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2011年12月

板橋区民、ロンドンの3大軍事博物館を制覇する。

 しばらくUPしてませんでしたが、無事、倫敦から帰って参りました。アチラは緯度は樺太と同じだそうですが、寒さは東京と同じくらいでしたね。現地からはお買い物情報しか書き込まなかったので、まるで遊びに行っていたような(仕事ではないので遊びかもしれませんけど)印象ですが、絵日記風で書きやすいからとりあえずかいたんですよ。でも、速報性があったのかたくさんのアクセスをいただきました。感謝。

で、本題ですが、今回の渡英は買い物もそうですが、”倫敦の軍事博物館を巡る”が主題でありまして、特に空軍博物館に展示してある、世界に唯一残る完璧な機体の川崎五式戦キ-100を見に行く、と言うのが大きな目的の一つでした。そしてもう一つが、成増飛行場を根拠飛行場とする帝都防空戦隊・第47戦隊の前身である、独立飛行47中隊が大東亜戦争開戦時に駐屯していたインドシナやマレー方面で戦った英軍機をこの目で見たい、という事。整備中隊長・刈谷正意氏は47中隊結成時から参加しておられた。生前、当時の話を直接伺ったが、前線に向かう時、ドイツから研究用に購入したメッサーシュミットを参考にして、新鋭機、二式単座戦闘機の迷彩塗色を赤茶色にしたけれど、実際に現地へ持って行ったらジャングルの緑一色で、まったく迷彩の意味がなかったそうで、「あの赤茶色の迷彩は、ドイツ軍が北アフリカ戦線で使用した”砂漠仕様”だったんだよね、はっはっは」と笑っておられた。

イギリスはまあ今はアレですが、かつては大英帝国を誇り、いち早く産業革命を起こし、世界中に植民地を持つ強大な国でした。結果的には戦争に負けたことはなく、そんな国々からぶんどってきたお宝がごっそりと博物館に展示してある、博物館大国でもあるんですね。しかもほとんどは入場料がタダときたもんだ。そこはエライ。それではさっそく訪ねた軍事関係の博物館を(簡単にですが)紹介しましょう。

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え〜まずは「帝国戦争博物館・Imperial War Museum」です。
なんとこの建物、元は精神病院だったそうで、戦争博物館にはふさわしい?箱ですかね。エントランスに入るとしょっぱなから”おお〜くぉれはすげ〜”と体が熱くなりました。空にはスピットファイア、フォッケウルフ、グラマンP51、写ってないけど複葉機やツエッペリン、ハインケルHe162なんかが乱舞し、地上には英軍米軍ドイツ軍戦車からジープまでの軍用車両群、高射砲やら対空砲やらなにやら所狭しと置いてある。いやはや日本では絶対にお目にかかれない光景ですな。
展示は第一次大戦・第二次大戦に関する物を基本とし、湾岸戦争までの展示物がある。中でもホロコースト関係には数階に及ぶ階層に別れ、展示に力を入れている。この博物館はユダヤ人からの寄付が多いのだろうと思いますね。一階から地階にかけて歴史の順番に様々な展示がなされている。もうね、展示ケースにギッチリと小火器類なんかが詰め込んであって、武器オタクな方々ならば数週間は楽しめるでしょう。ただし日本軍関係の展示は少ないですね。なぜか廣島駅表示のサボなんかが展示されてました。(原爆に関連つけたいんだろうけど、あんまし意味ないと思ふ)飛行機では零戦の一部(右の写真)が置いてありましたが、カットモデルで見せたいんじゃなく、場所を節約するためにこんな展示の仕方をしてるんじゃないの?という感じでした。
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 さてかけ足で、お次は「国立陸軍博物館・National Army Museum」
ここは文字通り、栄光の英国陸軍の歴史を語る博物館です。見所は、17世紀半ばにおきた市民戦争から、大英帝国のもととなったアフリカやインドへの侵略ですかね。フリントロックのマスケット銃(燧石銃)や大砲がバンバン出てきます。我らが高島秋帆先生が初めて輸入したタイプの洋式銃や大砲ですね。日本では幕末すぐに管打式銃が輸入されたり管打式に改造されたりで、現存する燧石銃が極端に少ないのですよ。だからこの展示はとても参考になります。
ギッチリと詰まった展示室をみていくうちに、トイレの場所に近いのか、消臭剤だかの不快なニオイがしてきました。見るとトイレの表示があり、やっぱりと思いつつ進むと第一次大戦のコーナーとなり、塹壕を再現した体験室にぶちあたりました。塹壕の中はコールタールの様なもので塗られていて、なんと不快なニオイはその塗料のニオイでした。さすが大英帝国の博物館、ニオイまで再現してるんか!・・とは考え過ぎですかね。第一次大戦で登場したマシンガンもいろいろ並べられてました。しっかし夥しい量のあらゆる武器類が展示してあり、ここは武器庫かよ、と思っちゃいました。一応、戦争(戦闘)順に展示されているようで、第二次大戦になるとマレー半島など極東の戦いのコーナーでは日本軍との戦いの展示がありました。しかーし、である。我々が思い浮かべるのは、緒戦においての戦艦プリンス オブ ウエールスやレバルスの撃沈とかシンガポール陥落の極東軍司令長官・パーシヴァルと山下奉文の”イエスかノーか”の談判、なんてことですが、そのような事柄は写真はおろかパネルも無く、英文の解説文をよく読んでないのでわかりませんけど、さらっと流しただけという感じを受けました。日本軍との戦いは、”極東の小島の猿にちょっと引っ掻かれた”みたいな、ね。まっ、よく解説文は読んでないので、あくまで私の印象ですけど。イギリス人のプライドの高さがよくわかりました。斬新な手法だと思ったのは、日本軍の捕虜収容所を再現した展示室で、写真にあるようにマネキン日本兵がスポットライトをあてられて立ってますが、対面に収容所内の展示室があり、そのガラスに日本兵が反射して写り、見張りをしているように見える、という仕掛けがされてました。
エントランスに戻るとガヤガヤとうるさいので、その方を見ると制服を着た小学校高学年くらいの集団が、引率の先生に連れられてやってきていました。どうも社会科見学のようですが、日本では考えられないですね。靖国神社の遊就館に社会科見学の授業で行くようなもんですからねえ。

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さあ次はメーンイベント「王立空軍博物館・Royal Air Force Museum」です。
ここはちょっと倫敦市内から離れていて、地下鉄・ノーザンラインの終点近くにあります。駅から標識に導かれ歩くこと10数分、広い敷地に格納庫のような展示室の点在する博物館に着きました。大空を舞う、ハリケーンとスピットファイアが出迎えてくれます。早く五式戦を見たい!という気持ちを押さえつつ、メインの入り口へ。ををををを〜すげ〜〜 ここもまた、広いスペースに大戦の名機達(英軍米軍独軍メイン)が戦闘機も雷撃も艦爆も中爆も重爆も輸送機も連絡機も所狭しと並べられてます。(他に初期からのジェット戦闘機も!)いやいや、マニアならば数日間はこれだけでご飯がいけるでしょう。
ひととおり見て歩き、さて五式戦はどこだ?広すぎて見落としてんか?と思い、モスキート爆撃機のそばにいたキュレーターの人に、”ジャパニーズカワサキファイターはホエアだ??”と聞くと”Wow,それならカップルウイークビフォーにファクトリーにインしたぜ。残念だなYou、ワンマンスアフターにカムアゲイン"・・はあ?日本語に訳すと「そいつは2週間前に整備で工場へ持ってったぜ、一ヶ月ぐらいで戻るよ」だと。。ふざけんない、わざわざ極東の小国からイギリスくんだりまで来た意味ないじゃん!と怒ってもしょうもなし。。運が悪かったですね。残念・・。
ここに展示されている(いた)五式戦は、戦争末期、シンガポール戦線に投入しようと輸送したところカンボジアで終戦となり、そのままイギリス軍に引き渡された機体で、なんと、今でもエンジンが動くまで整備された状態を保っている。いままでさんざん文句を書いたけど、保存に関しては素晴らしいですよ。自国のものも敵国のものも分け隔てなく整備し、きちんと展示してます。五式戦だって整備のため工場に入ってるんですからね。今は知覧特攻資料館にある、”飛べなくなった”四式戦・疾風に比べれば、ましですよ。

そうそう、受付で、この博物館には無料WiFiスポットはあるか?と聞いたところ、レストランの中なら使える(敷地入り口近くの棟にある)とのことで、早速macbookairを開き、接続パスワードをレジの兄ちゃんに教えてもらうと、おお!良好にネットができるじゃないか!そのまま外に出ると、屋外展示のハリケーン&スピットファイアの所でも繋がり、そこからskypeで日本の知人と現場中継をしました。

タイトルに”ロンドン3大軍事博物館”と入れましたが、他にも海軍の博物館やその他小さい博物館もいろいろあります。今回は残念ながらそこまでは廻りきれませんでした・・


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47戦隊の魂、粟村准尉の遺品奉納。

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 昨日、突然に、元47戦隊預かり第194振武隊隊長・堀山さんより電話をいただいた。47戦隊員から兄と慕われた、故・粟村尊准尉(1945.1.9.銚子沖特攻戦死)が考案し、製作に協力した整備中隊長・刈谷さんが親友の遺品として大切に保管していた「空中射撃計算盤」を刈谷さんのご遺族がしかるべき場所へ奉納するので、見られるのは今日だけだから時間があれば撮影しにこないか、というお誘いだった。
堀山さんは、成増基地で編成された沖縄特攻、第194振武隊の隊長として成増に来たが、肝心の飛行機がなく、一週間後に館林基地に移動し、そこで四式戦「疾風」で特攻の猛訓練中に終戦となった。現在、奇しくもその成増飛行場跡である光が丘に住んでおられる。お住まいの場所は飛行場時代、本部などのあった場所に当たるだろう。
「空中射撃計算盤」については刈谷さんが存命中にも拝見させていただいたことがあるが、粟村准尉が主に対B29邀撃用に考案したものだという。粟村准尉は大戦初期からの空中勤務者で、南方の空で刈谷さんを乗せて飛行したこともある。射撃の名手でもあり、B29に対しても、絶対に射撃で落とせるからと特攻攻撃には反対していた。そんな粟村准尉であったが、銚子沖で、なかなか落ちないB29へ最後は尾部から突っ込みプロペラで垂直尾翼を齧ってたたき落とし(白兵戦で最後に銃剣突撃したイメージですかね)、自分自身はパラシュートで脱出したがその後行方不明となってしまった。

実は、今年10月の「旧成増会靖国神社昇殿参拝」の際、刈谷さんのご遺族の方から、刈谷さんが遺品として大切に保管して来た計算盤を遊就館へ奉納したいがどうだろうか、と相談を受け、当日、ご持参いただいていた。参拝終了後、堀山さんとともに遊就館へ遺品を持って行ったが、結果として堀山さんが一時預かることになった。それは、一度奉納してしまうと、この計算盤の使い方を解明できなくなるので、もう少し調べさせてほしい、とのご意思からだった。使い方は計算盤に記載されてはいるが、実際の使い方はよくわからないのだ。私は、アマチュアのマニアの間でいろいろ弄くられるよりも、もう、しかるべき場所に奉納した方が良いのではと申し上げていた。結果としては解明出来ず(何人もの方に見せたが誰もみたことがなかった)もともとは試作品の段階の物であり、当の47戦隊の現存空中勤務者の方も記憶がない品であった。
計算盤は、本日、遊就館ではなく入間基地の修武台記念館に奉納された。ここには数年前に京浜運河で発見された二式単戦・鍾馗のエンジンもあるし、妥当な場所ではないかと思う。

博物館など公的な機関に遺品や収集品を寄贈したりした場合、その品を再び見せてもらおうと思っても、すぐに対応してもらえるかどうかは微妙だ。確かに博物館や資料館は、預かった資料を大切に保管してくれる。でも、その資料はもう二度と日の目を見ることはない可能性の方が高い。展示をするにもスペースは限られているし、運が良ければ特別展などに出品されるか、他の博物館で行なわれる展示に貸し出されるか、である。刈谷さんは昭和60年代にご自身が所持していた四式戦の高度計などを神田の交通博物館に寄贈したが、現在その博物館はない。閉館直前に、展示されていた四式戦の誉エンジンの横に陳列されたが、それを最後に高度計は大宮の鉄道博物館に移管された。それらの品が鉄道博物館で展示されることはまず、ないであろう。
博物館や資料館に対して、我々の税金で資料を購入したり、館の運営をしているのなら納税者の求めに応じて見せないのはおかしい、とねじ込んでみても、博物館側は、いや、皆さんの税金で管理を委託されているのだから大事な公共物である資料をわけもわからん奴に見せることはできない、と話は平行線をたどる。いまは博物館側も、あとでトラブルになることを恐れ、よほど世間的に有名であるような物以外、ほとんど寄託は受け付けていない。寄贈に対しても、権利を放棄してもらう旨の書類を交わすのがスタンダードだ。これはある面、しかたのないことで、普段常識を持って暮らしていると思っている人には信じられないだろうが、実際に聞いた話では、ある展示でマニアから資料を借りて展示をした所、自分の資料の扱いが気に入らないと会期途中で貸した資料を引き上げてしまったり、展示されていた資料が自分も収集していて、その資料が揃えばコンプリート出来るから売ってくれと毎日のように博物館に押し掛け執拗に要求する、なんて困ったちゃんが来たりする。そんなことは珍しいケースじゃなくこれがよくあることなんですよ。図書だって、ハサミで切り抜いて持ち去るなんて日常茶飯事だ。だから、肩書きがなかったり、誰の紹介もない人が警戒されるのはあたりまえなんですね。何かを収集したり、研究したりなど”こだわり”の強い人は、まわりが見えなくなるんですよ。私もそうかもしれません。自分はまじめに調べているんだ、なんて思っていても、なかなか信用を証明するのは難しいもんですよ。

 真ん中の写真は「空中射撃計算盤」を複写する堀山隊長の図、である。隊長はもう90歳に近いのに、信じられないくらいお元気だ。大事な資料も気前よくコピーさせてくれたり情報を教えてくれる。右の写真は、陸軍士官学校同期である244戦隊の鬼頭中尉が調布飛行場で撮影した新鋭機・五式戦だ。終戦末期、堀山さんが鬼頭中尉から貰って自分のアルバムに貼っているものだ。先日行ったロンドンの空軍博物館で展示されいる、世界唯一の現存する五式戦を写真に納めて堀山さんにお見せしたかったのだが、残念だった。

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冬至で夜も長いから久しぶりに成増飛行場建設秘話でもしますか。

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 NHKあさの連続テレビ小説「カーネーション」を見てますか?今日は軍国少女となった主人公の長女が戦争映画を見に連れて行ってくれとねだり、しかたなく母親が連れていくシーンがありました。その道すがら、「お手て〜つないで〜」という歌を歌ってましたね。童謡の「靴が鳴る」です。あれ?ピンときませんか。ここでピンと来なければ、もしも板橋検定があるなら、あなたは高得点を取れません。
大正8年に発表された「靴が鳴る」の作詞者は”清水かつら”です。まだわかりませんか?清水かつらは、亡くなるまで白子宿に住んでいました。最寄り駅は成増だったので、成増と和光市が清水かつらを取り合ってバトルをしていることは地元では有名な話です。成増駅北口には像まで建ってますね。
と、つかみはこのへんにして話題を「カーネーション」に戻すと、今週の時代は昭和18年頃の話です。主人公の糸子は、旦那を戦地にとられ、手のかかる子供と老年にさしかかる両親やおばあちゃんの世話をしつつ洋裁店を切り盛りし、てんてこ舞いの生活が続いています。昭和18年・・そうです、成増陸軍飛行場の建設が始まった年ですね。私は6年前、ちょうどカーネーションの糸子と同じくらいの歳の女性に、成増飛行場についての話を伺いました。お名前を、仮にKさんとしておきます。Kさんは嫁入りをしてKの名字になりましたが、実家も婚家も地元が近く、両家ともおそらく数百年前からのジモピーと思われます。Kさん宅は、飛行場建設の際、軍に土地を強制的に接収されてしまいます。

「戦争もたけなわの頃、成増にあった兎月園に、時の総理大臣・東条英機がやってきて、ここら辺一帯を視察して行きました。そして、この場所は土地が平坦だから(防空)避難所ではなく、飛行場を作ろうと決めたのだそうですよ。だから立ち退きにあった人達は、言ってました。東条英機の奴、バカヤロウだって。平らだから飛行場にもってこいだなんて。なんだ、避難場所じゃないじゃないか。何てことだって。土地を持っている人達は、それこそ狂わんばかりに怒りましたね。」
実際に視察を行い、飛行場の場所を選定したのは陸軍の大河内大佐ではないかと思われますが、地元ではこのように伝わっています。この時代、田柄地域は純農村地帯と言っても良く、先祖代々の土地を引き継いでいた豪農が多かった。それ故に、土地に対する思いは強く、戦時中とはいえ、その地を取り上げられることは、身を引き裂かれる思いであったろう。ある旧家の当主は、軍命令なので致し方ないと一応の納得はしたものの、10日間くらい食事が喉を通らず、放心状態になってしまった。ようやく新しく土地を手に入れ家を新築したが、ショックで祖父が倒れ、数ヶ月後に亡くなるまで、「この家は俺の家じゃない・・」と呪い続けながら死んでいったという。
軍は、土地代金の支払いと、家を立て替えるのに必要な物資の現物支給を約束しただけで、代替え地の斡旋や引っ越し費用、農作物などへの保証はいっさい行わなかった。その物資の支給も、十分な量を揃えてはくれなかったそうである。

Kさん宅では、婚家の両親が高齢で体が弱く、夫も役所勤務で忙しかったので、移転の手配など、全ての雑務をKさんが引き受けねばならなかった。幼い子供をかかえながら、登記所への手続き、大工の手配、足りない資材の確保に奔走した。立て替え中の家では瓦の数が足らず、人伝てに志木の近くに瓦屋があると聞きつけては、荒川沿いに自転車を飛ばして買い求めに走ったり、鬼瓦が割れて使えないと言うので、上板橋の五本ケヤキそばの店で手に入れたが、その重量で自転車の前輪が上がり、運転できなくなってしまったので、しかたなく旭町の転居先まで自転車を引きずって行ったこともあった。若くて必死だったから、今では考えられないほどの力が出たのだそうだ。しかし、若い女が前面に出ていろいろなことをこなしていると、女だてらに生意気言うな、などと莫迦にされたり、ずいぶん嫌な思いもしたそうである。

練馬区の発行する本では、土地の所有者は6月にいきなり板橋区役所に呼び出され、大河内大佐から土地の立ち退きについて説明をされたあと、有無をいわせず書類に署名捺印させられたとの話が載っているが、Kさんは、飛行場建設の話を聞かされ、立ち退きを命令されたのは5月15日のことであったと証言されている。他にも、5月に話を聞いた、との記録も残っていることから、一部の家には、正式に発表される前から話が伝わっていたようである。
軍が支払った代金は、税金がかからないとの話であったが、実際には戦時利得税として、3割の税金をとられてしまった。その上、軍事国債やお金を銀行に預金していた家では、終戦直後の預金封鎖や、インフレ抑制のための新円切換えにより、ほとんど価値を失うケースも出た。そのことが、後々まで怨恨として残ってしまう原因の一つとなったのである。
 
飛行場予定地の住民たちは、8月末日の土地引き渡しまで時間がないため、慌ただしく引っ越し作業を続けていた。その最中、Kさんはふと、道端の石仏や、お稲荷様などが、置き去りにされていることに気がついた。皆、自分のことに精一杯で、そのようなものに構っている余裕を失くしていたのである。信心の篤かったKさんは、打ち捨てられてゆく神仏に心を痛め、自分が普段目にしていたものには方々に手配をつけ、ようやく近くの氏神様に一時預かってもらう算段をつけた。それでも、家から離れた場所にあったものは、つい見落としてしまい、“見ざる言わざる聞かざる“の三猿の彫ってあった庚申様は、思い出した時には、すでに滑走路の下になってしまっていた。
Kさんからは、成増飛行場で訓練をする特攻隊員を慰問する話もお聴かせいただいたが、それはまたの機会に記します。

・・終戦後のことである。戦争も終わり数年が過ぎ、ようやく世の中が落ち着いてきたころ、Kさんは、氏神様に預けておいた稲荷神社や石仏などを、自分の家の庭や、所有する土地の一隅に移した。そして、毎月の掃除やお参りを、50年以上も欠かすことなく続けてこられた。住民と同じように苦難の道を歩んだ神仏も、こうして、ようやく安住の地を得たのであった。
 
Kさんが守り続けた社や石塔は、後の道路拡張で現在地(光が丘高校の北側)に移された。そのうちのひとつ、享保13年(1728)に建立された、丸彫聖観音立像廻国供養塔(まるぼりしょうかんのんりつぞうかいこくくようとう)は、平成12年、練馬区の有形民俗文化財に登録された。

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板橋区民、2011年大晦日に思ふ。

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 とうとう2011年も大晦日になりました。大掃除など新年を迎える準備はお済みでしょうか。
私はこの時期、年末の板橋区風景を撮影しにカメラを手に区内各所を廻ったもんですが、最近はもうやめてしまいました。いつからか、年の瀬を感じる場所がイオン(旧サティ)とかヨーカドーとかイズミヤとかオリンピックなどの大型スーパーの中にしかなくなったと感じて来ましたから。。今では元旦から開いている店はめずらしくありませんが、昔は個人商店は少なくとも3ヶ日は休みでした。徳丸の住人だった子供時代は、年末は北町商店街に正月用品を買い出しに行ったもんです。そりゃアメ横真っ青の人でごった返してましたよ。。なつかしいなあ・・あれなら画になる風景だったんですがねえ。個人の家などごく小さい所では昔ながらに準備をしているところはあると思いますが、なかなか画にはし辛いですね。。

で、年末ということで、まあごくごく個人的なことになるんですが、想い出話など一つ・・

いつだったか、板橋区の郷土資料館で「板橋の光学」という企画展を開催することになった。その時、展示を担当する方から、プリズムを持ってないか?と訪ねられた。私はすぐさま「ああ、徳丸の実家にあったような・・探してみます」と返事はしたが、その時はみつからなかった。しかし、最近になって実家によった際、老母が「プリズム出て来た」と箱を持ってきた。中から出て来たのは‥おお、それはまぎれもなく、今から40年(!)くらい前に手に入れたプリズムだ。ちなみに、私の母は捨て魔であり、いままで処分されてきた私の大切な収集品は数限りない。徳丸の区画整理が激しかった昭和40年代、不動通りを見下ろす高台で下水管の配管工事をしており、地下深く掘り下げていた。そこから出た残土には大量の貝の化石が混ざっており、型の良いものを選んで菓子箱に詰めて保管していた。が、それもいつしか”汚い”との理由で捨てられてしまっていた‥。昭和32年に発行された「板橋区徳丸貝層図譜」という本で、徳丸からどんな貝が出てくるのかが紹介されているが、その参考書の中で、戦時中、家の裏に防空壕を掘ったら、そこが一大貝層のある場所だった。この家は金属供出で料理に使うお玉まで出してしまったので、防空壕から出た大きめの化石の貝殻でお玉を作った、という話が載っていた。今ではもうその家がどの場所にあったのかは不明だけれど、私が採集した場所(不動通りローソンの坂の上あたり)に近いんじゃないかな。

話がだいぶはずれましたが、そのプリズム、‥プリズムってわかりますか?上の写真がその現物です。とても40年(!)前に”拾って来た”とは思えない程キレイですね。主に双眼鏡や一眼レフのカメラで、レンズから入った画像を接眼レンズへ、像を屈曲させて映し出すレンズです。
ええと、どこで拾ったのかなあ‥見つけた瞬間のことは覚えているけれど、場所がまったく記憶にない。西台の新河岸川近くだったか、広くて枯れ草の広がる平地だったような。。はて、なぜプリズムがそんなところに?これは、昔からのジモピー以外の方には信じられないと思うが、ちょっと前の徳丸、というか赤塚郷(西台、中台、徳丸、赤塚、四葉、大門、三園、成増地域の総称)はとにかく地形が複雑で、山あり谷あり川あり林あり田んぼあり畑ありで、その他に空き地が多かった。時は高度経済成長時代、そして板橋区は戦前よりの大工業地帯でもあったので、産業廃棄物が大量に出た。その産業廃棄物が合法不法に投棄されたのが赤塚郷というワケで、徳丸小学校なんてゴミ捨て場のど真ん中に建っているんですから。その産廃は大迷惑なゴミだけど、子供にとっては宝の山、なんですな。空き地で遊び倒す当時の子供達の間では「あそこに、こんなもんが落ちてる」情報は瞬時に伝わり、それっとばかりに”狩りに”行く。もうね、テレビとか無線機みたいなもんが落ちてたらそれは大収穫。真空管とか半導体とか胸をときめく部品が手に入る。まあ、冷凍庫なんてものが投棄されていて、そこに入って出られなくなり大事件に、なんて危険なこともよくあった。

で、プリズム。そりゃもうプリズムなんて”お宝の頂点”にあるようなもんですよ。でも、大人になり、おじさんになってこのプリズムをあらためて見ていると、しみじみと感慨が湧いてきますね。。当ブログでも触れたことがあるけれど、戦争が終わった直後の板橋区は、工業地帯が幸いに空襲による壊滅的被害を免れ、軍需産業から平和産業への転換がスムーズに進み、特にカメラや双眼鏡などの光学製品は世界へ盛んに輸出されるようになり、一時は生産の70%が海外向けだったのだとか。しかし、1970年代の終わり頃から急速に東南アジアの国々にシェアを奪われ、いまや双眼鏡は常盤台にある「勝間光学」くらいしか製造会社としては残っていないんじゃないかな。勝間さんの「グローリー」は海外の軍隊が採用しているほどの名機だ。
子供の頃拾った産廃のプリズムが、それから40年の時を経て、板橋区の栄光の高度成長時代を物語る”お宝”になった、というワケです‥

 物を捨ててスッキリしたい年末ですが、捨ててはイケナイものもある、というオチをもって、2011年最後の挨拶とさせていただきます。みなさま方、良いお年を!

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