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2011年8月

嗚呼、東京都立志村高等学校。

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 皆様、残暑お見舞い申し上げます。最近、年を取ったせいか月日の経つのがあっという間に感じます。・・などと、いいかげん更新をサボるイイワケがなくなってきましたが‥いや〜こんなご時世にありがたいことですが最近仕事が忙しくってですね、こっちも震災の影響を遠くですが受けてしまいなかなか時間が取れないんスよ。ええ、こんなささやかなブログでも写真を用意したり記事を考えたり推敲したり裏をとったり手間がかかって‥

‥というほどでもないですね。では、さっさと話を進めましょう。

 我が故郷もよりの東武練馬駅近くに、長年の知り合いである写真屋さんがあります。ところがこの写真屋さん、普段はぜんぜん営業していない。いつ前を通っても店は閉まっており、知らない人は不思議に思うだろう。(そんな謎な店は小さな街でもよくみかけますね。)実はこのお店、学校関係などの仕事が主で、あまりリテイル(小売り)を商売としていないんですね。話は飛びますが、私の父方の祖父は昭和初期に東京へ移住するまで、京都である老舗の和菓子屋から暖簾分けをされ、商売をしていました。店頭小売りはせず、寺院や茶道の家元など特定の顧客のみに和菓子を卸す「上菓子屋」を営み、それを誇りとしていました。で、話をもとにもどしますが、最近、店の前を通ると久しぶりに中に人の気配がしたので寄ってみると、なにやら部屋中がごったがえしていて片付けをしている。「あれ、とうとう店閉めるんすか?」と言うとご主人曰く、「夏のヒマな時期に写真の整理をしようと思ってね」とのことだった。今はデジタル写真が主なのでHDDに保管が主流だけど、昔はネガやプリントの世界だったので、ちょっと油断するとすぐに部屋中にあふれかえってしまうのだ。そんな中、ご主人が「これあげるよ」と出して来たのが「志村高校創立十周年記念」と書かれた薄い写真集だった。東京都立志村高校は板橋区西台1-41-10にあった都立高校で、2005年度をもって閉校した。同じ時期にサティ裏の都立北野高校が閉校し、現在は板橋有徳高校になったが、志村高校跡地は2013年度開校をめざし「都立板橋学園特別支援学校(仮)」に生まれ変わる予定だ。
 
 で、本日紹介の写真は、十周年記念誌に載っていた旧志村高校が建設された時の様子を写したもの。写真はこの写真屋さんの父上が撮影したものだ。親父さんは数年前に鬼籍に入られたが、戦時中はソ満国境で砲兵隊の偵察隊に所属した戦場カメラマンだった。戦後は進駐軍相手の記念写真屋などをし、昭和26年から北野高校の学校写真を撮るようになった。もともと志村高校は昭和30年に北野高校に間借りするかたちで創立し、翌31年に新校舎が落成し、生徒達は西台の校舎に移動したんですね。親父さんはその縁で、志村高校の写真も創立時から撮影していた。写真を見ての通り当時はあたりに住宅は少なく、畑のど真ん中にポツンと校舎が立つだけの非常にさびしい風情がただよってますね。パノラマ写真は昭和40年ころに校舎の屋上から撮影されたもので、まだ茅葺きの家が点々と残っているのが見えますね〜。高速道路も環八バイパスもなくなんと見晴らしの良いことか。何度も書いてるけど、赤塚とか徳丸とか西台はつい最近までホント田舎だったんですよ。もよりの駅(当時都営三田線もない)からも遠く、なんでこんな不便な所に校舎を建てたんですかねえ‥。記念誌によると、当時は常盤台駅北口から源平坂の下まで「志村高校前行き」の国際興業の直通バスが出ていたようです。ちなみに源平坂とは崖上にある高校正門までの長い急坂で、この坂のせいで何人もの生徒達が遅刻をした想い出を持っていることでしょう。

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戦車は行くよ、川越街道。

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 もう日にちがかわりそうだが、今日は終戦記念日。正確には天皇陛下が戦争の継続を断念しますよとラジオを通じて発表された日ですね。だから本当の終戦記念日は御前会議で決定した14日か戦艦ミズーリー艦上で降伏文章に調印した9月2日とも言うらしい。
で、終戦の時期にふさわしいお題で”その日、成増飛行場では”なんてことでも書くか‥と思いましたが、なにせ先の震災の影響でウチの資料部屋がメチャクチャになり資料を探すのが大変で(‥5ヶ月もそのままかよ!)前回に引き続き、知り合いの写真屋さんからいただいた写真をネタにしますね。

 街道を行くこの堂々たる戦車の隊列、どこで撮影されたのでしょうか?そう、タイトルにしましたが、川越街道の練馬自衛隊の前を行進する61式戦車です。撮影された年代はわからないけど、写り込んでいる車から昭和30年代後半から40年代半ばあたりと推測します。戦車上の隊員が手を振っていたりするので、記念日のパレードかなんかの時の写真ですかね?この頃はわりと普通に戦車が街道を走っているのを見たよという話を聞きます。当時は戦争経験者が社会の中枢で活躍していた時代であり、ベトナム戦争で日本もアメリカの後方支援(そんなに表立ってではないが)していたのであまり抵抗はなかったようです。当時私は軍国少年(ミリタリーおたく)だったので、特にこの61式戦車には魅かれてました。当時の怪獣映画に出てくる戦車といえばこの戦車でしたからね。マンガ本でもかならず一つくらい戦争物の連載があったり、姉が買ってくる少女マンガにも空襲の話とかが載っていました。テレビでも毎週のように戦争物の番組をやっていた記憶があります。「アニメンタリー決戦」なんて実録大東亜戦争もののアニメも楽しみにみてました。たまに見返したくなってオークションサイトで発売されたVHSビデオを探すと落札価格が高くてとても手が出ません。。そうそう、忍者部隊月光なんて板橋兵器廠(現・西が丘サッカー場)の廃墟で撮影してましたねえ。何だかそこらへんに戦争情報が溢れていたせいか、近年のように靖国神社うんぬんなんて騒がれもしませんでしたな。天皇陛下も昇殿参拝されてたし。きっと戦争のリアルな記憶のない世代が主流を占めるようになって関心が薄れ、声が大きい人達の行動が目立つようになったせいなのかな。

いま思い出したけど、今日の民放昼のニュースで閣僚の靖国神社参拝を取り上げた映像に、靖国神社に到着する小泉進次郎議員のシーンの後、突然わが赤塚郷選出の区議会議員・安井一郎氏(徳丸名主家当主でワニの洗車場、等身大GIフィギュア&巨大B29のある店経営)が大写しになって思わずふいてしまった。板橋区議会議員団の有志の方々も参拝されていることがわかり、安心しました。can首相の終戦記念式典での言葉もそうだが、今年は東北の震災と結びつけた発言をする政治家が目につくが、多くの犠牲者が出たり家屋の損壊があったということだけを見て、天災と戦災をごっちゃにして安易な発言をするのはいかがなものだろうか。アメリカの911テロの時、向こうのマスコミは真珠湾とかカミカゼとか書き立てたけど、全然違うぞ。東北の震災と結びつけるのもそれと同じ安易さを感じるなあ。これも戦争の記憶が遠くなった現れか‥


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☆終戦秘話☆陸軍最後の抵抗〜特101部隊二告グ、東上線ヲ奪取セヨ!〜

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 そろそろ66年前の天皇陛下の玉音放送から一週間が経つ。当時日本国内では武装解除は進んでいたが、8月19日、日本降伏使節団の河辺虎四郎陸軍中将他16名の外務省一行は、沖縄の伊江島に到着し、ここで米軍輸送機に乗りかえてマニラへ向かった。米軍司令部参謀たちと会談し、戦後処理についての命令書を受領する。そこには「一切の日本国籍機の飛行は、8月24日午後6時をもって禁止する。これに従わない場合は撃墜する」という項目が明記されていた。(実際には25日から31日までの終戦処理の連絡飛行は許可)
しつこいようだが、練馬区が発行したある本に「終戦後すぐに進駐軍が成増飛行場に乗り込み、飛行機を焼き払った」なんていう記述があるが、これは編集者の怠慢で、インタビューに答えた方の話を検証もせずに(個人的な見聞のウラをとるのは難しいけど、歴史的事実経過はすぐに調べられるはず)載せてしまったせいである。進駐軍先遣部隊が沖縄から厚木に輸送機で到着したのが28日、本隊が上陸したのは9月に入ってからであり、国内の飛行基地ならば、飛行機は掩体壕に隠しているものなどすべてプロペラを降ろすなど飛べない状態にして滑走路に並べておけ(偵察機を飛ばし武装解除を確認するため)と命令されていた。少なくとも成増飛行場には10月中まで飛行機が残されていたことがわかっている。

 いささか前フリが長かったですね。さて、終戦作業はすんなり進んだわけではなく、東京では宮城事件(8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件)が起こり、15日の玉音放送後には海軍厚木基地に駐屯していた302航空部隊が反乱を起こし、国内の基地に飛行機を飛ばし徹底抗戦の檄文をバラまいた事件などがあった。301空の反乱は結局20日までに収まるのですが、徹底抗戦を主張し蜂起を試みた陸軍部隊が他にもいたんですね。そして、ある事件を起こした。その事件のさわりをwikiから引用させていただくと(手抜きですすみません‥)そのあらましは以下になる。

『宮城事件でクーデターに失敗した陸軍通信学校教官窪田兼三少佐は、降伏することに納得できず、8月15日以降も横須賀鎮守府などを訪問して抗戦決起を呼びかけ同志を募っていた。8月21日には以前に勤務していた陸軍予科士官学校に向かったが、その途中、陸軍予科士官学校生徒隊寄居演習隊第23中隊第1区隊長・本田八朗中尉(当時20歳)に偶然出会った。本田中尉は振武台陸軍病院に入院中であったが、15日に玉音放送を聞いて急遽退院し、朝霞の予科士官学校から埼玉県寄居町に疎開している隊に戻るところであった。窪田少佐は本田中尉に宮城事件の詳細を語り、力になってくれるよう依頼して別れた。
本田中尉は汽車で寄居の隊に戻ったが、隊内でも今後の軍の動きを巡って混乱しており、8月17日、本田中尉は再び上京し、近衛歩兵第二連隊長・芳賀大佐や竹下正彦中佐などに面会し陸軍内部の動向を探った。 19日、本田中尉は寄居の隊に戻り、高島中隊長に状況を報告した。隊内の士官らの間では、終戦の詔勅に従うか、抗戦するかが激論されていたが、21日、高島中隊長は「承詔必謹」し降伏することを士官に指示した。各士官はこれに従ったが、本田中尉は強く反対していた。 このような状況の中、窪田少佐が寄居演習隊を訪れ、本田中尉に、ラジオ放送所を占拠して国民に徹底抗戦を呼びかける計画を打ち明けた。本田中尉はこれに賛同し、演習を名目に部隊を動かすため、24日に夜間演習を行う許可を高島中隊長から得た。
8月23日朝、高島中隊長は隊員らを集め、詔勅に従って終戦を受け入れる事を訓示し、隊員は兵器を返納し復員の準備を始めたが、本田中尉は第1区隊生徒らに夜間演習の準備を指示していた。午後7時、本田中尉、伊吹曹長以下、第1区隊生徒(16~18歳)ら67名は装備を整え隊庭に集合した。しかし、演習名目であったため実弾は支給されず空砲のみの装備であった。午後8時、東武東上線寄居駅から、事前に依頼しておいた臨時列車に乗り込み、新倉駅(現・和光市駅)に移動、同駅で窪田少佐が合流した。 数時間新倉駅で待機した後、8月24日午前0時頃、雷雨の中、徒歩で川口放送所へ出発した。途中、窪田少佐が全員に計画の内容を告げ、隊を「特101部隊」と命名した。』

 以上が「NHK川口放送所占拠事件」といわれた事件のプロローグです。え?ブログのお題は”東上線奪取事件”なんじゃないの?と突っ込む方、まただまされた、なんて野暮ですぜ。引用文の最後のほうに”東武東上線寄居駅から事前に依頼しておいた臨時列車に乗り込み”とあるじゃないですか。詳しく事情を解説すると、放送所占拠を目論む反乱軍は、朝霞の本隊に合流するため、東上線・寄居駅に乗り込み駅長室に乱入、「話せばわかる!」「問答無用!」抵抗する寄居駅長に向け発砲、そしてホームに停車中の電車を乗っ取り、運転士に銃を突きつけ新倉駅まで無停車で走るよう要求した。‥なんて嘘です。すみません。実際はそんな劇的な事件もなく、穏便なwikiの解説にあるように、本田区隊長が昼間、寄居駅に行き駅長に「予科士官学校の生徒が国体護持の蜂起部隊に参加するので臨時列車を用意してもらいたい」と要求すると、寄居駅長は「そういう人が必ず現れるものと思っていた」(小林勇著「向日葵が咲いていた」より)と感激し、すぐに臨時列車の手配をしてくれたのだそうだ。今の時代なら”運転手に銃を突きつけ”なんて方が戦争の話をするのに本当っぽいけど、実際は寄居駅長さんのような人も普通にいたんですね。この臨時列車の話は、もちろん東武鉄道の社史には載っていないエピソードです。

では、川口放送所占拠事件の顛末を簡単に述べましょう。‥『特101部隊は二手に別れ、午前5時に川口放送所と鳩ヶ谷放送所を占拠、しかし、隊の目的を知った所員が機転をきかせて放送所の送電をストップさせ放送が出来ない状態にした。その時間稼ぎの間に朝霞の陸軍士官学校からは鎮圧隊が出発し、また午後2時頃、東部憲兵司令部の憲兵が川口放送所に入り、窪田少佐らと会談し送電が止められている事を告げ、これ以上やっても成功の見込みは無いと言って説得した。窪田少佐らは説得を受けて計画の失敗を悟り、行動中止を決め、その場で憲兵隊に投降した。その後、寄居演習隊の高島中隊長も駆けつけ、隊員に帰隊を命じた。更に陸軍の田中大将が到着し、全員を前に訓示、午後4時頃、隊員はトラックに乗り駅へ向かい、列車で寄居に戻った。』


 以上、終戦秘話をお送りしました。。あっ、冒頭の写真ですがこれは1960年にアメリカ人が撮影していた東武鉄道(7300系?)の郵便車カラー写真です。本文とは関係ないのであしからず。かさねがさねお騒がせしました〜

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