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2011年9月

北海道の板橋区。

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 光陰矢の如し。気がつけば一ヶ月以上更新をサボってました‥。いえ、いつも気にはかけてるんですが、なにせあの震災以来あまたの資料が埋もれてしまいそれを片付けようにも元の場所に戻すとまた地震がきたらな〜とか考えているうちに月日は過ぎて行く‥という状態なんすよ。。どうしませう。。

‥気を取り直して何事もなかったように話を進めましょう。本日のお題は「北海道の板橋区」。正確にいえば「北海道札幌市の板橋区」。何のこっちゃ??ですね。なんでこんなお題を出したかと申しますと、今月中旬、近畿や紀伊半島に大災害をもたらした台風12号がありましたね。そのニュースの中で、土砂ダムができ大きな被害をうけた奈良県十津川村を、北海道の空知地方中部にある新十津川町がその復興を手伝うというニュースがありました。何で十津川村を新十津川町が助けるのかというと、それにはこんな理由がある。
「1889年に起きた奈良県吉野郡十津川村での十津川大水害の被災民が(北海道の)トック原野に入植し新十津川村と称した。」
そう、明治時代の大水害により北海道へ移民した人々が作ったのが「新十津川町」なんですね。だから今でも新〜の人達は十津川村のことを「母村」と呼ぶのだそうだ。

で、お題の「北海道の板橋区」。そうなんです、北海道には板橋区民が入植して開拓した村がある(あった)んですよ。へへっ初耳でしょ。今回の災害のニュースを見て突然思い出したわけで、そういや〜板橋地区ってのもあったよなあと。私がこのことを知ったのは十数年前の事。当時ようやく使い物になってきたインターネット上では少しこの情報はあったけど、現在ではグーグルさんでもヤフーさんでも情報が出てきませんね。ではその苦難に満ちた歴史について解説をしましょうぞ‥

 北海道札幌市中心部近郊の白石地区に、札幌市東米里処理場という埋め立て地がある。その敷地内には「板橋地区跡」としるされた掲示板がひっそりと佇んでいる。(写真参照)その掲示板の解説文をリライトしてみよう。

「札幌で消滅した地名に『板橋地区』がある。昭和20年(1945)の東京大空襲のため、戦災者北海道開拓協会・東京都・北海道が一般公募した『拓北農兵隊』に応募し、終戦間近の7月6日、東京から疎開してきた人々のうち、東京都板橋区の10世帯が、この地域に翌年4月入植した。当初一戸あたり二町三反歩(約2.3ha)の所有者となったが、水害にも見舞われ、自分の食料を得るのがやっとで、水害のたびの救済事業や内職などで何とか生活を維持し、開拓は饒舌に尽くせないものがあった。
 この板橋地区の離農を早めたのは、水害常襲地であったことが第一の要因であるが、『道央自動車道』や札幌市の『環状グリーンベルト構想』による、土地転用への動きが重なったためでもあった。』(掲示板設置場所 白石区東米里226-1)

 まあ、スペースの関係もあるし、いかにも役所の作った文面らしいですね。実際はむろんこんな簡単な文章で済むはずはありません。ちゃんと調べましたのでもう少し詳しく解説を加えますね。あっ、ちょっとせかさないで下さいよ。この続きはまた後で‥

‥というわけであっという間に10月6日になっちゃいましたので話の続きをしますです。。

 大東亜戦争も末期となった昭和20年7月6日、度重なる空襲により廃墟と化した東京から、「拓北農兵隊」と名付けられた、都民197世帯、931人から成る、緊急開拓者の一団が函館に到着した。この一団は東京大空襲をきっかけとして、当時の警視総監で、後に北海道知事となる町村金吾と、北海道農業会長である黒沢西蔵が時の政府に働きかけて、戦災者北海道開拓協会と東京都・北海道が都民に対して公募した開拓者の一団だった。
やっとの思いで辿り着いた函館で、札幌村からやってきた助役は、非情にも開拓団にこう言い渡した。「札幌村には土地の余裕はありません。このまますぐに本土に引き返して下さい。」しかし、すでに家財道具も貨車で送り、東京の家屋も引き払った後では帰ることもできず、苗場で9ヶ月間の仮住まいを強いられたのち、板橋地区からやってきた10世帯の家族達は、戦争が終わった翌年の昭和21年4月、やっと白石区東米里地区へと入植を果たしたのでした。
 この東米里一帯を含む厚別原野は、昭和16年に国が豊平川の雁木に新水路の切り替え工事を行なったことにより開発可能区域となったが、海抜は7.6mで、豊平川、月寒川、厚別川など7つもの河川の水が集中する東米里の最末端に位置し、融雪期や晩夏の豪雨期には氾濫した水で1ヶ月もの間水没し、このためにできた沼にはカモが飛来し、ハンターによる狩猟の絶好の場となる有り様だった。そんな土地に入植した板橋区民は、会社員、船舶のコック、床屋、履物店(2世帯)、仕立て屋、請負師、染物屋、漬物屋、公務員などで、農業経験者はひとりもいませんでした。彼らは札幌村のあっせんで、それぞれ1戸あたり2.3ヘクタールの農地の割り当てを受け、軍隊が保管していた木材の払い下げを貰い、大工を共同で雇って、旧豊平川の堤防に10戸の家屋を建設しました。その後、農地の追加支給を受けて農地は5〜6ヘクタールに増えたが、自分の食料を得るのもやっとの状況で、水害時の救済事業や、冬の客土、出稼ぎ、ヨシ狩りなどの内職でなんとかしのいでゆきました。
 毎年の様に続く洪水や冬期の吹雪などの過酷な環境に苦しめられ続けたが、時が経つにつれて周辺地区には次々に排水機場が造られ、水害の不安は過去のものとなった。しかし、昭和56年に発生した豪雨による水害で壊滅的な被害を受けてしまう。そしてこれを機に、札幌市は長期総合計画都市環境公園構想を計画し、白石東米里地区を含む一周100キロメートルに及ぶ地区を「環状夢のグリーンベルト」と設定し、起伏に富む広大な公園緑地帯の造成を計画し、埋め立てを始めました。このようなことが原因となり、板橋区民開拓者が苦労して開拓した土地も離農が進み、地区入植者10世帯の内、平成8年現在農業を行なっているのは東米里にただ1世帯を残すのみとなり、そのほかは、札幌の他の地域へ4世帯が移転し、後は東京へと戻って行ったそうです。

 この話は平成12年に調べた内容なので、東米里にただ1世帯残った方がまだそこにおられるのか、冒頭の掲示板が残っているのかはわかりません。お近くへお出での方がおられましたら、是非、現況をお知らせ下さいませ。

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