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2013年4月

過日、松月院にて。

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 世間では新年度に入りましたね。桜もなんとか4月に入るまで持ちました。私は前年度のロスタイムに入り、まだまだ陽のあるうちには板橋区にいられません。。


最近、ネタも尽きたのか、と思われているのではと訪問者数の減少が気になりますが、はは、ただ怠けているだけです。それでは本日の掴みをひとつ。

冒頭の写真、どこで撮影されたのかわかります?と書きましたが、タイトルに出てますね。板橋区は赤塚郷にある松月院の境内に聳え建つ、高島秋帆先生の徳丸原洋式調練を顕彰して建てられた碑のある場所で撮影された写真です。現在放映中のNHK大河ドラマ「八重の桜」で、主人公、山本八重の家では祖父がこの徳丸原調練を見学し、八重の兄、覚馬が江戸に留学した際、佐久間像山の蘭学塾でこの高島流西洋砲術を学び会津に持ち帰ります。八重は覚馬から高島流を伝授され、やがて白虎隊へ高島流を教えます。

モノクロの写真は、終戦間もない昭和20年10月に撮影されたもので、写っているのは板橋イオンの裏にある都立有徳高校の前身、都立北野高校のはたまた前身の東京府立第十二高等女学校の女学生達です。右奥に木で隠れてますが台座が見えます。
なんでこんな所にいるのか‥遠足ですかね?終戦わずか二ヶ月後ですよ。進駐軍が来たり、食べ物も極度に不足して学業どころではなく大変な時期なんじゃあ、なんて考えますが、現実はこんなものなんですかね。。

隣のカラー写真は、設立から10年、いまや板橋区の誇る団体へと成長した「西洋流火術鉄砲隊保存会」が設立された当初の記念写真です。だいぶ和風テイストで、装備もまだまだ充実していない頃です。バックに写る秋帆先生の碑もさぞかし苦笑していることでしょう。ちなみに、この場所は天保12年(1841年)の徳丸原調練の際に、隊員達の宿泊所が建てられていた所なんですよ。

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☆祝!西洋流火術鉄砲隊結成10周年☆&伝説の人

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いろいろありましたが、なにげなく再開しますか。

前回、こうきょう放送で放映中のTGドラマ撮影スタジオ訪問記をお届けしましたが、(ひやっこたいのクライマックスシーンです)第四の権力様のご指導により関係記事を削除いたしました。応援が過剰すぎたようでしたね。ご迷惑をおかけした関係者の方々にお詫び申し上げます。


先日、我が板橋区の誇る「西洋流火術鉄砲隊保存会」の総会と創立十周年の集い、が大山で行なわれました。
あれから十年‥創立当初から見守ってきました板橋区民にも感慨深い物があります。それは暑い暑い夏の日のことでございました‥なんて感慨に浸っていると長くなりますのでこのへんで。まっ、とにかく最初の頃と現在ではまったくといって良いくらい装備も演武の内容も変り、より高島流に近くなっているのではと思います。

文化会館の一室で行なわれた総会(予算の承認や今年度の計画報告など)が終わった後、場所をハッピーロードの中華料理屋に移し、関係者を招いての十周年の集いが催されました。正会員は銃士と言う名称ですが、他にも様々にサポートしていただいている方がおります。その中のお一人が、日本競技自転車界で活躍し、世界的にもカジワラフレームとして名を轟かす”伝説のフレーム職人”梶原さんだ。
梶原さんのことは数年前に当ブログで紹介したけれど、今でもそのページにはアクセスが多く、世間の関心は高いようだ。梶原さんは骨董品、それも機械関係に興味があり、自転車職人として修理道具類も所持しておられるので、武具などの修理も頼まれて行なっている。

なぜ梶原さんが伝説の存在となったのか‥それは世界の自転車界に彗星のように現れ、絶頂のなかでふいに姿を消したからで、以降その消息はつゆ知れずいつしか伝説だけが残った‥てなことはまったく知らない人が作った神話で、ご本人は親の代から住んでいる土地にずっと暮らし、今でも自転車の部品を製作しているし、なにより研究家としても活躍しておられるので、知ってる人は知っている存在なのである。
今、自転車ブームといわれているけど、自分のマシンばかりに目が行って、自転車の歴史なんかまったく興味も持たないんだよな‥と残念がっておられた。「みんなさ、自転車のことチャリンコって呼ぶでしょ。あれ語源が韓国語だってことも知らないよね‥」

この日も愛用の自転車で現れ、「富岡八幡宮の骨董市へ行ってきたよ」と言い、今日は50キロ走ったよ、とおっしゃっていた。「多い日は100キロくらい走るよ」なんてすごい健脚ぶりである。
梶原さん愛用の自転車は、まぎれもなく本物のクロモリ(クローム・モリブデン鋼)製「カジワラフレーム」で組み上げられている(ブレーキやギアはシマノ使用)。外見はちょっとボロい(失礼ですスミマセン)けど、梶原さん用にチューンナップされた世界唯一のレア物だ。ワークス以上、最強のプライベーターバイクなのだ。


ということで、これからまた初心に帰り、収集したグッズや情報をどんどんUPしてゆきますね。

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☆2013G.W.も始まったしお宝でも公開するか☆

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 うわ〜G.W.になってしまったあああ‥、と焦ってみた。個人的な事です、すみません。

いいかげん部屋にいろいろなモノが溜まり過ぎ、G.W.になったら片付けようと新年に誓いましたがまったく作業が進まない。。なので気分転換にお宝自慢でも始めてみようと思ふのです。


今回のお宝は絵はがきです。

大正時代に、東京府北豊島郡第二高田尋常小学校保護者会が作らせた記念絵はがきで、大正10年8月に行なわれた3本の行事をそれぞれ2枚づつ、計6枚がセットになっていて、このうち第一部は「学校團」、第二部は「郊外團」、第三部が「林間團」に別れている。

なんでわざわざ絵はがきに?と思うけど、当時は生プリント代が高く印刷した方が安く済むしハガキにすれば知人縁者に送るのも簡単‥と考えたのでしょうかね。前に掲出した板橋第六尋常小学校の南京城陥落記念の写真も絵はがきでした。

第二高田尋常小学校は、後の「雑司ヶ谷小学校」で、近隣の「日の出小学校」「高田小学校」と合併して現在は「豊島区立南池袋小学校」となっています。
絵はがきのうち、「学校團」は小学校校庭で体操する生徒達の俯瞰写真と安国堂(法明寺)境内で撮影された集合写真、「林間團」は”天狗岩ノ登山”と”馬場邸室内娯楽時ノ状況”とあり、場所はわかりませんが現在の林間学校時の記念写真と思われます。

さて、掲出の絵はがきは「郊外團」で行なわれた行事で、”石神井公園池畔ノ集合”と”石神井水泳場の遊戯”の写真です。
現在の都立石神井公園は1959年に開園しましたが、それ以前は三宝寺池とか石神井城とか石神井池とか記念庭園(1916年、豊田銀右衛門氏が「第二豊田園」として 開園。あずまや、茶亭などのある庭園だった。)とバラバラに存在してました。ちなみに、1930年に一帯が石神井風致地区の指定を受け、石神井池(ボート池)が出来たのは1934年のこと。

じゃあ、この絵はがきの場所は何処なんだというとですね、”石神井公園池畔ノ集合”はおそらく「第二豊田園」で撮影されたもので、”石神井水泳場の遊戯”の水泳場は、現在の石神井城跡と茶屋「豊島屋」の間にある水辺観察園の場所に存在していました。1918年(大正7年)、三宝寺池の一部を利用して日本初の100mプールが造られ、オリンピックを目指す日本選手団が合宿をしたという由緒あるプールなんですよ。後に府立第四水泳場と名付けられました。

ちなみに、当時の日本水泳界の状況はこんな感じでした。<立教大学体育会水泳部の歴史より引用>

我が国の本格的な水泳競技大会は大正3年8月10日、極東大会代表を選ぶという前ぶれのもとに、大森のガス会社構内の掘り割りで開かれた「第1回全国水泳大会」が発端であるといわれている。往時の泳法は武道・武芸としての流れから「抜き手泳法」が主流であったが、外国と対抗するためには、日本泳法よりクロールが有利との判断に立ち、競技としての泳法研究が盛んに行なわれるようになったのもこの時代からである。折しも、大正6年神田のYMCAに冬季でも泳げる室内プールが完成し、これが関東全体の冬季練習場のような形となり、大学の選手が集まって水泳研究の中心となっていった。このYMCAプールで練習するには、東京基督(キリスト)教青年会会員(要会費)にならねばならなかった。(引用終わり)


掲出写真の第二高田尋常小学校の生徒達は、おそらく西武池袋線(当時は武蔵野鉄道)を利用してやってきたのでしょう。最寄り駅である石神井公園駅は1915年(大正4年)4月15日、石神井駅として開業し、1933年(昭和8年)3月1日、石神井公園駅に改称されました。でも、雑司ヶ谷から石神井まで片道10キロもないので歩いてきたことも考えられますね。
で、なんでわざわざ水泳に来たのかといいますと、当時の北豊島郡あたりの小学校がどんな夏休みを過ごしたかの資料がありますんで、それを示します。


夏期休業中に於ける宿題に関する件/北豊島郡板橋尋常高等小学校(大正13年)

一、尋常一学年より高等科二学年に至るまで全部の児童に対し夏期休暇練習帖を使用せしむ(別冊印刷物八冊の通り)。

二、其の他各学年及び各学級にて補習課題を命ず。

三、尋常科第三学年以上の児童に随意に児童図書室にて読書せしむ(学校内備付の児童文庫)。

四、休業日中に二回各学年共登校せしむ(健康状態調査、宿題の進度調査の為)。

五、尋常科五学年以上の男女児有志の児童を石神井水泳場に引率して三週間水泳をなさしむ。

六、宿題に費す時間左の如し。一年 四十五分  二年 一時間三、四年 一時間半 五、六年及び高等科 二時間

七、宿題を課す時及び休業中の注意事項は、主として児童に起案せしめしを印刷物として配付し、実行せしむ。

てな感じで、夏休みと言えど結構忙しかったようですね。約100年前の話ですよ、これ。ちなみに、この石神井水泳場の人気に目をつけそれをパクり‥いや、インスパイアされて同じ石神井川沿いの中板橋に遊泉園プールが出来たのが昭和2年のことです。


練馬区には、この石神井水泳場の写真が、絵はがきその他数枚所蔵されているのですが、年代がハッキリしておらず、一番古いとされる写真が大正後期〜昭和初期とされ、プールの施設も掲出の絵はがきみたいな釣り堀風ではなく、コンクリートで造られています。これは関東大震災でプールが崩れてしまい、頑丈に作り直したからのようです。100mプールとなったのもこの改修工事の時でした。したがって私の収集した絵はがきが、年代の確実な最古級の石神井水泳場写真と思われます。へへ。(自慢)

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