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2013年8月

今日は志村地区大空爆の日。〜昭和20年8月10日〜

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 暑い。いや、熱い。こりゃ板橋区も今年の最高気温を記録しそうですね。数日前からエアコンの設定ミスで軽い夏風邪で喉をやられ、ご飯がおいしくないです。。


季節柄、戦争関連のドラマやニュースが目につきますね。
68年前の本日、朝から昼にかけて我が板橋区は、鬼畜米軍爆撃機・B-29の激しい空襲にさらされました。板橋区が発行している「板橋区 平和祈年マップ」を参考に当日のデータを写しますね。<調査は教育委員会の文化財係が行なったもの>


年月日   昭和20年(1945)8月10日
空襲警報発令    午前7時29分〜10時50分
来襲機数      B-29 78機
爆弾数       333.5トン(板橋区域以外含む)
目標        東京陸軍造兵廠、中島飛行機荻窪工場
罹災区域(板橋区内)志村町、志村小豆沢町1丁目〜3丁目、志村中台町、志村蓮根町、茂呂町、小山町、
          根ノ上町
死者(板橋区内) 76名
負傷者(板橋区内) 179名
被災家屋(板橋区内)968棟
主な被害施設    東京光学小豆沢工場、村山鉄工所、板橋航空工業、鎌瀬製作所、中央製靴会社工場、
          日本硝子会社、日本瓦斯会社、志村変電所、志村国民学校、志村第四国民学校、
          上板橋第二国民学校、小豆沢人神社、龍福寺


いつだったかの記事にも書いたけど、空襲には”最初から狙った空襲”と”第二目標とされた空襲””ついでに爆弾を落とされた空襲”がある。
最初から狙われた空襲とは、米軍が作戦として第一目標と定めて行なった空襲で、8月10日の空襲はこれにあたる。第二目標とは、天候等で第一目標が狙えなかった場合の目標で、当初は中島飛行機工場が狙えなかった場合、帰りのルート上にある隅田川近辺の工場地帯が狙われた。ついでの空襲とは、爆弾投下のタイミングが狂ったり、爆弾を捨てなければならなかった場合に落とすことで、中島飛行機工場爆撃後のルート上にある板橋区域の場合は、ついで空襲が多かったようだ。米軍がターゲットナンバーを与えた板橋区内の主な攻撃目標は、成増陸軍飛行場と陸軍第二造兵廠を含む志村一帯の地域である。
現在のように、衛星や無人機からの情報を元にピンポイント爆撃できるシステムもなかったこの時代、米軍も、空襲の目標は一応、軍需工場に定めていたけど、ほとんど無差別に近い爆撃になっている。

この日の空襲は、B-29観測機から撮影された写真からわかるように、赤羽周辺の軍事施設が集中的に狙われているようですね。あの伝説のフレームビルダー・梶原さんのお宅には、恐らくこの日の物と思われる爆弾の破片が保管されている。梶原さんの父上が、空襲後に近所の爆撃された工場に落ちていた破片を拾って来たのだそうだ。

他にも、2000年には三田線志村三丁目駅付近から1トン爆弾が(右の写真)、最近では2011年に前野町のペンタックスの敷地から250キロ爆弾、今年7月には北区赤羽北から1トン爆弾(まだ未処理)が出てきてますが、いずれもこの8月10日の空襲時の不発弾と見られてます。(6月に北区西ヶ原で発見された爆弾は、旧日本陸軍の物)


終戦から70年近くの年月が過ぎ、空襲の跡も、人の心からも、戦争はすっかり忘れ去られてしまった感がありますが、ある日突然、ひょっこりと顔を出す不発弾や、地元の資料館に新たに寄贈される資料や写真を見るにつけ、まだまだそんなに長い年月が経ってはいないのだと感じますね。。


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板橋区民、転居あいさつを出す。

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 お盆休みのシーズンですね。昨日は、非公式記録ながら大和町交差点の大気汚染観測所で外気温40.0℃を記録したとか。

そんなことで、もう暑さに耐えられず、長年住み慣れた板橋区からついに引っ越す決心をしまして‥ではもちろんないです。表出のポストカードは、高島平団地に引っ越してきた人達が、転居挨拶に使用したであろうハガキです。

高島平団地は、昨年、オープン40周年を迎え、様々な記念行事がおこなわれました。先月も、NHKの総合放送「探検バクモン」にて2週に渡り高島平団地が取り上げられてましたね。ちなみに、案内人の爆笑問題の太田サン(東上線沿線の上福岡出身)は大東文化大学の付属高校に通っていたので、高島平に詳しいらしい。(彼は高校時代は変人で通し、まったく友達がいなかったと公言しているので、あやしいですが。)

高島平の開発工事が始まった頃、私は、赤塚郷の丘の上にある小学校に入学し、基礎工事から完成するまでをリアルタイムで見てました。まず、大量の作業員を運ぶため、地下鉄・都営六号線の工事が一番最初に行なわれましたっけ。
当時、乗り物関係に異常な興味を示していた私は、何故、あんな何もない所に電車が通るのか?地下鉄なのに地上を走ってるのはどういうことだ?と母親に詰め寄った記憶がある。
団地建設は、とにかく基礎工事期間が長かった。徳丸田んぼ時代だった期間は以外と短く、昭和の初めくらいからだったかな、荒川の直線化や新河岸川が開削されるまでは、ただの荒川の氾濫原として荒れ地の状態だったらしい。地盤が緩かったので、何メートルも土を盛ったり、コンクリを流し込んだり、長い基礎材を打ち込む作業が何年も続いた。私の小学校時代の想い出は、基礎を地面に打ち込むパコーンパコーンと言う音とセットになっているのです。

‥話が想い出に流れてしまった。えっと、そのNHKの番組を見てて、おやっ?と思ったのですよ。

番組では、2012年に有志により結成された「高島平観光協会(仮)ー(仮)までついて、正式名称」のお姉様方が、爆笑問題のお二方のナビゲートをしました。観光協会(仮)は、「高島平を訪れる人を増やしたい」「高島平に住みたいと思う人を増やしたい」「高島平に住んでいる人が楽しめることを増やしたい」「そのためにも、高島平地域の魅力を広く発信していきたい」が発足のコンセプトだそうです。
お姉様方と団地オタクの青年が加わり、団地内を歩きます。途中、自転車整理に励む謎のヒーローも出てきましたね。公園の小山で遊んだり、高島平団地の撮影スポットの紹介や、高島平団地新聞の事務所で昔話を聞いたり、開業当時の部屋を再現した一画を見たりして一週目は終わり。第2週目は、団地の問題や将来の展開についてを扱っていました。積極的に受け入れている外国人留学生の部屋を訪れたり、団地内に数カ所もうけられているコミュニティカフェ・グリーンの活動を紹介してました。

番組では大きく紹介されていなかったけど、これらはすべて大東文化大学が深く関わっている。2011年11月に「日本縦断住まい総合情報ブログ」でUPされた記事を引用させていただく。

「発端は、地元のタウン紙「高島平新聞」が行なった空室調整だった。七年前、毎月、新聞を配布するたびに残部数が増えるのを不審に思った代表が、スタッフと目算で調べると五〇〇戸以上が空いていた。空洞化への危機感が募った。翌年、地域の研究会で代表と大東大環境創造学部の前教授が出会い、コラボレーションが決まった。前教授は、その後大学を退任。「LLC環境創造カンパニー」に移って高島平再生プロジェクトを統括している。前教授は「街の生き残りが、プロジェクトにかかっている」と熱弁をふるう。「リーマンショック後の経済停滞が続いていますが、日本の運命を本質的に決めるのは少子高齢化。それによる財政破綻です。僕は団塊の世代ですが、日本の行く末が気になって仕方ない。むき出しの資本主義を批判できる市民社会の軸をつくらないと取り返しがつかなくなる。都市共同体のコミューンが実在するスウェーデンのような国なら、地域通貨もいらないでしょうが、日本は違う。市民社会の仕掛けを人為的に設けねばなりません。団地は人間関係も複雑でやりにくい面もあるけれど、学生のバイタリティに期待したい」プロジェクトでは、毎月、学生と団地住人が顔を合わせ、議論を重ねた。前教授のもとで地域通貨の決済システムを構築した男子学生は、IT企業に就職した。親元を離れ、自主的に高島平団地で暮らしている。「団地に引っ越して、すぐ上階、下階と左右両隣にタオルを持って挨拶に行きました。だけど、渡せたのは一軒だけです。簡単じゃないけど、後悔はしていません。代表さんたちと語り合っているうちにここが『新しいふるさと』のような気がしてきて、移り住みました。父が転勤族で全国を転々として、地元って呼べるところはなかった。高島平ってディープな店もあって、懐が深い。後輩の相談にも乗っています」

その後、「高島平再生プロジェクト」は、2012年から「みらいネット高島平」に移行して活動をしている。

「みらいネット高島平」規約
(事業の目的)
第1条
みらいネット高島平(以下、本事業)は、高島平住民、大東文化大学の学生、教職員による高島平地域のための協働のコミュニティー活動および学び合いの場である。こ の活動は、学生と地域住民が接する機会をもちながら地域社会の形成者として主体的な資質を養うとともに、相互の信頼向上を図りながら、高島平地域の活性化に寄与するために ある。

(本事業の構成員)
第2条
本事業の構成員は、高島平の在住・在勤者、大東文化大学の学生ならびに同教職 員とし、本事業の目的のために活動する者とする。 2 前項に該当する地域・大学以外の者で、他の構成員が必要と認める場合には、構成員となることができる。

(活動と活動拠点)
第3条
本規約第1条における目的を遂行するための、本事業の主たる活動拠点を東京都 板橋区高島平2-26-3に置く。

2 活動拠点の名称をカフェ・グリーン(以下、カフェ)とする。

3 カフェにおいて、以下の活動を行う。
一 学び合い・カルチャー教室の開催
二 イベントの開催
三 メディアによる情報発信
四 その他の教育・研究活動4 カフェの使用規則は別途これを定める。 


‥おやっ?と思ったのは、実はこのプロジェクト、こんな裏歴史があったのだ。

私が高島平の再生プロジェクトのことを知ったのは、2007年くらいだったかな。確か読売新聞だった。調べてみると、2006年10月に毎日新聞に取り上げられたのが、大手マスコミに紹介された初出だった。それから2009年にかけて、このプロジェクトはNHKなど様々なマスコミで取り上げられる。
私のこのプロジェクトに対する第一印象は、「うさんくさい。」だった。当時関心を持って調べてみたけど、大学の学部教授が自分の研究目的のために高島平団地に目をつけ、住民や学生を取り込んで利用してみただけ、のようにしか思えなかった。そして、私はまったく関心を失い、もうその話題は追わなくなった。
で、2010年12月24日。このプロジェクトを立ち上げた学部教授は、業務上横領や詐欺などの疑いがあるとして、高島平警察署に告訴され、大々的に新聞に載る事になった。

そもそも話の発端は2001年、大東文化大学に環境創造学部が新設された事から始まる。ま、そこにAという教授とBという教授がいまして、学部長席をめぐり激しい派閥争いが起こる訳ですな。Aは学部創立当時から予算の管理をしてました。
環境創造学部は2004年、高島平再生プロジェクトを発案し、積極的にマスコミに宣伝し、派手に宣伝したわけです。ちょうど少子高齢化や団地の過疎化が問題になっていた時期で、多くのマスコミに取り上げられる事になった。環境創造学部は、この活動をベースに教育プログラムを作成、2007年に文部科学省に申請したところ、現代GP(2007(平成19)年度「現代的教育ニーズ取組支援プログラム」の「地域活性化への貢献」(地元型)部門)で採択された。文科省から5000万円もの予算をもぎ取り、コミュニティカフェの運営や高島平団地への学生入居などの具体的な活動が始まったんですね。
で、2008年からこのプロジェクトを推進するA教授とB教授の、覇権をかけたどす黒い争いが表面化してきた。そして、学部や大学を巻き込む激しい争いに敗れたB教授は、2009年に退職。しかし、不透明な文科省予算執行に対する訴えがお上に受理され、2010年2月、A教授による不正請求事件が発覚。A教授は高島平警察署に告訴される。
同年8月、争いはさらにエスカレートし、「週間ポスト」に大学長のスキャンダルが暴露され、学長が電撃辞任する事態となった。事件の根は深く、教授会によりA教授はふたたび環境創造学部学部長に再任されるが、決定的な証拠が出て就任一ヶ月後に解雇。2011年6月1日にA教授は、警視庁捜査二課、高島平署に逮捕される。
捜査の結果、A教授は07年以降、キャンプで余った約60万円を学生に返還しなかったほか、物品購入の領収書を偽造して約400万円を得ていたとしている。さらに、09年の海外出張がカラ出張だったといい、200万円を不正請求したとしている。あきれたことにこのスペイン出張、愛人を同伴し、その経費まで請求していたらしい。結局、このA教授は総額2000万円に上る横領を行なっていたそうだ。

一連の不正を告発したB元教授は、2011年まで「高島平再生プロジェクト」を引継いでいたが、やり過ぎたのか大東文化大学側から疎まれたのか喧嘩両成敗なのか(強引傲慢なやり口に、高島平の住人達から不信任を突きつけられたとの話もある)、A教授逮捕と同じ月に突然「高島平再生プロジェクト」から手を引くことになる。
ま、そして翌年、「みらいネット高島平」に継承され今に繋がる‥という流れなのですよ。

部外者には真相はわからないけど、「高島平を再生してやる!」とりっぱな御託を並べてプロジェクトを立ち上げたのは、自分の出世と学会での名誉が目的であり、かつ、自分の裁量で使う事の出来る予算を横領する(国民の税金ですよ)という、最悪な結果を辿ることになったことは違いない。尚、この事件に関する大東文化大学学長名の謝罪文は大学HPで公開されているし、ネット上で当事者達がUPしているレポートも含めて調べることが出来ます。


‥そんな事件もありましたが、現在の「みらいネット高島平」は、NHKの番組で紹介されたように「高島平観光協会(仮)」などの協力により新しく再生し、地域コミュニティとしての重要な役割を担ってます。運営するカフェ・グリーンでも、さまざまな教室が大東文化大学の留学生の方々などの協力を得て、盛況のようです。大東文化大学が、この事業を潰さなかったのは良かったですね。反面、予算が極端に少なくなったため、運営は大変だろうと推察します。ますます、高島平を愛するボランティアの方々の協力が重要になるのでしょう。

そうそう、私はこの事業が始まった時、「うさんくさい」と思ったのですが、それは、この事業を推進する側に、”愛”を感じられなかったからなんですよ。でも、「高島平観光協会(仮)」の方々からは”高島平愛”を感じましたので、応援をしたいものです。


*‥本日の記事は昨日観たTBSドラマ、「半沢直樹」に触発されたもので、酷暑の後遺症もあり、記事中に誇大な表現や、筆の走った部分があるかもしれません。先にお詫び申し上げます。。


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☆2013年・お盆休みも後半だし、お宝でも公開するか☆

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 昨日は終戦記念日(天皇陛下がポツダム宣言を受け入れると日本国民に向けラジオで玉音放送した日)でしたね。終戦60年の頃までは靖国神社へ行きましたが、ただ騒ぎに便乗したいような野次馬や警備の機動隊の物々しさに辟易し、近年は光が丘の「平和の碑」に参るだけになりました。何度も書いてるけど、あの碑文はどうにかならないのかなあ。成増陸軍飛行場は帝都防衛のほか、戦争後半には沖縄や、本土を狙う米機動部隊から守るために特攻作戦を行なった「振武隊」の編成や訓練基地として利用されたんだけど、そういう記述は一切無い。
ま、隣に光が丘図書館があり、地元の歴史コーナーにいろいろ資料本がありますので、立ち寄って調べて見て下さい。


さて、今回は私のコレクションの中でもスペシャルなモノを紹介しちゃいますね。なんでしょうか、ワクワク。

さあ全国、1500万ケーシー線ファンのみなさん!おまたせしました。これが正真正銘のケーシー線のレールです!!

なぜお前がそんなもん持ってるんだ?と突っ込みをいれられちゃいそうですが、東上線収集家としてごく一部で有名な私の元には、お宝自体が向こうからやってくる‥なんてことはないんですが、まあ、譲っていただいた方との約束もあり、公開は時が経ってからということで、何年も収蔵庫に眠らせておいたのですよ。

レールはほぼ正方形で、縦横約10.9cm、懇意の鉄道博物館学芸員、佐藤先生に鑑定していただいた所、明治時代によく使われた30㎏レール(1メートルで30㎏の重量)規格のものであるとのことで、昭和時代は貨物線区や側線・支線に使われていたそうです。

ケーシー線は、戦時中、上板橋駅から陸軍第一造兵廠倉庫(現・練馬自衛隊)まで、物資の輸送用に敷設されていた貨物線で、戦後は成増飛行場跡に出来た米軍住宅・グラントハイツまで伸長され、建設資材の運送や、初期のほんの短い間、人員輸送用のガソリンカーが池袋駅との間を走っていました。そのガソリンカーと同型の仲間であるキハ41000形の車両が、大宮の鉄道博物館に実車展示されている(掲示写真)。
ケーシー線は啓志線とも表記されるけど、東武鉄道内ではG.H.線と表記されている。ケーシーの名は、側線伸長工事責任者であった、ヒュウ・ケーシー中尉の名前を冠したそうだ。都内にある廃線としては有名だけれど、現在はその痕跡を辿るのは困難だ。

話は変わるけど、来年(2014年)、我らが東上線が開業100周年を向かえるのは、当然ですがご存知ですよね?そろそろ記念本などが出版され始め、板橋イオンの本屋のレジ横に積んであったりします。
もちろん、私も買っちゃいましたよ。彩流社刊「東武東上線 街と駅の1世紀」。サイズはA4版より少し小さめで、なかなか上質の紙を使ってます。だいたい一駅見開き2ページで紹介し、エピソードの多い駅にはもっとページを割いています。使われている古い時代の写真(昭和40年代が多い)は、鉄道誌ではよく見かける鉄道写真家の写真かな、でも初めて見るものが多かったですね。駅舎とかちゃんと撮影しているのが良いですね。板橋区内で言えば、板橋区公文書館所蔵の、昔の板橋区史で使った昭和30年代に低い位置から空撮した駅を中心とした風景写真がふんだんに使われてます。紙数の関係でしょうがないのでしょうが、資料(切符とかチラシとか旅行案内等)の紹介が一切無いのが惜しいですね。内容では、ケーシー線の紹介が相変わらず「グラントハイツ建設責任者のケーシー中尉の名前から採った。」と記述されていたり、残念な部分があります。これは東武鉄道の社史に記載されているのでつい引用しちゃうのですが、中尉クラス(年齢25歳前後)の若い士官が基地全体の建設責任をまかされるのは疑問で、せいぜい現場監督くらいでしょう。

これからも来年にかけて、いろいろ東上線特集本が刊行されるでしょうが、今月21日には老舗鉄道雑誌「鉄道ピクトリアル」が”東上線特集号”を出しますね。今までは東武鉄道特集号ばかりでしたから、こちらも期待大です。
博物館での特集展示も期待したいところですが、東武鉄道博物館は別として、東上線沿線の博物館や資料館が東上線の展示を行う情報は、まだ聞こえてきません。板橋では行なう予定はないし、豊島の資料館は新館移行で閉館しているだろうし、ま、期待は以前、東上線の展示をしたことがある朝霞市立博物館かなあ。。上福岡の資料館も元東武鉄道博物館館長・花上さんの講演会をしてたし。川越は‥やらないだろうなあ。それ以西にもどこかあったかな。。

こういう周年の機会でもないと、なかなか展示会は行なわれないし、そういう時に、地元に眠る貴重な資料が掘り起こされる可能性が出てくるんですけどね。なにせ開業時の池袋駅の写真すら発見されてないし、下板橋駅や成増駅の開業写真も見たことないし。開業時の終点、田面沢駅なんて写真はおろか、場所すら完全特定されてないんすよねえ。

それと、東上線の資料は、昭和20年4月の空襲で池袋の東上業務部が焼失し、その多くが失われたと言われてますが、以外と市井の東上線マニアが所蔵している貴重な資料が、いろいろ残ってるんじゃないですかね。この機会に、秘蔵の資料がいずこかで公開されればありがたいのですが。それらが集まれば、たいした見ものとなるんじゃないかなあ。そうなれば私も協力は惜しみませんけどね。


来年はとりあえず過去に公開したものも含め、このブログ上で東上線特集記事でもまとめてUPしますかね。


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板橋区民、苦悩を告白する。〜ケーシーは二人いるのか!?〜

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 相変わらず暑い日々が続きますが、夕方になると虫の音が聞こえるようになりましたね。


うん、今まで隠していたけど、実は思い切って告白したいことがあるのです。板橋区民の心に長年、重い石のように深く沈んでいる悩み事が‥。

前回、ケーシー線の線路のカットモデルを紹介しましたね。来年、我が愛しの東上線が100周年を迎えるので、本屋にも記念誌がぼちぼち並び始めたとか。で、昨日は鉄道雑誌の老舗「鉄道ピクトリアル」10月号(東上線特集号)が発売され、さっそく購入して読んでみました。いや、さすがですね。盛りだくさんな内容で、これで950円は安い!!秘蔵写真も豊富!!
‥てなことで、10年以上前に東京都写真美術館で行なわれた「永遠の蒸気機関車くろがねの勇者たち」で展示された、昭和20年代にカラーで撮影された成増駅構内の蒸気機関車の写真や、ケーシー線のC58と客車(残念ながら撮影は下板橋ヤード内)なんてレアもの写真も載ってます。

本文には、元東武博物館館長(現・名誉館長)の 花上嘉成氏が寄稿した「東上線の回想あれこれ」という記事が載っています。花上さんが所蔵する資料や写真とともに、主に車両や運用などについてが描かれ、最後に「池袋・西山信号所・下板橋そして啓志線」と題したチャプターがあり、表題について語っている。そのなかで、「啓志とは当時の基地責任者であったケーシー中尉の名をとったと言われている」と書かれている。
なんだよ、また絡むのかよ。とお思いの皆さん、ちっとはあっしの考えを聞いて下さいよ。

以前から、当ブログ上では何回かこの問題を取り上げ、時に激しく攻撃したり、罵ったりしてきました。それには根拠もあるんですが、本音を言えば迷っていることもあるんですよ。それはですね、まず、権威とされている東武鉄道の公式見解である「ケーシー線の名はグラントハイツ建設責任者である、ケーシー中尉から命名された。」という一文。基本的にはすべてここから引用されますね。では、その根拠はなんだ?どこから仕入れた情報なんだ?という疑問が湧いてくる。

前にその事について当ブログで記事にしたことがあるけど、おそらく初出は練馬区の郷土資料研究会が、地元の古老に聞き取り調査した時に出た話だろう。一部を再掲してみますね。

練馬郷土史研究会会報 第151号 昭和56年1月31日発行より
 
成増飛行場からグラントハイツまで(二)の中で、練馬区史の座談会にも登場していた加藤佐平氏(旧土支田出身)が、ケーシー線について語った証言でした。「このケーシーというのは若い中尉で、ここを建設した指揮官だということから、その名を付けたのです。そうのうち石炭が重油(ボイラーの燃料として使用)に変わったので、この線の利用価値は失ったわけです。」

このケーシーさん、文献により、若い中尉とも少将とも書かれてます。このうち、少将説については、アメリカ陸軍が公開しているHPに紹介があり、ケーシーさん(HUGH JOHN CASEY・1898-1981)の履歴を見ると、マッカーサーの副官として、フィリピン戦線で工兵隊の指揮官として戦い、戦後、進駐軍の一員で、少将として赴任します。なるほど、工兵隊で少将ならばグラントハイツ建設の総責任者になってもおかしくないですね。最近見つけたのだけど、HUGH JOHN CASEYさんへのインタビュー本[Engineer Memoirs MAJOR GENERAL HUGH J. CASEY]にも、こんな記事が載っている。
http://140.194.76.129/publications/eng-pamphlets/EP_870-1-18/EP_870-1-18.pdf

「We built several major projects, such as those at Washington Heights and Grant Heights for 800 and 1,200 families, small communities complete with utilities, schools, chapels, commissaries, clubs, and all facilities for a small community. We built several such areas throughout Japan.」

要約すると、我々(米陸軍工兵隊)は進駐とともにやってくる800とか1200の家族のために、学校や教会、売店などを持つ小規模なコミニュティー、ワシントンハイツ(代々木公園にあった)やグラントハイツ建設を計画した。という内容で、ケーシー少将は工兵隊のトップであり、ワシントンハイツやグラントハイツの建設責任者だった、という説を裏付けられる‥可能性がある。

なんだか歯に物が詰まった言い方ですが、この説に疑問を投げかける第一次資料があるんですね。私が東京都立公文書館で発掘した、進駐軍と日本の機関がやり取りした公文書がそれです。そのペーパーが冒頭の写真なんすよ。年代は潰れて読みにくいけど、1947年に発行されたものです。成増住宅(グラントハイツと命名される前の名前)建設に関して練馬倉庫の扱いについて、日本の機関や東京都の部署とやりとりした公文書です。
そう、その公文書の下に、”HUGH B CASEY”の名前が登場してますね。階級は1st Lt,CE Project Engineer。 1st LtとはFirst Lieutenantの略で、中尉の階級を表します。CEが何を表すのかはわかりませんが、日本語で書くと、ヒュー B ケーシー中尉 CE 技術職員(または工務主任?)となります。


さてさて、一体、ケーシーとは何者なのか。グラントハイツ建設総責任者か?ここを建設した指揮官の若い中尉か?‥板橋区民の悩みは未だ解決しない‥


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板橋区民はワールドワイド。〜Photo's from USA〜

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 今日の赤塚郷は雨模様で、多少涼しいですね。


私には収集癖があるわけですが、探索は日本国内だけではなく、インターネット時代に入ってからは常に海外の市場にも目を光らせております。しかしですな、収集対象品があまりに狭く偏っているので、なかなかヒットせず、一年に一回でもお宝を発見できれば良い方なのですよ。

で、今回は久々のヒット商品の紹介をしちゃいますね。お宝はアメリカのメイン州、ウオーレン市から出品されていたコダクロームのスライドポジ。なにが映ってるんでしょうね、わかります?
そう、あれっすよ。旧成増陸軍飛行場で使用されていた”掩体壕”ですよ。

”掩体壕”は敵の空襲から飛行機を守るために作られた、コンクリート製の格納庫で、少ない資材で強度を得るためにカマボコ型をしとるそうです。知覧特攻資料館で、陸軍戦闘機・四式戦(疾風)の実物を見学したことがありますが、その印象は”こりゃでかい”でした。空母で運用するために作られた零戦と比べると、2周りも3周りも大きいですね。翼のつけ根付近で四畳半くらいの大きさがある。だからこの掩体壕も実際はけっこう大きな代物だ。

写真は1968年に撮影されたもので、グラントハイツ後期の頃(返還協定締結は1974年)ですかね。掩体壕は基本的に飛行場周辺に設けられるもので、戦後も周辺は畑地だったし、グラントハイツの敷地外にあったものは取り壊すのに金もかかるから、平成時代に入るまではいくつか残っていた。表出の掩体壕がどの場所にあったものかはわからないけど、川越街道近くの赤塚新町や田柄、谷原交差点方面に多く点在していた。出撃命令が出るたびに飛行場大隊の隊員が、ここから戦闘機を出して滑走路まで引っ張っていくんだから、大変にご苦労なことだったろう。

旧成増飛行場の施設は、グラントハイツ建設で破壊し尽くされたので、この掩体壕が唯一の生き証人だったけど、近日もはやその面影もない。今の光が丘団地は緑も多く大木が生い茂り、中を歩くとまるで江戸時代からこのままかっ。と思うほどだけど、飛行機の発着には高い木はよろしくなく、敵機襲来時にも不利なので大きな木は切ってしまったと伝わる。グラントハイツ時代の空中写真を見ても、あまり広い林などはないように見えますね。いやはや、時の流れをつくづく感じちゃいます。。


[付記]
掩体壕について情報提供いただくことがありますが、場合により削除させていただきますので、ご了解下さいませ。

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板橋区民、ドラマの疑問のシーンについて答える。

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 なにやら今週末は台風が通り過ぎるようですね。確実に秋を運んでくるのでしょうねえ(しみじみ‥)

いまさら感があるけど、最近の週刊誌に[綾瀬はるかも脱力!? 「NHK大河」で事実誤認が発覚!]と題した記事が出たようだ。まずはその記事を読んでほしい。

http://news.nifty.com/cs/entame/showbizddetail/agp-20130827-15247/1.htm(ニフティニュース)

記事によれば、問題のシーンは会津城攻防戦が展開された第28回(7月14日放送)で登場した「焼き玉押さえ」シーンで、日本史に詳しいライター氏によれば、「新政府軍が会津城に打ち込んできた砲弾を、着弾地点で八重が濡らした布団をかけ押さえ込み、爆発を防ぐというエピソードがあるけど、当時はまだ爆裂弾はなく、砲弾といえばまるごと鉄や石を打ち込む方式なんです。ただし、鉄を真赤になるまで熱し、周囲に火災を起こす焼き玉式焼夷弾はあり、それを防ぐのが本来の焼き玉押さえ。だから爆発を防ぐというのは誤りで、焼き玉押さえ本来の意味を改変したとしか思えない。」そうだ。

‥ああん?ちょっと待てや。高島流砲術を少し齧っている板橋区民としては見過ごせない記事だ。そこで、箔をつけるため、さっそく八重の桜の戦争シーンの時代考証を担当された、小西雅徳先生に直接、ご注進を兼ねて電話をしてみた。
ー以下そのやり取りー(記憶を元にして書いてます‥)


板橋区民「あっ、先生ですか。お忙しい所、申し訳ありません。最近、下衆な週刊誌に八重の桜の時代考証について、日本史に詳しいライターが噛み付いてきたようでゲスよ。」

小西先生「ほう‥、そんなのは我々は気にもしないな。たくさんの資料を検討した上で台本に意見してるからね。」

「いや〜NHKさんも演出の都合ってやつで、見せ方とかいろいろ改変するじゃないっすか。だからあのシーンも、八重のすごさを視聴者に見せるために、つい史実をはずれてオーバーにやっちゃったんじゃないっすか?」

「確かに演出の都合というか、見せ方としてときどき??なシーンもあるけどさ。会津城篭城戦の時は、新政府軍が四斤山砲とかモルチール砲とかアームストロング砲を使ってるワケ。四斤山砲にはガラナード弾と言って木製の信管をつけた爆裂弾を使ったし、モルチール砲はボンベン弾という爆裂弾で撃つ。そのくだんのライター氏は、幕末ドラマや映画で記号のように使われるアームストロング砲しか頭にないんじゃないの?あれは城とか建造物に穴を開け破壊するダメージしか与えられないんだよ。だいたいさ、焼き玉なんて使ってたら、あの穴だらけの会津城はどう説明すんのよ?焼き玉は火災を起こさせるんでしょ?会津城は燃えてないじゃん。

「ああ、そう言われればそうっすね。すべての焼き玉を消火するなんて不可能ですよねえ。」

「これは演出の都合なんだろうけど、八重が消してたのは信管付きの弾で、信管の火を消したんじゃないのかな。もっともそんな簡単に信管は消えないけどね。<当時の信管は木製の管に硝石を染込ませた布を仕込んだもの。長さによって爆発時間を調整する>とにかく不発弾が多くてね、八重の押さえた弾はたまたま不発弾だったんじゃないの(笑)?ドラマで山川大蔵の奥方が爆死するけど、史実では頭がすっとんじゃったらしい。篭城戦で異常な状態が長く続くと、弾が身近なところに落ちても逃げるんじゃなくて、とにかく水の入った桶に弾を放り込んだり、布団をかぶせたりするのが平気になっていた、と記録にあるんだよ。」


‥てなワケで、虎の威を借りるようだが、日本史に詳しいライター氏も、もっとよく調べた方がいいんじゃないのかな。(写真は四斤山砲弾とモルチールの弾)

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