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2012年11月

祝!☆板橋区政施行80周年&第1回板橋区議会議員選挙☆

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 先日、赤塚体育館周辺で「板橋農業まつり」が行なわれた。土曜日は快晴、日曜日は曇りで午後3時過ぎから雨が降り出したが、人出も多く大盛況であった。赤塚体育館裏の運動広場には、来年放映のNHK大河ドラマ「八重の桜」のキャラクター、八重たんが‥。ひょっとして、高島流をリスペクトするためにかけつけたのか?なんて。
私も舟渡ラーメンと田舎饅頭と大船渡の秋刀魚を試しに出かけたのだが、饅頭と秋刀魚はあまりに多くの人が並んでいたのでリタイアしてしまった。唯一、舟渡ラーメンだけgetしましたがコクもありなかなかなものでした。惜しむらくは発砲スチロールの丼で提供される事で、これはビジュアル的にだいぶ減点になりますなあ‥


さて、農業まつりのシンボルは、区内の野菜で作られた”お宝舟”ですが、今年はサイドの面に「祝 板橋区政施行八十周年記年」と書かれたボードが飾られていた。そう、当ブログで記事にしていませんでしたが、今年は板橋区が誕生して80年の記念の年なんですね。

板橋区は、旧東京市15区の北西郊外あった北豊島郡から分割された町や村から成り、西暦1932年・昭和7年10月1日に誕生した。設立当時は今の練馬区を含む巨大な地域を有していた。この時、練馬村を中心とした練馬区を作れとの声もあったが、それはかなわなかった。思うに、練馬村地域には中仙道のような主街道にあった板橋宿のように大きな宿場(江戸四宿の一つ)が無かったことや、荒川みたいな大きな河川や工業地帯も無かったため、力のある政治家が育っていなかったせいなのかもしれない。

区が誕生したからにはそれを運営をする組織が必要となる。それが区役所の組織。それと、もう一つ必要なのが条例を作ったり、区の予算の使い道を決める”区議会議員”を選出すること。これは今と同じだ。区議会議員選挙は国政選挙に比べると地味(ローカル)なせいかあまり投票率が良くないが、実は区民の生活に直結する大事な選挙なのだ。

板橋区が誕生して、第一回目の区議会議員選挙が行なわれたのは昭和7年11月27日の事。私の愛読書「板橋区史通史編・下巻」によると、選出区議会議員は36名。その内訳は‥

・立憲政友会19名(うち板橋町出身4名、上板橋1名、志村3名、下赤塚1名、現在の練馬区10名)

・立憲民政党15名(うち板橋町10名、志村1名、現在の練馬区4名)

・社会大衆党1名(板橋町)

・国民同盟1名(現在の練馬区)

以上であった。こうして見ると板橋町の出身が15名とダントツですね。やっぱり農村地域からはなかなか議員は出ないもんなんですかねえ‥。面白いのは練馬から選出された議員15名で、これは練馬南町、練馬北町、春日町、高松町、石神井、東大泉、中村、小竹と練馬地域からまんべんなく選出されている。

板橋区史には新区議の名前や出身町、所属政党は詳しく載っているが、いつ選挙が公示され、どういう条件を満たした人物が立候補したか、またその投票方法や投票人の条件などの情報が無い。
取りあえずネットで情報を検索しても、第一回の区議会議員選挙についての情報は見つけられなかった。おそらく、当時の新聞記事を頼りに探して行けばある程度の事がわかるだろうと思うけど、身近に新聞の縮刷版を置いてある環境がない。でも板橋区にはないが練馬区には新聞のマイクロがあり、光が丘の図書館へいけばマイクロの装置があり見れるとは思うのだが‥

そこで、とりあえず私のコレクションを探してみると、おお、第一回選挙時の入場券があるじゃないか!ではそこから読み解いてみる事にする。(結局、この自慢したかっただけかよ)

この選挙入場券を持っていたのは板橋町2丁目に住む某氏。初代板橋区長は官選で選ばれた上田房吉。退任は昭和8年11月、直後に荏原区(品川区)の区長に転出、昭和11年に滝野川(北区)区長、同15年に牛込区(新宿区)の区長を勤めている。なんだか区長のプロフェッショナルみたいな人ですね。

投票日時は昭和7年11月27日午前7時から午後6時まで、選挙会場は板橋尋常高等小学校。当日はこの入場券を受付へ出し到着の番号の記載を受け、入場券の上にある番号の選挙人名簿対照係に選挙人名簿の確認を受ける。(某氏の場合は第二番の名簿で確認する)その後、この入場券と投票用紙を引き替え議員候補者の名前一名を明瞭に記載して投票箱に投入する。ま、今とほとんど同じですか。

では投票権を持っているのはどんな人ですかね。現在の区議会議員選挙は20歳以上の日本国民で板橋区に所在していれば投票出来ますが‥。入場券の裏面の注意事項を読むと投票は衆議院議員選挙法に依っているようです。そこで、明治維新後の選挙制度の変遷を簡単に箇条書きしてみますね。(静岡県総合教育センターH.P.参照)

選挙法の公布年    総選挙の実施年    有権者の資格
1889年(明治22)  1890年(明治23)  直接国税15円以上納める25歳以上の男子
1900年 (明治33)   1902年 (明治35)   直接国税10円以上納める25歳以上の男子
1919年 (大正8)   1920年 (大正9)     直接国税3円以上納める25歳以上の男子
1925年 (大正14)   1928年 (昭和3)  25歳以上の男子(戦前の普通選挙)
1945年 (昭和20)   1946年 (昭和21) 20歳以上の男女(戦後の普通選挙)

え〜ということは、昭和7年の選挙では25歳以上の板橋区在住の男子なら投票出来たということですね。女性には投票権はなかったんです。男尊女卑だったのか、家長制度の名残りでしょうかねえ。。


現在の板橋区議会議員の定数は46名ですが、昭和7年の板橋区誕生時には現在の板橋区域選出の議員は21人でした。面積が半分になって議員人数は倍以上になったというわけですな。もっとも人口は昭和10年時点で練馬区域と合わせて15万人だから、今と7倍くらい違うので比較にはならんですが、現在の区議会議員は板橋区民1万人あたり1人という割合ですか。これが多いのか少ないのか適正なのかはわかりませんがどういう経緯でこの人数なんでしょうね。

もうすぐ年末ですが、どうも国政選挙の気運が高まっているようで、さてさてどの政党が天下を取るのか、それにより板橋区の政治も変わってくるのか、興味は尽きません。あっ、その前に都知事選か。テレビによく露出していて面白そうだから、なんてあさはかな動機で投票などしてはいけませんぞ。

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徳丸田んぼの時代

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[祝!高島平団地40年]‥徳丸田んぼ時代に住所はあったのか?

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 「それを言っちゃあおしまいよ。」

‥昭和初期から終戦直後まで板橋区志村で少年時代を過ごした、映画「男はつらいよ」シリーズに主演した名喜劇俳優、渥美清さん演ずる寅さんの名セリフだ。

先週末に板橋区立郷土資料館で行なわれたシンポジウム「高島平の現状と未来」を拝聴した。
このようなシンポジウムや学会では、数人の発表者がそれぞれの持ち時間の中で持論や研究の披露をし、それらが一通り終わると、最後に全員が並び全体討議や質疑応答を行ない終了するのが決まりである。

私は雑念が多いというか、天の邪鬼な性格なので、頭にいろいろと考えが浮かんでしまう。同時に、その自分の疑問が、無知からくる頓珍漢なものじゃないか?これを大声で発言すると場の空気を壊したり、時間内にシンポジウムが終わらなくなり単に迷惑な存在となりゃしないか?なんてことを考えてしまい、”それを言っちゃあおしまいよ。”というフレーズとともに悶々とした気持ちのまま会場を後にすることが多い。


今回の「高島平の現状と未来」のシンポジウムでは、主に高島平団地の入居が始まって40年を迎えた現状と未来についての討議がおこなわれた。前提として、人口減と高齢化が進む高島平地区を活性化するにはどうしたらいいのか?という方向でさまざまな意見がかわされたわけだ。

人口減と高齢化は日本全体で進んでいる話なので、その対応策は様々なメディアで見聞きしている。曰く、「若い世代を呼び込もう」「魅力的なショッピングセンターを作ろう」などなど‥
それらの意見は、高齢者のことを念頭に置かず、むしろないがしろにしがちだ。「年寄りは外に出ない」「年寄りは購買力が無く金を使わない」とかね。

不思議なのは、シンポジウムに参加している人達が、パネラーも聴講者もどちらかというと高齢者か高齢者予備軍の中高年がほとんどなのに、自分のことを棚に上げ、年寄りには夢も希望も未来もなく邪魔物だ、みたいな話に相づちを打っている。お前ら年はとらないのか?いつまでも元気なのか?‥いかん、次々に雑念が湧いてくる‥

日本の少子化は、再び経済成長期を迎えないかぎり止まらないだろう。そして、競争力のある地域では未来ある若い世代を呼び込もうと、その小さいパイを奪い合のだ。ウルトラセブンでいうところの「血を流しながら続ける悲しいマラソン」のフレーズが浮かびます。

私は思うけど、いっそのこと、高島平は「老人に優しい街」を目指してはいかがかな?せっかく、三田線沿線には、「おばあちゃんの原宿」で有名な巣鴨があるんだし。
巣鴨は、「とげぬき地蔵」で有名な高岩寺があり、門前の旧中仙道沿いの商店街では縁日も開かれるので、昔からお年寄りが多かった。20年くらい前、それに気がついたライターが、自分の本のタイトルに「おばあちゃんの原宿」というステキなキャッチフレーズをつけて出版した。今では、社会情勢のインタビューはサラリーマンなら新橋、高年者なら巣鴨、とブランド化され必ずマスコミで取り上げられる場所となった。

もともと高齢者の参拝が多かった巣鴨の商店街では、お年寄りのためにさまざまな工夫をしてきた。そしてお年寄りの街として”ブランド化”されたおかげで、ますます人が集まるようになった。きちんと調べたわけではないが、老人に優しい街のイメージ(安全、安心など)からか比較的若い人達も訪れているのではないかと思う。

まっ、無責任な立場から提案するのは楽だけど、高島平地区は、地理的にいろんな問題がある場所ではある。ストレートに書いてしまうと住民の人達に石を投げられるので省略して述べるけど、昨年の東日本大震災に鑑みて、安心して暮らせる街作りを目指してほしいのだ。1995年(平成7年)1月に発生した阪神・淡路大震災を契機として耐震改修工事が進められていたが、それでいいのだろうか?ということです。それとともに、どこにも行き場のない高齢者の方々のために超バリアフリーな団地作りを是非、と願います。


ずいぶん長い前フリでしたが、タイトルについて。。

シンポジウムでは、高島平地区の前史についての発表も行なわれた。
では団地が建設される前は何だったでしょうか?板橋区民検定があれば最初の方に出てくる問題ですね。

答えは「徳丸田んぼ」。高島秋帆先生による西洋流の砲術が行なわれた江戸時代は徳丸原、または徳丸ヶ原と呼ばれてました(村絵図の表記より)。

で、発表内では高島平の命名についてサラッとふれられました。もちろん高島秋帆先生の高名を顕彰して命名されたのですが、それ以前は徳丸田んぼと呼ばれ、昭和44年3月1日に正式な住居表示になったというわけです。命名者は板橋区公文書館のH.P.によると住宅交渉委員会の副委員長であった(都議会議員の)田中熊吉さんが提案した案だった、そうです。

田中熊吉さんは徳丸5丁目の徳石公園近くに家があり、あたりに茅葺きの家さえある時代に鉄筋コンクリート造りの超モダンなお屋敷を建て、まるで要塞のような家だったと子供の頃の記憶にあります。今でも佇まいほとんど変ってません。昔聞いた近所の人の噂話では、議員は自分の仕事のアピールをしなきゃならないので、高島平という名前を命名したのはオレだという人が何人もいたよ。ということですが、田中熊吉さんが提案して決まったのはそうなんでしょう。

それでは、命名以前は「徳丸田んぼ」という名前だったのでしょうか?少なくとも、昭和39年度にほとんどの場所で田作を終了してからは、何がしかの名前というか住所がなけりゃ工事に不都合じゃないの?などと思い、シンポジウムの後で調べてみました。

よくある事だけど、「徳丸田んぼは高島平と命名された」と聞いても、別に疑問は湧きませんよね?例えば「近藤勇は板橋刑場で斬首された」「中板橋駅は昭和8年に開業した」「金井窪駅は昭和20年4月の空襲で焼けて廃止になった」なんてこともよく目にする。実はこれらは間違っていないけど、ちょっと違う。(気になる方は当ブログで解説してますので、過去ログをお探し下さい)

とりあえず自分の手元にある本、「板橋区史通史編 下巻」「いたばしの地名」(板橋区教育委員会発行)「高島平」「トラムとメトロ」(いずれも1998年、板橋区立郷土資料館特別展図録)、全国住宅案内地図「板橋区」1969年1月版から情報を拾ってみた。するとこういうことがわかった。

1800年代初期に編まれた武蔵国の地誌「新編武蔵風土記稿」によると、荒川の氾濫源であり、葦の狩り場や幕府の砲術演習場として利用されていた高島平地域には、すでに小名がつけられていた。(堂坐下、留下、大橋、弁財天、早瀬前、深町、茨蕪、etc) 明治の世になり、北豊島郡に含まれるとさらに細分化され小字がつけられた。(八反目、島根、大羽根、道甚田、平沼、など40以上)

明治時代初期、徳丸原は赤塚村を中心とした近在の村人に払い下げられたが、個人の土地となったからには地引割りをしなくてはならず、その時に字名(あざめい)に番地もつけられた。そうしないと登記や課税の時、不便ですからね。

田んぼの耕作が終了して、宅地開発が始まった頃の昭和44年の住宅地図では、高島平地区は成増や下赤塚、四つ葉や徳丸本町、志村西台と言った南側の台地上の町名がそのまま北側の新河岸川に向かって伸びているように記載されてますね。(実際には「新編武蔵風土記稿」に大きな範囲で下赤塚村や四つ葉村や徳丸本村の支配地が記されてます。詳しくは「いたばしの地名」を参照して下さい。)

そんなわけで、大まかな地図では単に徳丸ヶ原とか徳丸田んぼなんて表記にされてるけど、ホントは住所はあったんですね。人家がほとんどなかったから記載する必要がなかったのかも知れません。

いいかげん長くなるのでこの辺にしたいけど、もう一つ疑問が。

一番右の写真、「高島平開発計画図」とあるでしょ、これは板橋区立郷土資料館が所蔵していて「トラムとメトロ」展の図録に掲載されている。この計画図は1965年(昭和40)頃の物らしい。きちんと高島平の町名も割り振られ、トラックターミナルもあるし三田線(当時は都営六号線)も引かれ、高島平地区完成時とほぼ同じイメージだ。

三田線開業は昭和43年12月なので、この計画図の時点ではまだ基礎工事も始まっていない時期かと思われる。駅名も入っていて、順に「西台駅」「高島平駅」「志村団地駅(仮)‥現・新高島平駅」「笹目橋駅(仮)‥現・西高島平駅」とつけられている。
あれっ、おかしくないか?高島平駅は開業時点では「志村駅」だし、なんでその次が志村団地駅なの?笹目橋駅はまあ笹目橋の近くだからわかるにしても。

そこで話を戻すけど、高島平の名前が正式に付けられたのは昭和44年3月でしたよね?まあ、それは認可された時期だからいいとして、じゃあいつ高島平の名前にすることが決まったんだろう??


‥こうして疑問は果てしなく続くのであった‥またの機会をお楽しみに!

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