☆2013G.W.後半も始まったしお宝でも公開するか☆〜ペンギンミステリー〜
連休後半、天気は良いですが、涼しいですね。
涼しいということで、今回はペンギンの話です。えっ、板橋区にペンギンがいるの?高島平の熱帯植物園や子供動物園にはいないじゃん。それとも蓮根の植村冒険館にでも?
‥違います。いつものごとく答えは画像にありますが、ペンギンの絵です。これを描いたのが日本画家の西沢笛畝さんです。まっ、ほとんどの人が知らないと思いますので、ウィキペディア風に紹介しますね。
西沢笛畝(にしざわ てきほ、1889年(明治22)~1965年(昭和40))東京浅草出身。本名は石川昴一。号は笛畝、比奈舎、木槿庵(木槿盦)、雙来居
大正2年(1913)荒木寛畝に入門。師没後は、荒木十畝に師事。大正4年、第9回文展に「八哥鳥の群れ」が初入選する。同年、西沢仙湖の娘婿として西沢家に入る。以後、文展・帝展に出品する傍ら人形の研究を行う。昭和4年第10回帝展で無鑑査、9年第15回帝展では審査員をつとめる。荒木十畝・池上秀畝亡き後、読画会の代表理事をつとめ、伝統の花鳥画を守る。大正11年(1922)南支那に旅行、また昭和4年(1929)タイに旅行し、人形を収集。国内と東南アジアを中心とした人形コレクションを行う。雛人形研究の権威でもあり、木彫家益田盛人の一生の傑作といわれる内裏雛に色彩を施し、摂政官御婚儀のとき献上する。昭和11年(1936)「童宝文化研究所」を設立。戦後は、「人形玩具文化の会」と称し、理事長を努める。昭和30年(1955)「日本工芸会」創立に際し理事長となる。昭和40年10月24日死去。76歳。
で、板橋区とのかかわりですが、西沢笛畝さんは、常盤台住宅開設の時から亡くなるまで約30年の間、常盤台に住んでいました。
私は以前、笛畝さんの画を収集しようとしましたが、色紙から大作書画まであまりに作品点数が多いので早々にあきらめ、資料的な物‥手紙や戦時中に兵隊さんへの慰問として制作されたものなどを中心に収集してきました。そんな収集品の中に、このペンギンの画があったのです。
ここで、日本に初めてペンギンが来た時の話を一つ。
とりあえず、インターネットで検索をすると‥「1915年、上野動物園に初めてペンギンが来た。」
ということがわかった。うう〜ん、これじゃ情報が少ないとさらに調べると、1999年に平凡社から発行された「ペンギン大百科」という本に記載がある事がわかった。で、ネットで図書館検索をすると、おとなりの練馬区光が丘図書館に所蔵されているらしい。
さっそく光が丘図書館へ行き、「ペンギン大百科」を見てみるとこう書いてあった。
「わが国のペンギン飼育の歴史は1915年6月10日、小沢磯吉という人物が、東京の上野動物園に2羽のフンボルトペンギンを寄贈したのが最初といわれている。」
そうか、でもこの本には出典がないなあ‥小沢磯吉なる人物も誰かわからないし、もっと情報はないものか、と、他の資料を探すと、おお、「上野動物園百年史」(1982年発行)があるじゃないか。
借出してみると本文に記事はないが年表に「1915年 6.10 フンボルトペンギン(2)収容。初来園。」とある。うん、「ペンギン大百科」はこの百年史を参考にしているな、とわかった。じゃあ、小沢磯吉は何を調べれば‥と思案すると、この光が丘図書館はマイクロが見れることを思い出した。<こういうことは当時の新聞記事に出てるかも‥>と考え、さっそく相談デスクにマイクロ使用を申請し、「東京朝日新聞」と「中外商業新報」(現在の日本経済新聞)の該当月を借出した。すると‥おお、「東京朝日新聞」にドンピシャの記事が載ってるじゃありませんか!それは、こんな記事でした。
「●ぺンギン鳥来る▽直に死ぬだらう・・東洋汽船株式会社汽船紀洋丸機関長小澤磯吉氏がさきに南米チリ国イキケにて於いて入手したる南極探検にておなじみのぺンギン鳥は九日同氏より上野動物園へ寄贈したるを以て同園にては直に園内第二十七号室兒持鶴(こもちづる)の隣室に収容したるが該鳥は南半球に産するものにして南極探検者の常に其生息の状態等を紹介するものあるも生活の儘本邦に到来せるは恐らく今回が初めなり。右につき動物園主任技手の語るところに依ればぺンギンは其の種類二十種もありと伝へらるるが今本園到着のものを見るに其の翼は鰭(ヒレ)の如く脚は短くして直立の姿勢を保ち歩行するの状態は頗る奇異なれども一度水に潜るや陸上に於ける態度と一変し遊泳の敏捷巧妙なること到底鴈、鴨の比に非ず実に奇異なる動物なり。元来氷海の極寒冷の地に棲息するもの故日本の如き暖地在ては到底永く生存すること覚束なかるべし。」
東京朝日新聞 大正四年六月十一日 ※イキケはチリ北部にある都市でタラパカ州の州都
うん、これで大体の事情はわかりました。でも、「ペンギン鳥来る、直に死ぬだらう」というキャプションは、まあ客観的事実としてもヒドイですねえ。わっはっは。じゃあ今日はこのへんで。
‥ちょっと待て。それでいいのか?ミステリーだぞ。
もうお分かりですね、忘れちゃイケナイ笛畝さんの画ですよ。書幅の右上に「大正乙卯夏七月東都浅草花屋敷飼養南極ベンギン鳥」と書かれてますね。おかしいですね〜、大正乙卯夏七月とは大正四年七月のことです。上の新聞記事でペンギンは上野動物園に大正四年六月九日に寄贈された、とありますね。
きっとさ、上野動物園で飼いきれないと判断して花屋敷に譲って見世物にでもしたんじゃないの?‥なんてことは無い(逆はありうるけど)。じゃあどういうことよ?
ちなみにカラー彩色の絵はがきは、大正大震災前の浅草花屋敷の絵はがきです。入口横の看板には「ペンギン雄雌来ル」と書かれてますね。もともと植物園だった花屋敷は、明治時代になると見世物の一つとして、古今東西のめずらしい動物を集めて展示していました。(震災の頃は象もいたんですよ。)だからペンギンがいてもおかしくはないですね。当時、浅草に住んでいた笛畝さんは、珍しいペンギンが来たと言うのでいそいそと見学しに行き、画を描いたのでしょう。
さて、問題はペンギンがいつ花屋敷に来たのだろうか‥。残念ながらそこまでは調べきれませんでした。
それと、疑問点がもう一つ。笛畝さんの画を見てなんか変だと思いませんか?顔が変じゃないっすか?例えば、上野動物園に寄贈されたのがフンボルトペンギンだとしたら、顔が黒いはずです。ネットで画像検索すると、顔が白いのは、アゴヒゲペンギン(ヒゲペンギン)しかありません。アゴヒゲペンギンは英名ではChinstrap penguin(アゴヒモペンギン)です。そして学名はPygoscelis antarctica。これは「南極のペンギン」と言う意味で、最初に日本に来たときは「南極ペングイン」と呼ばれていたそうです。そう、笛畝さんの画にも「南極ベンギン」と書いてあるじゃないっすか。
ちなみに、物の本にはアゴヒゲペンギンが日本に来たのは戦後になってからと記載されてます。
これはどういうことだ‥まさにミステリーじゃないですか。せっかく調べたのに、よけい疑問が深くなってしまいました‥
さあ、日本に最初に来たペンギンは、上野動物園のフンボルトか?それとも花屋敷のアゴヒゲか?いったいどっちだ!?
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