秋帆先生が輸入したゲベール銃と同じですね。(ゲベールは小銃の意味)


と、いうことで疑惑の二造銃弾の解明は何も解決せずこのへんで。。次回続く、のか?


大河ドラマ「八重の桜」も明治編に入り、同志社大学設立を目指して夫・新島襄との二人三脚が始まりました。こそっとつぶやきますが、西南戦争はキッチリと描き、最終回は日露戦争前までのようですよ。


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板橋区民、東京最新トレンドスポットに招待される。☆mAAch ecute open!☆

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 やっと涼しくなった〜と思ったら今日はちょっと暑かったですね。。

昔、神田須田町の万世橋横に交通博物館があったことを憶えている方も多いかもしれない。ひょっとしたらまだそこにあると思っている方もいるかも‥。残念ながら、旧交通博物館は2006年5月14日に閉館しており、その鉄道部分を引継いだ鉄道博物館が、2007年10月14日に大宮区の大成にオープンした。
実は、旧交通博物館と鉄道博物館は運営をまかされている財団が別で、正確には直系ではない。(親会社は両方ともJR東日本ですが)交通博物館は交通文化財団の運営で、大阪弁天町の交通科学博物館と同系列だった。だから、交通科学館へ渡った展示品もいくつかあるのだ。


交通博物館は、閉館してから一昨年まで昭和10年に建てられた建物が残っていたが、移築されることなく壊され、跡地には見上げるような高層のJR神田万世橋ビルが建ち、展示室のあった中央線の高架下部分には、商業複合施設「マーチエキュート神田万世橋」が今週土曜日(9月14日)にオープンすることになった。
それに先立ち、本日、マスコミやVIP、招待客を対象にプレオープン会が行なわれ、その華やかなお披露目に、不肖、板橋区民も招待されたのである。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130912/k10014483481000.html


JRの高架線下には、新橋や有楽町のように昔ながらの飲屋街があるけど、最近、明治時代に施工された煉瓦造りの高架下空間には、とてもオシャレな店が増え、その最新スポットがこの「マーチエキュート神田万世橋」なのである。特徴は、何と言ってもこの場所にかつてあった中央線ターミナル「万世橋駅」(明治45年〜昭和18年)が存在した、その遺構を生かして作られていることだ。内容は、施設のHPを見たほうがわかりやすいので省略しちゃいますが、目玉は、昭和18年の閉鎖後、70年の間決して立ち入る事の出来なかった、旧万世橋駅ホーム跡に作られた「展望室」とそこに付属する、カフェバー「N3331」だ。いわば駅の立ち食いソバ屋のおしゃれ版(イメージ違いますけど)で、両脇を行き交う中央線や、遠くには総武線、山手線を眺めながらゆったりと過ごすことが出来る空間になっている。こりゃ鉄ちゃんにはたまらんですな〜。残念なことは、大人向きに出来ており、お子様にはちょっと、、な場所であることかなあ。おそらく、これからその辺が問題になるかもですね。

まっ、お近くにお寄りの際は是非どうぞ。川の傍に存在する高架線は、なんかイイ景色ですよね。。

http://www.maach-ecute.jp/


明治時代に造られた旧国鉄の万世橋駅(東京都千代田区)が、
レトロな商業施設「マーチエキュート神田万世橋」として生まれ変わり、
14日の開業初日から家族連れなどでにぎわった。

中央線の御茶ノ水―神田駅間に位置する同駅は1912年(明治45年)に誕生。
当時の駅周辺は銀座と並ぶほどにぎわったが、戦時中の43年に利用客の減少で廃止された。
トレードマークの赤レンガ造りの高架橋は今も残され、1階に新たに飲食店など10店舗が入ったほか、
2階のプラットホームも展望デッキやカフェとしてよみがえった。

午前中には式典が開かれ、JR東日本の出口秀已東京支社長らがテープカットを行い、開業を祝った。

9月14日11時50分 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130914-OYT1T00419.htm

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板橋区民、高島平を買い戻す。

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 いや〜先週の雨台風一過で秋らしい青空と涼しい日々が続き気持ちがいいですね。まさに板橋ハ晴天ナリ、ですネ!

さて、ワールドワイドに板橋関係(北豊島郡)の資料を収集している板橋区民ですが、とある地方の古書店で個人のポケットアルバムが売られていたのを見つけ、買い取りました。
アルバムには、建設途中の高島平団地のカラー写真が貼付けてあり、ここに住処を求めようと下見に来たときに撮った写真のようです。アルバムの表紙には撮影者の名前が書いてあり(画像処理済み)、名字は西台や中台あたりの旧家で見かけるお名前でした。裏面には東武練馬駅前の写真屋・久元屋(イオン対面の大黒屋の所にあった)の印が押されてました。

当時、写真の現像は久元屋か不動通りにあったユニカメラ(こちらは昭和50年代からだったかもしれない‥)に、頼みに行った記憶がありますね。。
この頃は、ようやくカラープリントサービスが我が赤塚郷地域でも始まり、薄い記憶だけどサービス版1枚が70円くらいだったかな。自販機の250ml!(現在の350mlが普及したのは昭和60年代くらいから。)缶ジュースが50円だったので、プリント代は高いものでした。スライドのコダクロームなんて、航空便でハワイへ送って現像してたのですよ。

どんな事情でこのアルバムが地方の古書店に流れたのかはわかりませんが、以前、常盤台住宅のパンフレット諸々の資料を、やはり地方の古書店で入手したことがあるので、よくあることのようです。
アルバムには、荒野の中を走る4両編成の都営六号線なんかが写っていて、実に感慨深いですね。ただ、これから新しい街が出来るぞ!てなワクワク感より、東京23区の最果て‥なんて場末感が漂ってるような気がします。。

モノクロ写真と違い、古いカラー写真、とくにカラープリント写真は色の退色が激しく、このままでは早晩画像が消えてしまう恐れがあります。また、アルバムのビニール部分に湿気がまわり写真と癒着してしまっていて、無理に剥がすと画像を損傷する恐れがあるので困ったもんですね。昔の写真は、糊でアルバムに貼付けたりしていて、糊の劣化により画像面にダメージが出たりしているのがよくあります。。


今週初めでしたか、東京都市整備局が「地震に関する地域危険度測定調査(第7回)」を公表し、メディアでも大きく報道されました。
その報告書を見ると、高島平地区が板橋区内でもっとも安全な地帯であることが確認されています。

http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/bosai/chousa_6/home.htm

http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/bosai/chousa_6/19itabashi.htm


いや〜失礼しました。”液状化しやすいんじゃねえの?”とか、”建物は大丈夫なのかよ?”なんてさんざん不安をあおり、申し訳ないことをしました。確かに戦前からの区画のままの住宅街や、畑や谷を埋め立て農道をそのまま舗装した細道なんかがある場所(板橋区はそんな土地が多い。)に比べれば、きっちり都市整備された市街である高島平地区は、安全な場所ということです。今や高級住宅街は、常盤台じゃなくて高島平ということっすね。

‥と持ち上げといてなんなんですが、これとは逆に、板橋区の発行するハザードマップによれば、区内の危険地帯として、高島平地区一帯が指定されてます。これは、水害による被害を受ける可能性が高い‥ことを示しており、今月から気象庁で運用が始まった「大雨特別警報」(先週の台風18号で、京都地域に初指令された)クラスの豪雨に耐えられるのか、ということかと思われます。

実は、高島平地域には、浸水対策用の雨水幹線の下水道として、高島平1号幹線(のとやとかケーヨーD2のある通りの地下)が1999年度に整備されている。これによって浸水被害は軽減され、2001年7月には1時間降水量95.5mmもの豪雨に見舞われたが、床下浸水1戸の被害にとどめることができた。もう一つ、高島平緑地の高島平5丁目から三園1丁目あたりには、巨大な地下貯水槽が作られてある。

な〜んだ、なら安心じゃん。で済めば良いけど、ならばなぜ板橋区のハザードマップに危険地帯と載っているのか‥??
想像するに、かつて赤塚郷の台地を荒川をめざして流れていた前谷津川など、幾筋もあった水路は、現在はすべて暗渠化されている。道路のアスファルト化や宅地化も進み、そこへ想定外の短時間豪雨が降り注ぐと、その水が一斉に荒川めがけて殺到し、キャパを越える水量が高島平地区に溢れてしまう、ということなのでしょう。前に、高島平駅前交差点が水没したこともありましたっけ。


何十年に一度という想定の雨が、一年のうちに数回降るようなこのご時世、早急に今以上の災害に備える対策が必要ですね。。

      

     


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チョー久しぶりに兎月園の写真でもUPするか。

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 涼しい日が続きますが、なんだか眠りが浅くぼんやりした日を過ごしております‥夏バテかな?


おまたせしました。大正後期〜大東亜戦争中まで赤塚郷成増村はずれに存在した遊園地、兎月園の写真をUPします。
現物のポストカードを入手したのは初めてですが、すでに練馬区のH.P.では公開されている写真なので、当ブログ的には新鮮みがありませんね。。

写真には、ボートを浮かべた池や、高台にある東屋なんかが写っています。施設は時代によって姿を変えていきましたが、基本的には前野町の”さやの湯処”や”こども動物園”や”運動場”なんかを併せ持ったような娯楽施設で、戦争が始まってからは規模を縮小し、主に軍の慰安所として使われていたようです。
成増飛行場の聞き取りをしていた時、地元の古老が「あそこに東条英機が滞在して飛行場の場所の下見をした」なんて噂話をしてましたが、記録では、陸軍の大河内大佐が滞在して飛行場範囲を下見したようですね。特攻隊員の宴会をしたとの話も聞いたことがあります。
園内の様子は、過去に何度か当ブログにて写真をUPしておりますので不親切ですが、探し出して見て下さいネ。


兎月園は、現在では住宅地に変貌して、当時の面影はまったくありませんが、地形や水路跡を辿れば、往時の姿を感じることが出来るかもしれません。右上に掲出の地図を頼りに散策してみて下さい。この地図は、「東京の水2009fragments」さんのブログから、許可を得て転載させていただきました。現在の様子もたくさんの写真を使い解説されておりますので、是非ご覧下さい。

http://tokyoriver.exblog.jp/18072907

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板橋区民、感懐に浸りながら回転寿司を食べる。

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 9月も終わりかぁ‥3ヶ月後は大晦日ですね。。

9月27日、板橋区民の故郷、赤塚郷徳丸8丁目に回転寿司チェーンの「はま寿司」がオープンした。かつて存在した番場坂の近くにある。
え?番場坂って何?、と思われるのは無理も無い。昭和の終わる頃に行なわれた四葉地区区画整理以前、松月院通りは、新大宮バイパスからマルエツ四葉店方面に進み、紅梅小学校から不動通りに抜けるのが本道で、現在のコメダ珈琲とかユニクロの前を通る道は存在しなかった。
番場坂は、かつて紅梅小脇近くから高島平へ抜ける一番大きな坂道で、今では無惨に切り刻まれ、往時の面影はない。

左から3番目の写真、「はま寿司」の店舗を過ぎた所にある信号が、松月院通りから下った番場坂が、高島平へ向い右へ急カーブする位置にあたる。
掲出のモノクロ写真(左側)は、1970年代後半に撮影したもので、見切れているが、「はま寿司」は右端の方向にある。現在の同じ場所と思われる所から撮って見たが、わかりますかね?右端のモノクロ写真は、「はま寿司」の先の信号のもうちょい先で写したものだ。どうでしょう?殺伐としてますでしょ。

板橋区民は高校3年生の頃、ブローニーカメラの「マミヤプレス」を手に入れた。マクドナルド、サンシャインシティインポートマート店のオープニングスタッフとして一生懸命バイトして買ったものだ。「マミヤプレス」は名前の通り、新聞社などが使う速写性に優れたレンズシャッター式のブローニーカメラで、フイルムバック交換で6X4.5や6X6や6X9の撮影が出来た。カメラを手に入れたのがうれしくて、現在も売っているけど、創刊されたばかりの「月間カメラマン」誌にマミヤプレスのインプレッションを投稿し、創刊2号に堂々掲載されたのも懐かしい想い出だ。この頃から文章力はあったんですよ。(単に投稿が少なくて採用された‥のかもですが)

で、早速カメラを試してみようと持ち出して撮ったのがこの写真だった‥と思う。殺伐とした徳丸側と、整然とした高島平の団地群との対比を撮りたかったようだ。(自分で撮影したけど動機がハッキリ思い出せない‥)

しかし、感慨深いなあ‥左端の写真の真ん中に写るマンション(ワールドマンション)は現在もある。今は左右にマンションが建ち赤塚公園も整備され、木々に遮られてまったく見えませんね。
何回か書いてるかもしれませんが、東西に長い赤塚公園は、高島平の工事とともに整備された。現在は樹木が生い茂る公園になっている。だがしかし、である。ジモピーに言わせれば、赤塚公園の林は人工的に植林された林であり、オリジナルの武蔵野の面影を残した植生の林ではないのだ。(ニリン草公園あたりは昔ながらの林が残っているけどね)

なんかね、高島平と同じで”まるごと宅地開発されちまった”感は拭えない。そりゃまあさ、あんな殺伐とした風景よりよほどマシにはなりましたけどね。しかし、子供の頃に親しんだ景色が変わるのは、センチメンタルな気持ちにならざるを得ないのですよ。


オープンしたばかりの「はま寿司」に入店し、さっそくお寿司を食べた。「はま寿司」は初めてだが、九州の醤油も置いてあったので、九州地方が発祥の店なんだろう。シャリも少し甘いように感じた。
いままで私が愛してやまなかった回転寿司屋は、和光市のスシロー(川越街道とオリンピック道路の交差点近く)一択だったけど、この「はま寿司」のネタはスシローと同等で、しかも平日は94円!!。10皿食べて1000円でおつりがくる!!。こりゃもう板橋区民御用達の店はこの「はま寿司」に変更せざるを得ない。

かつて”東京の満州”だの”板橋のチベット”だのと蔑称されたこの四葉徳丸地域で、回転寿司が食べられるような日がくるとは‥心にこみ上げる感慨を噛み締めながら、次の皿を取る板橋区民であった。。

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