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冬至で夜も長いから久しぶりに成増飛行場建設秘話でもしますか。

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 NHKあさの連続テレビ小説「カーネーション」を見てますか?今日は軍国少女となった主人公の長女が戦争映画を見に連れて行ってくれとねだり、しかたなく母親が連れていくシーンがありました。その道すがら、「お手て〜つないで〜」という歌を歌ってましたね。童謡の「靴が鳴る」です。あれ?ピンときませんか。ここでピンと来なければ、もしも板橋検定があるなら、あなたは高得点を取れません。
大正8年に発表された「靴が鳴る」の作詞者は”清水かつら”です。まだわかりませんか?清水かつらは、亡くなるまで白子宿に住んでいました。最寄り駅は成増だったので、成増と和光市が清水かつらを取り合ってバトルをしていることは地元では有名な話です。成増駅北口には像まで建ってますね。
と、つかみはこのへんにして話題を「カーネーション」に戻すと、今週の時代は昭和18年頃の話です。主人公の糸子は、旦那を戦地にとられ、手のかかる子供と老年にさしかかる両親やおばあちゃんの世話をしつつ洋裁店を切り盛りし、てんてこ舞いの生活が続いています。昭和18年・・そうです、成増陸軍飛行場の建設が始まった年ですね。私は6年前、ちょうどカーネーションの糸子と同じくらいの歳の女性に、成増飛行場についての話を伺いました。お名前を、仮にKさんとしておきます。Kさんは嫁入りをしてKの名字になりましたが、実家も婚家も地元が近く、両家ともおそらく数百年前からのジモピーと思われます。Kさん宅は、飛行場建設の際、軍に土地を強制的に接収されてしまいます。

「戦争もたけなわの頃、成増にあった兎月園に、時の総理大臣・東条英機がやってきて、ここら辺一帯を視察して行きました。そして、この場所は土地が平坦だから(防空)避難所ではなく、飛行場を作ろうと決めたのだそうですよ。だから立ち退きにあった人達は、言ってました。東条英機の奴、バカヤロウだって。平らだから飛行場にもってこいだなんて。なんだ、避難場所じゃないじゃないか。何てことだって。土地を持っている人達は、それこそ狂わんばかりに怒りましたね。」
実際に視察を行い、飛行場の場所を選定したのは陸軍の大河内大佐ではないかと思われますが、地元ではこのように伝わっています。この時代、田柄地域は純農村地帯と言っても良く、先祖代々の土地を引き継いでいた豪農が多かった。それ故に、土地に対する思いは強く、戦時中とはいえ、その地を取り上げられることは、身を引き裂かれる思いであったろう。ある旧家の当主は、軍命令なので致し方ないと一応の納得はしたものの、10日間くらい食事が喉を通らず、放心状態になってしまった。ようやく新しく土地を手に入れ家を新築したが、ショックで祖父が倒れ、数ヶ月後に亡くなるまで、「この家は俺の家じゃない・・」と呪い続けながら死んでいったという。
軍は、土地代金の支払いと、家を立て替えるのに必要な物資の現物支給を約束しただけで、代替え地の斡旋や引っ越し費用、農作物などへの保証はいっさい行わなかった。その物資の支給も、十分な量を揃えてはくれなかったそうである。

Kさん宅では、婚家の両親が高齢で体が弱く、夫も役所勤務で忙しかったので、移転の手配など、全ての雑務をKさんが引き受けねばならなかった。幼い子供をかかえながら、登記所への手続き、大工の手配、足りない資材の確保に奔走した。立て替え中の家では瓦の数が足らず、人伝てに志木の近くに瓦屋があると聞きつけては、荒川沿いに自転車を飛ばして買い求めに走ったり、鬼瓦が割れて使えないと言うので、上板橋の五本ケヤキそばの店で手に入れたが、その重量で自転車の前輪が上がり、運転できなくなってしまったので、しかたなく旭町の転居先まで自転車を引きずって行ったこともあった。若くて必死だったから、今では考えられないほどの力が出たのだそうだ。しかし、若い女が前面に出ていろいろなことをこなしていると、女だてらに生意気言うな、などと莫迦にされたり、ずいぶん嫌な思いもしたそうである。

練馬区の発行する本では、土地の所有者は6月にいきなり板橋区役所に呼び出され、大河内大佐から土地の立ち退きについて説明をされたあと、有無をいわせず書類に署名捺印させられたとの話が載っているが、Kさんは、飛行場建設の話を聞かされ、立ち退きを命令されたのは5月15日のことであったと証言されている。他にも、5月に話を聞いた、との記録も残っていることから、一部の家には、正式に発表される前から話が伝わっていたようである。
軍が支払った代金は、税金がかからないとの話であったが、実際には戦時利得税として、3割の税金をとられてしまった。その上、軍事国債やお金を銀行に預金していた家では、終戦直後の預金封鎖や、インフレ抑制のための新円切換えにより、ほとんど価値を失うケースも出た。そのことが、後々まで怨恨として残ってしまう原因の一つとなったのである。
 
飛行場予定地の住民たちは、8月末日の土地引き渡しまで時間がないため、慌ただしく引っ越し作業を続けていた。その最中、Kさんはふと、道端の石仏や、お稲荷様などが、置き去りにされていることに気がついた。皆、自分のことに精一杯で、そのようなものに構っている余裕を失くしていたのである。信心の篤かったKさんは、打ち捨てられてゆく神仏に心を痛め、自分が普段目にしていたものには方々に手配をつけ、ようやく近くの氏神様に一時預かってもらう算段をつけた。それでも、家から離れた場所にあったものは、つい見落としてしまい、“見ざる言わざる聞かざる“の三猿の彫ってあった庚申様は、思い出した時には、すでに滑走路の下になってしまっていた。
Kさんからは、成増飛行場で訓練をする特攻隊員を慰問する話もお聴かせいただいたが、それはまたの機会に記します。

・・終戦後のことである。戦争も終わり数年が過ぎ、ようやく世の中が落ち着いてきたころ、Kさんは、氏神様に預けておいた稲荷神社や石仏などを、自分の家の庭や、所有する土地の一隅に移した。そして、毎月の掃除やお参りを、50年以上も欠かすことなく続けてこられた。住民と同じように苦難の道を歩んだ神仏も、こうして、ようやく安住の地を得たのであった。
 
Kさんが守り続けた社や石塔は、後の道路拡張で現在地(光が丘高校の北側)に移された。そのうちのひとつ、享保13年(1728)に建立された、丸彫聖観音立像廻国供養塔(まるぼりしょうかんのんりつぞうかいこくくようとう)は、平成12年、練馬区の有形民俗文化財に登録された。

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