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2012年5月

☆綾瀬はるかと高島流☆〜大河ドラマは板橋区から〜

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 ん〜さわやかな季節ですね。いや〜新緑が目にシミル。一ヶ月以上もブログ更新を放置をしておいていきなり再開してみたりして。

突然ですが、来年の大河ドラマは何をやるのか知ってますか?当ブログでもちょくちょく話題にしてますね。そう、あの大人気女優、綾瀬はるか嬢を主役に迎えた「八重の桜」です。
ざっくり解説すると、

時は幕末、会津藩の砲術師範の家に生まれた山本八重が、激動の維新戦争に身を投じ、女性ながら大砲隊や鉄砲隊を率い数々の戦いに参加、会津城落城のその時までスペンサー銃を手に凄腕スナイパーとして新政府軍を悩ませ続け、後に”幕末のジャンヌダルク”と称された。明治の世となり、銃を捨てた八重は新島譲と知り合い結婚。日本初の女学校や夫とともに同志社大学の設立に参加、譲の死後は看護婦となり日清・日露戦争に篤志看護婦として参加、昭和3年、昭和天皇より銀杯を賜り、昭和7年、その波乱の生涯を閉じる。
と、まあこんな感じですね。

で、この新島(山本)八重さんが学んだ西洋流砲術が、我が「高島流砲術」というわけなんですな。八重には山本覚馬という兄がいて、この兄に西洋流砲術を叩き込まれるんだけど、山本覚馬は会津藩でも指折りの秀才で、江戸で遊学することを許されていた。そこで最新式の西洋流砲術を学ぼうと佐久間象山から高島流を習ったというわけだ。

さて、ここからが本題ですよ。
新緑の香りを乗せた爽やかな風が吹き渡るある日、赤塚溜め池公園に隣接する板橋区立郷土資料館に、今回のNHK大河ドラマを作り上げる神々、時代考証チーフディレクター大森氏を始め、ドラマ制作ディレクター、映像デザイナー、美術デザイナー、そして脚本家で、最近は朝ドラの「ゲゲゲの女房」をお書きになった山本むつみ氏と、蒼々たる製作スタッフ達が集結した。

すでにドラマの撮影は始まっており、会津の雪景色や桜の風景、そして、導入部にあたるアメリカ南北戦争のパート(なんとアメリカロケをしたそうだ!)を撮り終えている。役者を使った本格的な撮影は夏頃スタート(いつも8月下旬頃からはじまりますね)だそうで、現在、脚本や演出の詰め作業を行っており、その一環として郷土資料館に足を運んだのだ。板橋の郷土資料館は、西洋流砲術関連資料の収集では傑出しているんです。高島秋帆先生の書画なんか資料館と松月院と私のコレクションを合わせると、全国で確認されている物の半分以上はあるんじゃないかな。(さりげなく自慢)

新島八重といえば砲術。なので、この部分に力を入れるそうで、今のところクライマックスの会津城落城は夏頃の放映になるのだとか。(もちろん変更はあるかもしれませんが)そのため、訓練や戦闘シーンにはそうとう調査が必要で、制作スタッフによる調べは進んでいるけど、まだまだ考証には時間をかけるようで、こういう所はさすがにNHK!だ。とくに脚本家の山本むつみ氏は熱心で、資料館が用意した、幕末当時の洋式銃を一丁一丁手に取り、その感触を確かめていた。きっと、主人公を演じる綾瀬はるか嬢にどういう気持ちで持たせるのかを考えていたのかも‥

そういえば、ずいぶん前に藤沢周平原作の松竹映画、「隠し剣 鬼の爪」に出てくる海坂藩が導入する洋式調練・大砲等 の時代考証協力をしたことがあって、松竹の美術班が資料館の講義室でひたすら大砲の図面をコピーしていたっけ。
あと、ちょうどその頃、長崎好きの作家、故・吉村昭氏が「高島秋帆」を題材にした小説執筆の下調べで、頻繁に資料館に問い合わせをしてきていたという。残念ながらその時期に癌が見つかり作業は中断、惜しくも亡くなられた。もしも小説が上梓されていたらこんなに素晴らしいことはなかったのになあ。

一通り資料の観察と解説を終えた後、小西館長を中心に質疑応答や歴史認識の確認作業が始まった。実はここが肝心で、史実とドラマとしての演出の擦り合わせをいかに行なうか、ということが大きな問題となる。ちょっとしたマニアならば歴史ドラマを観て「こんなのありえん!」などといちゃもんを付けたくなる場面はいくつもあるだろう。ドラマ制作では、本当に無知でやってしまう場合と、演出の都合によるものがある。我が西洋流火術鉄砲隊の演武も日本古来の火縄銃が使われるが、知らない人が見たら「なんだこりゃ?西洋流なのに火縄銃かよ。バカ?サギ?」なんて罵られること幾百回。もう何度も説明しているが、黒色火薬を使った射撃場以外での空砲演武は火縄銃でしか許可はされない。そして、高島流の集団密集隊形射撃は火縄銃では危険すぎて出来ないのである。だから都合によりそういう形になってしまうんです。

もし大河ドラマの戦闘シーンでリアルさを追求すると、とんでもなくなりますね。それはえげつないシーンの連続で、考証の大森氏による、戦闘になるとどうなるかの話は、脚本家の山本むつみ氏が思わず「イヤ〜!」と耳を塞ぐほど残酷だ。まっ、当然そんなシーンは撮るワケがないけど、会津攻略の砲撃の主力として使われた臼砲が小さくて画にならない(制作側はデカイのを使いたいが、山あり谷ありの戦場では重くて運べないじゃん)とか、兵の横や後ろから大砲を撃ち、兵がその後突撃する(むやみに大砲の近くに人がいたら威力で吹き飛ぶだろ)なんて実戦ではやらないことをどう工夫するのかなど、課題は多い。

そんなこんなで考証はこの日だけではなく、後、何回か行なわれるだろう。我が西洋流火術鉄砲隊にも俳優達に演技指導してほしいとのオファーがあった。もしかしたら隊員の中から出演する者も出るかも??なんて。でも、山本むつみさんにそっと聞いてみたけど、「‥ん〜それは‥」・・残念ながら高島流の名前はドラマ内では出ないようです。まっ、そんなもんですな。。


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☀赤塚郷で金冠日食☀

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 今朝は金冠日食が観られましたね。東京では173年ぶり、なのだそうだ。

実は今朝5時過ぎに目覚めるまで、”どうせ曇って見えやしねえよ”、”世間の騒ぎに同調するのもしゃらくせえや”なんて卑屈に構えていたのですが、カーテンを開けると薄日が射しているではないですか。
それでも、”う〜ん、今さらグラスもないし、コンビニに探しに行くのもミーハーっぽくてね。”と言い訳ばかり考えていたが、7時頃になり、ふとカメラの感度を最低設定にしてテレコン付けて絞りを最深にすれば撮れるかも。。なんて思いつき、急遽カメラをセットして外へ出た。

朝7時20分、ちょうど雲が切れて青空が広がり、太陽が輝いていた。もちろんとてもじゃないが直視はできず、遮光フィルターも無しにシャッターを切るとCCDが焼けてカメラがダメになるかも‥と不安になったが、レンズに太陽が入った瞬間、連続撮影モードでえいっとシャッターを切ると、おお、とりあえずはイケそうじゃん。と言うことで我が赤塚郷から見える金冠日食ショーを撮影してみた。

データーは‥
NikonD3s+70-200VR+テレコン2倍+DXモード、感度iso100、s/sオート、絞りF45
ズーム値は200㎜でテレコン+DXモードで倍率は600㎜のレンズ相当にて撮影。

ちょうど金冠日食になる頃、薄い雲がかかってきてこりゃいかんと思ったけど、それがうまいぐあいに減光されて、かえってきれいに撮れたように思いますね。クライマックスの時、あたりがふわっと暗くなって来たのには驚きました。ちょっぴり感動☀ですね。

今日の東京で見えた金冠日食が173年ぶりだと、前回は1839年、天保10年。高島秋帆先生の徳丸原演習の2年前ですか、東北では天保の大飢饉があった時代ですね。たしか東京大仏は、板橋区役所の近くにあった浄蓮寺さんが昭和40年代後半、中仙道の拡張工事で移転する時に敷地からでてきた無縁仏と天保大飢饉の犠牲者を供養するために建てられたんじゃなかったかな。

次回、金冠日食が東京で見られるのは300年後の2312年4月8日のことだそうで、未来の板橋人は、どんな思いで空を見上げるのかなあ。。


と、それにしてもちゃんと撮れてはいるけど面白くない写真ですね〜せめて東京大仏から撮ればヨカッタ。

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幻の”本郷馬車鐵道”敷設は本気だった。のか?

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♪〜会えない時間が 愛育てるのさ〜♪。いきなり、1974年にリリースされた郷ひろみのヒット曲「よろしく哀愁」のサビから始めてみた。どうしてかというと、「〜ブログを書いてない日は 調査している時なのさ〜」と替え歌したかったからである。

最近、倦怠期を向かえた郷土誌のように、絵日記ばかりupしているなあと内心反省はしているんです。。
と毎度のいい訳をしてほっとしたところで本題へ。

私が高島秋帆先生について調べていることは当ブログでしょっちゅう自慢してますね。でも、自分には決定的な欠点がある。それは古文書が読めないことだ。実物資料に接触出来る環境にありながら、古文書が読めないためそれらを利用して考察が出来ないのは致命的だ。だからとてもじゃないけど論文なんか書けやしない。。

しかし、私は板橋区収集家だ。ネタはそれだけじゃあない。特に板橋区域に関する交通関係の資料は昔から粘り強く収集を続けている。今回はそんな中から一つ資料を選んでみた。


「本郷馬車鐵道」とは何か?
本郷馬車鐵道は、湯島四丁目(今の本郷二丁目交差点あたりか)から日本鉄道・板橋駅までを結ぶ鉄道馬車路線として計画された。掲示の資料は株式会社設立のために出資者を集めようと作製された仮定款と路線図を併記した起業目論見書だ。作製日は明治二十九年九月二十六日とある。

とりあえず、ネット上に情報があるかググってみた‥

すると、検索トップに、YAhoo!知恵袋・2009年9月にこんなベストアンサーがあるではないか。解答を引用すると、
「‥実態のないペーパーカンパニーだろうと思います。資金だけ集めて、間違って免許を得られたら、会社ごと東京馬車鉄道に売り払って一儲けしてさようならという仕組みです。当時はそうした山師どもの有象無象のインチキ計画が山ほどあったのです。明治29年といえば馬糞尿による悪臭が社会問題化して10年は経過して東京馬車鉄道が路面電車に切り替わろうとしている時期です。いまさら馬車鉄道に免許が下りるわけが無い。‥」
てなわけで、無事解決!なんだサギのネタにされただけじゃん。ハイおしまい。次。ーーーなんてそれで済ませたらイカンですぞ。確かにこのベストアンサーは十分にあるような話だけど、その根拠について示されていない。ペーパーカンパニーであったことを証明する資料‥会社設立を目論んだ山師が逮捕された資料とか、新聞に告白記事が出たとか山ほどあったインチキ計画の例、etc。それらが示されなければ、ただの解答主の妄想や架空の予想でしかない。だいたい、”ペーパーカンパニーだろう”、なんて、じゃあペーパーカンパニーは設立されたんだよな?、この目論見書には株主募集とあるが、株主を出し抜いて勝手に他者に会社を売れるのか?とかつっこみどころは多い。サギは嘘と真実を混ぜ合わせて巧妙に仕組むもので、この解答もそれに近い‥とは言い過ぎですね。解答主も”この目論見書片手に資金を集めるだけ集めてトンズラした”程度に止めておいた方が良かったかも。

今はネット上で調べれば、机に座ったままいとも簡単に世界中の情報が得られるという非常に便利だが安易な世の中になっている。ただし、ネット上の情報は、誰かが書き込まなければ存在しない。だから、信頼出来るものも適当なものも混ざり合っているのだ。情報のupはあくまで自己責任で、誰もが簡単に発信することが出来てしまう。それが良くも悪くもあるんですが。。


てなことで、他に客観的な資料はないもんかと探して見ると、ありましたね、東京都が編纂し発行している都央紀要三十三・「東京馬車鉄道」。ちなみに馬車鉄道は敷設した軌道のレール上を馬車にて運行する。
東京馬車鉄道は明治十三年(1880年)十二月二十八日に設立され、明治十五年六月二十五日から新橋〜日本橋間(当時の新橋駅は今の日テレのある汐留ですね。錦絵にも描かれてます。)で営業を開始した。その後は浅草橋や万世橋、上野や菊谷橋間が同年中に相次いで開業。後に電化され買収を繰り返しながら東京市電、そして現代の東京都交通局へと至る。

東京馬車鉄道は、明治20年五月三十一日に高崎五六東京府知事宛に品川線、内藤新宿線、板橋線、千住線に敷設を出願した。板橋線は万世橋から本郷森川町追分を抜け巣鴨を通り板橋駅までのルートで、旧中仙道を走り、「本郷馬車鐵道」の設定したルートとだいたい同じだ。

紀要には、出願を受けて東京府が沿線の調査を行った所感が載っている。

[板橋線]
万世橋から本郷五丁目までの道路は、幅員五間ないし六間で、平均すると五間半である。これに複線を敷設すると左右各九尺五寸の余地しかなく、二輛の牛車或は馬車が交過することができない。本線は牛馬車・腕車の往復及び人民の交通量が多く、複線の敷設は大変危険である。森川町通りは、道幅五間で本郷通りよりもやや狭く、複線を敷設すれば危険が倍加するだろう。駒込東片町は三間半内外で、単線を敷設するとしてもその左右の余地各七尺しか残らず、五間以上に道路の拡幅工事が必要である。
駒込片町から白山前町までは幅員四間内外で、単線を敷設するにしても左右の余地が各九尺しかなく、拡幅工事の必要がある。駒込曙町(里俗恋ケ窪)は、道路三間内外で、単線を敷設するときは道路の左右に各六尺しか残らず、拡幅工事の必要がある。
駒込曙町以北板橋停車場に至る道路は、幅員四間半程度であるが、他の線路に比べて交通量が少ないから単線を敷設しても妨げとはならないだろう。

東京府の結論として、道路拡張工事を必要とする路線の許可はおりず、唯一、万世橋から柳原通りを経て浅草橋までの単線敷設のみ許可が下りた。
「本郷馬車鐵道」の目論書によれば、本社を本郷区駒込西曙町に置き、線路は湯島四丁目より追分に至る間を複線として、追分より板橋に至る間を単線とする。但し、所々に待避線を敷く、としている。軌道幅員は二尺六寸、客車は長さ十尺、幅四尺六寸、乗客は十六人で馬は一頭引きである。

さてさて本当にこの目論見書通りに株主が集まり、出願にまで至ったのかどうかは不明だけど、実現しなかったことは事実だ。結局は、明治四十四年に東京市電が巣鴨駕篭町(三田線千石駅付近)〜下板橋間の線路敷設免許を取得し、翌年に巣鴨まで開通したが、その後計画は滞り、ようやく巣鴨二丁目〜下板橋間が開通したのは昭和四年五月二十七日だった。

なんだか余計に疑問が深くなってきましたね。何で板橋まで延長されるのにこんな時間がかかったんでしょうか??陸軍第二造兵廠もあるし周辺には軍需工場も進出していたんですがねえ。。
これは憶測だけど、関東大震災の復興のために中仙道の路幅を拡張したのがきっかけになったのかな。乗合自動車(バス)は、大正七年以降いくつかの路線が通ってました。

いつもお世話になっている、鉄道博物館の先生方に伺ってみた所、この「本郷馬車鐵道」目論書は、割とまともに出来てるんじゃないかなと言う感想をいただいた。引き続き、調査をして行きますね。

追伸:
明治30年代ころ、万世橋から上板橋村まで乗合馬車が走ってましたが、これはまたの機会に。

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