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2013年5月

☆2013G.W.後半も始まったしお宝でも公開するか☆〜ペンギンミステリー〜

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 連休後半、天気は良いですが、涼しいですね。

涼しいということで、今回はペンギンの話です。えっ、板橋区にペンギンがいるの?高島平の熱帯植物園や子供動物園にはいないじゃん。それとも蓮根の植村冒険館にでも?
‥違います。いつものごとく答えは画像にありますが、ペンギンの絵です。これを描いたのが日本画家の西沢笛畝さんです。まっ、ほとんどの人が知らないと思いますので、ウィキペディア風に紹介しますね。

西沢笛畝(にしざわ てきほ、1889年(明治22)~1965年(昭和40))東京浅草出身。本名は石川昴一。号は笛畝、比奈舎、木槿庵(木槿盦)、雙来居

大正2年(1913)荒木寛畝に入門。師没後は、荒木十畝に師事。大正4年、第9回文展に「八哥鳥の群れ」が初入選する。同年、西沢仙湖の娘婿として西沢家に入る。以後、文展・帝展に出品する傍ら人形の研究を行う。昭和4年第10回帝展で無鑑査、9年第15回帝展では審査員をつとめる。荒木十畝・池上秀畝亡き後、読画会の代表理事をつとめ、伝統の花鳥画を守る。大正11年(1922)南支那に旅行、また昭和4年(1929)タイに旅行し、人形を収集。国内と東南アジアを中心とした人形コレクションを行う。雛人形研究の権威でもあり、木彫家益田盛人の一生の傑作といわれる内裏雛に色彩を施し、摂政官御婚儀のとき献上する。昭和11年(1936)「童宝文化研究所」を設立。戦後は、「人形玩具文化の会」と称し、理事長を努める。昭和30年(1955)「日本工芸会」創立に際し理事長となる。昭和40年10月24日死去。76歳。

で、板橋区とのかかわりですが、西沢笛畝さんは、常盤台住宅開設の時から亡くなるまで約30年の間、常盤台に住んでいました。

私は以前、笛畝さんの画を収集しようとしましたが、色紙から大作書画まであまりに作品点数が多いので早々にあきらめ、資料的な物‥手紙や戦時中に兵隊さんへの慰問として制作されたものなどを中心に収集してきました。そんな収集品の中に、このペンギンの画があったのです。


ここで、日本に初めてペンギンが来た時の話を一つ。

とりあえず、インターネットで検索をすると‥「1915年、上野動物園に初めてペンギンが来た。」
ということがわかった。うう〜ん、これじゃ情報が少ないとさらに調べると、1999年に平凡社から発行された「ペンギン大百科」という本に記載がある事がわかった。で、ネットで図書館検索をすると、おとなりの練馬区光が丘図書館に所蔵されているらしい。

さっそく光が丘図書館へ行き、「ペンギン大百科」を見てみるとこう書いてあった。
「わが国のペンギン飼育の歴史は1915年6月10日、小沢磯吉という人物が、東京の上野動物園に2羽のフンボルトペンギンを寄贈したのが最初といわれている。」

そうか、でもこの本には出典がないなあ‥小沢磯吉なる人物も誰かわからないし、もっと情報はないものか、と、他の資料を探すと、おお、「上野動物園百年史」(1982年発行)があるじゃないか。
借出してみると本文に記事はないが年表に「1915年 6.10 フンボルトペンギン(2)収容。初来園。」とある。うん、「ペンギン大百科」はこの百年史を参考にしているな、とわかった。じゃあ、小沢磯吉は何を調べれば‥と思案すると、この光が丘図書館はマイクロが見れることを思い出した。<こういうことは当時の新聞記事に出てるかも‥>と考え、さっそく相談デスクにマイクロ使用を申請し、「東京朝日新聞」と「中外商業新報」(現在の日本経済新聞)の該当月を借出した。すると‥おお、「東京朝日新聞」にドンピシャの記事が載ってるじゃありませんか!それは、こんな記事でした。

「●ぺンギン鳥来る▽直に死ぬだらう・・東洋汽船株式会社汽船紀洋丸機関長小澤磯吉氏がさきに南米チリ国イキケにて於いて入手したる南極探検にておなじみのぺンギン鳥は九日同氏より上野動物園へ寄贈したるを以て同園にては直に園内第二十七号室兒持鶴(こもちづる)の隣室に収容したるが該鳥は南半球に産するものにして南極探検者の常に其生息の状態等を紹介するものあるも生活の儘本邦に到来せるは恐らく今回が初めなり。右につき動物園主任技手の語るところに依ればぺンギンは其の種類二十種もありと伝へらるるが今本園到着のものを見るに其の翼は鰭(ヒレ)の如く脚は短くして直立の姿勢を保ち歩行するの状態は頗る奇異なれども一度水に潜るや陸上に於ける態度と一変し遊泳の敏捷巧妙なること到底鴈、鴨の比に非ず実に奇異なる動物なり。元来氷海の極寒冷の地に棲息するもの故日本の如き暖地在ては到底永く生存すること覚束なかるべし。」
東京朝日新聞 大正四年六月十一日
 ※イキケはチリ北部にある都市でタラパカ州の州都

うん、これで大体の事情はわかりました。でも、「ペンギン鳥来る、直に死ぬだらう」というキャプションは、まあ客観的事実としてもヒドイですねえ。わっはっは。じゃあ今日はこのへんで。


‥ちょっと待て。それでいいのか?ミステリーだぞ。

もうお分かりですね、忘れちゃイケナイ笛畝さんの画ですよ。書幅の右上に「大正乙卯夏七月東都浅草花屋敷飼養南極ベンギン鳥」と書かれてますね。おかしいですね〜、大正乙卯夏七月とは大正四年七月のことです。上の新聞記事でペンギンは上野動物園に大正四年六月九日に寄贈された、とありますね。
きっとさ、上野動物園で飼いきれないと判断して花屋敷に譲って見世物にでもしたんじゃないの?‥なんてことは無い(逆はありうるけど)。じゃあどういうことよ?

ちなみにカラー彩色の絵はがきは、大正大震災前の浅草花屋敷の絵はがきです。入口横の看板には「ペンギン雄雌来ル」と書かれてますね。もともと植物園だった花屋敷は、明治時代になると見世物の一つとして、古今東西のめずらしい動物を集めて展示していました。(震災の頃は象もいたんですよ。)だからペンギンがいてもおかしくはないですね。当時、浅草に住んでいた笛畝さんは、珍しいペンギンが来たと言うのでいそいそと見学しに行き、画を描いたのでしょう。
さて、問題はペンギンがいつ花屋敷に来たのだろうか‥。残念ながらそこまでは調べきれませんでした。

それと、疑問点がもう一つ。笛畝さんの画を見てなんか変だと思いませんか?顔が変じゃないっすか?例えば、上野動物園に寄贈されたのがフンボルトペンギンだとしたら、顔が黒いはずです。ネットで画像検索すると、顔が白いのは、アゴヒゲペンギン(ヒゲペンギン)しかありません。アゴヒゲペンギンは英名ではChinstrap penguin(アゴヒモペンギン)です。そして学名はPygoscelis antarctica。これは「南極のペンギン」と言う意味で、最初に日本に来たときは「南極ペングイン」と呼ばれていたそうです。そう、笛畝さんの画にも「南極ベンギン」と書いてあるじゃないっすか。
ちなみに、物の本にはアゴヒゲペンギンが日本に来たのは戦後になってからと記載されてます。


これはどういうことだ‥まさにミステリーじゃないですか。せっかく調べたのに、よけい疑問が深くなってしまいました‥
さあ、日本に最初に来たペンギンは、上野動物園のフンボルトか?それとも花屋敷のアゴヒゲか?いったいどっちだ!?

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☆祝!東京駅ー常盤台駅/成増駅・志村橋間バス路線開業☆

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やあ
ようこそ、板橋ハ晴天ナリ。のブログへ。

うん、「また」なんだ。済まない。
仏の顔もって言うしね、謝って許してもらおうとも思っていない。
でも、このタイトルを見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない
「ときめき」みたいなものを感じてくれたと思う。
殺伐とした世の中で、そういう気持ちを忘れないで欲しい、そう思って
この記事を書いたんだ。

じゃあ、はじめようか‥

‥てなことで、どこかの悪い掲示板で使われていた古いコピペを借りてみました。もちろん、板橋区内から東京駅までのバス路線が現在開業したわけではないですよ。


私は、板橋区の近代交通事情について非常に興味を持っている。だから、資料もいろいろ集めたし、調べもしてきた。でも、調べれば調べるほど知りたいことや疑問が出てきて、未だにそれらを纏めることができないでいる。


さて、今回はバス路線の話だ。

板橋区内をバス路線が初めて通ったのは、バス事業が東京市で認可された大正7年(1918年)のことだ。
当時はバスという言葉ではなく乗合自動車(乗合い)と呼ぶのが一般的だった。
初期の頃は板橋乗合自動車、池袋乗合自動車、昭和に入ると中仙道乗合、王子乗合なんてのもありましたがその話はまた回を改めてしますね。

表題の三菱ふそうのバス広告の路線は東都乗合自動車株式会社が、昭和25年ころに開設した路線だ。
東都乗合は、昭和10年5月に京王電気軌道と玉川電機鉄道の共同出資で設立されたが、戦争末期の昭和19年、戦時統合により五島慶太の東京急行電鉄へ吸収された。こうして終戦時までに、板橋乗合など城北部に路線を持つ会社のほとんどが東都乗合へ吸収・併合されてしまったのだ。

昭和20年8月15日、戦争は終わった。‥その直後、ある青年実業家が五島慶太の前に現れる。

その青年こそ、のちに国際興業社主となる、故・小佐野賢治だった。

小佐野賢治は、大正6年に山梨県勝沼町の貧しい養蚕農家に生まれた。小学校を卒業した頃、世界大不況に直撃され、現金を稼ぐ為に自動車の運転助手から始め、16歳で上京し、本郷の自動車部品会社に職を得た。21歳で徴兵され大陸に送られるが、漢口会戦の戦闘中に右足へ貫通銃創を負い、除隊。しかし、これ幸いと事業を起こすべく東京に戻り、まず東京トヨタ自動車販売の部分品部に籍を置き、軍納係へ配属された。
ここでコネと営業のノウハウを磨き、翌年の昭和15年には自動車部品販売の個人会社を作り独立をした。大東亜戦争が始まり、資材不足で同業他社が開店休業や廃業して行く中、山梨県人のネットワークなどコネを徹底して利用し、メキメキと頭角を現した。決定的だったのが海軍航空本部の指定業者になったことで、戦争末期の昭和18年11月、26歳の時に新設の軍需省に食い込み、民間依託となった。これで資金面が保証され、莫大な財を成す。‥そして終戦。

普通、戦時中に成功していた場合、体制が一変すると落ちぶれるのが相場だけれど、小佐野賢治は違った。
どこで発想を得たのか、昭和20年10月、東武鉄道の根津財閥が所有していた名門・熱海ホテルの買収を皮切りに山中湖ホテルや強羅ホテルなどを次々に手に入れ出した。戦争が終わりインフレを予想した小佐野賢治は、豊富な資金を使い不動産に投資しようと考えた。観光名所にある高級ホテルは、進駐軍の利用が主体となり、収入も安定するだろうといち早く気がつき、一気に行動に出たのだ。この決断力の早さが功を奏し、新円切り上げによる損害を回避することもできた。
特に強羅ホテル買収は、東京急行電鉄グループの総帥である五島慶太と出会う幸運をもたらせた。五島は戦時中、運輸大臣も勤めた大物だ。この時わずか28歳だった小佐野は、65歳の老獪な五島慶太と正面から渡り合い、とうとう名門・強羅ホテルを手に入れた。

国際興業社史を参考に書いてるため、話がなんだか小佐野賢治立志伝になってきたけど、この強羅ホテル買収で五島慶太の知遇を得たのが、後の国際興業バス帝国を作り上げるきっかけとなったのだ。

ホテル買収後の昭和21年5月、東京急行電鉄から東京観光自動車も買収し、ホテルへ行く駐留軍の便宜を図り、さらに周辺の観光案内事業を始めた。それから半年後の11月には東都乗合自動車を譲り受け、ついに乗合バス業界に進出をした。これが現在に続く国際興業のバス路線の始まりだった。

この駐留軍相手の観光バス事業は昭和25年2月まで続いた。その間に米陸軍と契約し、横浜から座間や厚木、淵野辺などの基地を結ぶバス輸送も行なったが、昭和25年に起った朝鮮戦争により部隊が解散や移動したため、次第に路線は廃止となった。しかし、昭和31年には在日米軍調達本部との契約を勝ち取り、関東一円からついには青森から沖縄まで「米軍バス」の運行をまかされるようになったのだ。
この時、成増に営業所が設けられ府中基地からグラントハイツまでの路線が出来た。米軍相手のバス事業はベトナム戦争終結までにどんどん縮小され、昭和52年9月30日に終了した。

国際興業は駐留軍の他に、自衛隊の前身である警察予備隊の輸送も行なっていた。これは、朝鮮戦争勃発後に米軍が戦場へ大移動したため、その間隙を日本人に任せると言う政策が採られ、警察予備隊と海上保安庁の増員が求められた。昭和27年10月から江東区に置かれた警察予備隊越中島部隊を対象に、都内にある駐屯地や宿舎までの輸送が始まった。板橋区へは、越中島〜志村(17.30キロ)、越中島〜練馬(17.65キロ)の路線があった。

昭和22年6月、様々な会社に別れていた事業を統一し「国際興業株式会社」が誕生した。このとき、小佐野賢治は社長ではなく、自らを社主とした。なんだか法皇とか太閤みたいですね。

で、ようやく掲出の写真につながるわけですよ。昭和21年12月に一般乗合路線の東都乗合自動車を譲渡され、終戦直後の電車交通網の混乱により、中距離バス路線がいくつも設けられ、東京駅ー成増駅とか志村橋までを結ぶ路線が開業したんですね。
真ん中の写真は昭和23年の東都乗合の回数券だ。特殊回数券となっているけど、何が特殊なのかはわからない。ん?昭和22年に国際興業に変更になったんじゃないの?と気がついた方は鋭い。国際興業設立時、東都乗合自動車は「会社経理応急措置法に定める特別経理会社」に指定されていたから社名変更が出来なかったんですよ。え?会社経理応急処置法ってなんだ?‥仕方ないから説明しましょう。

会社経理応急措置法は、昭和21年7月24日の戦時補償打ち切り決定に伴って制定された。これは新旧勘定を分離して新勘定で事業を継続し、旧勘定の旧債券債務の決済を棚上げして、補償打ち切りによる打撃をできるだけ少なくしようとしたものでした。この措置法の適用を受ける特別経理会社の解散、合併、組織変更あるいは資本の増減は原則として認められていなかった。東都乗合自動車は、昭和21年8月15日に特別経理会社に指定され、25年5月31日に解除された。」

‥だそうです。わかりましたか?

え〜っと、だから、真ん中の乗車券は東都乗合自動車株式会社のままなんですよ。でも左側にマークがありますね、これは国際興業の社章です。一枚目のバスの車体にも国際興業マークがちゃんとありますね。これが歴史の証人てやつで、収集の喜びはこんな所にあるんすよ。一番右は国際興業に替ってからの回数券です。


私は、幼少の頃から凝り性であったようで、母親から聞かされた話では、幼稚園前後は車や電車に異常に興味を示していたらしい。最古の記憶に、徳丸通りを走る国際興業のボンネットバスの映像があり、女性の車掌さんが切符を売り、パチンパチンとパンチを鋏む光景を憶えている。当時は不動通りも前谷津川で行き止まりでバスはそこの手前で方向転換していた。もちろん不動通りから西台へ向う坂道も出来ていなかった。バスは東武練馬の、あの狭い踏切を渡り、豊島園まで走っていた。

国際興業にワンマンバスが導入され始めたのが昭和37年4月からで、ワンマン化は昨今のようなリストラが原因ではなく、高度成長期で人員の確保が難しくなったのがきっかけだ。都内最初の路線は池袋駅西口〜千川・大山循環〜池袋駅西口ほか4路線で、運賃は各系統大人15円、小人10円の均一料金だった。

東京都内では昭和54年8月に最後の女子車掌が立川バスの路線から消え、国際興業では昭和56年1月、
飯能営業所所属の最後の女子車掌が退職し、全盛期には900名余が在籍した女子車掌がすべて姿を消しました。


そういやぁ、女性のバス運転手は見ないですねえ。アメリカでも欧州でも普通にいるんですけどね。時代の趨勢からすると女性運転手が出てもいいと思いますが。。

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