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2012年6月

☆自衛隊レンジャー隊員、久しぶりに板橋区を行軍する☆

 今朝のこと、なんだか我が板橋区が騒がしかった。どうやら小銃を携行した自衛隊レンジャー隊員が訓練で、荒川河川敷から板橋区を北から南に縦断し、北町の練馬自衛隊まで行軍したそうだ。その情報は数日前からなんとなく目にしていたが、板橋区内で行なわれることまでは知らなかった。‥うかつだった‥ と、言うことで写真がないのでネットの新聞記事は以下のサイトへ。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120612/plc12061211100012-n1.htm

 レンジャー隊員はなぜ板橋区内を通ったのか。それは練馬自衛隊駐屯の第一普通科連隊が東京23区の警備を受け持っているからだ。記事によると武装して都内の市街地を行進するのは、1970年から42年ぶりなのだとか。

ずいぶん前にこのブログで紹介したけど、昔はしょっちゅう高島平(団地が出来る前だから徳丸田んぼ時代ですが)で訓練が行なわれていた。それが下の写真である。真ん中のモノクロ写真前方の丘は徳丸だ。

Army14212
 
 上の写真が撮影されたのは昭和30年前後と思われるが、さすがにここで実弾訓練はしなかったでしょうね。この頃は戦車もそのまま川越街道を走っていた。
例えが悪いけど、江戸時代、吉原であった場所が今でも風俗街であったり、同じく男女が密会したり、隠れて遊んだりした日暮里あたりがホテル街であるように、江戸時代から大砲の演習場であった徳丸原で(高島秋帆先生の西洋流砲術のお披露目が行なわれたのもここが演習場だったから)自衛隊の訓練がおこなわれるのも、不思議な因縁があるような気がする。

昔の訓練風景と違うのは、こんなにマスコミに騒がれなかったことですかね。私が数日前にこの訓練のことを目にしたのも、一部住民により訓練中止の仮処分申請がなされたからで、東京地裁は11日にこの申請を退けた。だから、今日は訓練やめろのプラカードを掲げた団体が沿道に現れ、行軍応援の人々と入り乱れてニュースとなったようだ。

私も、戦争は反対の心情(これについては長年の成増飛行場取材の結果、辿り着いた心境だ)だけど、国防訓練に対して反対する程のものではないなあ。何年か前、下赤塚のファミレスで食事をとっていたら、隣の席で数人の女性グループがミーティングをしていた。声が大きかったのでなんとなく話が耳に入ってきたが、どうやら憲法第九条を信奉するグループであったようで、「もっと私たちも積極的に運動しなきゃだめなのよ!」「何かしなきゃねっ!」などと、盛んにしゃべっていた。
なんだかなあ‥確か板橋区は平和都市宣言をしているし、区内に、他国を侵略しようと主張する過激右翼組織が存在する‥なんて聞いたこともない。どうもね、自分たちの存在をアピールするために行動を起こそうとしているだけなんじゃあないか、と感じた。いったいどこに敵がいるんだ??、あっ、練馬自衛隊があったか。そういやあ練馬や朝霞の自衛隊周辺ではよくデモ行進がありますね。仲間同士、より結束を固めるため外に敵をつくる。なんてのは小学生の世界にもあるこってすが。

戦争反対の心情を持つ私だが、過去、外国で敵意を持つ人達のいる地域に足を踏み入れたことがある。そんな場所に丸腰でいるなんてそりゃあ恐ろしいもんですぜ。武器を手にしている相手には絶対にかなわない。例えば私が平和主義者だろうが相手にはそんなことはまったく関係ない。ニューヨークで強盗に襲われた経験もあるけど、そこは貧乏人達が暮らすエリアで、金目当ての襲撃だった。貧乏だからといって人を襲うのか?お前らは動物か。日本ではあまり起こらないだろうが、首を締めあげられ殺されそうになった身としては、性善説は信じたいけど、それは理想に過ぎないと思っている。

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決定☆板橋区の最高&最低標高地点!!

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 今日は夏至ですか。
 
 一昨日の夜から昨日の明け方にかけて、台風4号の通過にともなう風雨で各地にまた大きな被害がでましたね。梅雨のただ中ということもあり、梅雨前線が刺激を受けていっそう雨量も多くなったようです。
そんなことで、武蔵野台地の縁にある我が板橋区は、荒川や石神井川が区内を通るため高低差が激しく、水害を受けやすい地域といえよう。

で、皆様方に一つ訂正があります。どのページで触れたかわかりませんが、「板橋区の最高標高地点は徳丸3丁目、徳丸変電所の34.5m地点である!」と断言しておりましたが、なあんと、それは違うことがわかった。これは板橋区役所の発行するデータ(昔のね)からの引用で、それは三角点の情報を基点としている。ところが、今月から国土地理院が、知りたい場所の標高を数字で表示できるシステムの試験公開を始めた。(以下そのサイトアドレス↓)

http://saigai.gsi.go.jp/2012demwork/checkheight/index.html

これは、最も近い四つの標高点の値をもとに、その場所の標高を計算するしくみだそうで、早速、板橋区内の各地点を調べてみた。それによると、区内最高標高地点は「赤塚新町小学校・36.6m」であり、区内最低地点は「浮間船渡駅、浮間公園入口付近の路上・0.3m」だった。ただし、計測地点はビミョーに動かせるのでもっと数値が変る地点があるかもしれないが、周辺もふくめて考えれば、おおむね妥当な所だろう。

その他、板橋区内の主な地点の数値を上げておく。

成増 :菅原神社・27.8m
赤塚 :浄蓮寺(東京大仏)・27.5m
赤塚 :下赤塚駅前・34.6m
高島平:高島平駅前・3.4m
舟渡 :舟渡四丁目・2.6m
小豆沢:小豆沢神社・25m
常盤台:常盤台駅 ・27.2m
桜川 :城北公園内御嶽神社横高台・32.4m
弥生町:下頭橋  ・22.6m
小茂根:茂呂交番 ・34.4m
板橋 :大和町交差点・26.6m
板橋 :板橋(仲宿)・18.6m
板橋 :板橋区役所・28.9m
熊野町:熊野神社 ・27.2m

ざっとこんな感じですかネ。このシステムを使えば水害を受けそうかどうか知ることができるけど、これに加えて断層とか地盤がわかると尚、ありがたいですね。

*掲示の写真は大正時代の徳丸一町目あたりから高島平を望む風景。こうしてみると、風光明媚な景勝地だったことがわかりますね〜

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萬歳!万歳!バンザイ!>板橋区民より。

 1945年の今日は、大東亜戦争時の沖縄が日本の領土として初めて外国に占領された日ですね。正確には日本軍の戦闘行為が実質的に終了したと判断された日、ですか。すでにグアムやサイパンも陥落し、絶対防衛圏を失い、本土決戦が叫ばれていた時代でした。

そこで、今回は大東亜戦争の前段階であった日中戦争の時代に撮影された、板橋区民の様子を紹介しよう。

0352 これは、「南京陥落祝賀旗行進」と名付けられた一連の写真である。当時の板橋第六尋常小学校(現・板橋第六小学校)で、中華民国の首都である南京を占領した(昭和12年/1937.12.13.)ことを祝して行なわれた祝賀旗行進の様子だ。
板橋第六小学校は昭和8年4月に開校し、現在も同じ場所にある。校舎は建て変わっているが、ほぼ同じ位置だ。住所は板橋区大山町13−1、西側の敷地は川越街道に接している。写真で見ると、けっこう生徒数は多いですね。日大大山病院は昭和10年に開業し、周辺に人家が増えてきた頃だ。


0353 おそらくは、校長先生を先頭に出発し、学校近辺を行進している様子。
どこの道なのかわからないが、簡易舗装がされているようだ。この時代はほとんどの道が未舗装だったので、旧川越街道クラスの道ですかね。後ろに写る大きな建物が小学校の校舎かどうかはわからないです。左奥に特徴的な建物がありますが何でしょうね?当時の地図や現在の地図で確認しても、撮影場所がどこなのか判別できませんでした。子供達は洋服姿が多いようです。同じ板橋区でも純農村地帯であった我が赤塚郷地域と違って、都会風なんですかね。


0354 おお、何だか広い道路を歩いてますね。ここは現在の川越街道で、当時は改正道路または新川越街道と呼ばれていました。昭和8年から工事が始まり、昭和19年に板橋区内の工事は終了した。
植えてある街路樹がまだ”新品”といった感じですね。左側の電柱にある看板は「田崎医院」と書いてありますが、現在も川越街道から水道タンク方面へ向かう拡幅工事の終わった新道の横にあります。
写真の真ん中に屋台が出ていますが、拡大して文字を見ると”ベッコノ菓子”(べっこう飴のことか?)と書いてあるように読めます。常時出店してたのかな?


0355 さて、神社に到着しました。(学校から出発したのか神社から出発したのかわかりませんけど。)実は、この神社がどこなのかわからないんですよ。
有力候補と見られる熊野町の熊野神社や大谷口の氷川神社に行ってみたけど、どうも違うようだ。神社は時代が変わってもあまり敷地や建物の位置に変化がないものです。ここがどこだかわかれば一連のコースがわかるんですがねえ‥子易神社でもないし、轡神社でもないし、板橋氷川神社でもないし‥。
真ん中下のカメラ目線の子供達がカワイイですね。80年前も変らんですなあ‥

 

 これらの写真、けっこうめずらしいんですよ。よくぞ見つかった!と思います。伝え聞く話によると、大東亜戦争敗戦後、軍関係はもちろん、役所や小学校では進駐軍に見られると都合の悪い資料を、進駐される前に処分することが行なわれていたらしく、こんな写真は真っ先に処分されたことでしょう。
この写真はたまたま板橋第六尋常小学校のものだけど、他の学校でも当然行なわれていたでしょう。国家国民総動員でアジア解放の名のもと、戦争協力してましたから。そんな時代です。

前回、自衛隊レンジャー部隊が42年ぶりに板橋区内を武装行進した記事で、それに反対する方々のことに触れましたが、日頃、日の丸君が世反対、憲法第九条を信奉する団体として有名な日教組(日本教職員組合)は、もともと戦争に協力する教育を行い、自分達の教え子を戦場に送り出した反省から始まった団体だ。
最初の設立動機は理解できるし良いのだが、日本が立ち直り、他国を侵略する行為もなく平和な年月が長く続くにつれ、運動が倦怠し、新たな敵を求めるうちに変な方向に向かってしまったのだと思います。。

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祝!!☆高島平新聞40周年☆

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 先週土曜日(6/23)、高島平区民館で主に地元のコミュニティを対象として発行されている「高島平新聞」(株式会社 高島平新聞社)創刊500号、創立40年を記念したパーティーが賑やかに行なわれた。
会場には坂本区長や衆議院議員の下村博文先生を始め、区内の様々なコミュニティ団体の代表者や地元のいわゆる名士達が集まり大盛況だった。

「高島平新聞」は高島平団地が正式オープンした昭和47年(1972)と同じ年の5月1日に創業し、20日から高島平新聞の前身「団地新聞・高島平」を創刊した。 タブロイド判4ページ、チラシのような新聞であったらしい。現在は月刊(毎月15日発行)で、 高島平地域を中心に22,500部発行(2010.1 現在)されている。購読料はなんと無料!!で、主な収益源は広告料であるが、そこらのコミュニティ紙と違うのは、広告料目当てのヨイショ記事ばかりではなく、「新聞」と名乗るだけのことはあり、高島平地区で起こる社会問題を取り上げたりとなかなか”硬派な”記事が載ることだろう。

私もかつて徳丸地区で発行されていた「ワンダフル徳丸」の編集にボランティアで協力していたことがあるが、資金が尽き、数年で廃刊となってしまった。でも、その時に集めた写真や古くからの住人より話を聞いた事柄が、今このブログを書くのに役に立っている。

板橋区内では昔から地域新聞や情報誌が発行されていた。一番多かったのは昭和初期頃かな。それと終戦直後。新聞紙なんてものは鮮度が命ゆえすぐ処分されてしまうものであり、現物が残るものは極端に少ない。しかし、鮮度は短いが情報源としては素晴らしく、50年、60年経つと立派な歴史資料になるんですがねえ。新聞よりも規模の小さいコミュニティ紙もいろんな地区にあったけど、インターネットの登場もあり、今では極少なくなりましたね。

それにしても、新聞紙にしろコミュニティ紙にしろ印刷物なので残ることもあるけど、ネットの情報はどうなるんですかねえ。いまから15年以上前、インターネット初期のパソコン通信時代に板橋区には”ケヤキネット”という、たぶん板橋区役所が作ったパソ通サイトがあった。電話通信料金がとても高かったので図書館に置いてある専用端末でアクセスしていた記憶がある。その時のコミュニティの記録なんて残ってないんだろうなあ‥。数十年後、覚えている人間がいなくなったら、歴史上からも忘れ去られるのだろう。。


記念パーティでは地元ゆかりの音楽グループの演奏や、我が西洋流火術鉄砲隊保存会による演武の紹介も行なわれた。
そうそう、鉄砲隊には昨年から銃士として元自衛官のT氏が正式加入した。T氏は朝霞の自衛隊などで広報官を勤めておられ、とても顔が広い。来年のNHK大河ドラマに協力することになったのも、T氏の人脈によるところだ。T氏は、この秋に放映される吉田茂のドラマ( 9月スタートNHK土曜ドラマ「負けて、勝つ~戦後を創った男・吉田茂~」後10・00)で、講和条約締結後に発足した自衛隊の前身、警察予備隊のシーンの監修を依頼されているのだそうだ。吉田茂を渡辺謙が演じ、片腕の白洲次郎を谷原章介が演じる重厚な物語だ。
来年の大河、「八重の桜」制作チームからは、鉄砲隊で使用している”トンキョ帽”の作り方を教えてくれと依頼があったようで、どのシーンで使うのかわからないけど、”高島流”の装備がドラマで使われるのはホント楽しみです。大河ドラマは板橋区から、ですね。


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板橋区民、遥かなる東へ。

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 朝5時か‥。ああ眠い‥。

と、いうのは半分ウソである。子供のころから早起きだったので、朝はあまり苦ではないのだ。今はむしろ年を食ったせいか勝手に目が覚めますが。。

そうそう、もうじき夏休みですね。小学校高学年のころ夏休み中ほぼ毎朝5時起きし、クワガタ虫の狩り場であった北野神社旧社務所裏の林に出かけ、一夏で30匹以上コレクションしたことがあったっけ‥
一番の獲物はノコギリクワガタでしたね。けっこう採れました。でもカブト虫はいませんでしたねえ。。当時すでにカブト虫はデパートで買う物でした。一匹500円でだったかな。今のほうが安いし、養殖技術が発達して、図鑑や博物館でしか見られなかった外国産カブト虫が手軽に手に入る、夢のような時代になりました。

おっと、想い出に浸ってる場合ではない。今年も上半期が終わろうとしているが、1月から5月まで気を抜けない日々を送っていたので、ここらでリセットして人間らしさを取り戻さねばならないのだ‥。


てなわけで、世界でも一番行きにくい、近くて遠い場所へ向かいますので、しばしのお別れ‥。でもネットがうまく繋がれば、日記をUPしますので、お楽しみに☆

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板橋区民、遥かなる小笠原へ行く。

 暑い。。強烈にムシムシする。。どんな南国や。。
 しかあ〜しである。ここは東京都なんだな。。

‥と、いうわけで、板橋区民は今、父島に滞在しておるんです。東京都でありながら、世界でもなかなか訪れるのが大変な場所であるんですな。なにせ竹芝桟橋から船で約25時間かかるんすよ。それでも小笠原丸1クールだと滞在期間はたったの3日しかなく、おまけに天候不良の場合は島を出られないという、大変リスクの高い場所なのだ。

昨年、小笠原諸島は世界自然遺産に選定され、一気に観光客が増えたため、シーズン近くになると予約が非常に取り難くなってしまった。私も最初に予定をしていた時期よりも遅くなってしまった。が、ちょうど梅雨が明け、海が安定する良い時期なんだそうだ。てなわけでダイジェストで振り返ってみる。

P1000360_2 ここは竹芝旅客ターミナルです。受付は午前8時30分から。
100番台までの整理券番号をゲットしなければ船倉の下のほうの部屋になるので、早めに行くべし、ということで私は7時20分に並んで30番代でした。
どっと人が並び始めるのは8時くらいからでしたね。

いままでドーバーを渡る船やコペンハーゲンからストックホルムに渡るバイキングライン、バハカリフォルニアからメキシコにわたる奴隷船‥等々乗ってきた私である。‥でも念のため酔い止め薬を2種類飲んでおこうっと。

P1000407_2P1000385定刻とおり午前10時ドラの合図で出航しました。後ろ向いて着岸してるので、スイッチバックします。ホントは寝台形式の特2等にしたかったんですが、席が確保出来ず2等山小屋雑魚寝部屋へ。
小笠原海運では、世界遺産効果で乗客から奴隷船みたいな雑魚寝はヒドスギル!と抗議があったので、6月から2等定員を3割減らすはずなんだが、ぎちぎちで何にもかわらんと思う。。

P1000389P1000388P1000391P1000434 幸い、海況が安定していたので、夕食はがっつり島塩を使ったステーキ(1300円)をいただく。他にもポークソテーとか唐揚げ定食とかラーメンなどなど。食事時間帯は人が押し寄せてすごく混むのではないか、と思ったらレストランのキャパはけっこうある。

翌朝もすごくイイ天気!カモメじゃない海鳥がさかんに船に集まってくる。よくよく観察していると、船に驚いたトビウオが飛んだ瞬間をすかさずキャッチ!していた。

P1000445_2P1000456 午前11時15分、ようやく父島、二見港桟橋に到着。観光客を待つ、たくさんの宿泊関係者の出迎えを受ける。

あたり前だけど港に止まる車は皆、品川ナンバーだ。練馬ナンバーでもいいじゃん、とか思いました。
う〜ん、しかし暑い!!ねっとりとからまるような暑さだ。ああ、南国なんだなあ〜

P6280007P6280016P6280047P6280050 さっそく、宿近くのコペペビーチへGo!
う〜んすごい。ここは本当に日本なのか??もしかしたら沖縄諸島の海よりキレイなんじゃないの?(行ったことないけど。すんません。)珊瑚が点在し、その間を色とりどりの魚が群れをなして泳ぎ廻っている。ああ、ここが世界遺産に選ばれるのは当たり前だったんだなあ、と心から思う。

さっそく購入したばかりのオリンパスTN-1で撮影だ!‥とはりきってみたが、水中写真はむずかしい〜。全然勝手がちがいますなあ。。これは修行が必要だ。おまけにスイッチが入っていたままだったのか撮影途中で電池切れに。。いかんいかん、これではカメラが泣いてしまう。

ではまた報告をします!


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板橋区民、父島を漕ぐ。

P6290052P6290059 今朝は、雨の音で目が覚めた。昨夜の予報では晴れだったのに。‥ああ、やっぱり南国、じゃないや東国?は天気が変わりやすいんだな、と残念に思いつつ朝食をとっていると、おお、晴れてきたではまいか。
今日は、シーカヤックで父島の海を散策しようと計画していた。待ち合わせの砂浜に行くと、”テッテケテ〜”と走り抜けて行く小動物がいた。止まったところを見ると正体は蟹だった。高須クリニックのCMで二本足で立ち上がる蟹がいたがそいつだった。
‥あのCMはまったくのウソではなかったんだ‥と感心した。

P6290085P6290078 カヤックのガイドは、「プーラン プーラン」の清水氏にお願いした。来島26年のベテランである。もともとはサーフン好きが高じて島に移り住んできたそうだ。カヤックは初めてだったが、海も穏やかだったので、なんとか転覆させずに漕ぎ進めることができた。

目指すは父島南西端にある”ジニービーチ”だ。なぜカヤックで?というのは歩いては行けない場所にあるからなんですよ。
腕の疲れと力を入れるお尻の疲れと戦いながら、約1時間で目的のジニービーチが見えてきた。う〜んすごい。とても言葉では表現出来ない。ガイド本やネット上に写真はいくらでも出ているが、両の眼で、耳で、肌で感じるこの素晴らしい風景を伝えることは出来ないだろう。まこと、夢の場所だった。

P6290137P6290134 一時間半ほど、この夢のような空間を楽しんだ後、魚がたくさんいると言う場所へカヤックで移動した。ジニービーチは景色は美しいが、それは海底も珊瑚などで出来た白い砂が覆っているからで、魚が住みつく岩盤が少ないとのことだった。

30分くらいで着いた小さな入り江は、海の色が悪かったが半信半疑でシュノーケリングすると、おお、色とりどりの珊瑚や大きくてカラフルな魚がたくさんいる!と思ったらいきなりサメが現れ驚いた‥
でもこのサメくん、ネムリブカという実におとなしいヤツなのだそうだ。

P6290143P6290149 私がシュノーケリングしている間に、ガイドの清水氏が昼食用に魚釣ってくるわ、とカヤックで漕いでいった。

しばらくして浜に戻ると、清水氏が島の名産、アカバを釣って戻っていた。これからみそ汁を作るそうだ。昼食は玄米にサルビアの花や地元の品を混ぜ込んだチャーハンを、そこらへんの葉っぱを皿代わりにしていただいた。
自然の中でワイルドにいただく食事は最高であった。あっここは最後に、ワイルドだろう?とシメルべきだったか。

P6290157P6290166 昼食が終わった後、ちょっとあたりを散策してみた。見通しの良い岬から、さっき滞在していたジニービーチ方向を望む。
画像中心部分が靄っているのは、カメラのレンズが暑さで曇っていたため。防水カメラでレンズの内側が曇るなんて欠陥じゃないの?と思うけど。

海岸には日本軍の残したトーチカが。。実は父島にはこうした先の戦争の残骸がそこここに残る島ではある。その話題はまた後日にでも‥


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板橋区民、ディープな父島を探索する。

P1000479P1000491 父島3日目を迎えた。昨日おとといと海で遊んでばかりで、ホントに遊びに行ってただけかよ。とお思いの方々、違いますぞ。これまでは父島の地理を把握しようとしていただけで、今日からが本番である。
不肖、私は東京都の戦跡を見て歩くことが趣味の一つで、いわば東京都小笠原の戦跡巡りは、最大の関門だったのだ。普通なかなか行けませんもんね。ワタシだって20年かかって巡り会ったチャンスなんすよ。

P1000514P1000524 上の写真は夜明山山中に残る探照灯と発電所の建物。こうした陸上の建物が使われたのは大東亜戦争(ん〜小笠原の場合は太平洋戦争の方がしっくりくるかな)初期の頃までで、ミッドウエーの大敗後は徐々に塹壕戦に備え、ジャングルでカモフラージュ出来る場所や、岩をくり抜きトンネルを堀り、設備を移動した。
写真の大きな瓶は雨水を貯めるためのもの。上澄みを煮沸して飲み水としたらしい。

P1000532P1000539 父島が要塞化され始めたのは、1920年(大正9)からで、途中、軍縮政策で作業が中断し、太平洋戦争開戦の準備として1940年(昭和15)に戦備作業が開始した。父島では最盛期には軍関係者が約19000人程いたそうで、戦況が悪化した時期には、この中から硫黄島守備隊の要である小笠原兵団が編成された。小笠原の島民は1944年(昭和19)8月までに本土へ疎開した。写真は大正時代製の山砲と、司令官用の防空壕。

P1000545P1000547 山中は草木が生い茂り、往時を偲ぶのは難しいが、いたるところに生活の痕跡や、朽ち果てた備品が放置されている。
写真は、軍用道路脇に作られた側溝に落ちていた軍用車のタイヤと、ジャングルに覆われた道路。

ここをトラックが走っていたとは‥説明されても信じられない。このような戦跡見学では、ガイドさんがいなければとてもじゃないが歩くことはできない。

P1000548P1000601 ガイドさんの案内で道無き道を行くが、ところどころに生活用品が落ちているので、ああ、こんな所にたくさんの兵隊さんがいたんだなあと実感できる。

瓶や陶器製の物は過酷な環境の中で70年の歳月が過ぎても、とても奇麗に残っているんだなあと感心する。古墳時代の須恵器なんかも今見てもこの間作ったのか?と思うようなものもありますね。こんな物も記念品として持ち去られてしまうそうです。。

P1000565P1000561_2 この写真は炊事場で使用した水回りの設備だそうです。とにかく水は貴重品で、とても大切に使ったそうです。
もう一枚の写真、なんだかわかりますか?
もはやただのジャングルですが、ここに兵舎やら倉庫があったんですって。言われなきゃわかんない‥って、言われてもわからんですな。まさに、”つわものどもの夢の跡”ですなあ‥

P1000572P1000584 さーて、大物登場。
これは正式名称はわからないけど、12センチ砲ですかね。渡辺謙主演のクリント・イーストウッド製作「硫黄島からの手紙」の米軍上陸シーンで、ケンさん演じる栗林中将が砲撃命令を下した砲と同じだったと思います。この砲が発見されたのはそんなに昔ではないようで、この日のガイド、板長/田中氏の父親が発見し、周辺を整備したそうだ。

P1000605P1000610 お次はなんでしょう?
これは鬼畜米軍艦爆機の残骸だそうだ。機体は空中分解して、一部は海ぎりぎりの崖に四散している。機体は他にもいくつか確認されているそうで、P-51ムスタングも山中に残骸が残っているそうだ。
我が日本機もあるようですよ。飛行機関係の部品は人気があって、切り取られて持ちさられるケースが後をたたないそうです。。

P1000627P1000657 海辺の近くにもトーチカなど、いくつも塹壕の穴が口を開けている。この洞窟は、海軍特攻兵器「震洋」の待機壕だ。「震洋」は小型のベニヤ製モーターボートに爆弾を仕込んで体当たりをする兵器だ。陸軍航空機にも中島の「剣」なんて木製の特攻機みたいのがありましたっけ。いずれもヒドイ兵器ですなあ。。

さて、ディープな探検はまだまだ続きます。それでは今日はこのへんで。

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